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事実を指すwenn(改訂版)

2018年12月28日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
    事実を指すwenn(改訂版)

    事実を指すwenn(改訂版)

 『関口ドイツ文法』に「事実を指すwenn」を書き落とした事は大失策でした。調べ直してここにまとめておきます。関口は『ドイツ語学講話』の中に一講を設けて説明しているのですが、内容的にまとまりが悪く、完成していると言えません。よって、浅学を顧みずに、私がまとめてみます。見たものは関口のその論文のほかには『クラウン独和』と『独和大辞典』です。用例は、自分で集めたものは出典を示し、他からの引用は元を書いておきました。

 A・仮定的条件のwenn

wennの元の意味は「仮定」だと思います。しかし、その仮定にも色々あります。

 A-1、可能性のある仮定。未来ないし現在から近い未来の仮定。
1-1. Wenn ich Nachricht von ihr habe, lasse ich es dich sofort wissen. (彼女についてのニュースが入り次第、直ちに君に知らせます)(クラウン)
1-2. Wenn morgen die Delegierten ankommen, (so / dann) werden sie vom Oberbürgermeister begrüßt.(派遣団は明日到着すると、市長から挨拶を受ける)(大独和)
1-3. Wenn es Frühling wird, kommen die Zugvögel zurück.(春になると、渡り鳥が帰ってくる)(繰り返される事柄にも使われる)(クラウン)
1-4. Immer (Jedesmal), wenn wir sie einladen, hat sie keine Zeit.(彼女を誘うときは決まって「時間がない」と断る)(クラウン)
感想・1-4は1-3と同様、「決まった事」として考えるから、こういう言い方をするのでしょう。

A-2、 条件と帰結、理由と結論、原因と結果の関係にある真理を「仮定と帰結」関係で表す。
2-1. Wenn es also darauf ankommt, die treibende Mächte zu erforschen, die hinter den Beweggründen der geschichtlich handelunden Menschen stehn, ……, so kann es sich nicht so sehr um die Beweggründe bei einzelnen, als um diejenigen, welche grosse Massen, ...in Bewegung setzen (Engels, Feuerbach, §4)
(かくして歴史の表面で行動している人々の背後のある起動力は何かを探求することが問題になるならば、その時には、個々人を動かしている動機ではなく、大衆を動かしている動因を探らなければならないことになる)
英・When, therefore, it is a question of investigating the driving powers which lie behind the motives of men who act in history, then it is not a question so much of the motives of single individuals, however eminent, as of those motives which set in motion great masses, ...
 仏・S’il s’agit, par conséquent, de rechercher les forces motrices qui se trouvent derrière les mobiles des actions des hommes dans l’histoire, il ne peut pas tant s’agir des motifs des individus, que ce ceux qui mettent en mouvement de grandes masses, ...
 感想・独はwenn …… so(od. dann)が典型的な構文です。英はifもwhenもあるようですが、それを受ける語thenが付く場合もあれば、何も付かない場合もあるようです。仏にはsiを受ける語は使わないことが多いようです。

 A-3、過去の反復された条件
3-1. Meine Mutter freute sich sehr, wenn ich sie besuchte.(母は私が訪ねて行くと、とても喜んだ)(クラウン)
 感想・関口はこれも「事実をwenn」に入れています。「講話」の173頁を参照。しかし、このように広く取ると、狭義の「事実を指すwenn」、つまり「コメントを言う前提を設定するwenn」を一般的に「事実を指すwenn」と言う意味がなくなると思います。

 cf. 過去の一回限りの事はalsで表します。
3-2. Als er das hörte, erschrak er.(彼はそれを耳にすると、驚愕した)(大独和)
3-3. Gerade als ich das Zimmer betrat, ging er hinaus.(私がその部屋に脚を踏み入れたちょうどその時、彼は出て行った)(大独和)

 A-4、反実仮想はここでは扱いません。「文法」の第1部(理解文法)の第9章(接続法)の第6節(仮定話法)1045頁以下を参照。

B・事実を指すwenn(コメントを言う前提を設定するwenn)
 事実を指す場合なら、どんな場合でもwennが使えるというわけではない。事実を指す接続詞の根本は dassです。
 4-1. Ich weiss, dass er krank it.(彼が病気だという事は知っています)(大独和)

