「インターネットはあなた(情報の受け手)まかせよ」
前回はそんな前フリをした。いまや情報化社会なんて言葉が3回くらい死語になり、ゾンビになってそのたんびに生き返っちゃうほど情報があふれてるわけだけど(どないやねん)、情報の受け手の側はそれらを自分の目で仕分けし、正しく取捨選択する心のファイアウォールをもってなきゃなんない。これって特にネットの世界では切実な問題だ。メディアリテラシーである。
じゃあ本題に入る前に、まず前提になる情報の確からしさから考えてみよう。たとえば紙のメディアならばどうか? 「そこに存在する書き物」は当然しかるべきプロの手を経ており、一定レベル以上に信頼できるものである、てな共通認識がある。もちろん書き手のレベルや意識にもよるけど、一応はそういう社会的な暗黙の合意が存在する。
活字になって世の中に出るまでには、何段階ものチェックがある。もちろん書いた本人だって(まともな書き手なら)キッチリ裏を取り、確認の上に確認を重ねている。だから「ある程度」は信用していいだろう、という不問律がある。
私がココで言ってる「信頼」とか「信用」って意味は、情報操作があるかどうかや、バイアスの強さなんかとはまったく別の話だってことをまずお断りしておく。最低限、その情報が「事実としてまちがってない」ということだ。それさえ担保されてれば、あとは偏向度なんてそれこそ自分の目で見て斟酌しながら読める。説明するのもアホらしいほど当たり前の話だ。
ところがかたやネット上には、「私がここに書いてる内容は一切保証しませーん」って明記してあるWebページがいくらでもある(まるでどっかの巨大OSベンダーみたいな言説なわけだが)。
ここでいう「保証しない」の意味は、大ざっぱに分けると2つあるだろう。1つは、ネット上じゃこの情報をいったいだれがどんな使い方をするかわかったもんじゃない。だから何が起こるかに関しては、私はいちいちすべてを保証できまへん。みなさん自己責任でやってね、って話。
もう1つは、私は自分が書いた情報の裏を取ってるわけでもないし、確認もしていない。私が書いたことはテキトーだから保証しません。こういうことでしょう。ネットはだれもが情報発信できるぶん、そんなクラスの人までがさかんに電波を飛ばしてるわけだ。
で、いま私がさりげなく放った釣りに対し、ほりえもん流ポピュリズムな言い回しで対抗するとこうなる。いやそんなことはない。だれもが情報発信できるのはいいことじゃないか。一部の巨大メディアに社会的な帯域を独占させるな。情報を我らの手に。
いやあ、耳障りさわやかです。事実、そんな言説が大向こうウケしてるわけだ。まあこのこと自体はもちろんいい。だけどそれをやる以上、ある覚悟がいる。意図も内容の精度も問わず、だれでも情報発信できるんだから、当然ながらネット上は「客観的事実」のほかにも「まあ罪のない話半分のウワサ話」や「未確認情報」、あるいは任意の作意をもつ「真っ赤なウソ」やら「策謀」やらが、いっしょくたにうずまく世界になる。
とすれば情報の受け手の側が、自分のものさしで当否をチェックできなきゃお話になんない。発信もすれば、受信するときにはきっちりフィルターも働かせる。これらがワンセットになってる必要がある。
話をもどすと、かたや紙の世界の常識では、少なくとも後者の言説「私が書いたことはテキトーだから保証しません」ってのはありえない。紙の媒体になって世の中に出てる時点で、すでに情報の確度はセレクトされてる。いわば、情報の出口と入り口に関するアウトソーシングが行なわれてる。
出口、すなわち発信するほうは「私に代わって情報発信してね」っていうアウトソーシングだ。一方、情報の入り口に関しては、「私はいちいち現場に行って確認できないから、あなたが代わりに見てきてよ」てな意味の外注がプロに対してされている。
一方、ほりえもんさん的ネットワールドでは、入り口も出口も自前でやろうと。ブロに代わって「私」が発信するし、情報を取り入れるときにも「自分の目」で見て判断します。建前ではこうなってる。でも現状、発信するほうはカンタンだからみんなやってるけど、メディアリテラシーを働かせて情報を取り入れるなんてだれがやってるの?
