美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

BABYMETALが、今いる場所 (美津島明) (その2)

2016年04月15日 13時55分48秒 | 音楽
BABYMETALが、今いる場所 (美津島明) (その2)



まずは、先日起こった、ベビメタファンとして感慨深かった個人的「椿事」のご紹介から。

当論考をせっせと書いていたときのこと。事務所の玄関の前を通り抜けるようとする自転車から、年端のいかない女の子が舌っ足らずな声で「チョッコレ~ト、チョッコレ~ト、チョッ、チョッ、チョッ」と口ずさんでいるのが聞こえてきたのです。そう、「ギミチョコ!」ですね。引き戸仕様の玄関のガラスの上3分の2に刷りガラス状のビニールを貼っているので、その姿は見えなかったのですが、おそらくお母さんがこぐ自転車の荷台に乗っていたのでしょう。

たったそれだけのことですが、私は、ベビーメタルの歌がついに幼子(おさなご)の口から飛び出してくる時代がやってきたのだ、と思ったのでした。ベビーメタルの認知度や支持層のすそ野は、どうやら私の想像を超えた高まりや広がりを見せているようです。私自身、昨日近所のコンビニで、日経エンタテイメントの表紙を三姫が飾っているのを目にして、思わず買ってくるという経験をしたくらいですから。電通抜きで(つまりテレビ抜きで)よくぞここまで、とあらためて思います。

閑話休題。マーティ・フリードマンと三姫との対談で、記憶に残った三つ目にまだ触れていませんでした。

それは、Su-metalの、メタルについての見方にいちじるしい成長が見られたということです。彼女は、メタリカのライヴを観ていて、「音楽は耳で聞くもんじゃない。心にズンとくるもの。心の底から動かされるもの」と気づいたというのです。そういう意味で、メタルには「強いメッセージ性がある。強い音楽、激しい音楽には、そうなるだけの理由がある」ことが分かったというのです。

私がべビメタの存在をはじめて知ったのは、一昨年の夏でした。何を隠そう、FB友だちである政治学者・櫻田淳さんがFBで「ギミチョコ!」を紹介しているのを目にとめたのが、それからの私のべビメタ歴の出発点です。その後櫻田さんが、べビメタにハマった様子はなさそうです。櫻田さんがひょいと投げた火種を、私がなんとなく拾って勝手に火が付いたことになりますね。

当時の私は、それまでにメタルをまともに聞いた経験がまったくありませんでした。メタルのどこがいいのかもサッパリ分からない状態だったのです。で、べビメタにハマり出すにつれて、youtubeで少しずつメタルを聞くようになりました(パソコンにスピーカーを接続しているので、けっこうな大音量で聴けます)。いまでも「自分はメタルに詳しい」とはとても言えません。しかし、メタリカの良さならよく分かるようになりました。また、かつてはその悪趣味なアルバムジャケットに拒否反応を起こしていたアイアン・メイデンが奏でる音の斬新さ・ユニークさも分かるようになりました。

特にメタリカについては、二〇〇八年に発売された9枚目のアルバム『デス・マグネティック』を毎日のように聴くというハマりようです。あの媚びのないアグレッシブな音を聴いていると身体の芯にジーンとくるものがあるのですね。年甲斐もなく、首を振っている自分に気づきます。

だから、Su-metalの先の発言の真意が、私なりによく分かるのです。彼女が、あるインタヴューで、自分にとってのメタルとは何を措いてもメタリカなのだ、メタリカこそが自分にとってのメタルなのだ、という意味のことを言っているのを目にして、私は、わが意を得たりの思いをかみしめるのと同時に、彼女のめざましい成長ぶり、その理解力の深さに舌を巻く思いがしました。私はこれでも、ロックリスナー歴四〇年です。その下地があってはじめてメタルの良さや魅力が分かるのです。メタルの良さが分かるのに、結局四〇年間かかったことになります。ところが、彼女はなんの下地もないのに、ほとんど素手でその魅力をほんの数年間でつかんだのです。おそるべき直観力であると思います。

『ヤング・ギター』5月号のインタヴューから、メタルについてのSu-metalの発言を引いておきます。

たぶんメタルって強い音楽だからこそ、そこには強い自分が存在できて、BABYMETALでライヴをしていると何でもできちゃう気持ちになるし、″お前達、ついて来い!″って言いたくなる感覚になるんですよ(笑)。そうやって自分に自信が持てる、それぐらい自分の背中を押してくれる音楽だなと思うので。なんて言うか……心をかき乱して、自分の本音をすべて洗いざらい吐き出させてくれる感覚があって。そのパワフルでメチャメチャな感じが、凄く素敵だなぁって思います。

