美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏・タチの悪い言論とは何か――内田樹批判(イザ!ブログ 2013・7・29,8・1 掲載)

2013年12月18日 22時33分28秒 | 小浜逸郎
小浜逸郎氏・タチの悪い言論とは何か――内田樹批判



私はジャーナリズム言論あるいは知識人言論のあるべき姿を、基本的には次のように考えています。

書き手が時代の現状をできるだけ把握したうえで、その状況に対してある主張・意見を示し、なぜ自分はそういう主張・意見をもつのか、その根拠を、論理的に説明する。それは突き詰めて言えば自分の思想的な立場(政治的な立場ではありません)を鮮明にすることにつながる。要するに、「私はこの問題に関してはこう思う」とはっきり言うことである、と。

しかし、そうは言っても世は複雑で難解。必ずしも立場を言葉で鮮明にできるとは限らないし、それが無条件にいいとも言い切れないこともあります。厚みを失った単純な裁断は、時として言論文化を腐らせる元にもなるからです。ですから、そういう場合には、「このことに関して自分はいまのところはっきり決断できない」とか、「この点については疑問なしとしない」とか「こちらの言い分にも共感するが、こちらの言い分にも一理ある」というような一見曖昧な、どっちつかずの文体であってもかまいません。それだけでも言論として発表する値打ちはじゅうぶんにあります。それはそれなりに一つの問題提起であり、読者をして考えさせるきっかけを与えるからです。

いずれにしても、ジャーナリズムに言論を発表する以上は、現状の何が問題であり、自分はそれについていまのところこう考えている、ということだけは明確に語る必要があるでしょう。

それはもちろん間違う可能性が大いにあります。人間はもともと不完全な存在だからです。でも、その間違う可能性をも織り込みながら、局面、局面で最大限広い視野を展望しつつ決断を下していく。もし間違ったことが明らかになったら、その時点で間違いを潔く認め、きちんと訂正する。そういう責任の取り方が大切で、こういうことを果たしているのが「タチのよい言論」だと思います。

それに対して、「タチの悪い言論」とは、はじめから自分のイデオロギー的な好みが決まっているのに、それを読者に刷り込むために何やら客観的に見える事実や証拠の断片とおぼしきものを寄せ集めてきたり、怪しげな権威筋を借りてきて説得力があるかのように装ってみせたり、いかにも意味ありげなひねくった文体を意識的にとる、そういう言論です。しかも、肝心のところでその言論のもとになっている基礎認識が間違っているのに、そのことを自覚していない。だからじつは自分の好みのイデオロギーを押しつけているだけなのです。

この場合、当の書き手は、「客観性」や「権威性」や「高級めかした文体」に自分をゆだねていますから、言葉を発表するということに伴う決断と責任を無限に回避していられます。こういう巧妙さ、狡猾さは、日本の知識人の一部に見られるお家芸で、彼らは、戦後の「言論の自由」の恩恵に長い間甘えてきたために、言論がもつべき公共的な責任意識をすっかり忘れてしまったのでしょう。

これから取り上げる内田樹氏の論文「アメリカからの『警告のシグナル』」(『新潮45』2013年8月号特集・私の憲法論)は、まさにその典型とも評すべき論文です。

内田氏は、いまかなりの売れっ子評論家です。私はそれほど深く読み込んだことがないのですが、ホームページから立ち上げた処女作『ためらいの倫理学』(冬弓舎・2001年)以来、大文字の「正義」の胡散臭さをたえず相対化してみせる繊細で柔軟な思考スタイルを売りにしてきたことは間違いないでしょう。フェミニズムやポストモダニズム以後の若い世代のインテリが、左右を問わず既成のイデオロギーに対して感じてきた違和感にうまくヒットしたのだと言えます。つまらぬ理想をけっして掲げず、自前の感性を大事にしながら好き嫌いをきちんと言う、というところが受けたのでしょうね。成熟社会の文化的特徴とも言えるでしょう。

たとえば、セックスワーク(売春)について書かれた次の論文などは、フェミニズムの論理破綻を鋭くかつ緻密に指摘してなかなか読ませます(2003年)。blogos.com/article/63222/ 

しかし、最終的に私は、この人の考え方に賛同できません。まさに「ドミナント(支配的)な思考制度」に対して、それがただドミナントであるからというだけの理由で、自分の個人的な嫌悪感を論述の基本的なモチベーションにしており、そこにのみ自論のアイデンティティを置いてるとしか思えないからです。ちなみに、ここでは触れませんが、セックスワーク(売春)については、少し前に私自身も書いていますので、興味のある方は、読み比べてみてください(『なぜ人を殺してはいけないのか』洋泉社・2000年)。

私はじつは、どうもこの人は、硬直した思考の隙間をねらって撃つというテクニックに長けてはいるが、本人が根のところで持っている政治観、社会観、倫理観は意外に単純で、政治や経済に関して不勉強な日本の文学者などにありがちな、ただの反体制、反国家的な心情主義にすぎないのではないか、という疑いを抱いてきました。でも語り口が洗練されていて巧妙で、いいことを言っているところもあり、なかなかシッポをつかませないな、と感じていたのです。

 最終的に特定のイデオロギーにおもねず、個人の好き嫌いをはっきりさせて物事を判断するというのは、「言論の自由」をよく生かしていることになりますし、論じる対象によっては、それがいい持ち味を出すということも大いにあります。しかし、政治言論は、それでは少々困るのです。この領域は、主観的には自分の個人的な判断だと思っていることが、じつは特定のイデオロギー(ドミナントな価値観)にまったく籠絡されているにすぎないということが最も起こりやすい領域だからです。

