植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

「自彊不息」 努力は性に合わないが 

2021年10月09日 | 篆刻
先日見かけた言葉が「自彊不息」という4文字熟語でした。
浅学の身で、不覚ながらこれをさらりと読めず、意味も分かりませんでした。で、調べてみると「易経」にある言葉で、自(みずか)ら彊(つと)めて息(や)まず 。「じきょうふそく」と読むのだそうです。努力して手を抜かない、励んで一生懸命になっていることを表す 言葉でした。「自給自足」ならば家庭菜園でまねごとはしておりますが(笑)

 自分の来し方で、努力をしたことがあっただろうか、と省みると、小学生まで遡ってみてもほとんど記憶に残っておりません。習字教室通いは半年持たず、鉄棒の逆上がりが出来なくて放課後一人で練習した程度でした。中学校ではクラブ活動で野球やテニスをやりましたが、これもお遊び程度で到底強くなるための努力などしませんでした。

 高校2,3年生になって初めて、人並みに受験勉強に励み、少なくとも浪人しない程度に努力をしたのみです。大学に入ってからというもの、バイトと麻雀に明け暮れ、何の勉強もせず、ぎりぎりインチキ臭い手を使って単位を取りました。あの頃はなにかと学生に寛容で、自分の代わりに課題を書いてくれた友人にも恵まれていたのです。

 そしてまた、就活も最低レベルの活動でなんとか銀行に採用してもらいましたが、学生気分のまま数年間は給料泥棒状態でした。若い頃は、営業・渉外の仕事を長らくやりましたが、外回りは監視もなく単独行動なのでこれもさぼり放題、ノルマも未達、今思えば恥じ入るのみであります。

 自分が怠惰で、会社に対する忠誠心も無ければ自分自身の将来や出世、目標なども無いくだらない人間であったことに気づいたのはもう40代半ばでした。それで、曲がったことは嫌い(笑)、悪いことはせず、とりあえず最低給料分は働かねばといくらか態度を改めることにはなりましたが、そこでも特段努力をしたとまでは言えませんでした。

 つまり生活の糧を得るため、大過なく、なんとなく定年まで惰性で勤めたに過ぎない、と思うのです。ところが、自由気ままな生活で、趣味の生活になったら不思議なことに、なにかに没頭し努力し、休むことを惜しむという心境にたどり着いたのです。老境を迎えていささか遅いとはいえ、書道を一から学び、今は篆刻家になりたいとの一念で、毎日石にかじりつく、という生活が続いております。やっと「努力する」と言うあたり前のことが実践できるようになったわけです。

 そこで気づくことは、その先に楽しいことが待っているから努力するのだろうということです。何も先が見えず、報われないなら努力は苦痛となりましょう。生きるため、あるいは家族の為、健康の為、嫌々ながら継続して何かを強いられるとしたらなかなか継続するのは大変であります。苦楽は背中合わせなのです。

 ワタシは、楽しいから努力も苦ではない、ということなりましょうか。すると、これは努力ではなく、単に篆刻という趣味の中で、悦楽の時間を過ごしているに過ぎないということかも。

 努力を怠るべからず、自戒の気持ちを込めて彫りました。このところ4か月続けている摸刻はちょっと置いといて、友人の為に数本彫っておりました。摸刻は態と小さな石を使い、繊細で、プロが彫るような出来栄えになるように細かな作業、極細の文字を刻むので骨が折れるのです。たまにはちょっと楽して少し大きな石に、のびのびと彫ろうというわけです。

右の二つは長野に暮らす旧友池田氏の為に彫りました。酒好きな彼に「酔仙翁」と「池田之印」です。

うーーむ、やはり努力家というのはワタシの性分には合わないようです。
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