美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

チャンネル桜・闘論!倒論!討論! 場外乱闘編  (イザ!ブログ 2013・4・27 掲載)

2013年12月15日 00時32分09秒 | ブログ主人より
☆美津島→小浜・宮里

お二人が出演なさった桜ちゃんねるの討論会をブログにアップしたところ、一日でアクセス数が、900に迫る勢いでした。調べてみたら、当ブログとしては、約三ヶ月ぶりのことです。チャンネル桜は、マイナー放送であるとはいえ、テレビはテレビ。やはり、威力があります。これを目の当たりにしたからには、できうることならば、言論を流布する手段としてテレビを利用しない手はない、と改めて思った次第です。具体的にどうするかは、現段階においては残念ながら、つまびらかにできないのではありますが・・・。

ところで、討論のなかで、特攻隊の話が出たところで、小浜さんと水島社長との間に、私の目には、抜き差しならない形で、亀裂が走ったように感じました。つまり、浜崎さんの話をきっかけに、お二人の間で、特攻隊の評価をめぐって、無視し得ない対立が生じたように、私は感じたのです。

私は、あそこで、(はっきりといいます)水島社長の態度に、いわゆる保守派のいやなもの、さらにはダメなものが露呈されているように感じました。水島社長に、エロスの領域と国家の領域の次元の違いを、戦後否定の情念によって、粗雑に塗り潰そうとする野蛮な手つきを感じてしまったのです。これは、保守派の宿痾のようなもので、これがあるがゆえに、保守派はいまひとつ戦後思想のオーソドキシィたりえないのではないかと思った次第です。おそらく、戦後の歴史において、保守派が、支配思想としての左翼思想のカウンターとしてしかありえなかったことの痕跡がそこに認められるのではないか、と思った次第です。

私は、今の自分のポジションがなんなのか、うまく他人(ひと)にいえない感じです。つまり私は、明らかに左翼ではないのですが、かといって、現状の保守派に与する気にはとてもなれないし、そうすることに特段の意味があるようにも思えない、ということです。


☆小浜→美津島・宮里

じつは、第一部を数日前に見て、第二部、第三部をちょうどいま見終わったところです。それにしても、たしかにテレビは良きにつけ悪しきにつけ、影響力がすごく大きいですよね。

水島社長との問題ですが、美津島さんの言う通りと思います。お互いに非妥協的な違和感を抱きあった、という感じですね。

私の考えでは、死に行く運命にある者たちへの悲痛な共感と、逃れようもなく近代国家を打ち立ててその中で国民として生きてきた私たちが、国家としての日本をどう取り戻すのかという実践的な課題とは分けて考えるべきだということになります。前者はいわば「文学」なのですね。それはそれで重要ですが、そこに溺れこむと、実践的な課題には少しも連続していかない。

私から見れば、そこが水島社長の中で混同されているように思えます。さらにどぎついことを言えば、こうした文学的な共感で何かがなしうると思ってしまうのは、反原発知識人たちが、反対感情だけで悪乗りしているのと、ちょうど表裏の関係にあると言ってもよいでしょう。

そして重要なのは(私の勘ですが)、チャンネル桜のこの番組を見た800人のうち、600人くらいは、水島社長のほうに共感してしまうだろうということです。西部さんの言うレトリックではないですが、それではだめなのだということをいかに言葉を尽くして説いてゆくか、中央突破を狙うわれわれとしては、そこが一番大事な課題になってくると思います。

なお、番組中で、小浜が「戦争を始めちゃった以上は勝たなくちゃしょうがないでしょう」と発言していますが、このメールの場を借りて、次の言葉を補っておきたいと思います。

「あるいは、できるだけ犠牲を少なくするために、併行して外交をすすめつつ、なるべく早く有利な形で和平に持ち込む。そのためにも合理的な戦略思考が必要とされると思います。」

それにしても三浦さんや浜崎さんのような若い世代の感覚は、また少し違うと思うので、そこには期待できそうな気がします。


☆宮里→小浜・美津島

お知らせくださり、ありがとうございます。

チャンネル桜はたしかに衛星放送で、「マイナー」かもしれませんが、アクセス数から、その「テレビの威力」を教えられると、「なるほど」と改めて感じ入りました。

お知らせを伺い、私も少しインターネットで反響を調べてみました。放送後すぐに、今回の討論会を紹介し、感想を述べているブログを見つけました。自分の発言なども取り上げてくれており、ありがたく思いましたが、「おおおおおお落ち着いて」とのコメントもあり苦笑しました。

ところで、特攻隊についての、小浜さんと水島社長のやりとり、今回の討論会で一番緊迫した場面だったと思います。私も水島社長に「小浜さんも最近出した『日本の七大思想家』の小林秀雄を論じたところで、特攻隊員や若き日本軍将兵の純真な精神の気高さに言及しています。後世の我々は、その精神を貴いものとして大切にすることは当然だと思います。しかし、これとは別に国家には、戦争に勝つため、あるいは国民の被害を最小限に食い止めるために、合理的計画と理性的判断が不可欠だと思います。それがなければ、またアメリカや中国にしてやられませんか」と、言おうかと思っていました。しかし、議論が熱を帯び、うかつに口を挟むことに躊躇っていると、西部さんが、いつものロジカルな語り口で、水島社長に共感を寄せつつ、最後に小浜さんの意見に賛成するという「名人芸」で場を収めたため、私もそのまましゃべらずじまいですませてしまいました。

戦争の問題を議論すると、政治的議題もそうですが、どうしても感情的になる要素を多分に含みますね。だからこそ、かえって理性的に考える努力をすべきだと考えます。しかし、多数派はやっぱり、「エロス」的領域で、「文学」的に共感できる意見に賛成、というより、「魅かれる」と思います。

このことは真面目にサラリーマンをしている親しい友人などと酒を飲んで議論をしたおりによく感じます。たとえば最近では、尖閣問題で口論となり、いかに自衛隊には制約が多く「国防」もままならない、という話を自分がした後に、「民間人が殺され、米兵が敵と闘い斃れるのを目の当たりにしても、命令がないから動けないというのなら、自衛隊、いや日本人はおしまいだ」と、妙に「男の美学」みたいな感じで、自衛隊出動の可能性を友人が熱く語りだすと、その気持ちが解らない訳ではない分、応答に苦慮します。

そんなこともあって、メールを拝読した後、改めて思ったのですが、政治や戦争などの議論は、理性的にすべきと思いますが、多くの人間が関係し、かつ、このことで人生まで変わってしまう事態を引き起こす、政治や戦争をテーマにすると、それだけ感情に訴える意見に強く吸引されますね(政治は打算といいますが、それをよくできるのは職業的センスを持つ「政治家(政治屋)」だけではないでしょうか)。いわば「村」になりやすいように感じます。

とはいえ、同じ考えの「村びと」だけでまとまっていても何の解決にもならないので(強い「村」になって、他村をやっつけられれば、それはそれで「解決」になるのかもしれませんが)、言論に携わる者はそれこそ、よその「村びと」にも通じる、対話できる「言葉」を苦しくとも模索すべきだと思えてきます。

その真剣な模索を経て後、戦後保守も「支配思想としての左翼思想のカウンター」から脱することができるのではないでしょうか。

つらつら思った漫文を書き連ねました。ご容赦を願いあげます。

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