話が飛ぶけど、たとえばトルシエ氏がサッカー日本代表の監督だったころ、彼はメディアと対立してた。メディアがネガティブなことを書くもんだから、トルシエを支持する人たちはメディアリテラシーが大事だ、みたいなことをさかんに言う。偏向報道だ、ってわけである。
で、彼らが買っていたのは、元川さんていう女性ライターさんの記事だった。この人は選手のコメントをこまめに取ってくる。つまり「選手のコメント=メディアのフィルタがかかってない一次情報」である、だから信頼できる、っていう理屈だ。
ところが彼らがわかってないのは、彼女が取ってくる選手のコメントってのは、あくまで元川さんていうフィルタを通したコメントなんだってことだ。
選手に何を質問するのか? お題の選び方から始まって、取れたコメントの取捨選択、表現のしかたに至るまで、すべてに彼女のバイアス(視点)がかかってる。もちろんコメント原稿そのものだって、一言一句、選手が言ったとおりに書いてるわけじゃない。結局、一次情報といっても「見る目」はやっぱり元川さんに外注せざるをえないのだ。
ほりえもんさんの言説があやういなあと思うのは、これと似たような構造になっちゃってるところだ。一部報道によれば、彼は巨大メディアによる「調査報道は必要ない」っていう。ネットを使って一次情報だけを大量に集めて流し、あとは読者が判断すればいいじゃないか、みたいな話になってる。そりゃ一見、正論なんだけど、大きな疑問が2つある。
まず彼が言ってる「一次情報」なるものは、いったい何なのか? たとえばネット上にあふれてる「ここに書かれてることは一切保証できません」みたいなウワサ話レベルの情報なの?
それともパブリック・ジャーナリストたらいう人たちが取ってくるネタのことなのか? 8000円払って1日だけ研修受けた人がひろってくる一次情報をもとに、受け手の側が正否を判断するってわけ?
どっちにしろ、正確な情報を取る技術や経験を備えたプロとくらべて、「確からしさ」では格段に劣る。(ただし擦り切れたプロよりも、ネタのおもしろさを目利きするセンスは上かもしれない。これって確かに大きいことだ)
さて次は2番目の疑問である。おととい、田原総一郎氏がやってるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」で、ほりえもんさんがこんなことをいってた。
「優秀なフリーランスの人はたくさんいるんだから、巨大メディアじゃなく彼らと契約を結べばいい」
なるほどこれなら確からしさは保証されるだろう。しかもこのテの発言は一種の仕掛けにもなっている。「フリーランスを使うのか? なるほど既成の社会システムを壊そうとしてるんだなあ」、「さすがはネクタイしてないだけのことはある」、「反権威主義的でいいじゃないか」。そう思わせる装置として機能する。
でもさ、バランス感覚のある人から見たら、「この人、どこまで本気で言ってるの?」って疑問も同時に湧くわけで。「こう言っときゃ、一般ウケするだろう」みたいなうさんくささが漂ってるんだよねえ、この人の場合。だって顔に出てるもん(おい)。
それはともかく。
第3の方法ならば情報の正確性は確保できる。でも依然としてもうひとつの問題は残る。一次情報をもとに自分で判断する土壌なんて日本にないんだから、まじめな話、こっちはどうするのよ? いや、それをオレがこれから作るんだ、ってんならそりゃエライね、としかいいようがないけれど(でもそういう話ですよね?)。
ほりえもんさんがいってることって半分は正しい。けど半分はあやしい。彼が空想してるどこにも偏向してない完全中立なメディアなんて(素人さんなら考えそうだが実は)フィクションだ。だからこそ自分の目で見てジャッジする能力=メディアリテラシーが重要なの。いくらメディアが偏向してようが、仕分けする目があれば自分の頭で考えて、その報道の中から客観的な事実らしきものだけを取り出せばいいんだから。
適切な例えかどうかわからないけど、たとえば「赤旗」を購読して紙面から動かしがたい事実だけを抽出し、それをニュースとして読みながらも政治的な主義主張をもたずに暮らす、ってアクロバットは原理としてはできる(筆者注●やるやつはいない)。要は対象がなんであれ、自分のものを見る目が確かならノー・プロブレムじゃん、ってことだ。
だったらメディアリテラシー身につけるには、どうすりゃいいのよ?