今回の彼の論文は、まさにそのような代物であり、とうとうその馬脚を現わしたと思いました。

さて本題です。『新潮45』の論文は以下の書き出しによってはじまります。

改憲が政治日程にのぼっているという情勢判断に基づいてこの特集が組まれているのだが、私は安倍自民党は改憲をなかば諦めているというふうに判断している。

ところがすぐ次を読むと、この「判断」なるものは、競馬の予想屋のような「判断」とは違って、かなりの部分まで「私の主観的願望」なのだと言います。

でも、あまり心楽しむことのない政策が続いている安倍政権にひとつくらい「希望」を持たせてもらってもいいじゃないか。というわけで、私の「希望」の拠って来たる所以について以下に管見を記す。

つまり自分は安倍政権の政策に批判的であり、その批判を「希望的観測・予測」のかたちで述べさせてもらう、と言うのですね。もし安倍政権の政策に批判的なら、それは大いに結構なことで、この政策はこれこれこういう理由で国民生活をよい方向に導かないと思うから反対である、と論理を駆使して述べればよいはずです。それなのに「願望」とか「希望」にすぎないものを、客観めかした「判断」のかたちで述べる、というのは、なんだかおかしくはありませんか(ちなみに私自身は、安倍政権の政策には賛成できるものもあれば賛成できないものもあるけれど、ほかにこれを凌駕するだけの定見のある党がないと考えています。ご関心のある方は、このたびの参院選公示直後に書いた以下の拙稿をご覧ください。http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8a6d883f24d81296fbc4c3669e6005f7)。

でも、こういうことをあえて「言ってみせる」ところがこの人の巧妙なところなのですね。かなりの部分まで自分の主観的な願望なのだと告白しておけば、その誠実さのポーズが担保できるわけです。じっさい、人間のやることですから、完全中立な判断など不可能ですし、事実いまの世の中、右から左までただの恣意的・感情的な価値観にすぎないものをいかにも客観的・科学的・中立的めかして論じている欺瞞的な言説には枚挙にいとまがありません。それに比べれば、内田氏のこういうレトリックは、「まだマシ」ということになりましょうか。

しかし、では彼はこの論文でどういう「願望」をどういう「価値観」に依拠してどのような「判断」のかたちで述べているか。続くくだりを読むと、そのカラクリがまったくお粗末であることが透けて見えてきます。

まず彼は、安倍首相が4月に「村山談話をそのまま継承しているわけではない」と踏み込んだ発言をし、後に参院選前の政治的な情勢判断から、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない。安倍内閣としてもこれまでの歴代の内閣の立場を引き継ぐ」とトーンダウンさせたことをとらえて、「食言」であると非難します。しかし私は別に安倍首相の肩を持つわけではありませんが、政治家がとにかく選挙に勝つためにこの程度の「訂正――引っ込め」発言を行うことを取りたてて非難に値するとは思いません。政治とはそういう妥協と術策の連続だと言っても過言ではないでしょう。

たとえば内田氏は、民主党政権を正面切って非難したことは(おそらく)一度もないようです。あの政権がいかにマニフェストなるものを振りかざしながらまったく約束を守らず、統制も取れず実行力もなく、しかもそのほとんどの政策の実現自体が国益(国民の利益)を損なうものでしかなかったかという周知の事実をどう見ているのでしょうか。それについてはだんまりを決め込みながら、圧勝が確実視されていた与党党首が、選挙戦中に「逸る駒」の手綱を引き締めるために行った「食言」だけをあげつらうというのは、とても偏った態度ではないでしょうか。

それはともかく、内田氏は、安倍首相が「食言」せざるを得なかったその根拠を二つ持ちだします。一つは、ニューヨークタイムズ(以下、NYTと略記)に安倍発言(4月のもの)批判の社説が掲載されたこと。もう一つは、2月の安倍首相訪米の際のホワイトハウス(以下、WHと略記)の冷淡な態度と、パク・クネ韓国大統領と習近平中国主席とが訪米した際の厚遇の態度とのコントラスト。特に習近平主席との会談が8時間に及んだことを強調しています。

氏が言いたいのは、アメリカという超大国が、その同盟関係にある日本に対して批判的で冷淡な態度をとったことが、日本の外交筋を畏れさせ、その結果が安倍首相の「食言」につながったということです。

ここに、氏の考え方のインチキ性がいかんなく発揮されています。ひとつひとつ行きましょう。

まず、氏は、NYTを無条件に「クオリティペーパー」と呼んで、その社説の批判的評言が何かものすごく大きな正統的権威をもつものであるかのような威嚇的言辞を弄しています。私見では、NYTは、いうなれば日本の朝日新聞。もっと言えばただのサヨク新聞です。一応は広く言論を集めて懐の深さを見せているようですが、社説にこそその社是がよく現われています。ワシントン・ポスト(WP)のほうがはるかに公正な姿勢を示しています(一例として、産経新聞7月29日付、各国の新聞の社説紹介欄「環球異見」におけるWP紹介記事を挙げておきます)。

さて氏は、なんの実証的根拠も示さずに、次のようなことを言っております。

この「叱責」(NYTの社説――引用者注)はむろんアメリカ政府からの直接のものではないが、米政府の意向をかなり強く反映しているものと官邸は受け止めた。

これ
(首相の訂正発言――引用者注)はどう見ても首相の発意によるものではなく、アメリカに「強制」された前言撤回と解釈すべきであろう。

NYTの社説による安倍発言批判が、2月訪米時のWHの対日批判姿勢の証拠だというわけです。バカじゃないの。

あのね。安倍発言は4月でNYTの社説も同じ日。訪米は2月。なんでたかが一新聞の「叱責」なるものが2カ月も前の中央政権の「冷遇ぶり」の証拠になるの。

だいたい夕食会や記者会見がなかった程度のことが、どうして「冷遇」と決めつけられるのか。私はこれを特に日本の代表・安倍首相への冷遇とは思わないのです。アメリカはいま国内事情・中東情勢でたいへん。同盟国との信頼関係はそこそこ継続しているので(むしろ安倍政権の誕生で民主党時代の日米関係の懸念は払拭されたことが確認済みだったので)、特に賓客・珍客を迎えるような必要性を感じなかっただけのことです。ああ、いつもの友達が帰ってきてくれたね、ということですよ。

