すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【戦術分析】「森保ジャパン」とは何だったのか?

2021-10-09 06:49:33 | サッカー戦術論
三銃士が繰り広げたストーミングの宴

 少し早いが、森保ジャパンを総括しておこう。

 多少アバウトでもタッチ数の少ない「縦に速い攻め」をし、もし前線でボールを失ったら足を止めずにその場でカウンタープレスをするーー。

 中島翔哉と堂安律、南野拓実という若い「三銃士」が一時代を築いた森保ジャパンのサッカーをひとことで言い表せば、そんな「ストーミング」と呼ばれるスタイルになる。

 つまり森保監督が何も指示をしなくても、高い位置でこの3人プラス、大迫の4人が意思疎通の取れたストーミングを勝手に繰り返すのだ。ゆえに森保監督は選手の自主性まかせで済む。

 これが森保ジャパンの「正体」である。

ストーミングにハマった選手の自主性まかせ

 で、このトリオの組み合わせが崩壊して以降は、カラッポの燃えカスのように一部だけ別のメンバーでそのスタイルを部分的に再現できるときもあれば、できないときもある。

 だから森保ジャパンは「勝ったり、負けたり」する。

 森保ジャパンをひとことで総括すれば、そういうことだ。

 つまり「森保ジャパン」という幻影は、三銃士による意思統一の取れたストーミングと、森保監督による「選手の自主性まかせ」という2つの要素がたまたま軌を一にして実現したため現れた幻にすぎない。

 この絶妙なマッチングが消えたいま、この監督に指揮をまかせる意味はハッキリ言ってない。ゼロだ。

 もしやるとすれば森保監督のまま当時のストーミングのスタイルを選手みんなで今から分析し、それを雛形にしてゲームモデルとプレー原則をあらためて決めて別の選手がプレーする。

 そんなところだろうか。

サッカー利権を享受したい協会会長

 しかし同じ監督のまま、そんなことをやって果たしてどれだけ意味があるのか?

 森保監督の監督としてのコンセプトが「選手の自主性まかせ」「自然なアドリブでゲームを作る」である以上、人工的にそんなことをしてもあまり意味があるとは思えない。

 なぜなら森保監督の意図から言えば、たまたまそうなるのでなければ意味がないのだから。

 ゆえに結論をいえば、このチームはすでに賞味期限を過ぎたのだ、ということになる。

 もし今後、森保監督のままでも、これからも勝ったり負けたりするだろう。だが、それは結局たまたまだ。

 その「たまたま」に意味があると思えばそうすればいいし、でなければ解散すればいい。

 もちろんこの居心地のいい体制のまま、電通を駆使したサッカー利権を享受したい日本サッカー協会の田嶋幸三会長としては、監督が「物わかりのいい日本人」の森保氏である意味は十二分にあるのだろうが。

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