まず情報の受け手が認識すべきなのは、すべての情報には意図があるってことだ。記事に見出しをつけた時点でそれはもう意図だし、そもそも記事の「切り口」なるものがすでに狙いの固まりだ。テーマを設定するんだって、何がしかの意図にもとづかなきゃできない。
すると流れこんでくる大量の情報に対して、「これにはいったいどんな意図があるんだろう?」と、まず一歩引いて客観的に疑ってみることがスタート地点になる。その上で事実関係を確認して行く。
でも前者はものの見方の問題だからともかく、事実関係を自分で独自に確認するのって大変な作業なんだよ。わかりやすい例でいえば、日本に入ってくるイラクのテロ報道ってのは、基本的にはアメリカ的価値観のフィルタを通ってる。いまでこそブッシュ――ラムズフェルドのラインはありゃ、あやしいぞ、あぶないぞ、って認識が広まってだいぶマシになったけど、湾岸戦争のころなんてもうかなり一方的だった。
で、それじゃ真実を見極められない、と考える。そして現場(イラク)に自分の足で入ったとしよう。テロの現場を見て、「オレはこの目で事実を客観的に確認したぞ」。でもいったいこれは正解なのか?
テロだってそれ自体が一種の情報=政治的メッセージなわけで、もちろん意図がある。
じゃあ彼らはなぜテロリズムに走るのか? 今度はそれを知る必要が出てくる。すると現地でいっしょに生活しなきゃわかんないことだってあるだろう。あるいはメソポタミア文明まで遡るかどうかは趣味の問題かもしれないけど、相当に歴史を調べて検証しなきゃなんない。
これ、一般の人にできるんですか? 突き詰めるとこういう話になっちゃう。できないから一般の人はそこをメディアに外注してるわけだ。情報の確からしさはプロに担保してもらい、(現場へ確認に行くとかじゃなく)日常生活のできる範囲でメディアリテラシーを働かせればいいと。
結論として、「情報の出口と入り口両方とも自分でやります」なんてのは妄想的ユートピアなんですね、やっぱどっかで外注が必要なのね、ってことになる。
まあ極論はこれくらいにして現実を見よう。身近な例をひとつあげると、いま仕事である出来事について書いている。何かっていうと、ちょうど1年くらい前にQ&A掲示板で、「今週妻が浮気します」って質問が出た。投稿した夫は「どうすればいいんでしょう?」と聞いている。
これをめぐって夫婦とは何か? 恋愛ってなんだ? みたいなマジメなやり取りがネット上で繰り広げられた。今年の1月には、掲示板での質疑応答がそのまんま本にもなってる。それがきっかけで議論はリアルの世界にも飛び火し、いま現在も夫婦ってなあに? がさかんにやり取りされている。
んで、まあその中で議論されてる中身のほうはいい。だけどこの出来事自体を客観的に見ると、いくらでもおかしなところが出てくる。判断材料は掲示板に残ってるログしかない。でもログを細かく検証していくと、もうあやしさ満点なわけだ。
ところがブログを検索すると、疑問をもってない人がえらく多い。夫の行動や夫婦の結末を見て、「感動した」「泣いた」って人がたくさんいる。おかしいなあ。もっと流れてくる情報(夫の書き込み)の意図を読んで、まずは分析的に見たらどうなのかなあ、と思ってしまう。
夫婦には、本人同士にしかわかんないことがたくさんある。でも掲示板で質問したりレスしてんのは夫のほうだけだ。妻の視点がごっそり抜け落ちてる。
浮気してる妻についても語られてるけど、観衆(閲覧者=情報の受け手)の側は、夫という触媒を通して「妻の残像」を見てるだけにすぎない。これじゃあ、客観的な状況判断なんてできっこないやん。一方的に夫の立場からの説明(すなわち言い分)を聞かされ続けてるだけなんだから。
なのにみんな夫の語りに、すっかりハマっちゃってる。
