マキペディア(発行人・牧野紀之)

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「芙蓉鎮」(中国映画)(その1)

2008年05月19日 | ハ行
      

    中国映画「芙蓉鎮」を評す(牧野 紀之)

 中国映画『芙蓉鎮(ふようちん)』を観た。随分いろいろな事を考えさせられた。ようやくまとまったので、書く。

 私は先に、毛沢東(マオ・ツォートン、もうたくとう)の『文芸講話』を論ずる機会を得、その時、芸術批評における芸術的基準と政治的基準の先後について次のように書いた。

 「芸術批評においては、所与の作品がそもそも芸術の内に入るか否かの『芸術的基準』が第1であり、次いでそれが政治的性格を持った芸術か否かを判断する『芸術的基準』が来、第三に初めて、それがどういう政治的性格かを判断する『政治的基準』が来、最後にその政治にどの程度奉仕しているかの『芸術的基準』が来るのである」(拙著「ヘーゲル的しゃかい主義」に所収)。

 この映画批評をまとめるに当たってこれに則り、よってもってプロレタリアートの立場に立つ芸術批評を考えるための具体例としたいと思う。

 まず、芙蓉鎮は芸術の内に入るか否か。文句無しに入ると思う。この点で異論を挟む人はいないだろう。では、これが芸術上の一作品と認められるということは、何を意味するのか。それは、この作品の内容の評価と関係無く、この作品の発表と享受の自由は保障されなければならないということである。

 後に述べるように、この作品は政治的性格「も」持っており、しかもその階級的立場は小ブルジョアジーのそれであって、プロレタリアートのそれではないと考えられるが、それにも拘らず、プロレタリアートの立場はこの作品の表現と享受の自由を完全に保障しなければならない。この作品の内容は多面的で、プロレタリアートの立場から見て肯定できるものとできないものとがあるが、そのような批評は、この作品の表現と享受を完全に保証した上で、私人として、即ち行政上の何らかの立場に立つ者としてではなく、言論で表明するべきであり、かつそれにとどめるべきである。

 また、私のこの批評に対しても賛否両論あろうが、反対の方々は、民主社会のルールを守ってそれを表明していただきたい。拙宅に脅迫電話をかけてきたり、押しかけてきて、回答や「自己批判」を迫るようなことはしないでいただきたい。

 第2の、政治的芸術か否かという問題については、これをメロドラマと解する方も多いようだし、その要素があることは私も認めるが、社会と政治のあり方についての見解も表明されていると思う。その意味で、この作品は政治的性格「も」持っていると考える。よって、その点については、それがどういう政治的性格なのかを吟味しなければならない。

 この映画を観ていない人々にも理解していただけるように、プログラムから、まず、あらすじを引用する。

──芙蓉鎮は湖南省の南端、二つの川にはさまれて、広東省と広西自治区に接した交通の要衝にある小さな町(鎮)である。

 1963年春、町に市の立つ日、一番繁昌しているのは<芙蓉小町>の胡玉音(フー・ユイイン、こぎょくおん)の米豆腐の店だ。彼女には従順そのものの黎桂桂(リー・タイクイ、れいけいけい)という夫がいるが、玉音の笑顔に集まる客は多い。

 解放戦争の闘士で、今は米穀管理所主任の谷燕山(クー・イェンシャン、こくえんざん)は、豆腐の原料の屑米を玉音にまわしてくれ、玉音の店の繁昌を妬んでけちをつけにきた国営食堂の女店主、李国香(リー・クオシャン、りこくこう)も追い返してしまった。

 いつも無銭飲食をするのは店の地主の王秋赦(ワン・チウショー、おうしゅうしゃ)である。かつての貧農で教養が無いが、すぐ党の運動のお先棒をかつぐ町の嫌われ者だ。

 党支部書記の黎満庚(リー・マンコン、れいまんこう)も必ず立ち寄って、店が「公認」であることを示す。彼は以前玉音と恋人同士だったが、出世の妨げになるのを恐れて玉音との結婚をあきらめた。今では三児の父だが、玉音を妹のように思い、なにかとかばっている。