これに対して、韓国、中国、特に中国は、いまアメリカにとって真剣に、じっくり相手にしなくてはならない「問題大国」です。外交上「歓迎」のポーズを示す必要があると考えるのは当たり前じゃないですか。内田さん、あなたも多くの日本人のように自己中心的でお人好しですねぇ。

オバマ大統領と習主席とが8時間会談したというのは、何もアメリカが日本との同盟関係を捨てて心底中国との友好関係を築こうなんて考えているからではない。厄介な相手が来たら、長く話し込むのも当たり前。ちなみにこれ、知ってますか。同席した高官の証言ですが、習さんが日本との領土問題に触れて喋々とやりだしたら、オバマさんが「そこまでにしましょう。日本はアメリカとの同盟国です」と制止したという話。

 しかし私は某社会学者のように「アメリカ教徒」ではないので、こうしたやり取りの中に、日米間の絶対の信頼関係を見て喜ぼうなどとは思いません。オバマさんの心境からすれば、「その問題はそちらで解決してくれない? それはそれで考えてはいるけど、ちょっといまウチはたいへんなんだからこっちにあんまり尻を持ち込まないで」といったところでしょうね。見かけ上の厚遇冷遇の差なんかに、アメリカ政府の本音は出ていません。

内田氏は、いかにも冷静に情勢判断をしているように見せながら、言いたいことはとても単純で幼稚です。

それゆえ参院選後も安倍内閣の「対米従属」の基本的な構えは変わらないと私は思っている。アメリカが「中韓との関係を緊張させることはしてはならない」というはっきりしたメッセージを出してきている以上、安倍自民党が改憲をこれ以上ごり押しすることはありえない。(中略)それ(改憲の強行――引用者注)は「戦争ができる国になる」という宣言にほかならず隣国からの激しい外交的な反発を招くことは間違いない。

だから、アメリカは「今は改憲すべき時ではない」ということをすでに安倍首相に対して複数のチャンネルを通じてはっきりと伝えているはずである。長期政権を狙うなら首相にこれを拒否する選択肢はない。(中略)だから、改憲は参院選の争点にならないし、仮に選挙で自民党が圧勝しても、やはり近い未来の政治日程には上ってこない。以上の日米関係の文脈に基づいて私はそう予測している。

内田さん、「予測」が外れてザンネンデシタ。この文章は選挙運動期間中に書かれたもののようですが、すでに投票日の直前に安倍首相は、「公明党にも理解してもらうよう、じっくり取り組んでいくが、9条改正を政治日程にのぼらせてゆく」とはっきり言明しています。しかも選挙での圧勝後すかさずASEAN諸国を回り、現憲法下の制約のもとでは、自衛隊は、平和維持活動で一緒に活動しているあなた方の国軍が隣で危機に陥っても助けることさえできないのだ(つまり集団的自衛権が認められていないのだ)と発言しました。その非常識な日本の現状を知った各国首脳はびっくりしたようです。

内田氏の「判断」「予測」能力にはいくつもの欠陥(病気)があります。

あの巨大な国アメリカの一メディアNYTと中央政権WHの意向とを単純に同一視するような近視眼。待遇の形式的な差だけを根拠に、アメリカ親分が日本の新政権に対して根本的に批判的なのだなどと考える被害妄想。近年の東アジア情勢の緊張、特に中国が引き起こしているそれはまったく新しい事態であり、現に早急な対応を迫られているという現実については、いっさい言及せずに頬かむりしているご都合主義(この姿勢は私が触れたかぎり、最近書かれた彼の他の論文でも一貫しています。たとえば blog.tatsuru.com/2013/07/12_1234.php

しかし何と言っても一番問題なのは、アメリカに叱られたのだから改憲はやめなさいという自虐的な説教です。これって、占領統治時代から受け継いだかつての甘ったれサヨクの精神とまったく同じですね。超大国アメリカの傘の下でこそ戦後日本の安全保障体制は維持されてきたのに、その現実を認めず、アメリカ資本主義や核問題や基地問題や憲法改正問題に対して一応ガキの反抗を試みてみたりはする。でも心の底ではアメリカ親分にしっかり媚びることも忘れず、「いざとなったら守ってくれるよね、でも見放されたらどうしよう。日本の保守政権よ、改憲なんかやって、もしそうなったらあんたの責任だからね」と身勝手な思いを抱いている。戦後日本の奴隷根性、属国根性は、アメリカという虎の威を借りて時の政権を批判してきたこういう万年野党的なスタイルにこそ最も如実に表れるものなのです。

しかも内田氏の場合、非常にタチが悪いと思えるのは、この説教を「私は改憲に反対だ」と堂々と言わずに、「改憲するとアメリカの不興を買うに決まっていて、そのことを官僚も理解しているから、安倍政権も改憲に踏み込めないだろう」なる回りくどい「情勢判断」として提示している点です。これは、自国がどんな危機に巻き込まれた有事の際でも、アメリカのご機嫌をうかがわなければ何もやってはいけないと言っているのと同じで、まさしく奴隷根性以外のなにものでもないではありませんか。志位さんや、いまや政治生命が断たれた(失礼)瑞穂さんの空想的平和主義のほうが、まだしもすっきりしていてカワイイ。

