世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

古代日本のルーツ・長江文明の謎(その6)

2021-12-06 08:52:38 | 日本文化の源流

〇二重構造としての古代王朝

以下、安田教授の論述である。

”古代の日本史を論じるとき、よく持ち出されるのは朝鮮半島からの影響である。北方騎馬民族による日本征服説もその一つであり、日本の古代史は朝鮮半島を経由した北方からの影響ばかりが論議されてきた。

とくに影響の大きかったのは、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説である。大陸北方から朝鮮半島を経由してやって来た騎馬民族の末裔が、日本列島を征服し、王朝国家を建設したというものだ。

これに対して、佐原真氏らは、日本人は騎馬民族の代表的習俗である去勢をする習俗を持たないことなどを挙げ、日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族と一致しないと反論した。

北方騎馬民族の影響については、安田教授自身は古墳時代に入って顕著になるとみなしている。すなわち日本の古代王朝は、二重構造になっていたのではないかと考えている。

まず長江流域から長江文明を担っていた人たちがやって来た。それが二二ギノミコトの子孫である神武天皇に代表される長江文明の影響を色濃く受けた人々によって、稲作漁撈民の王朝が日本にまず生まれた

おそらく、大陸から渡来した人間の数はそれほど多くはなかったであろう。だからこそ、在来の日本人の文化の中に溶け込んでいった。しかし、彼らの持つ進んだ技術は当時の日本の人々にとって驚異であったにちがいない。

稲作漁撈王朝の日本に、そのあと騎馬民族の流れをくむ北方の畑作牧畜の民がやってきた。それは、第十代の崇神天皇以降のことで、古墳時代の頃ではないかとみなしている。彼らも日本の王朝に大きな影響を及ぼした。そのため、日本の王朝は長江の流れをくむ南方の人たちと騎馬民族の流れをくむ北方の人たちの二重構造になったのではないか。ここでは話を分かりやすくするために長江文明の影響を強く受けたグループを南朝、騎馬民族の影響を強く受けたグループを北朝と呼ぶことにする。

北朝の影響はかなり強大であったが、すべてが北朝を受け入れたわけではなかった。だからこそ二重構造という表現を使ったわけであるが、そう考えるには理由がある。

もし騎馬民族の流れをくむ北朝の力が圧倒的なものだったとしたら、日本は騎馬民族の習俗を取り入れていたはずである。しかし、日本には宦官(かんがん)や去勢の伝統がない。

この宦官と去勢の文化は、日本に入らなかった。そうならなかったのは、すでに日本に他の伝統的文化が根強くあったからであろう。

その他の文化的伝統とは縄文時代の森の文化と、長江からやって来た稲作漁撈民の文化である。すでに述べたように長江の文化もまた、森の文化であり、ヒツジやヤギなどの肉食用の家畜を飼う伝統はもともとない。こうした森の文化や稲作漁撈民の文化が、騎馬民族や畑作漁撈民の持ち込もうとした去勢や宦官の文化を押し戻したのである。”・・・以上である。

ここで細部に拘るつもりはないが、気になる表現が2箇所存在する。ニニギノミコトが笠沙の浜に長江流域から渡来したこと、その子孫の神武天皇が長江文明の影響を強く受けたこと・・・これらは証明不能の事柄で、個人的にはニニギノミコトは笠沙の浜には来なかったと考えている。2点目は、去勢は騎馬民族の習俗であるが、宦官はオリエントの文化でもあるが、騎馬民族というより中原(中華)の文化であろう。どうでも良いことだが、多少気になったので記しておいた。

騎馬民族の流れを汲む人々の渡来は、十代崇神天皇以降であろうとしるされているが、それはその通りであろう。

江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説は、崇神天皇が任那から北部九州へ遣って来た。そこで扶余、韓、倭連合の『日本国』をつくる。これに北部九州の筑紫の人々を加えて、応神天皇の時に近畿入りした。・・・これが要約の要約である。崇神天皇の実在年代は270年前後と考えられ、その時代の騎馬民族的考古遺物は皆無で、江上氏主張の年代は考古学的には否定されている。ではいつか?・・・安田教授は崇神天皇以降と記されているが、それは古墳時代中期(5世紀)以降と考えられている。5世紀といえば継体天皇の時代である。この継体天皇が怪しい。・・・これについては、別途考えてみたい。

(復元品 兵庫県加西市亀山古墳出土 弥生時代中期(5世紀))

(大阪府岡本山A3号墳 古墳時代中期 5世紀)

(写真を掲載すればきりがないが、騎馬民族の遺品であろう品々の出土は5世紀の古墳からであり、崇神天皇の時代の出土品は皆無である。)

最後になるが、安田教授は古代王朝は二重構造であったと記されている。個人的に考えるのは、二重ではなく三重構造であった。ベースはあくまでも縄文人である。縄文人の遺伝子解析によれば、本貫の地は東南アジア・インドシナとの研究結果も公表されている。縄文人と云えば南方のみならず、アイヌの人々にもつながるツングースの人々も、縄文社会を形成していた。それらの縄文人をベースに呉越の地から渡来して来た人たちとの混血が弥生人である。それと、騎馬民族の人々・・・これらの三重構造であったと考えている。

但し、安田教授の”朝鮮半島を経由した北方からの影響ばかりが論議されてきた。”との説には大賛成である。

<不定期連載にて続く>

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