世界の街角

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古代日本のルーツ・長江文明の謎(その8・最終回)

2021-12-25 08:40:47 | 日本文化の源流

安田喜憲教授の著作である『古代日本のルーツ・長江文明の謎』は、日本文化の源流を語る格好の良書である。その著述内容から、「これは」と思う個所を紹介するシリーズの最終回である。過去にUpdateした「その1」~「その7」までを参考になさりたい方は、下記をクリックを願いたい。

〇その1:稲作農耕民が信仰した『太陽』と『鳥』

〇その2:龍の文明と太陽の文明の覇権争い

〇その3:古墳文化のルーツはどこにあるか

〇その4:日本の神話に残る長江文明の影

〇その5:日本列島へ渡った「羽人」の痕跡

〇その6:二重構造としての古代王朝

〇その7:長江文明の流れをくむ滇王国

 

〇森の文明に繋がる「蛇信仰」

以下、安田教授の著述内容である。

”雲南では龍は災いをなすものとされ、鳥に食べられるという構図があった。実際、このあたりには龍をデザインしたものは少ない。湖南省の洞庭湖周辺には龍にちなむ伝説があるが、それは比較的新しい神話であり、龍をシンボルとする畑作牧畜民がはいってきたからのものと考えられる。

滇王国の遺跡によく登場するのは、龍ではなく蛇である。これもまた滇王国の出自を物語るものである。長江文明は森の民による文明だったが、同じように滇王国を築いた人たちも森の民であったのだ。

滇王国の遺跡である石寨山遺跡や李家山遺跡、羊甫頭遺跡からの出土品を見ると、これらの遺跡から出土した青銅製品には、よく動物文様が施されている。蛇、トカゲ、カエル、カメなどの爬虫類や両生類、ミツバチやセミなどの昆虫類、ニワトリやクジャクなどの鳥類、牛、鹿、ヒョウ、猪、トラ、サルといった哺乳類などの動物文様である。なかでも、蛇の文様が目立つ。その多くは、二匹の蛇が注連縄のようにからみ、交尾している姿となっている。あるいは、青銅の剣の柄などにも、蛇の文様が施されている。ご存知のように、蛇は脱皮していく。その脱皮に命の生まれ変わりを、森の民は見たのである。蛇は、森の文明につながっているのである。森の民にとって重要なのは、生命の誕生と死である。森の中の命は永劫の再生と循環を繰り返し、蛇の脱皮は、これにうまく符号するのである。

滇王国の人たちは、もともと森の民であり、このことも長江文明を引き継いだ文明である可能性を示すものである。”・・・以上である。

教授指摘の通り、雲南の紀元前後の青銅製品、例えば貯貝器・銅鼓や家形青銅器の装飾に蛇は頻発する。ここでは、『漢委奴国王』金印と並んで著名な『滇王之印』を紹介し、古代雲南がいかに蛇を重要視していたか理解できると考えている。

(滇王之印は、金印蛇紐と呼び持ち手は蛇の肖形である)

これは漢王朝が滇国王に下賜したものである。南蛮王に対し蛇を用いて見下した・・・との見方も考えられるが、滇王国では蛇が神聖視されていたことによるものであろう。雲南に逃れた百越の一派が滇王国を樹立したことは、漢王朝にとっては周知のことであったろうと考えられる。

今日、中国で百越の末裔とされる民族が、福建省の山村地帯に存在する。司馬遼太郎氏は、陳舜臣氏、森浩一氏と共に福建省羅源県福湖村の佘(しょう・しゃ)族の集落である。容姿は日本人に似て、歌垣の風習が残っている。古来、福建の地を閩粤(びんえつ)と呼んだ。閩は門がまえの中に虫がいるが、この虫は蛇と云われている。粤は越である。百越の地域が蛇を神聖視するのは、日本も同様で、過去多くの記事をupdateしてきた。古代日本文化のルーツは呉越の地であったことを安田教授の著述内容から紹介してきた。

以上で当該シリーズを終了する。

<了>

 


古代日本のルーツ・長江文明の謎(その7)

2021-12-23 09:10:20 | 日本文化の源流

〇長江文明の流れをくむ滇王国

不定期連載とは云え暫く中断していた。今回は、その7回目である。以下、安田教授の著述内容である。

”雲南省・昆明の南に滇池という湖がある。この湖のほとりに滇王国は形成された。滇王国には、豊かな森があり、水産資源があった。人々は水田稲作に加え、滇池での漁撈によって生活を立てていたようである。此の地は交通の要衝でもあった。インドや東南アジア、チベットなどとの交易によっても発展を遂げていた。ミャンマーや西双版納を経てタイやカンボジアへとつながる古道もあった。