 或る事実を取り出して、それに対して Bemerkung(コメント)を加える場合にはwennを使います。もちろんそのコメントの方が主ですが。
 4-2. Wenn er es erst heute zur Sprache gebracht hat, so muss er auch seinen Grund haben.(彼が今日初めてそれを口にしたのには、それなりの理由があるはずだ)
 4-3. So viel ist gewiss, sie war fest bei sich entschlossen, alles zu tun, um Wertern zu entfernen, und wenn sie zauderte, so war es eine herzliche, freundschaftliche Schonung . (Goethe: Werters Leiden)(これだけは確かだが、彼女はあらゆる策を講じてヴェルテルを遠ざけようと堅く決心していたらしい。それを躊躇したのは、それは気持ちの上から、友情の上から忍びなかったからである)
 説明・構文としては wenn .... so (od. dann) が標準だが、soやdannはなくても良い。(以上、関口『講話』158-162頁)

4-4.Wenn der Berliner sagt: “Das kostet drei Eier”, dann meint er: das kostet drei Mark.
 (ベルリン人が「値段はdrei Eierだ」と言えば、それはつまりdrei Markだということである)
 説明・4-3と4-4とはどう違うか。4-4のwennは「もしベルリン人が~という事を言うとすれば」の意味で、いま具体的に誰かベルリン人がそう言ったというのではありません。逆に、4-2と4-3では、具体的事実が挙げられています。つまり、この wennは「一つの具体的事実をあたかも一般的事実であるかのように言う」ものなのです。
 なぜこのような事をわざわざするのか。それは、人間というものは、具体的事実を捉えてそれに何かのコメントを加える時には、それを一旦一般的事実かのように考えて初めて、それに対して判断力が何かの手がかりを得られるからです。
 早い話が、部下が何かの失敗をした時、上司は「その事をしてはいけない」とは言わない。「そんな事をしてはいけない」と言います。(同、162-3頁)
 牧野の感想・「そこでそれをするのが君の悪い癖なんだよなあ」という言い方もあるとは思います)。

 4-5. Wenn dennoch die Neubelebung der Kantschen Auffassung in Deutschland durch die Neukantianer und der Humeschen in England durch die Agnostiker versucht wird, so ist das wissenschaftlich ein Rückschritt und praktisch nur eine verschämte Weise, den Materialismus hinterrücks zu akzeptieren und vor der Welt zu verleugnen. (Engels, Feuerbach, §2)
(それにも拘わらず、ドイツでは新カント派がカント哲学を生き返らせ、イギリスでは不可知論者たちがヒューム哲学を再興しているが、それは学問的〔理論的)には後退であり、実際的には、背後で〔人に隠れて〕唯物論を受け入れながら、世間的には唯物論を否認しているかのように見せかける恥知らずのやり方でしかない)
英・If, nevertheless, the Neo-Kantians are attempting to resurrect the Kantian conception in Germany and the agnostics that of Hume in England, this is scientifically a regression and practically merely a shamefaced way of surreptitiously accepting materialism, while denying it before the world.
 仏・Si, cependant, les néo-kantistes s’efforcent en Allmagne de donner une nouvelle vie aux idées de Kant, et les agnostiques, en Angleterre, aux idées de Hume, cela constitue, au point de vue scientifique, une régression par rapport à la réfutation théorique et pratique qui en a été faite depuis longtemps, et, dans la pratique, une façon honteuse d’accepter le matérialisme en cachette, tout en le reniant publiquement.
 感想・英語にも「事実を指すwhen」が、フランス語にも「事実を指すsi」があるようです。