もちろん夫に鋭いツッコミ入れてる人も中にはいるし、特に既婚女性だと彼に否定的な人も多い。こんなふうに意見が割れるのってとても健全だ。
これ見て泣いちゃった人は純粋なんだと思うけど、ためしに別の角度から見てみるとどうだろう? 「なるほど夫はこう言ってる。けど、妻の側に立てばどうなんだろう?」ってイメージを広げる。「夫の主張=自分」の視点でひたすら一元的に世界を見るんじゃなくて、もっと複眼的な思考をしてみる。
たとえば夫はすべての言い訳が「仕事」になってるんだけど、それって聖域にしちゃっていいのか? 家庭という複雑系システムを運営する家庭人としてアリなのか? この人みたいに仕事でしか自己実現できない生き方ってどうなんだろう? とかね。
読んで泣いた人って夫の価値観を無意識のうちに肯定してるわけだから、夫が作ったこれらの前提がデフォルトでOKになっちゃってるわけでしょ? 自分の中で。それをひとつづつ疑ってみるとかさ。
そうやって自分の中でチェック機構を回していく。するとポートを開けっ放しで、何かの思想や宗教にアタマから思い切り突入しちゃうなんてこともなくなる。「セルフ・リテラシー」を働かせるわけだ。そもそもこういう思考法ができなきゃ、メディアリテラシーなんて夢のまた夢じゃないか?
結局、メディアリテラシーってまだまだ絵に描いたモチだよなあ、とため息しか出ないのが現状なんだけど……なんかほりえもんさんが育ててくれるっていうから期待して待ってます私♪
前回はそんな前フリをした。いまや情報化社会なんて言葉が3回くらい死語になり、ゾンビになってそのたんびに生き返っちゃうほど情報があふれてるわけだけど(どないやねん)、情報の受け手の側はそれらを自分の目で仕分けし、正しく取捨選択する心のファイアウォールをもってなきゃなんない。これって特にネットの世界では切実な問題だ。メディアリテラシーである。
じゃあ本題に入る前に、まず前提になる情報の確からしさから考えてみよう。たとえば紙のメディアならばどうか? 「そこに存在する書き物」は当然しかるべきプロの手を経ており、一定レベル以上に信頼できるものである、てな共通認識がある。もちろん書き手のレベルや意識にもよるけど、一応はそういう社会的な暗黙の合意が存在する。
活字になって世の中に出るまでには、何段階ものチェックがある。もちろん書いた本人だって(まともな書き手なら)キッチリ裏を取り、確認の上に確認を重ねている。だから「ある程度」は信用していいだろう、という不問律がある。
私がココで言ってる「信頼」とか「信用」って意味は、情報操作があるかどうかや、バイアスの強さなんかとはまったく別の話だってことをまずお断りしておく。最低限、その情報が「事実としてまちがってない」ということだ。それさえ担保されてれば、あとは偏向度なんてそれこそ自分の目で見て斟酌しながら読める。説明するのもアホらしいほど当たり前の話だ。
ところがかたやネット上には、「私がここに書いてる内容は一切保証しませーん」って明記してあるWebページがいくらでもある(まるでどっかの巨大OSベンダーみたいな言説なわけだが)。
ここでいう「保証しない」の意味は、大ざっぱに分けると2つあるだろう。1つは、ネット上じゃこの情報をいったいだれがどんな使い方をするかわかったもんじゃない。だから何が起こるかに関しては、私はいちいちすべてを保証できまへん。みなさん自己責任でやってね、って話。
もう1つは、私は自分が書いた情報の裏を取ってるわけでもないし、確認もしていない。私が書いたことはテキトーだから保証しません。こういうことでしょう。ネットはだれもが情報発信できるぶん、そんなクラスの人までがさかんに電波を飛ばしてるわけだ。