上記のブログで、内田氏は、自民党の改憲案に反対して、いろいろと反論しています。この中で、自民党の改憲案が新自由主義やグローバリズムに都合よくできているという点については、なかなか鋭い批判であり、私も同感です。なお私自身は、自民党の改憲案や産経新聞の改憲案には別の理由から根本的に賛成できません。しかしこれについては、

http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f

を参照していただくとしましょう。

さて内田氏の改憲批判には、『新潮45』での論文とほぼ同趣旨の部分が多いので重複を避けますが、これまで指摘してきた以外に、三つの問題点があります。

ひとつは、戦後の日本で平和が維持されてきたのは、日本国憲法のおかげだと説いている点です。これは、国際政治上で危うく平和が保たれるのは大国のパワー・バランスによっているのだという常識を知らないバカげた議論です。東西冷戦構造下での軍事的・政治的な均衡状態が続き、日本は安保条約によってアメリカとの同盟関係を最重要視してきました。冷戦崩壊後もこの関係は続きました。だから平和が保たれてきたので、日本国憲法の超理想主義的な内容とは関係ありません。こういうところに過度な重きを置くのは、現実感覚を失った一部戦後知識人の悪い癖です。

第二に、いまアメリカの覇権が後退し、それに乗じて中国がアジアに露骨な侵略的意図を示している。こういう東アジア情勢の大きな変化の中で、もはや現行憲法の「空想的平和主義」は安全保障上の障害となっているだけです。

内田氏は、「(自民党は)『この憲法では国を守れない』と言い募るだけで、『この憲法のせいで国を守れなかった』事実を一つとして挙げていない」と批判しています。しかし、もともと憲法のせいで国が守られてきたのではないのだし、これまで僥倖が重なって平和が守られてきたにしても、国際情勢の急激な変化には迅速に対処しなくてはならないのですから、こういう論理は「護憲」を正当化する根拠には全然ならない。事実、尖閣問題では、領土・領海・領空を日々脅かされながら自衛隊が満足な防衛手段を取ることができないわけです。内田氏は(サヨクはみなそうですが)、そういう現実問題との絡みで憲法問題を論じようとはけっしてしません。

第三に、内田氏は、現行憲法がアメリカの占領統治のための暫定的措置にすぎなかったという成立過程を全く無視しています。この憲法は、日本人の伝統的な国民性にも合わず、文章もヘンな文章で、不必要な重複、順序のおかしさなど欠陥が目立ちます。それでも護憲派の言い分にしたがうなら、たとえ「押しつけ憲法」でも国民がそれを受け容れて、現実にそれによって平和が保たれたのだからいいじゃないかというわけでしょう。これはいま繰り返したように国内だけしか見ない視野の狭い認識なのですが、いくら説得しても説得不可能でしょうから、一つだけこういう例を挙げておきましょう。

日本国憲法の草案作りに最も深くかかわったGHQ民生局のケーディス大佐(当時)が、30年後に本国で、憲法がそのまま生きているというのを聞いてびっくりし、「えっ、まだ変えていないのか!?」と言ったそうです。内田氏の大好きなアメリカ人です。それから40年近くたちましたが、このみっともない憲法は、まだ一行たりとも変わっていないのですね。

もちろん、ただ情勢の変化に合わせて必要事項をごちゃごちゃ書き加えるのは、そもそも憲法というものの精神に反しており、けっしていいことではありません。しかし逆に「平和が保たれたから護憲」という間違ったロジックで、この欠陥憲法をそのままにしておくのもどうかと思います。私は一部の人が唱えている「廃憲」もありだと考えています。

内田氏が、改憲すると「戦争ができる国になる」といった小学生並みの危機感から改憲に反対しているにすぎないのは、上記の引用部分から明らかです。これは、いまや政治生命を絶たれた(失礼)瑞穂さんなどとまったく同じことを言っているとしか受け取れません。鋭敏な感性と深い思考力の持ち合わせを多少とも自負する言論人なら、もう少しひねりを効かせてみてはいかがでしょうか。じつはただのナイーブな空想的平和主義者(戦後にのみ登場した突然変異種)にすぎないのに、何やら回りくどい理屈を弄して、いかにも高級なことを言っているように見せかける。しかし少していねいに読めば、その思想の幼さは明らかです。こういうのを「タチの悪い言論」と言わずして何でしょうか。




もう少し内田批判を続けます。

今回取り上げるのは、次の2つの資料です。

①「赤旗」5月31日号インタビュー:
blog.tatsuru.com/2013/06/03_1253.php
②「朝日新聞」7月23日付オピニオン「複雑な解釈」:
blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php

ちょっとここで脱線しますが、ついでに言っておきたいことがあります。

上記のURLは、内田氏が自分のブログに掲載している当該記事のコピーです。特に②について言いたいのですが、当の朝日新聞の紙面に掲載されていた記事そのものを、そのURLであるはずのhttp:/www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307220692.htmlによって読もうと思っても、アクセスできません。私ははじめ、ある人から内田氏が上記記事を朝日新聞に掲載していることを聞き、「内田樹 朝日新聞 オピニオン」とグーグルって検索しました。新聞紙面での全文を読みたい方はそうしてください。

朝日新聞を取らないでその記事に触れるためには、「朝日新聞デジタル」の会員にならなくてはなりません。しかも無料会員だと一日に3つしか記事を読むことができず、その他を読もうと思ったら有料会員になることが必要です。アーカイブを読むためにもそれ専用の有料会員にならなくてはなりません。

日経はもっとひどくて、有料会員しか読めない。

日ごろから情報公開だの表現の自由だの規制緩和だのと声高に叫んでいる当のメディアがこのセコさです。巨大メディアが、大衆に媚びた記事や大量の広告や小学生の作文まがいの低レベル社説を満載してたっぷり儲けているくせに、情報公開に規制を設けているとは!