 派生形1・他者の言説を引用するwenn

 他者の言説を引用して、それにコメントを加える場合にもこの wennが使われる。この場合には、wenn-Satzに対する主文が形式的には無いような事もある。
 5-1. Auch bei Goethe finden sich, wenn auch unabhängig von Kant, verwandte Prägungen: “Denn das Gesetz nur kann uns Freiheit geben,” oder wenn er davon spricht, dass im Menschen ein “Dienenwollendes” sei. (ゲーテもカントとは関係はないが、それに似た事を言っている、『如何となれば、只法のみが吾人に自由を与える事が出来るのである』と。あるいは又、人間の中には『仕えんことを欲する何物か』があると言っているのなどがそれである。)
 説明・下線を引いたwenn-Satzには主文がないように見えるが、事実上、前にあるdenn以下の文の内容が主文なのです。(同164頁)
 牧野の解説・関口訳の最後の「のなどがそれである」が行間を読んで訳したものです。

 派生形2・比較対照のwenn

6-1. Und wenn der Mensch in seiner Qual verstummt, / Gab mir ein Gott zu sagen, was ich leide. (Goethe: Tasso)(悩みて黙するが人の常なれど、神は我に悩みを語るすべを授け給いぬ)
 説明・詩人というのは常人以上に悩むように出来ている代わりに、またその悩みを、常人とは違って、文筆を以て表現するという天賦を授かっているということ。(同168頁)
 牧野の感想・比較対照にwennを使うのはまあ分かります。ここではそれよりein Gottの方を説明して欲しかったです。牧野の推測では、「キリスト教の神」を意味させたければ無冠詞でGottと言ったでしょう。そういう限定なしに、「どういう宗教を持っている詩人でも、無宗教の詩人でも、天賦のものとして、そういう才能を持っている」という事で、「神とでも言うべきもの」と言ったのでしょう。あえて換言すれば、gab mir der Himmelと言うことも出来たのではあるまいか。

6-2. Ist das Lied auf das engste an die rhythmisch-melodische Gliederung des Ausdrucks gebunden, so bewegt sich die Erzählung frei in dem natürlichen, keiner festen Regel unterworfenen Rhythmus und Tonfall der Sprache. (Wundt) (歌謡が言語の韻律的・旋律的配置に拘束されているとすれば、物語は、言語の、いかなる規則にも縛られない自然のままのリズムと抑揚を以て自由奔放に振る舞うことができるのである)
 説明・「事実を指すwenn」の構文では「いつでも定形先置文で替えることが出来る」とまでは言えないが、「比較対照のwenn」の構文では、定形先置文で代替する事が好まれる。

6-3. Ist der Staat noch heute, zur Zeit der grossen Industrie und der Eisenbahnen, im ganzen und grossen nur der Reflex, in zusammenfassender Form, der ökonomischen Bedürfnisse der die Produktion beherrschenden Klasse, so musste er dies noch viel mehr sein in einer Epoche, wo eine Menschengeneration einen weit grösseren Teil ihrer Gesammtlebenszeit auf die Befriedigung ihrer materiellen Bedürfnisse verwenden musste, also weit abhängiger von ihnen war, als wir heute sind. (Engels , Feuerbach, §4)
(大工業と鉄道のある今日でも尚、大きく見れば、国家は〔経済生活から独立した物ではなく〕生産を支配している階級の経済的要求を映す物に過ぎないとするならば、人々がその全生活の大部分を物質的要求を満たすために使わなければならなかったような時代には、つまり今日の我々よりも一層物質生活上の欲求に依存する度合いの大きかったような時代には、国家は一層経済生活を反映する物だったにちがいない)
 感想・この場合は「比較対照のwenn」と言っても、「真逆な二つの事の対照ではなく、方向は同じだが「その程度が大きく違う二つの事の対比」だと思います。こういう場合でも使える訳です。

6-4. Wenn also die bürgerlichen Rechtsbestimmungen nur die ökonomischen Lebensbedingungen der Gesellschaft in Rechtsform ausdrücken, so kann dies je nach Umständen gut oder schlecht geschehen. (Engels , Feuerbach, §4) (そのように資本主義の法規定はその社会の経済的生活条件を法という形で表現した物でしかないのだが、それは事情によって上出来の場合もあれば不出来のこともある)
 英・If, therefore, bourgeois legal rules merely express the economic life conditions of siciety in legal form, then they can do so well or ill according to circumstances. 
 仏・Si, par conséquent, les préscriptions du droit bourgeois ne sont que l’expression sous une forme juristique des conditions d’existence économiques de la société, cela peut se faire bien ou mal, selon les circonstances.
 感想・これも「事実をwenn」の一種でしょうが、内容的には「譲歩の構文」だと思います。