メタルを「お化け屋敷」のようなものだと思っていた少女が、メタルの魅力を身体でつかみ取り、ここまで真に迫ったセリフを吐けるようになったことに、私は驚きを禁じえません。Su-metal の心にはどうやら、不良の破壊衝動のようなものを圧倒的に肯定的なパワーに変える不思議な変換装置が備わっているようです。

では、3つ目の動画「KARATE」に移りましょう。当楽曲は、『METAL RESISTANCE』の2曲目です。ちなみに一曲目は、「Road of Resistance」です。

BABYMETAL - KARATE (OFFICIAL)


当楽曲をyoutubeではじめて聴いたとき、私は「この曲は、これまでのべビメタの水準を超えている」と思いました。というより、この曲でべビメタは、現有の世界のポップミュージックの最前線に躍り出たのではないかと思ったのですね。私は、衛星放送のポップスミュージック番組を観るのがけっこう好きで、きらりと光る新曲を探すのがなかば趣味のようになっています。だから、英米の音楽シーンの雰囲気は、だいたいつかんでいるのではないかと思っています(勘違いでないことを願っています)。そういう者としての勘が働いて、そう思ったのです。

当楽曲は、「メタルとKawaiiの融合」という従来からのべビメタの基本コンセプトをタイトにキープしながらも、無駄を削ぎ落したシャープで力強いダンスと歌によって、アメリカ人が言うところの「クールさ」を高水準で実現しています。しかも、その実現の仕方は、アメリカで流布しているヒップ・ポップを猿真似したものではなくて、べビメタ流としか形容のしようのないものです。つまり、世界で唯一無二のクールさなのです。これに、欧米の鋭敏なリスナーが反応しないはずがありません。事実、当MVは、一ヵ月足らずで再生回数が840万を突破しています(四月十四日現在)。そうしてコメント欄は、英語で埋め尽くされています。

当楽曲の詳細について、プロデューサーのKoba-metalが、『ヘドバン』Vol.10のインタヴュー記事で触れています。私があれこれいうよりも、情報として有益でもあり、興味深くもあると当然のことながら思われるので、それに触れておきましょう。

Koba-metalによれば、最初にデモテープを聴いたとき、イントロのギターリフがキャッチ―でカッコいいと思ったそうです。「歌えるギターリフ」はいい、と。クリエイターたちには、「今までのBABYMETALにないタイプの曲」をお願いしていたそうです。また、後半から最後にかけてはドラマティックに終わりたかったので、Su-metalに最後のフェイクするパートについて「ちょっとマライア・キャリーとかセリーヌ・ディオンみたいな感じをイメージして歌ってみよう」とアドバイスしたそうです。その「終末部はドラマティックに」という狙いは見事に当たりました。最初から丁寧に聴くと、最後のフェイクのところでリスナーがどうしても感動せざるをえないように、当MVには緻密な計算が随所に注意深く織り込まれています。最近のSu-metalは音域がさらに広がった、とKoba-metalがどこかで言っています。フェイクの箇所は、そのことを雄弁に物語っています。


*音楽用語でいうフェイクとは、基本となるメロディーから、わざと違うメロディーに変化させて歌ったり演奏したりすること。

ところで、「KARATE」MVのメッセージについて「たろ a.k.a. TAROO-METAL」という方が、ご自身のブログで深く考察なさっていらっしゃいます。とても参考になりましたので、下にそのURLを掲げておきます。おそらくこの方は、『METAL RESISTANCE』に収録されている「META!メタ太郎」を聴いて、狂喜乱舞したことでしょう。
http://ameblo.jp/kotaromas/entry-12140951257.html

4つ目のMV、これが最後です。引用中で対話の参加者たちが触れた「The one」。ごらんください。

BABYMETAL - THE ONE (OFFICIAL)


当楽曲は、『Metal Resistance』の最後を飾っています。フィナーレを飾るにふさわしい壮大な曲であると思います。当楽曲の直前には、超絶技巧集団にしてメタル・プログレバンドの雄であるドリーム・シアターを彷彿させる「Tales of The Destinies」という五分弱の楽曲があるのですが、Koba-metalによれば、その終末部のフレーズを独立させ発展させたのが「The One」だそうです。だから、これら二曲のつながり方には、良い意味で、まったく切れ目がありません。そのことが、当楽曲のスケールの大きさを演出するうえで、大きな効果を上げています。