で、いま私がさりげなく放った釣りに対し、ほりえもん流ポピュリズムな言い回しで対抗するとこうなる。いやそんなことはない。だれもが情報発信できるのはいいことじゃないか。一部の巨大メディアに社会的な帯域を独占させるな。情報を我らの手に。
いやあ、耳障りさわやかです。事実、そんな言説が大向こうウケしてるわけだ。まあこのこと自体はもちろんいい。だけどそれをやる以上、ある覚悟がいる。意図も内容の精度も問わず、だれでも情報発信できるんだから、当然ながらネット上は「客観的事実」のほかにも「まあ罪のない話半分のウワサ話」や「未確認情報」、あるいは任意の作意をもつ「真っ赤なウソ」やら「策謀」やらが、いっしょくたにうずまく世界になる。
とすれば情報の受け手の側が、自分のものさしで当否をチェックできなきゃお話になんない。発信もすれば、受信するときにはきっちりフィルターも働かせる。これらがワンセットになってる必要がある。
話をもどすと、かたや紙の世界の常識では、少なくとも後者の言説「私が書いたことはテキトーだから保証しません」ってのはありえない。紙の媒体になって世の中に出てる時点で、すでに情報の確度はセレクトされてる。いわば、情報の出口と入り口に関するアウトソーシングが行なわれてる。
出口、すなわち発信するほうは「私に代わって情報発信してね」っていうアウトソーシングだ。一方、情報の入り口に関しては、「私はいちいち現場に行って確認できないから、あなたが代わりに見てきてよ」てな意味の外注がプロに対してされている。
一方、ほりえもんさん的ネットワールドでは、入り口も出口も自前でやろうと。ブロに代わって「私」が発信するし、情報を取り入れるときにも「自分の目」で見て判断します。建前ではこうなってる。でも現状、発信するほうはカンタンだからみんなやってるけど、メディアリテラシーを働かせて情報を取り入れるなんてだれがやってるの?
話が飛ぶけど、たとえばトルシエ氏がサッカー日本代表の監督だったころ、彼はメディアと対立してた。メディアがネガティブなことを書くもんだから、トルシエを支持する人たちはメディアリテラシーが大事だ、みたいなことをさかんに言う。偏向報道だ、ってわけである。
で、彼らが買っていたのは、元川さんていう女性ライターさんの記事だった。この人は選手のコメントをこまめに取ってくる。つまり「選手のコメント=メディアのフィルタがかかってない一次情報」である、だから信頼できる、っていう理屈だ。
ところが彼らがわかってないのは、彼女が取ってくる選手のコメントってのは、あくまで元川さんていうフィルタを通したコメントなんだってことだ。
選手に何を質問するのか? お題の選び方から始まって、取れたコメントの取捨選択、表現のしかたに至るまで、すべてに彼女のバイアス(視点)がかかってる。もちろんコメント原稿そのものだって、一言一句、選手が言ったとおりに書いてるわけじゃない。結局、一次情報といっても「見る目」はやっぱり元川さんに外注せざるをえないのだ。
ほりえもんさんの言説があやういなあと思うのは、これと似たような構造になっちゃってるところだ。一部報道によれば、彼は巨大メディアによる「調査報道は必要ない」っていう。ネットを使って一次情報だけを大量に集めて流し、あとは読者が判断すればいいじゃないか、みたいな話になってる。そりゃ一見、正論なんだけど、大きな疑問が2つある。
まず彼が言ってる「一次情報」なるものは、いったい何なのか? たとえばネット上にあふれてる「ここに書かれてることは一切保証できません」みたいなウワサ話レベルの情報なの?
それともパブリック・ジャーナリストたらいう人たちが取ってくるネタのことなのか? 8000円払って1日だけ研修受けた人がひろってくる一次情報をもとに、受け手の側が正否を判断するってわけ?