 店の隅にいるのは、五悪分子(地主、富農、反革命分子、右派、不良分子)の秦書田(チン・シューティエン、しんしょでん)だ。町一番のインテリだが、右派の烙印を押されている。自ら「ウスノロ」と名のる変り者で、町では人気がある。

 玉音と桂桂は身を粉にして働いたおかげで、店を新築する。しかし、幸福は長くは続かなかった。政治工作班長に昇格した李国香が、二人を資本主義的ブルジョアジーだと決めつけたのだ。身の危険を感じた玉音は、ようやくの思いで貯めた1500元を兄と頼る黎満庚に預けて遠い親戚の家に避難した。だが満庚は党の批判を恐れ、妻の五爪辣(ウー・チャオラー、ごそうらつ)にも説得されて金を政治工作班に届けてしまった。

 玉音が不安を感じて戻ってきた時、町の状況は一変していた。谷燕山と黎満庚はその地位を追われ、夫はすでに死んでいた。そして、玉音にも「新富農」の烙印が押された。

 1966年春、文革(プロレタリア文化大革命)の嵐が吹き荒れる。李国香まで紅衛兵に吊るし上げられ、今や党支部書記には王秋赦が成り上がって、町を牛耳る始末である。だが、やがて復権した李国香は県革命委員会常任委員にのし上がり、町に舞い戻ってきた。そうなると王秋赦はまたもや、ひたすら彼女に取り入るのだった。

 胡玉音と秦書田に課せられた罰の一つは、早朝、町の中央の石畳の道を掃除することだった。初めはかたくなだった玉音の心も、書田の優しさに次第にほぐれてゆき、2人は一緒に住み始めた。

 やがて玉音は妊娠した。書田は、党に結婚を認めてくれるよう嘆願するが、一蹴されてしまう。家の入口には葬式もどきの白い紙(対聯)が貼り出され、そこには「犬畜生の男女」「反革命の夫婦」と書かれていた。その夜、2人だけのひそかな結婚の宴に、突然、谷燕山が現れ、祝いの品を贈ってくれた。

 裁判所の判決が下った。秦書田には10年の刑、胡玉音は3年の刑だが、妊娠中のため監視つきの執行猶予となり、2人は引き離された。

 この極端な処罰を苦々しく思い、残された玉音をかばってくれるのは、谷燕山だけだった。陣痛で苦しむ玉音を病院に連れてゆき、出産の時には子供の仮親になってくれた。生まれた男の子は谷軍(クージュン、こくぐん)と名付けられた。

 1979年、文革が終結して3年が過ぎた。玉音の没収された家と1500元の金も返された。秦書田も名誉を回復されて帰ってきたが、その書類にサインしたのはさらに昇進した李国香だという。秦書田が胡玉音と再会を果たした傍らには、初めて父と会う谷軍がいた。

 胡玉音の米豆腐の店は、昔と同じように繁昌している。秦書田には以前と同じ県立文化会館館長のポストが用意されていたが、彼はきっばりと断り、芙蓉鎮で胡玉音とともに暮らすと宣言した。

 人ごみの中を、気の狂った王秋赦が、ボロをまとい、破れたドラを叩いて、『また政治運動が始まったぞ!』とわめきながら通りすぎていった。──

 さて、この映画の政治的立場如何であるが、それを考えるためには主要登場人物がどういう人物として描かれているかを見てみなければならない。

 監督によるとこの映画の主要登場人物は8名とされている(プログラムの10頁)が、黎桂桂は映画の初めの方で消され、かつ後に影響を与えていないので、私はそれを7名と見る。その内の6名について、登川直樹氏が原作(古筆の同名の長篇小説、1981年作)と比較の上でまとめてくれているので、それを引用する。

 ──映画は原作にほぼ忠実といっていいが、小説が書きこんだ人物やストーリーの細部を、かなり映画は削り落としている。それも映画に必要な単純化という以上に監督がとくに意図するものがあったことがわかる。