さて①です。

テーマはアベノミクス批判ですが、内田氏はここで、マスメディア知識人のご多分に漏れず、モロにその経済音痴ぶりをさらしています。経済の「ケ」の字もわかっていないのに、経済のことについてもっともらしく論評する、その厚かましさがすさまじい。

私も経済音痴ですが、この1年間ほど、それではまずいと思い、せめてバカなことだけは言わないようにしようと、老骨に鞭打って少しばかり勉強してきました。おかげで、「ケ」の字くらいはわかってきたように思います。私にいろいろ教えてくれた数々の経済論者および知人に感謝。

まず内田氏は、次のように述べています。

私は経済の専門家ではありませんが、「アベノミクス」の先行きは暗いと思います。
国民に「景気が良くなった」と思わせて株を買わせ、消費行動に走らせる。
「景気がよくなる」と国民が信じれば景気がよくなるという人間心理に頼った政策です。
実体経済は少しもよくなったわけではありません。賃金も上がらないし、企業は設備投資を手控えたままです。


これ、常識(イロハ)に照らして全然間違っていますね。「景気は気から」と昔から言われるように、不況からの脱却には、まずもって国民(消費者だけではなく、企業も含めて)に「景気がよくなりつつあるな」という期待感を抱かせることが何よりも大事です。国民が消費行動に積極的になれば、需要が増えてそれだけデフレギャップが縮まりますから、企業も活気づいて投資が伸び、やがて生産活動が息を吹き返して、雇用も好転するはずです。雇用が好転すれば、賃金も上がり消費活動もさらに盛んになって、ますます実体経済はよくなります。

ただし、アベノミクスが実体経済に及ぼす効果について、性急に判断してはなりません。これがどの局面にも目に見える効果を示すためには、1年半から2年ほどの時間がかかるのです。だからこそ、黒田日銀総裁は、2%のインフレターゲット(物価安定目標)を達成するために2年という期間を設定しているのです。

とはいえ、内田氏の決めつけと異なり、すでにこの数カ月で、アベノミクスの実体経済への好影響は少しずつ出始めています。7月23日にまとめられた経済財政白書によれば、景気の基調判断として、5月は「緩やかに持ち直している」、6月は「着実に持ち直している」、7月は「着実に持ち直しており、自律的回復に向けた動きもみられる」となっています。また、総務省が7月26日に発表した全国消費者物価指数は平成22年を基準として100.0となり、前年同月比で0.4%上昇しています。

さらに、バイト、パート、派遣などの非正規雇用者の時給も少しずつ値上がり傾向を見せており、正規雇用者への一時金を増額する企業も増えています。ちなみに、景気上昇の兆しが賃金に反映するのは、まず非正規雇用者からであり、正規雇用者の賃金が上がるのには時間がかかります。

求人倍率は、もっか確実に上昇中です。失業率もインフレ率が高まれば減少していくことは、経済学的に証明されていますし、歴史的に実証もされています(フィリップス曲線)。

内田氏は、凡百の緊縮派エコノミストと同じように、ごく短期的に見て現状がまだ動いていないからアベノミクスはダメだと決めつけているだけですね。「不景気だから何をやっても不景気だ」――これを同義反復と言います。

ただし断っておきますが、今年の4月~6月の景気指標に基づいて10月に消費税を増税するか否かを決断するという政府の既定方針は、早すぎると思います。いま述べたように、明らかに実体経済が回復したという確信が得られるのにはまだ時間がかかるので、せっかく上向きになった景気を再び冷え込ませないために、ぜひ増税を凍結させてほしいものです。

次です。

市場における投資家の行動は予測不能です。彼らは市場が荒れ、大きな値動きをするときに利益を上げる。だから、経済活動の安定より、急成長や急落を好ましいと思っている。そして、そうなるように仕掛けてきます。
「アベノミクス」はそういう投資家の射幸心に乗って、意図的にバブルを引き起こそうとしているハイリスクな政策です。
自分たちでコントロールできないプレイヤーに一国の経済を委ねてしまうことに私は強い不安を感じます。
それに「アベノミクス」は国際競争力のあるセクターに資源を集中して、グローバル化した企業が世界市場でトップシェアを獲得することに全国民が貢献すべきだという考え方をしてます。
企業の収益を上げるために国民はどこまで犠牲を払えるのかを問いつめてきている。
しかし、国民は企業の収益増のためにそれほどの負担に耐える必要があるのか。


これまさに、国家財政破綻の危機というウソをまき散らしてきた財務省、20年ものデフレ円高不況を放置してきた旧日銀、そして「企業」の収益増が「国民」を苦しめる結果になるという共産党お得意の古色蒼然たるインチキ二元論(アンチ資本主義)の引き写しですね。噴飯ものというべきです。内田さん、お願いですからマスコミの偽情報や共産党のカビの生えた理論(?)を鵜呑みにせず、資本主義下における国民経済は一国内のお金の循環(フロー)によって潤うのであり、そのためには企業が収益を上げることが不可欠なのだという最低限の認識だけは持ってください。それとも社会主義にしますか?