 cf. 比較対照にはwährendもあります。

6-5. Während er bequem lebt, muss ich hart arbeiten.(クラウン)
 感想・indemも場合によっては使えると思います。

cf. 比較相似の wie ... so

7-1. Wie aber die Manufaktur auf einer bestimmten Entwicklungsstufe in Konflikt kam mit der feudalen, so ist jetzt schon die grosse Industrie in Konflikt geraten mit der an ihre Stelle gesetzten bürgerlichen Produktionsordnung. (Engels , Feuerbach, §4)(しかし、このマニュファクチュアがその一定の発展段階に達した時、封建的生産関係と両立できなくなったと同じく、今や〔マニュファクチュアから大きく発展した〕大工業は封建体制に取って代わった資本主義生産体制と両立出来なくなっている)
 英・But just as at a definite stage of its development, manufacture came into conflict with the feudal order of production, so now large-scale industry has already come into conflict with the bourseois order of production established in its place.
 仏・Mais de même qu’à une certaine phase de developpement, la manufacture entra en conflit avec le mode de production féodal, de même, meintenant, la grande industrie est entrée en conflit avec le régime de production bourseois qui l’a emplacé.
 感想・6-2までの「比較対照」は比較した結果が「反対」的でしたから、「対照」でしたが、この7-1の用例では「比較」の結果は「相似」です。この場合はwenn... soではなく、wie ... soが使われます。英では as ... soで、仏ではde mêde ... de mêdeです。
 こういう風に、似たものや対立する事柄は同じ所にまとめた方が理解し易いと思います。

 派生形3・逆接的な前提を後から付加する言い方

「逆接的な前提を後から付加する」とは何のことか分かりにくいと思います。或る事柄Aを言ったとします。その後に、本来はAを否定するような事Bを指摘することです。こういう言い方は、次の日本語の用例を見てみればすぐに分かりますように、日常的に使われています。
8-1. 米女子ゴルフツアーで8度の賞金女王に輝いたアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)が引退を発表した。/昨年、背中を傷めたが、リハビリに成功し、今季3勝(通算72勝)。37歳の年齢と実力を考えても、キャシー・ウィットワース(米)が持つ通算88勝のツアー記録を塗り替える可能性は、十分に残されているのにだ。(朝日、2008年05月17日)

8-2. Es ist die gemeinsame Psychose aller Gebildeten, dass sie sich immer mehr Bücher anschaffen müssen, da sie doch weder Zeit noch Lust haben, sie auch nur aufzuschlagen. (開けてすら見るだけの暇もなければ気もない癖に次へ次へと書物を買わずに入られないというのが、これがインテリの共通心理である)(作文202頁)
 説明・ドイツ語では、da …doch を使うのが普通です。
 8-3. Warum in die Ferne schweifen, wenn das Gute so nahe liegt? (善い事がこんなに間近に転がっているのに、何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ)
 説明・このda …… dochの代わりにwennを使ってもいいのです。
 感想・8-2ではdochが入っていますが、6-3にはありません。dochはなくてもいいのです。又、8-2でも8-3でも関口は後ろから訳していて、「後から逆接的理由を言う」形を採っていません。これはどうでしょうか。「何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ。
善い事がこんなに間近に転がっている〔という〕のに」と、「という」を入れるくらいしか妙案が浮かびませんが。この構文はやはり逆接的理由を後から言うことで、主文の主張を一層強く言いたいのだと思います。ですから、やはり順序は変えない方がいいと思います。
 8-4. Und der kleine Prinz fragte sich: Wie kann er mich kennen, da er mich noch nie gesehen hat? (その時、星の王子様は自問しました、「どうして彼は僕が分かるのだろう、これまでl度も僕に会ったことがないというのに」)(Prinz ,S.50)
仏原文・Comment peut-il me reconnaître puisqu’il ne m’a encore jamais vu!
英・How could he recognize me when he had never seen me before?
 感想・仏にdochに当たる語がないためか、独にも英にもそれらしい語句がありません。仏はquandを使う言い方はないのでしょうか。用例の収集が足りません。独英仏を比較できる用例は1つしか知りません。

