マキペディア(発行人・牧野紀之)

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直接的教師と間接的教師

2014年03月03日 | カ行
 教師はその在り方から見て直接的教師と間接的教師とに分けられるのではないか、という事は拙稿「『何をなすべきか』を読む」(『ヘーゲルからレーニンへ』に所収)の中に書いてあることが分かりました。「通りすがり」さんが指摘して下さいました。ありがとうございます。独立した小文として載せておきたいので、ここにその部分だけを転載します。

       直接的教師と間接的教師

牧野・レーニンはそういう階段を作らなかったという点で、直接的教師としては不合格ですね。
読者・何ですか、その直接的教師ってのは?
牧野・朝日新聞の「真の教育者とはと問われたら」というコラムの中で、山根銀二さんが「ベートーベン」と答えているのです。考えてみれば、たしかにベートーベンが人類の音楽的才能を伸ばすために果した功績は測り知れないものがあります。しかるに、生徒の才能を伸ばすのが教師の任務ですから、ベートーベンは偉大な音楽教師と言えるわけです。しかし、普通には名音楽教師としてベートーベンとは考えない。そこらのいわゆる教え方のうまい人を考えるわけです。
 そこで私が考えたのですが、教師にも二種類あって、いわゆる教師は直接的教師で、ベートーベンみたいにその分野で大きな業績をあげ、その方面の精神的財産を作り、環境を作ることで、後世の人に影響を与える教師を間接的教師と呼ぶことができるのではないかと思ったのです。

読者・それは面白い分類ですね。すると、マルクスも直接的教師としてはあまり優れていなかったことになりそうですね。
牧野・そうですね。第一に階段を作らなかったという点で、第二にその直弟子たちがみなおかしくなったという点で、マルクスの場合も冴えませんね。
読者・しかし、これは「知っていることと教えることとは別」ということでしたけれど、絶対理念に立った人なら教え方も知っているはずですから、直接的教師としても優れていなければならないはずではないでしょうか。
牧野・すると、マルクスもレーニンも絶対理念の立場に立っていなかったということになってしまいますね。困りましたな。

読者・この場合は理論的に不十分というより、事実不十分だったわけで、牧野さんのレーニン弁護も成り立たないようですね。
牧野・いや、実際困りました。当時の困難な事情で逃げることもできません。私も、マルクスがロンドンで研究しながら、自分の後継者を系統的に養成するサークルなり私塾なりを作らなかったのはなぜか、不思議に思っているのです。
読者・その点、毛沢東は初め小学校の教師をしていたことがずいぶん役立っているようですね。
牧野・そうですね。毛沢東というのは本当に教師ですね。いわゆる革命家でも、レーニンや金日成みたいに、自分で何から何までやってしまうタイプと、毛沢東みたいに、他人にやらせて、それをじっくり見ているタイプと、二つありますね。
読者・マルクスの場合は研究者という性格も非常に強かったようですね。

牧野・いずれにしても、偉い人の直弟子から又偉い人が出てくるというのは、むしろ少ないくらいですね。間接的教師と直接的教師とは一致しにくいようですね。ですから、逆に言うと、世の中には或る偉い人の弟子であることを鼻にかけている人がいますが、そういう迷信に対しては「直弟子必ずしも真の弟子ならず」という言葉を確立しておく必要がありますね。

読者・そういう人たちは、偉い人に習ったこと自体で自分が偉くなったと思い込んじゃうんですね。
牧野・日本の学者なんか、欧米の人の説を受け売りして、日本国内で威張ればよいという人が多すぎますね。先生も生徒も偉いなんてのは、プラトンとアリストテレスの関係が珍しい例ではありませんか。(以上、『ヘーゲルからレーニンへ』117~119頁)

        感想

 その後判明した事実もありますし、私の評価の変化もありますから、ここに名を挙げた人々について今でも同じように評価している訳ではありません。

 しかし、自分のかつての考えを書き換えるのは拙いと思います。そういう事をするならば、新しい文章を書くべきでしょう。

 ともかく、「教師の在り方を直接的教師と間接的教師に分けて考える」点では、今でも変わっていませんので、このまま掲載します。


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