内田氏は、アベノミクスの何たるかをまるでわかっていないで、エラそうにアベノミクスを批判しています。それは、意図的にバブルを引き起こそうとすることだと。

粗雑きわまる頭ですね。というか、これまでデフレ不況でどれだけ国民、ことに中小企業経営者や低所得者層が苦しんできたのかにまるで想像が及ばない、ハートのない人なのですね。

景気回復と「意図的なバブル引き起こし」との間には、千里の径庭があります。緩やかなインフレこそが生活の豊かさを導くのであり、バブルが過熱しそうになったら政府・日銀が手綱を引き締めればよいだけの話です。それは、日本の政府・中央銀行がこれまで得意としてきたところです。

百歩譲って、バブルが到来しても、バブルそれ自体は、必ずしも悪いことばかりではありません。バブル期には多くの人が豊かさを実感したし、国民一人当たりGDPも上昇の一途でした。また、首都圏への人口流入率は、この時期に急カーブで下がっています。ということは、地方の産業が活性化していた証拠であって、地方在住者は、仕事を探しのために故郷を捨てる必要がなかったのです。バブルがはじけてから、首都圏と地方との格差はまた一気に開いています。(上念司著『異次元緩和の先にあるとてつもない日本』参照)

アベノミクスのキモは、日銀が行う「大胆な金融緩和」(第一の矢)と、政府が行う「機動的な財政政策」(第二の矢)とを連動させるところにあります。第一の矢で、企業の投資意欲を刺激します。第二の矢では公共投資(土建事業だけではありませんよ)その他によって民間にお金を流通させます。お金が流れるということは、民主主義社会ではみんなに仕事が行き渡るということであり、そのぶん賃金がもらえるということです。

また、震災対策の迅速な実行や劣化したインフラのメンテナンス、医療福祉事業の増進や新規需要の開拓などのためにも、この政策はぜひ必要なことです。どうしてそれが、これまでデフレ不況でさんざん苦しんできた「国民」にさらに犠牲と負担を強いることになるのですか? ちゃんと論理的に説明してください。アホ知識人め。

なおここでは詳しく述べませんが、アベノミクスの第三の矢「成長戦略」については、いろいろな理由から私は賛成できまん。

このあと、内田氏は、グローバル企業に対する批判を延々と繰り広げた後、その批判をアベノミクスにそのまま結びつけます。

多国籍企業と国民国家は今や利益相反の段階に至っています。この論理矛盾を糊塗するためにナショナリズムが道具的に利用されている。

安倍自民党がことさらに中国・韓国との対立感情を煽っているのは、無国籍産業がそれを要請しているからです。国同士の経済戦争で命がけで戦っているのだという「ストーリー」を信じ込ませれば、国民は低賃金に耐え、消費増税に耐え、TPPによる第一次産業の崩壊に耐え、原発のリスクに耐えるからです。


グローバル企業が自社の利益だけを追求するかぎり、国富の流出に歯止めがなくなるので、国民国家の利益と矛盾することは確かです。TPPはそのよい例ですね。私もTPPには反対です。しかし、そのためにナショナリズムが道具的に利用されているというのは、短絡も甚だしい。むしろ健全なナショナリズム(国民主義という意味です)が存在してこそ、グローバル企業の負の側面に対する批判性を確保できるのではありませんか。

なお、安倍自民党は、けっして「ことさらに中国・韓国との対立感情を煽って」などいません。向こうが勝手に無謀な行動に出て日本を挑発しているので、安倍首相はそれに対して冷静に構え、日本の安全を守るために必要最低限の措置を取り、「いつでも窓口を開いている」と一貫して言っています。内田氏に代表される日本のサヨク(反日勢力)は、なぜ他国の非をきちんと検証せずに、自国政府に対する無責任な批判に終始するのでしょう。わざと隠しているのか、それともただの視野狭窄なのか。

要するに内田氏は、多国籍企業も嫌い、資本主義もナショナリズムも嫌い、とわがままなことを言っているだけです。結果的に何でも反対のオキラク野党・共産党の方針にまんまと丸め込まれています。さすが共産党、自分たちをヨイショしてくれる「知識人」をうまく嗅ぎ当てるものですね。

②の、朝日新聞コラム「複雑な解釈」に行きましょう。これは、参院選開票直後に書かれたもので、おおかたの国民が政治の安定を求めて支持する結果となった「ねじれ解消」がいいことではない、というへそ曲がり説をあえて唱えたものです。

へそ曲がり説、大いに結構。そしてこの論は一見、筋が通っています。しかしよく読むと、単なる「抽象的な正論」であって、今この時点で、なぜ「ねじれ解消」が必要だと多くの国民が感じたのかについて具体的なことが何も言及されていません。その問題への視点は完全に封殺されています。その封殺のうちに、この人のイデオロギー性がいかんなく出ているのですね。

また、二院制の理念をただ形式的に強調するだけで、現在の参議院のもつ克服困難な問題については少しも触れられていません。まあ、ただの幼稚な「民主主義」原理主義者であるこの人に、そこまで期待するのは無理かもしれませんが。

では、原文に当たってみましょう。

現に、今回の参院選では「ねじれの解消」という言葉がメディアで執拗に繰り返された。それは「ねじれ」が異常事態であり、それはただちに「解消されるべきである」という予断なしでは成り立たない言葉である。だが、そもそもなぜ衆参二院が存在するかと言えば、それは一度の選挙で「風に乗って」多数派を形成した政党の「暴走」を抑制するためなのである。選挙制度の違う二院が併存し、それぞれが法律の適否について下す判断に「ずれ」があるようにわざわざ仕立てたのは、一党の一時的な決定で国のかたちが大きく変わらないようにするための備えである。言うならば、「ねじれ」は二院制の本質であり、ものごとが簡単に決まらないことこそが二院制の「手柄」なのである。

前半は、教科書的に二院制の意義を述べているだけですから、私ももとより反対ではありません。しかし、後半、「ねじれ」が二院制の本質であり「手柄」であるとまで言い切られると、おいおい、ちょっと待てよと言いたくなってきます。

氏に合わせて一般的に言えば、慎重な審議の結果、やはり衆院の決議どおりに法案が通るならば、それはそれでいいことなのであって、「ねじれ」そのものがいいことだなどという一義的な結論は出てこないはずです。何しろ、国政にかかわる重要事を決するというのが、国会の使命なのですから。