 まず胡玉音である。芙蓉小町と評判の、と小説も書いている通りの美人で働き者だが、宿屋を経営していた両親のうち母親の方は女郎だったという噂があったりするし、玉音自身読み書きを知らない女に育っている。映画はそういうネガティブな側面を一切排除した。美人で働き者のイメージを強調して悲運の主人公を美化するねらいからである。劉暁慶
(リウ・シャオチン、りゅうぎょうけい)がこれを演じたことでこの狙いは決定的となっ
た。

 秦書田はもと州立中学校の音楽と体育の教師だったが県の歌舞団に入って脚本家演出家となる。革命を讃える新歌曲を作ったのが逆に批判的だと判定されて五悪分子の反動右派のレッテルを貼られてしまった。この町唯一の学識者といってよく、「地上のことはすべてを知り、天国のことも半分は知っている」賢者と小説は力説するが、映画は率先して愚者を装う一面を強調し底ぬけの好人物に描いている。これも、玉音と結ばれて愛に生きる男の一種の美化である。

 一方、李国香は徹底した敵役に仕立ててある。町一番の賑わいをみせる米豆腐売りの玉音を妬み憎み、いびったり罪を着せたりして迫害する。小説はもっと辛らつで、頭もきれるし弁も立つのに妊娠や堕胎の事実がばれて出世が遅れた独身女と書いている。紅衛兵の裁きで彼女は雨中に立たされる。首に古靴を吊るされるのが不貞を働いた女の罰し方だとは中国では自明のことらしいが、原作では紅衛兵がその動かぬ証拠を握った説明がある。一度は失脚したかにみえる彼女がまた復帰して出世街道を歩むあたりも、映画は理由を語らずに結果を示すという描き方をする。李国香を芙蓉鎮の人たちが毛嫌いする理由は、再三男問題を起こすためでもなく、陰険に人をおとしめるためでもない。もっと重大な理由は、彼女がここで他所者だということである。映画はそれを台詞の所々で匂わせているが、小説ほど納得させる説明になってはいない。理由よりも結果でみせていくという映画のいき方がはっきりする。

 王秋赦は原作からもっとも忠実に移し変えられた人物といっていい。代々小作農だったために革命によってまっさきに優遇された。しかし政治運動のお先棒をかついでドラを叩くばかりで何もLない。土地は分けてもらったが農機具は一切なく、食うに困れば土地を切り売りし、またいつか土地改革があって土地を貰えればいいと思っている。農業視察から帰って得意満面で忠字舞を踊ってみせる無邪気さ、李国香が復職したときいて口惜しがり、それでもゴマをすりにいく人の好さ、祝士彬(チエー・シーピン、しゅくしひん)はもはや廃人同様となるラストまでこの男の愚直さを好演した。

 食糧管理事務所の谷燕山は愛すべき好漢として登場する。陰に陽に悲運の玉音をたすけるのだ。ひそかな結婚式にも酒を携えて祝いにやってくるし、彼女の出産をたすけて生まれた子の名付親にもなってやる。彼もまた他所者だが、革命の戦いに戦功をたてた北方大兵だから尊敬されている。戦争の傷を病院で検査される屈辱的な場面も映画は省略し、この男の人間的な魅力を強調する。停職になってからの彼は酒びたりになる。何もかも終ったと叫びながら夜半の道を行くこの男の苦々しい思いを映画は哀感をこめて描いている。

 黎満庚にも過去のいきさつがある。楊民高(ヤン・ミンカオ、ようみんこう)から姪の李国香をどう思うかときかれて全く生返事しかせず、それも胡玉音と恋人同士だという関係がばれて、党をとるか恋人をとるかと詰め寄られ、玉音をあきらめた男である。玉音との恋愛は回想場面でムード的に紹介されるが彼女を裏切ることになったいきさつは描かれなかった。その彼が玉音から預けられた大金を党に届けてしまい、2度までも彼女を裏切る、その人間的な弱さ卑怯さを映画は追及せずに終ってしまった。──(続く)

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