2013年8月20日、 読売新聞が「日本語を海外に普及させよう」という主旨の社説を発表しました。まず、それを引きます。
──日本語を海外に普及させ、国際社会での日本の存在感を高めたい。
外務省の有識者懇談会が、こんな報告書をまとめた。政府は、日本語普及策として予算化を検討する。報告書が求めるのは、海外の若者が容易に日本語を学べるよう環境整備を図ることだ。
漫画、アニメ、ファッションなど「クール・ジャパン」が世界の若者の心をとらえている。こうした状況を積極的に生かそうという狙いは、的を射ている。具体策として、インターネット上に初学者向けの講座を開設することなどを挙げている。情報技術(IT)の活用は欠かせない。日本語海外普及の中核的組織である国際交流基金が現地での教師養成を目的として行っている専門家長期派遣事業を、拡充することなども提案している。
こうした政策によって、日本語を学ぶ外国人が増えれば、日本への理解は深まり、知日派、親日派の層も厚くなろう。海外進出が増加している日本企業が、現地で日本語を話せるスタッフを確保する面でも役立つに違いない。
外務省が、日本語普及策を検討する背景には、海外での日本語熱が冷めてきたことがある。日本語を学ぶ外国人は、この30年余りで約30倍に増え398万人に達したものの、近年、学習者の伸び率は鈍化している。インドネシアなど東南アジア諸国ではなお増加傾向にあるが、韓国、英国、カナダなどでは減少している。
海外の日本語学習者の半数は、中学・高校で英語に次ぐ第2外国語として日本語を選択している生徒たちだ。最近、中国語にシフトするケースが急増している。経済成長の著しい中国の魅力が高まっているのは、確かだろう。だが、それだけではない。中国は、孔子学院など、政府系機関を世界各地に配置し、中国語教育や教材提供、教員育成に力を入れている。特に初等教育では、海外の学校関係者を本国に積極的かつ大規模に招いている。米国でも中国語に押されて、一部の大学や小中高校で日本語講座閉鎖の動きがある。
報告書は、海外での日本語教育機関が教師を十分確保できていないことが「日本語普及推進の大きな足かせ」だと強調した。日本への留学や日本企業への就職など、日本語学習のメリットを提供できていないとも指摘している。
政府は今回の提言を踏まえ、日本語普及への戦略を抜本的に立て直してもらいたい。(引用終わり)
考えた事を書きます。
この社説の主要点は次の3点でしょう。①日本語を海外に普及させ、国際社会での日本の存在感を高めたい。②海外での日本語熱が冷めてきた。中国語に乗り換える傾向がある。③国としての支援策を。
①の認識にはもちろん賛成です。②はこれを考えるための事実確認です。そして、③が結論です。しかるに、③の結論は安易に過ぎると思います。②の「関連事実の調査、検討」が不十分だと思います。これはここに述べられている限りはその通りでしょう。しかし、この問題はもう少し、詳しく検討する必要があると思います。
このままだと、外国、特に中国のやり方を学んで「金を出して支援せよ」という結論しか出てきません。実際、そういう主張をしているのだと思います。
私は、他国より優れたやり方で日本語の普及をするべきだと思います。そのためには、外国人への日本語の普及ではなく、日本人を含めたすべての日本語学習者における問題を考えるべきだと思います。私見によれば、それは、「包括的で体系的にまとめられた日本語文法書がないこと」と「本当の日本語辞典がないこと」、です。
第1点は、換言するならば、お粗末な橋本文法が生き残っているということです。現代日本語文法は中学校の国語の時間に教えられる事になっているようですが、それは、内容的には、「橋本文法」と呼ばれるものです。これは非常に評判の悪いもので、学界では別の文法がいくつも提案されているようです。しかし、学習指導要領では採用されていません。なぜでしょうか。代案と言うには、日本語文法の全体を覆っていないからだと思います。
確かに、時枝文法や三上文法には支持者も沢山いるようですが、時枝にも三上にも「包括的で体系的にまとめられた日本語文法書」と言えるものはありません。それに対して、橋本文法は「とにもかくにも」全体(と思っているもの)をカバーし、「体系的」と言えるにはほど遠いものですが、「ともかく」まとめています。
外国人に日本語を教えている教師たちの間では三上文法の人気が高いそうです。しかし、三上文法を「包括的体系」に纏めようとする試みはまだないようです。私はかつて三上文法の後継者である金谷武洋にメールを送り、「出来たら文通したい」と申し出て、OKをもらいましたが、この件について「金谷さんこそが適任だ」ということを述べたら、返事が来なくなりました。
初めから「完全無欠な文法書を」などと不可能な事を求めているわけではありません。学問というのは、常に、「その時点で分かっていること全部をまとめつつ」進まなければならないのです。こういう根本が理解されておらず、追求されていない事が問題なのです。一番好い例を出します。メンデレーエフの周期律表です。あれは「欠陥」だらけでした。しかし、「当時分かっていた元素を、皆、集めて一覧表にまとめた」からこそ、法則があるらしいと分かり、欠けている箇所の元素の「推測」が出来、その結果、新元素の発見が促進されたのです。学問というのはこういう物です。これ以外は、「単なる知識」でしかありません。
「本当の日本語文法」と主張されるものはいくつ出てきても好いと思います。歴史の審判が「どれが本物か」を決めるでしょう。国や文部科学省は出しゃばるべきではありません。読売新聞社が旗を振ったらどうでしょうか。
「本当の日本語辞典」についても同じです。これはアイウエオ順に並べればよいのですから、「体系化の仕方」についての問題はありません。しかし、個々の語についてどういう事をどういう風に記述すればよいのかは大問題です。しかし、この点は既に別の機会に私見を発表しましたから、それを読んでください。リンクを貼っておきます。
最後に、大新聞社の論説委員がこういう観点を持っていないことが嘆かわしいです。中国のやり方をまねたりする以外の考えを持っていないとは、日本語の現状をまともに観察していない証拠だと思います。本当の問題はここにあるのかもしれません。
関連サイト
真日本語辞典を