どっちにしろ、正確な情報を取る技術や経験を備えたプロとくらべて、「確からしさ」では格段に劣る。(ただし擦り切れたプロよりも、ネタのおもしろさを目利きするセンスは上かもしれない。これって確かに大きいことだ)
さて次は2番目の疑問である。おととい、田原総一郎氏がやってるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」で、ほりえもんさんがこんなことをいってた。
「優秀なフリーランスの人はたくさんいるんだから、巨大メディアじゃなく彼らと契約を結べばいい」
なるほどこれなら確からしさは保証されるだろう。しかもこのテの発言は一種の仕掛けにもなっている。「フリーランスを使うのか? なるほど既成の社会システムを壊そうとしてるんだなあ」、「さすがはネクタイしてないだけのことはある」、「反権威主義的でいいじゃないか」。そう思わせる装置として機能する。
でもさ、バランス感覚のある人から見たら、「この人、どこまで本気で言ってるの?」って疑問も同時に湧くわけで。「こう言っときゃ、一般ウケするだろう」みたいなうさんくささが漂ってるんだよねえ、この人の場合。だって顔に出てるもん(おい)。
それはともかく。
第3の方法ならば情報の正確性は確保できる。でも依然としてもうひとつの問題は残る。一次情報をもとに自分で判断する土壌なんて日本にないんだから、まじめな話、こっちはどうするのよ? いや、それをオレがこれから作るんだ、ってんならそりゃエライね、としかいいようがないけれど(でもそういう話ですよね?)。
ほりえもんさんがいってることって半分は正しい。けど半分はあやしい。彼が空想してるどこにも偏向してない完全中立なメディアなんて(素人さんなら考えそうだが実は)フィクションだ。だからこそ自分の目で見てジャッジする能力=メディアリテラシーが重要なの。いくらメディアが偏向してようが、仕分けする目があれば自分の頭で考えて、その報道の中から客観的な事実らしきものだけを取り出せばいいんだから。
適切な例えかどうかわからないけど、たとえば「赤旗」を購読して紙面から動かしがたい事実だけを抽出し、それをニュースとして読みながらも政治的な主義主張をもたずに暮らす、ってアクロバットは原理としてはできる(筆者注●やるやつはいない)。要は対象がなんであれ、自分のものを見る目が確かならノー・プロブレムじゃん、ってことだ。
だったらメディアリテラシー身につけるには、どうすりゃいいのよ?
まず情報の受け手が認識すべきなのは、すべての情報には意図があるってことだ。記事に見出しをつけた時点でそれはもう意図だし、そもそも記事の「切り口」なるものがすでに狙いの固まりだ。テーマを設定するんだって、何がしかの意図にもとづかなきゃできない。
すると流れこんでくる大量の情報に対して、「これにはいったいどんな意図があるんだろう?」と、まず一歩引いて客観的に疑ってみることがスタート地点になる。その上で事実関係を確認して行く。
でも前者はものの見方の問題だからともかく、事実関係を自分で独自に確認するのって大変な作業なんだよ。わかりやすい例でいえば、日本に入ってくるイラクのテロ報道ってのは、基本的にはアメリカ的価値観のフィルタを通ってる。いまでこそブッシュ――ラムズフェルドのラインはありゃ、あやしいぞ、あぶないぞ、って認識が広まってだいぶマシになったけど、湾岸戦争のころなんてもうかなり一方的だった。
で、それじゃ真実を見極められない、と考える。そして現場(イラク)に自分の足で入ったとしよう。テロの現場を見て、「オレはこの目で事実を客観的に確認したぞ」。でもいったいこれは正解なのか?