滇王国の遺跡としては、石寨山遺跡や李家山遺跡、羊甫頭遺跡などがあるが、これらの遺跡を詳しく調査してみると、滇王国は長江文明の影響を強く受けていることがわかる。これらの遺跡からは、おびただしい数の青銅製品が発掘されていて、その中には大型の銅鼓も混じっている。その銅鼓にはかならず太陽が造形されている。

太陽といえば、稲作を発展させた長江文明のシンボルである。この点からも、滇王国と長江文明の深い関連を見て取れるわけだが、さらに石寨山遺跡や李家山遺跡から出土したものには、鳥が造形されていることも多い。鳥もまた、稲作漁撈民の象徴であり、長江文明に通じるものである。

(双鳥朝陽象牙蝶形器 出展・河姆渡遺跡博物館HP :太陽は稲作のシンボル)

滇王国のあった雲南の地に象徴的なものがある。省都・昆明から西に6時間のところに洱海(じかい・エルハイ)という湖があり、その湖畔には7世紀から13世紀まで栄えた南詔大理王国の都・大理市があった。南詔大理国は、雲南のナシ族などの少数民族が建国した仏教王国である。南詔大理国の仏教建築を代表するのが、洱海湖岸にある嵩聖寺の三塔である。この三塔は、仏教国だった南詔大理国のシンボルのようなものであり、もっとも高い塔は十六層、69.13mにもなる。教授が注目したのは、その塔の最上部で発見された鳥の像である。

(嵩聖寺三塔 出典・Google earth)

(大鵬金翅鳥 出典・雲南省博物館HP)

それは、大鵬金翅鳥(たいほうきんしちょう)とよばれる金属製の怪鳥だ。高さ20cmに満たない小さな鳥であったが、この塔の守護神となっている。この鳥は、一日に大龍を一匹、小龍を八匹食べるという。

なぜ鳥が龍を食べるかというと、この地では龍によってたびたび洪水が引き起こされるからだという。その龍を退治するため、鳥がつくられ、三つの塔が立てられた。塔は、大鵬金翅鳥の足であり、龍を押さえつけているというわけだ。

雲南省では昔から龍が悪者扱いされ、これを退治するのが鳥という構図がある。そこには水害以上の深い意味があった。すでに指摘したように、龍は畑作牧畜民のシンボルであり、鳥は稲作漁撈民のシンボルである。昔から雲南に住んでいた人たちは稲作漁撈民の子孫であり、新たに遣って来た畑作牧畜民との対立があったことが、鳥と龍の闘いには隠されているのではないか。

すなわち、滇王国は、長江文明崩壊後に生まれ、長江文明を引き継ぐ稲作漁撈民の王国だったのではないか。長江文明を担った人たちは、北方からやって来た畑作牧畜の漢民族によって、長江流域から追われた。その一部は雲南に逃れ、その地に築いたのが滇王国だったのではあるまいか。滇王国は、長江文明の栄光を引き継ぐ最後の王国だったのである。

その滇王国にも、やがて畑作牧畜の民がやって来た。ここでも、稲作漁撈文化の長江文明を引き継いできた人たちと、畑作牧畜文化の漢民族の対立があり、鳥と龍の闘いに反映されたのである。”・・・以上である。

ここで文中太字の『太陽といえば、稲作を発展させた長江文明のシンボルである。この点からも、滇王国と長江文明の深い関連を見て取れる』、『鳥もまた、稲作漁撈民の象徴であり、長江文明に通じるもの』については、教授の指摘通りである。しかし、後半部分の『大鵬金翅鳥と龍の関係』、つまり『龍は畑作牧畜民のシンボルであり、鳥は稲作漁撈民のシンボルである。昔から雲南に住んでいた人たちは稲作漁撈民の子孫であり、新たに遣って来た畑作牧畜民との対立があったことが、鳥と龍の闘いには隠されている』については、そのようであったとも考えられるが、これについては西方インドの影響が大きいと考えている。教授も指摘のように雲南昆明は、タイやカンボジア、ミャンマー、インドとの交易で繁栄した。当然ながら西方・インドの伝承も伝わった。インド神話ではナーガ(龍)はガルーダ(大鵬金翅鳥)に捕食される関係であり、北の畑作牧畜民と雲南の稲作漁撈民云々との教授の説は伝承の主体ではなく、そのような関係も背景の一つとして考察されるべきものであろう。

