鶏鳴学園大学の哲学演習で、哲学は個別科学に方法を与えるものなのかということが問題になった。その時、それを主張した一例として武谷三男氏の論文「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」(1964年)を取上げた。この中で氏がルイセンコの遺伝学と獲得形質の遺伝を高く評価していることを知り、中村禎里氏の『ルイセンコ論争』(みすず書房、1967年)を読んでみた。そして、それによって、先の武谷論文には山田坂仁氏の批判があり、それが「哲学の有効性論争」と呼ばれていることを知った。幸い都立中央図書館に山田氏の論文集『思想と実践』(北隆館、1948年)があるのを知り、取り寄せて読んでみた。
たしかに哲学を科学方法論として、科学研究にただちに役立つ物差しを与えてくれというような武谷氏の哲学観は正しくない。それにくらべれば、山田氏のように、「哲学は個別科学の知識を概括し、全体としての世界の相互連関や発展法則に関して統一的な表象を提供しようとする」(前掲書120頁)という考えの方が上である。どちらの論文も非論理的で大したことはないが、あえて是非を論ずれば、哲学観では山田氏の方が正しいと思う。この意味で、この論争では「直接的には」山田氏が勝ったと言える。
しかし、それにも拘らず、武谷氏の名声は山田氏のそれより高く、現に、武谷氏の前掲論文は現在購入できるのに、山田氏の本は図書館にしかない。これはどういうことだろうか。
武谷氏は哲学が有効な方法を与えてくれないと文句を言ったが、それを理由にして何もしなかったのではなく、自分でその方法を発見して物理学の進歩に貢献した。素粒子論の集団研究のみならず他の分野の科学者をも集めた集団研究も組織して、科学の発展に寄与した。それだけではなく、その専門の知識を武器にして大衆運動、特に原水爆禁止運動や原発反対運動に協力した。それに比べると山田氏は自己の哲学観を実行して何らかの分野でポジティヴな成果を挙げるということがなかった。その意味で、長い歴史の観点からは武谷氏の方が山田氏に勝ったと言える。
真理をめぐる争いにはこのように直接的勝敗と歴史的勝敗があるようである。この2つがくい違うこともあれば一致することもあるだろう。直接的勝負は言葉の表面上の意味で決着がつく。歴史的勝負は歴史の提起している問題にどういう立場からどれだけ深く取り組んだかで決まる。(1986年1月15日)