テロだってそれ自体が一種の情報=政治的メッセージなわけで、もちろん意図がある。
じゃあ彼らはなぜテロリズムに走るのか? 今度はそれを知る必要が出てくる。すると現地でいっしょに生活しなきゃわかんないことだってあるだろう。あるいはメソポタミア文明まで遡るかどうかは趣味の問題かもしれないけど、相当に歴史を調べて検証しなきゃなんない。
これ、一般の人にできるんですか? 突き詰めるとこういう話になっちゃう。できないから一般の人はそこをメディアに外注してるわけだ。情報の確からしさはプロに担保してもらい、(現場へ確認に行くとかじゃなく)日常生活のできる範囲でメディアリテラシーを働かせればいいと。
結論として、「情報の出口と入り口両方とも自分でやります」なんてのは妄想的ユートピアなんですね、やっぱどっかで外注が必要なのね、ってことになる。
まあ極論はこれくらいにして現実を見よう。身近な例をひとつあげると、いま仕事である出来事について書いている。何かっていうと、ちょうど1年くらい前にQ&A掲示板で、「今週妻が浮気します」って質問が出た。投稿した夫は「どうすればいいんでしょう?」と聞いている。
これをめぐって夫婦とは何か? 恋愛ってなんだ? みたいなマジメなやり取りがネット上で繰り広げられた。今年の1月には、掲示板での質疑応答がそのまんま本にもなってる。それがきっかけで議論はリアルの世界にも飛び火し、いま現在も夫婦ってなあに? がさかんにやり取りされている。
んで、まあその中で議論されてる中身のほうはいい。だけどこの出来事自体を客観的に見ると、いくらでもおかしなところが出てくる。判断材料は掲示板に残ってるログしかない。でもログを細かく検証していくと、もうあやしさ満点なわけだ。
ところがブログを検索すると、疑問をもってない人がえらく多い。夫の行動や夫婦の結末を見て、「感動した」「泣いた」って人がたくさんいる。おかしいなあ。もっと流れてくる情報(夫の書き込み)の意図を読んで、まずは分析的に見たらどうなのかなあ、と思ってしまう。
夫婦には、本人同士にしかわかんないことがたくさんある。でも掲示板で質問したりレスしてんのは夫のほうだけだ。妻の視点がごっそり抜け落ちてる。
浮気してる妻についても語られてるけど、観衆(閲覧者=情報の受け手)の側は、夫という触媒を通して「妻の残像」を見てるだけにすぎない。これじゃあ、客観的な状況判断なんてできっこないやん。一方的に夫の立場からの説明(すなわち言い分)を聞かされ続けてるだけなんだから。
なのにみんな夫の語りに、すっかりハマっちゃってる。
もちろん夫に鋭いツッコミ入れてる人も中にはいるし、特に既婚女性だと彼に否定的な人も多い。こんなふうに意見が割れるのってとても健全だ。
これ見て泣いちゃった人は純粋なんだと思うけど、ためしに別の角度から見てみるとどうだろう? 「なるほど夫はこう言ってる。けど、妻の側に立てばどうなんだろう?」ってイメージを広げる。「夫の主張=自分」の視点でひたすら一元的に世界を見るんじゃなくて、もっと複眼的な思考をしてみる。
たとえば夫はすべての言い訳が「仕事」になってるんだけど、それって聖域にしちゃっていいのか? 家庭という複雑系システムを運営する家庭人としてアリなのか? この人みたいに仕事でしか自己実現できない生き方ってどうなんだろう? とかね。
読んで泣いた人って夫の価値観を無意識のうちに肯定してるわけだから、夫が作ったこれらの前提がデフォルトでOKになっちゃってるわけでしょ? 自分の中で。それをひとつづつ疑ってみるとかさ。
そうやって自分の中でチェック機構を回していく。するとポートを開けっ放しで、何かの思想や宗教にアタマから思い切り突入しちゃうなんてこともなくなる。「セルフ・リテラシー」を働かせるわけだ。そもそもこういう思考法ができなきゃ、メディアリテラシーなんて夢のまた夢じゃないか?
結局、メディアリテラシーってまだまだ絵に描いたモチだよなあ、とため息しか出ないのが現状なんだけど……なんかほりえもんさんが育ててくれるっていうから期待して待ってます私♪