タイでは、ナーガ(龍)はガルーダ(迦楼羅・大鵬金翅鳥)に捕食される故事があり、ポピュラーな存在である。写真は、中世の北タイ・カロン窯の焼物である。なによりガルーダはタイ王室の紋章である。

<不定期連載にて続く>


タイ王国の聖獣・後編

2021-12-22 07:55:23 | タイ王国

タイの聖獣・神獣類の後編である。尚、前編はココを参照願いたい。

今回は後編として、下表赤枠で囲った聖獣類を紹介する。尚、麒麟についてはタイではメジャーな存在ではないので省略する。

北タイでプラ―・アーノンが見られる場所:時たま寺院壁画が見られる

北タイでマカラが見られる場所:ワット・プラシン他市内の寺院

北タイでメン・シーフーハーターが見られる場所:ワット・チェットリン

北タイでヤックが見られる場所:ワット・チェディールワン

北タイでラーフーが見られる場所:チェンマイでも見られるそうだが場所不詳

北タイでハヌマーンが見られる場所:ワット・ムーンサーン

以上、前編で6つの聖獣類を後編で6つの聖獣類を紹介した。北タイとくにチェンマイへの観光旅行の参考になろうかと考えている。遺跡や聖獣は、やはり西の方インドの影響を感じられるであろう。

<了>


ランプーン県・古代製鐵所跡の発掘と実験考古学

2021-12-21 07:53:23 | 北タイの風土・慣習

タイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)は、SNS情報を頻繁に更新している。今回は最近の情報のなかから、ホンマかいなと思われる情報である。ホンマかいなと記載したが、疑問に思うものの考古学者の知見は北タイで2000年前の製鐵跡を発見し、実験考古学の立場から製鐵の再現実験をおこなったと云う。以下、第7支所記載の要旨である。

”2000年前の製鉄所の発見からコミュニティ参加による大規模な実験考古学をタイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)が報告する。2019年第7支所は、コミュニティリーダーと協力して、ランプーン県のプレーンズ盆地のリー地区の古代鉄製錬所跡を発掘調査し、古代法にのっとり鉄の精錬と作刀をおこなった。

直径90〜100センチ、高さ約180センチの直円筒炉(シャフト炉)を用い、摂氏1150〜1300度の熱を利用した直接法(直接鉄製錬法)による鋼の製造を行った。構造から炉内でらせん状の空気を作り出すことができる。

鋼塊の取り出し後、鋼の品質をさらに向上させる。製錬で得られた鋼塊等級分けし、それを鍛造して鋼中の不純物を取り除き、鋼内の元素をより均一に分散させることによって。刀剣材料を入手した。

技術者は鋼塊から目的の形状を形成する前に、加熱と交互に鋼を鍛錬する。刀の形状に鍛造後、刻印技術者はノミを使って刀の名前を刻み、それが作られた年を刻んだ。その後、刀は磨かれ、研ぎ澄まされた。この刀は現在、ランプーン県のリー地区事務所で保存されている。”・・・以上である。

残念なことに製鐵原料は何であるのか記載されていない。砂鉄なのか鉄鉱石なのか?・・・肝心なことを記載して欲しいものだ。

それにしても2000年前とは本当か?・・・弥生時代に相当する。日本では製鐵が始まるかどうか微妙な時期に、北タイにシャフト炉が存在していたのか。存在していたのであれば相当なる先進文化で、北の方中国ではなく西方インド渡来文化の影響であろう。

発掘されたシャフト炉の写真が?フェイクとまでは云わないが、発掘後の手が入っているように見える。発掘そのままの写真を掲載して欲しい。日本の初期の製鐵炉は単なる坩堝炉にすぎない。倭の時代よりも進んだ製鐵技術であろう。

<了>

 


水仙が咲いた

2021-12-20 05:26:21 | 石見国

過日、所用にて県西部へ。県西部の海岸沿いは、越前海岸程ではないが、水仙の群生地がそれなりに存在する。そこでパチリ。

春近しと感じなくもないが、季節は冬本番に向かおうとしている。山陰の冬はどんよりだ、そのなかで咲き続ける水仙。その姿勢は見習いたいものだ。

<了>