次に、この論述は、今回の衆参両院の選挙の背景に何があったかという具体的な問題にまったく触れていません。言うまでもなく、その背景には、民主党政権のあまりのだらしなさ、何も決定できない無統制、内政・外交における明らかな失政という事実があり、そのさらに前には、くるくる変わる旧自民党政権の機能不全状態がありました。それを踏まえずに、ただ形式的に「ねじれ」は本質とか手柄などと言われても、実際にはふたたび乱調国会を目の当たりにするだけで、ふつうの国民はそんな事態にけっして納得しないでしょう。

そのことを感じたからこそ、国民は安定政権を求めたのです。安定政権がおごらずに民意をよく汲み上げ、少数意見を尊重するなら、それは単なる「暴走」する権力などにはなりません。かえってゆっくり、じっくり将来を見つめた政策立案をすることが可能となるはずです。

さらに、ここでは、いまの参議院がどういう問題点を持っているかということが少しも語られていません。

参議院の本来の趣旨は、ただ数として「二」院のひとつであるというところにあるのではありません。慎重な審議を実のあるものとするために、衆議院よりも深い政治的な学識や思想的な良識を持ち、出身地域や特定業界への利益誘導を動機としない公共精神を持った人たちを結集する必要があります。

しかしいまの参議院はどうでしょうか。ただ被選挙権年齢が5年上だというだけで、実際には、ポピュラーなタレントであれば政見のいかんにかかわらず(YTやAIのようなアホでも)当選してしまうという体たらくです。これは、二院制の本来の意義がないがしろにされている事実以外のなにものでもありません。

じっさい、たとえば民主党政権時代に、国会同意人事の候補者の名前が事前に漏れたらそれは同意してはならないなどというおかしなルールが幅を利かせていて、原子力規制委員会の委員を決める際に、参議院ではただ数を頼りにこのルールがまかり通ってしまったのです。

 そういう具体的な事実を考慮した上で、ただ「ねじれ」が本質で手柄だ、などと言えるでしょうか。二院制の本来の意義が実質的に貫かれるためには、参議院議員の選出のあり方そのものを根本的に考え直さなくてはならないのです。内田氏はそのあたりを何も考えていないようです。

次です。

その冗長な合意形成プロセスの過程で、「ほんとうに必要な法律」と「それほどでもない法律」がふるいにかけられる。二院制はそのためのシステムである。だからもし二院間に「ねじれ」があるせいで、与党発議の法律の採決が効率よく進まないことを端的に「よくないことだ」と言う人は二院制そのものが不要だと言っているに等しい。「参院廃止」という、政体の根本にかかわる主張を「ねじれの解消」という価値中立的(に見える)言葉で言い換えるのは、あまり誠実な態度ではあるまい。

ここで内田氏は、政治関係者が「法律の採決が効率よく進まない」ことだけを「よくないこと」と考えていると決めつけていますが、国会の審議は「法律の採決」だけを目指しているのではないということを完全に見落しています。法律の採決ならば、たしかになるべくたっぷりと時間をかける必要があるでしょう(しかし法律でさえ、たとえば安全保障問題や災害対策問題のように、案件次第では、非常に急を要するということがありえます)。

国会の審議で最も重要でかつ急を要するのは、毎年の予算の審議です。もちろん予算の議決は衆議院が優越しますから、「ねじれ」の悪影響は法律案に比べれば小さいとはいえるでしょう。しかし参議院が衆議院と異なった議決をすれば、最大30日の遅れを覚悟しなくてはなりません。これが遅滞すれば、その間、行政機関も動きようがない。内田さん、あなたはその事態に責任をもちますか。

ついでにもう一つ付け加えておきましょう。民主党政権時代、野田前総理には、予算案と赤字国債法案とをわざと別立てにして、後者の議決が参院を通過するのを阻止する(つまりデフレ脱却に少しでも寄与するはずの財政政策の実現を阻止する)ために「ねじれ」を悪用したという無責任極まる前科があります。

これらのことを内田さんは踏まえた上で「ねじれは手柄」などと言っているのでしょうか。

ここにも、ただ観念的にしかものを考えない「知識人」特有の現実感覚欠落が躍如としています。

以上を要するに、内田説は、抽象的な理念を並べたてることによって、国民がなぜこの間、「決まらない国会」にうんざりしていたのかという具体的な事情を隠蔽しているのです。ここでも、意識的なのか、ただバカだからなのか、判定がつきかねます。しかし、結果的に安倍政権の勝利をただ感情的に面白くないと思う反体制的、反国家的な人たちを代弁するかたちにしかなっていないことだけはたしかです。批判が見かけとは裏腹に、ちっとも有効な理性的批判になっていないのですね。

氏は進んで、なぜ国民が「ねじれ」をよしとせずに「決められる」政治を選んだのかと自問し、次のように自答しています。

その「短期決戦」「短命生物」型の時間感覚が政治過程にも入り込んできたというのが私の見立てである。
短期的には持ち出しだが100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない。


目先の金がなにより大事なのだ。
「経済最優先」と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である。


またかよ、とそのお決まりのパターンにうんざりです。この「見立て」なるものは完全に間違っています。政治について何も知らないそこらの道徳オヤジなどが言いそうな、最悪の床屋政談ですね。

たとえば、これは内田氏と折り合うはずのない私見ということになるので、いちいち議論しませんが、自民党の原発に対する考え方は、ただ反原発、脱原発を叫んでエネルギー危機問題をどうするのか、その長期的見通しを何ももたない他の野党に比べれば、はるかに現実をよく見据えたすぐれたものです。また、安全保障対策も、今後のアジアにおける日本の立ち位置を考えたしっかりしたものです。

内田さんさ、あなた、「100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない」などと、調べもせずによくも無責任に言えますね。きちんと考えて実行している政治家に失礼ではありませんか。そんなに言うなら、まずあなたが政界に出てやってごらんなさい。

「経済最優先」を政策として立てることがどうして「未来の豊かさより、今の金」なのですか。バカも休み休み言ってほしい。このたびの選挙で「経済最優先」がいちばんの争点となったのは、どんな「未来の豊かさ」(なんとアイマイな言葉!)を実現しようとしても、まずいまの窮境から脱しなければ、何も始まらないということがよく理解されていたからです。

内田さんは、大朝日などに書かせてもらってたいへん結構なことですが、もし「目先の金」がなかったらどうしますか。いえ、内田さんが飢えようがどうしようが私の知ったことではありませんが、ことは、個人の生き方の問題ではなく、国民生活全体のかじ取りをどうしていくかという公共性がかかった問題なのです。金の問題をバカにするな。

いかにも朝日新聞が受け入れそうなこんな空虚な文章を書く暇があるなら、なぜ「未来の豊かさ」をより確実なものとするためにこそ、国民レベルで「今の金」が必要なのか、最後のお願いですから、もう少し勉強してください。

くどくなったので、ここらで退散。


〈コメント〉

*Commented by neoeco さん

経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないためである。
と言った経済学者がいます。
現代主流経済学者は、ホモエコノミクスを前提にしますが、現実にはありえない。
アベノミクスは、現代主流経済学者が考え出したものです。
気をつけてください。
参考:世界8月号伊東光晴論文

*Commented by oisif さん
 小浜逸郎様

 タチの悪い言論とは何か――内田樹批判、拝読しました。

 論旨、一言一句、完全に同意します。我が意を得たりとはこのことです。私が感じていて言葉にできなかったこと、というか言葉で言ってしまうことを無意識に自己規制していたことを、丁寧に解きほぐしてくださって感謝します。そうなんですね。この人の根本思想はあまりにもシンプルなんですね。まさに戦後教育の申し子です。おまけに、左翼であることが伝統的に知識階級のスタンスであるフランスのしかも現代思想の研究者であり、かつてあるセクトに属していた全共闘というのですから何をか言わんやです。
 以前、内田氏の著書を何冊か読んだことがあり、また氏のブログも一時読んだことがあります。一読痛快、視野と頭がすっきりしたような思い。ところが、なにか腑に落ちない違和感、不快感がどうしても残るのを禁じ得ませんでした。その根本原因が、内田氏が現実を論評しているようでいて、実は、本当の現実ではなく、氏の戦後脳が設定したに過ぎない現実もどきを俎上に載せて、決して自分は傷つかない位置から、フランス現代思想的な片腹痛い言葉遣いで気楽な床屋政談をしているに過ぎないのだということが、いよいよわかってきました。
 小浜さんの著書、論文をいくつか拝見したことがあります。半ば同意、半ば不同意だった記憶があります。これはその頃まだ私が戦後脳に支配されていたからです。現在は私も相当程度治癒の方向に向かっていますので、小浜さんの論旨はほとんど受け入れることができるようになりました。
 ブログの方も最近拝読させていただいています。興味深い論考を無料で載せていらっしゃいますが、もったいないことです。一層の健筆をお祈りしております。

*Commented by kohamaitsuo さん
oisifさんへ。
 コメント、ありがとうございます。
 じつは私も内田氏をそれなりに評価していたところがあり、こんどやってみて初めて、こんなバカサヨク的な政治観しかもっていなかったのかということがよくわかりました。自分なりにひとつの収穫か、と思っております。
 拙ブログも読んでいただいているとのこと、まことにありがとうございます。なお、いま進めている『倫理の起源』『日本語を哲学する』でも戦後日本人のいわれなき「西洋心酔者流」を批判するために、ご本尊の西洋哲学者たちをターゲットにしていきますので、今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。


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3 コメント

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Unknown (howoohooh)
2015-02-06 05:50:44
小浜先生
以下、引用先の記事を読んで、その主張に強い不快感を生じ、著者である内田某について検索したところ、こちらに行き当たりました。おっしゃられることに納得した次第です。もしできましたら、以下の記事に対する反論および批判もうかがいたく、お願い申し上げます。

◇話題◇ 内田樹さん「侵略戦争で他国民の恨みを買ったら
国民はそのツケを半永久的に払い続けなければならない。
中国や韓国から謝罪要求が終わらないのも彼らがそう考えているから」
http://www.kanaloco.jp/article/83509/cms_id/123986
返信する
howoohoohさんへ (小浜逸郎)
2015-02-06 17:08:22
拙稿へのコメント、ありがとうございます。

最近の内田氏は、バカサヨク丸出しとしか言いようがありません。こういう手合いに限って、自分がテロの危機にさらされた時などは、政府は何もしてくれないなどと文句をつけるに決まっています。国内の安全地帯で勝手に反権力を叫んでいて、いざとなると国家頼み。甘ったれた臆病者、卑怯者の典型です。

今回のテロでも、残念な結果になったのは、まさに憲法のせいで人質救出のための手足をもがれていたためなのが明らかなのに、彼らは集団的自衛権反対、改憲反対などと騒ぎ続けて平然としているのですね。

なお、引用されている内田氏の発言と同趣旨の記事に対して、岩田温さんが痛烈な批判を展開していますので、よろしかったらご覧ください。私はこれでかなり溜飲を下げました。

岩田温氏論考:「日本は韓国に謝りつづけなくてはならないのか――内田樹の出鱈目コラムについて」
http://asread.info/archives/1291
返信する
Unknown (Unknown)
2015-04-08 02:11:40
小浜さん
金を馬鹿にしてないあなたが、内田樹さんよりも本を売ればいいんじゃないかな。
非論理的なことが嫌いだということは、わかった。
「戦後教育+全共闘+フランス思想=バカサヨク」=「常識」
が論理的なら、この文章は「論理」の歴史的大転換のように思えてならない。
私は論理も金もどうでもいい。良い文が読みたい。
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