cf. 順接的な前提条件は後から付け加える言い方が普通だが、前に持ってくることもある。

9-1. Er konnte deshalb nicht kommen, weil seine Mutter krank war. (クラウン)
 説明・weilの副文は、主文中のdeshalb, darum等に呼応することが多い。又、内容的に相手にとって新しい情報で、特にはっきりと理由を言う場合に使う。
9-2. Die Bank ist geschlossen, da heute Samstag ist.(クラウン)
 説明・daの副文は、聞き手に容認できる事柄、ないし既知の事柄の場合。
9-3. Da es regnete, gingen wir nicht spazieren.
以上、説明もクラウンから借用。

 (その後に気付いた点を入れて、少し加筆しました。12月31日)
 

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1 コメント

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Gab mir ein Gott (Saito, Hideo)
2019-01-05 00:52:51
牧野様。
1. 「-ln-」と「-lun-」
 A-2の2-1の引用文中に入力ミスとおぼしきものがあります。これは日本語を母語とする我々に共通の問題をはらんでいると思われます。それで以下のコメントを書いた次第です。
 「handelunden」は正しくは「handelnden」で、「u」は余計です。しかし、なぜこのような入力ミスが起きたのでしょうか。それは「handelnden」を「handelunden」と聞き、発音することから来ているのではないでしょうか。日本語を母語とする者には、例えば、「ln」と「lun」を区別して聞き取るのは簡単ではなく、そのため、発音するときも両者を、良くて混同、悪ければ、そして実際のところは「lun」となっているのではないでしょうか。そのため、入力する時に、無意識に頭の中で「handelunden」と発音していたのではないでしょうか。
 この、単なる一つの入力ミスと思われる事にもこのような背景を見ると、なかなか面白いものがあると思いました。悪しからず。
 本当に瑣末なことなのですが、この2-1の引用文の和訳中で、「背後の」とあるのは正しくは「背後に」ではないでしょうか。これこそが本当の入力ミスだと思います。

2.「Gab mir ein Gott zu sagen, was ich leide.」
 「ein」は冠詞ではなく分離動詞eingebenの前つづりではないでしょうか。eigebenをドゥーデンの、シリーズでなく、一冊本として出版されている、ドイツ語辞典(DUDEN. Deutsches Universal-Woerterbuch. 1996年)で調べると「jemanden zu etwas veranlassen, in jemandem einen Gedanken, Wunsch oder Aehnliche aufkommen lassen」(私訳:人が考えや希望等々を思い浮かび上げるきっかけを与える)とあります。その用例として「diese Idee hat ihm ein guter Geist eingegeben」(私訳:このような考えは、彼の善良な心から来ている[与えている])があります。この用例は、6-1の「gab」を「gab ... ein」とし、「eingeben」と取るができることの傍証となっていると思います。「Gab mir ein Gott zu sagen, was ich leide」 に、文の構成を分かりやすくするために、コンマを挿入すると「Gab mir ein, Gott, zu sagen, was ich leide」 となるかと思います。聴衆の前で朗読する時にも、このコンマの所で小休止することができるのではないでしょうか。
 後ほど、ウィキペディア(ドイツ語版)で調べたところ、「tasso」は演劇作品であるとのことで、定形変化した分離動詞の前つづり「ein」の後に、主語である「Gott」が来ていると、一層、確実に見なすことができると思います。また、マキペディアの「意味形態論の例解」によれば、定形変化した分離動詞の前つづりが先に来るというような、文法の例外などというものはあるものだ、ということですから、 この場合のように定形変化した分離動詞の前つづりの後に主語が来ることもあるのではないでしょうか。
 ちなみに、このウィキペディアが提供している「tasso」の原文を見てみますと、そこでは、「Gab mir ein Gott, zu sagen, wie ich leide」と「Gott」と「zu」の間にコンマがあり、さらに「was」が「wie」となっていました。

2019.01.04
H.S.
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