当楽曲には、個人的な感慨があります。私は、一五歳のころからほぼ切れ目なく、いわゆるプログレッシヴ・ロックを聴き続けてきました。気心の知れたごく少数の仲間にしか通じませんでしたが、キング・クリムゾン、ELP、ピンク・フロイドそしてYESは、いわば、神のような特別な存在でした。特に、若いころはそうでした。若かりし日々の私のなけなしの感性のありったけを彼らの音楽に注ぎ込んだと言っても過言ではないでしょう。

そういう「黄金の日々」はもう来ない。そう断念していたのです。ところが、このファンタスティックな三姫のおかげで、あきらめていた夢をもう一度見ることができている。キツネにつままれているような感じがどうしてもつきまとうのですが、事実は事実です。当楽曲を聴いて、ピンク・フロイドやYES を思い浮かべないことは、私には相当にむずかしい。これはまぎれもない、高水準のプログレなのです。YESもビックリ、ピンク・フロイドもビックリでしょう。アジアの東の果てで、約四〇年間のときを経て、本格的なプログレが息を吹き返したのです。そのことを、私は心から祝したいと思います。そうして、ここにあるのはまさに「いま」の音であって、衰退した懐古趣味などみじんもありません。鋭いセンサーを持つ若い人々も、もしかしたら、プログレサウンドの凄さに気づいたのではないでしょうか。

プログレに入れ込んだことのない人にとっても、当楽曲のもたらす陶酔感に抗するのは、けっこうむずかしいのではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

そろそろ話をまとめる頃合いにさしかかってきたようです。

BABYMETALは、いまどういう場所にいるのでしょうか。

まず言えることは、べビメタが、これからますます多くの欧米のポップス好きの心若者たちの心をつかむのはまず間違いがないだろうということです。これは、べビメタファンとしての希望的観測などではなくて(個人的には、あまりにもファンが増えると、彼女たちのコンサートに参加できる可能性が絶望的に小さくなるので、あまり歓迎できる状況ではない、という「いじましい」事情もあります)、文明論的な不可避性の観点から、そう言えそうな気がしています。

マーティ・フリードマンが指摘しているように、欧米(とくに英米)文化は基本的に、異なるものを厳密にきっちりと分ける分析的なアプローチを得意としています。思想的には個人主義的な要素が濃厚です。そういう個人主義的分析的な文化が、過剰なグローバリズムの、限界を超えた野蛮な展開による社会の相互扶助機能のマヒ・格差の拡大・テロリズムの脅威の瀰漫などによって、いまや限界に差しかかっている。おそらく個人どうしが、水と油のように弾きあってピリピリと緊張し合っているキツい空気が蔓延した社会に陥っているのではないかと想像されます。そのことを、(意識しようとしまいと)だれよりも強く感じ取っているのは、マーティ・フリードマンのような、鋭敏な感受性を持った若者たちです。そういう若者たちが、自分たちとは文化的ルーツの異なる日本の洗練された「融合の魂」に触れて新鮮な驚きを感じ、癒しを感じ、それに惹かれてゆくのは、水が高いところから低いところに流れるようにごく自然なことです。まさしく「混ぜたっていいんだ!」ですね。そう、私は考えます。それを「萌え」の普遍化現象と言ってもいいような気がしますが、まぁそのことは、とりあえず措いておきましょう。

次に言えそうなことは、「融合の魂」(別名、キツネ様?)が導きの糸となって、べビメタは、いまや唯一無二のクールさを備えたグローバル・ポップスの最前線に位置しているということです。世界の最先端のポップスの諸要素をふんだんに吸収しながら、そのどれにも還元できない、独特の表現様式を手に入れたのです。べビメタを応援する欧米社会の若者たちは、むろんそのことに気づいています。彼女たちの存在に注目しはじめた人々も、気づき始めています。

この、三姫が身に帯びている「唯一無二のクールさ」の実現に、振付師のMikiko-metal(MIKIKO先生)が果たしてきた役割は大きなものがあると思われます。

2006年から2008年2月にかけての約1年半、Mikiko-metalは舞台演出の勉強のためにニューヨークに滞在しました。そのとき彼女は、日本人が、文化的背景も体形もまったく異なる黒人のヒップホップダンスをその気になって踊っていることのおかしさ・むなしさ・みっともなさに気づいてしまったのです。彼女自身、日本におけるヒップホップダンスの第一人者であるにもかかわらず、です。そこから彼女の「日本女性が魅力的に見えるダンスとはいったいどういうものか」を探求する旅が始まりました。

Mikiko-metalは、日本女性が日常生活で見せるなにげない仕草に着目しました。で、彼女は、気になる仕草やなんとなく惹かれるところのある動作を丹念にメモ帳に記しはじめたのです。そういう地道な作業の膨大な積み重ねが、今日のPerfumeやBABYMETALを生んだと言っても過言ではないでしょう。彼女は、振り付けという視点から、日本文化の伝統としてのKawaiiを探求している人物と評することができるでしょう。BABYMETALのクールさが「唯一無二」のものである背景には、こういう人物の支えがあることがお分かりいただけたでしょうか。

話を戻しましょう。べビメタが今いる場所に関して言えそうなことの三つ目です。これが最後です。「その1」でも申し上げたのですが、べビメタが世界的に認知され、グローバルな存在になればなるほど、べビメタにとって、世界を席巻しているグローバリズムとの戦いはますます熾烈で困難なものになっていくし、いままさにその渦中にある、ということです。「その1」では「英語化」をキーワードにして、そのことに触れました。過度の英語化は、べビメタの行動原理である「resistance」を無化してしまう、ということでした。「resistance」が無化されうわべだけのものになってしまったら、そこに存在するのはべビメタの抜け殻だけという残念な事態を招くことになるのは必定なのです。

グローバリズム勢力は、マネーとマスコミを握っています。そうしてここが肝心なところなのですが、煩悩多き人間にとって、金銭欲と名声欲は最大の弱点です。グローバリズム勢力は、その弱点を豊富なマネーとマスコミネットワークを駆使してしっかりと握りしめるのです。だから、グローバリズムはなんだかんだと言われながらも、世界に君臨し続けているのです。

たとえ三姫がそういう欲望にからめとられなくても、組織としてのアミューズはどうでしょうか。いままでよりももっと大きなマネーを手にできる機会が、グローバリズム勢力から提示されたとき(それはこれから何度でもめぐってくる事態でしょう)、組織としてのアミューズが、べビメタの「resistance」を抑え込んで、マネーを鷲づかみにすることなど決してない、と誰が断言できるでしょうか。

国内で、芸能関係のマネーとメジャー媒体としてのテレビを手中にしているのは電通です。電通は、べビメタの認知度が国の内外で高まるほどに、マネーとマスコミとを餌に、べビメタを自分の勢力圏に収めようとやっきになるでしょう。そうしなければ、自分たちがまったく関与できないところでの芸能サクセスストリーの先例を許容しなければならなくなるからです。それは、自分たちの存立基盤に関わる大きな流れになってゆく可能性(彼らにとっては危険性)があります。それゆえ電通は、これから、べビメタをとりこむか、それがだめなら潰すか、いずれにしても死にもの狂いの攻勢をかけてくるものと思われます。

それでもなお、べビメタは「resistance」の旗を掲げ続けることができるでしょうか。

熱心なべビメタファンたちが、身銭を切ってあくまでも献身的にべビメタを支え続けようとするかどうか、また、べビメタチームがその熱き支えをあくまでも信じようとするかどうかが、最大のポイントになる。私は、そう考えます。その意味で、べビメタの「resistance」は、べビメタチームと熱心なべビメタファンとが一体となった精神的な意味での文化運動なのです。まさしく、「THE ONE」 です。

末尾に、pile driver という方の、二つのツイートを掲げておきます。実に鋭い指摘です(言葉遣いを一部分変えました)。

ビルボード39位がもう一つ異例な点は、RALというマイナーレーベルから発売されたことだ。KOBAは制作・販促に一切口出しされたくないが為に大手レーベルのオファーは全て断って配給だけするRALと契約したとの記憶。メジャーだったらもっと売れたであろうが、これは正しい選択だ
ベビメタは スポンサー契約もタイアップもないから、電通経由で全国区の地上波で販促活動することもない。要はインディーズと同じような売り方しかしてないから、知名度は低いまま。なのに動員、CD売上は有名どころと同じレベル。電通からすると、その存在をどうにか消したいだろうね
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする