世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

続・魏志倭人伝にみる柏手跪拝と神の降臨

2021-10-20 08:13:29 | 古代日本

過去、『魏志倭人伝にみる柏手跪拝と神の降臨』(ココ参照)と題して一文をupdateした。今回は、その続編である。

吉野ヶ里遺跡北内郭の主祭殿の内部を御覧になった方々は多いであろう。そこには巫女が神の降臨を仰ぐ姿がジオラマで想定復元されている。先ず、その場面を御覧頂きたい。

祭壇と云うほどでもないが、主祭殿の3階の祭殿の間の奥に、榊と思われる常緑樹に『青銅鏡・剣・勾玉』のいわゆる3種の神器が掛けられている。巫女は青笹を振りかざして神の降臨を仰ぐ。神は3種の神器を依代として降臨する場面である。神とは祖先神であろうと考えられる。

魏志倭人伝は『見大人所敬、但搏手以當跪拝』と記す。巫女が神の『詔(のり・みことのり)』を仰ぐ。その御託宣を下写真の背を向けている男性経由、魏志倭人伝で云う卑弥呼の男弟に伝える。男弟はそれを衆議に諮るのが、主祭殿の2階のジオラマ場面である。つまり魏志倭人伝の邪馬台国における、卑弥呼とその男弟の祭祀と政治場面を想定復元している。

(巫女の横に座っている男性が、巫女の御託宣を政治の主宰者(卑弥呼の男弟)に伝える役目の人物と思われる。巫女とは、この場面では卑弥呼であろう)

ここで重要なことは、反対側でこちらを向いている男性が弦付琴を弾いているのか、いないのか。いずれにしても神が降臨する場面に琴を登場させていることである。誰?学者の助言による登場か? 神は鳴り物入りで登場したのである。

神のお告げを聞いた男弟王は、そのことの次第を有力者に諮る場面である。

・・・と云うことで、魏志倭人伝に登場する卑弥呼と、その男弟の政治の様子を切り口にジオラマ構成されているが、そこに神の降臨場面が展示されている。魏志倭人伝の時代に3種の神器を構成する、鏡・剣・勾玉は存在したが、それが3種の神器として認識されていたかどうか、更にそれらに神の依代との認識が存在したのか・・・やや疑問に感じなくもないが、弥生時代には既に神(と云っても祖先神を中心とするアニミズムの類であろうが)という認識は存在していたものと思われる。

<了>

 


古代関連施設を巡ることにした

2021-10-19 07:13:54 | 日記

コロナ、コロナでフラストレーションが溜まりに溜まった。幸い罹患者は激減である。週末から週明けにかけて関西へ。そこで下記の場所へ出かけることにした。暫し日本の古代に想いを馳せてみたい。

上掲Google Earthに掲げていないが、帰途に鳥取・琴浦町歴史民俗資料館に寄る予定である。

<以上>


古代日本のルーツ・長江文明の謎(その2)

2021-10-18 08:25:26 | 日本文化の源流

〇龍の文明と太陽の文明の覇権争い

以下、安田教授の著述より。”太陽や鳥の信仰と並んで、中国大陸にはもう一つの強力な信仰対象がある。それは龍である。いまから7000年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍が誕生した。龍は想像上の動物である。龍の原形は森に棲息するイノシシやシカ、川に棲む魚、草原を疾走する馬であったとみられる。これらの動物たちが混合され、シンボルとしての龍が誕生した。

遼寧省の査海遺跡には、長さ19.2m、幅3mにおよぶ巨大な石積みの龍が発見されている。その姿は龍と同じである。足下には雲を思わせる石積みがあり、空翔る龍である。この査海遺跡では7000年も前から空飛ぶ龍を創造し、龍を祀る儀式が存在していたのである。

龍信仰が体系化したのは、紅山(こうざん)文化の時代に入ってからである。紅山文化とは、内モンゴル自治区赤峰市の紅山周辺で栄えた6500年前の文化である。遼寧省の牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡がその代表で、赤色の土器とその上に黒色の彩色文様をつけた土器が特色である。その牛河梁遺跡からは、玉でつくった龍がいくつも発見されている。

(牛河梁遺跡 出典・中国新華網)

(牛河梁遺跡出土 玉製龍 出典・中国新華網)

紅山文化が栄えた時代、長江流域では河姆渡遺跡や良渚(りょうしょ)遺跡などの稲作漁撈文化が花開いていた。つまり、約7000年前の中国大陸では、北の黄河流域の畑作牧畜地帯では龍の信仰が、南の長江流域の稲作漁撈地帯では太陽と鳥の信仰が形成されていたことになる。

5700年前以降の気候の寒冷化によって紅山文化が崩壊すると、北方の人々の南下によって龍信仰は南方に伝えられた。良渚遺跡からは、明らかに北方の紅山文化の影響を受けた龍の玉器が出土している。

北方では最高神であった龍も、南方では新参者である。そのため、南方の稲作漁撈地帯では龍の地位は低かった。苗族の「黄龍退治」と呼ばれる伝承では、若い男女の人身御供を要求する黄龍が大ムカデに退治される話が伝わっている。その後、龍は水の神として河や湖を住処にするようになる。南方で龍が生き延びるには、水の神になるしかなかったのである。

長江流域には古くから蛇信仰があった。龍はやがて蛇と合一化していくことになるのだが、それには太陽信仰、鳥信仰、蛇信仰との長い戦いがあった。約4000年前には北方の気候寒冷化が、畑作牧畜民の南下をうながし、強力な武力を持った北方の民が三苗(さんびょう)と呼ばれる長江流域に暮らす部族を駆逐していく。

こうして北方の畑作牧畜民が勢力を拡大させていくことで、龍信仰も広く南方に浸透していった。湖南省の洞庭湖周辺にはいくつもの龍神伝説が存在するが、それらは北方から畑作牧畜民が南下して以降の比較的新しいものではないかと考えられる。宋代になると、龍の角は鹿、頭は駱駝、手は虎、爪は鷹などというように、いくつかの動物と融合したものとして表現されるようになる。それは、龍が中国各地の異なる文化や習俗と融合していったことを象徴するものだ。

龍信仰はさまざまな信仰と融合して生き延び、ついには中華文明のシンボルとなっていく。それは畑作牧畜民である漢民族の拡大と軌を一にした拡大であった。”・・・以上である。

我々の遠祖と思われる呉越の民の一派は、龍を奉ずる畑作牧畜民に押しだされて列島に遣って来た。別の一派は中国南部へ逃れることになる。

<不定期で続く>

 


古代日本のルーツ・長江文明の謎(その1)

2021-10-17 08:30:43 | 日本文化の源流

前日、『日本の失われた30年に未来はあるのか・前編』をupdateした。多少興奮気味に記述したのであろうか? 昨夜は久しぶりに寝つきがわるかった。連夜の寝つきの悪さはかなわない、従って続編は後日としたい。

安田喜憲教授の史観は、安直ではなく同感することが多い。氏の著作に『古代日本のルーツ・長江文明の謎』がある。その幾つかについて不定期連載で紹介したい。

〇稲作農耕民が信仰した『太陽』と『鳥』

”7600年前の浙江省河姆渡遺跡から、二羽の鳥が五輪の太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙が出土した。8000年前の湖南省高廟(こうびょう)遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。また、少し時代はくだるが、長江上流の三星堆(さんせいたい)遺跡からは、神樹とみなされる扶桑の木に太陽を運ぶ九羽の鳥がとまっている青銅製の置物が見つかった。

(河姆渡遺跡出土象牙製品・五輪の太陽を抱かえる二羽の鳥)

(三星堆遺跡出土・神樹)

こうしたことから長江流域の稲作文明において、太陽と鳥が信仰されていたことは明らかだ。太陽は稲作農耕民にとって、極めて重要であった。種籾をまき、苗床をつくり、田植えを行い、刈り取りをする。この複雑な稲作の農作業の根幹をなすものが太陽の運行であった。

鳥は、太陽を運んでくると信じられていた。河姆渡遺跡、高廟(こうびょう)遺跡、三星堆(さんせいたい)遺跡という長江の下・中・上流域の遺跡から、それぞれ鳥が太陽を運ぶ姿をモチーフとする遺物が出土したことが、そのことを明瞭に物語っている。太陽は朝に生まれ、夕方に死す。そして翌朝になると再び蘇り永遠の再生と循環を繰り返す。その再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

太陽と鳥が稲作儀礼と深く関わったものであることは明らかである。そして、この太陽信仰、鳥信仰は、長江最上流域の雲南省から四川盆地、中流域の湖南省、下流域の浙江省まで、長江流域全般に見られるものである。苗族は鳥を崇拝しているが、鳥は苗族にとって大切な稲穂を運んできてくれたという。

(苗族の蘆笙柱の天辺に鳥がとまる)

長江流域に暮らす稲作農耕民たちは、数千年にわたって共通した世界観を持ち続けたといえるだろう。”・・・以上である。

呉越の古い慣習は、周辺の異民族に濃厚に残存する。苗族も呉越を本貫とする百越の一派である。同様に雲南から東南アジア北部に居住するアカ族にも、似たような習俗が残存している。

写真はロコンと呼ぶ、アカ族集落入口にたつゲートである。これは結界を示し、横たわる笠木の上には数羽の鳥が止まる。これは日本の神社の鳥居の原形と思われる。

広島県福山市の沼名前(ぬなくま)神社の鳥居に鳥がとまっているのは、江戸時代にそのような伝承があったであろうと推測させる。当件に関してはココを参照願いたい・・・と云うことで、このロコンは鳥居の原形であろうと考えている。

<不定期で続く>

 


日本の失われた30年に未来はあるのか・前編

2021-10-16 07:19:55 | 日記

中国恒大(こうだい)集団のデフォルト懸念が高まっていると云う。当然のことで驚くに値しない。中国の経済成長率は、戦後日本の高度経済成長どころではないほどの高成長率でかつ長期に渡る。日本で高度経済成長が止まると、多くの大企業が苦境に陥った。特に1990年代前半のバブル崩壊後、放漫経営の行き詰まりから山一証券が倒産したことは記憶に新しい。その事例から云えば、中国も淘汰の時代の始まりであろう。

思えば、今日の中国の基礎を築いたのは鄧小平である。共産中国において彼は『白猫黒猫論』を提唱し、1962年に毛沢東の政策を批判した(暗に階級闘争のイデオロギーにとらわれるなと批判した)。その後1978年に改革開放政策に着手し、1992年に中国南部で南巡講話をするに至った。つまり、豊かになれる者から豊かになれば良いとの改革開放政策である。

この改革開放政策とは何だ。識者が云う“新自由主義”と同義に他ならない。2001年4月26日に発足した小泉純一郎内閣は、“聖域なき構造改革”を推進した。これは、新自由主義経済派の小さな政府論より派出したもので、郵政や道路公団の民営化を推進した。

経済学者や識者は、この“新自由主義”を諸悪の根源として槍玉にあげる。GDP成長率は鈍化し、国内では富める者と富まざる者の格差が拡大したと手厳しい。結果はそうだとして、その原因が本当にそうか、との疑問が湧く。日本の経済成長率が鈍化するのは、小泉内閣が発足する10年前の1990年代初頭、つまりバブル崩壊後からである。“新自由主義”が槍玉にあげられる以前から、成長はとまっている。

話は飛ぶが、小泉内閣発足後の中国環球時報(人民日報姉妹紙・タブロイド版)は、事あるごとに小泉首相の記事で埋まっていた(無錫へ出張の度に、環球時報のその種の記事を目にした。その環球時報を写した写真が見当たらない、代わりに財経時報の一面写真を掲げておく)。

それも一面トップで大きな写真入りである。何となれば、改革開放政策と同じようなことを大々的に、日本が遣りだそうとの驚異を持ったからに他ならない。しかし、日本は再び中国のように躍進することはなかった。何故か・・・これは後段で言及したい。

何故、日本はここ30年に渡り成長できずにいるのか、個人的に考えるその原因を述べる前に、日本のGDP成長率の結果と中国・米国との比較、更に成長著しい電子部品産業と、その恩恵に浴していない物販業の売上推移を紹介しておく。

上表を御覧のように、1990年代初頭と2020年代初頭の比較である。この30年間で日本のGDP成長率は6.7%の成長に過ぎないが、その間に米国は4倍、中国は3倍に成長した。一人当たりGDPはシンガポールに抜かれ、もはやキャッチアップどころか、差は開く一方である。悔しいことに数年前には韓国に抜かれてしまった。このテイタラクは何だ。

日本の成長は鈍化どころか停滞しているが、米国以上の成長を遂げている企業も存在する。それが電子部品業界で、村田製作所、TDKに代表される。売り上げで悲願のTDKを抜きさった村田製作所はこの30年で、売り上げが6.4倍に伸びた。何故、村田製作所やTDKが伸長し、半導体が身売り同然のテイタラク状態になったのか。

(横浜 村田製作所・みなとみらい研究開発センター)

(村田製作所は首都圏に多くの研究開発センターや東京支社ビルを保有するが、本社は京都にとどまったままである。大いなる田舎者にすぎないが、どういう訳か、日本電産、京セラ、任天堂、OMRONはいずれも京都にとどまる田舎者である)

(TDK本社ビル)

成長産業にタマタマ身を置いたのが良かった、との見方もできるが、では最先端を走っていた太陽電池や半導体はどうなのか。成長著しいとはとても云えない物販業はどうか。

イオンをたとえに挙げてみた。イオンは、この30年で5.7倍の売り上げ増を達成している。ダイエーは倒産して久しい。セブンイレブンはまだしも、同グループのヨーカ堂は斜陽に近い。この差はどこからくるのか。

イオンのマレーシアやタイのショッピング・コンプレックスは、何度か出かけたが、地元客でにぎわっている。国内売り上げが物販業全体でシュリンクするなか、海外にも活路を見出し、国内においてはスクラップ&ビルトにより清新さをうちだしている。それは物販業としては異例とも云うべき設備投資額比率にも表れている。まさに“あっぱれ”である。

(写真はGoogle Earthより借用したMidvalley MagamallでKL Sentral(クアラルンプール・セントラル駅)より一駅。KL Sentralの隣接地にもショッピング・コンプレックスがある)

ここで手前味噌ながら村田製作所と各業界の数字比較をしてみる。先ず村田製作所である。設備投資額+研究開発費+税前利益で何と40%超に達する。当然のことながら一朝一夕で、できる訳がないが、それなりのものであると考えている。

そこで我が国最強のトヨタ自動車である。流石に研究開発費と設備投資額合計で2兆3000億円を超える。トヨタ生産方式は健在で、国内生産台数もそれなりに維持されている。設備投資額の何割が国内投資か、詳細はわからないが、労務単価が増加する中、国内雇用を維持できる合理化投資は行われているであろうと思われる。

その国内最強のトヨタ自動車の研究開発費+設備投資額の売上げ比率は、8%強である。ここでトヨタ自動車は我が国最強と記しているが、トヨタと云えども安泰ではない。内部留保は22兆円なるも有利子負債は約26兆円も抱かえており、年間売上高に匹敵する。電気自動車・EVなのか、燃料電池自動車・FCVなのか、水素エンジン車・HEなのか、先行きを一歩誤れば、借金が重くのしかかる・・・横道に逸れて恐縮である。

最近、復調著しいソニー。ソニーのそれは11%を超えており、そこでも復調している様子が伺われる。それに引き換えもはやダメにちかいNECは、双方合わせて5.7%しかない。成長をあきらめたのか?・・・このように比較してみると、あきらめたとしか思えない。

諦めはジャパンディスプレイもそうだ。最先端商品の開発に鎬を削る先端産業分野で2.7%しかない研究開発投資は、後塵を拝してかまいませんよとの宣言以外の何物でもなかろう。

世界の負け組の建設業。毎年談合のニュースが駆け巡る。もっとも競争・切磋琢磨しない業界は、財務諸表にそれが現れている。研究開発費+設備投資額合計で1%以下である。建設大手5社の海外工事は、ほとんど受注できず、かろうじでODAの紐付き受注程度で惨めこの上ない。今や中国の個々の建設業の売り上げ規模は、日本大手各社の10倍以上で年々差は大きくなっている。研究開発費+設備投資額合計で1%以下が物語っているが、生産性向上の設備投資や研究は行わず、談合により国内の小さなパイを分け合っているに過ぎない。

日本のほとんどの産業界は、新機能材料や新商品の開発投資を怠り、生産性向上の合理化投資を避け、労務費の低廉な海外に逃避した。長年の生産性の鈍化から、分配にあずかる個人所得は増えず、消費に回る金は一向に増大しない。何故、このようになったのか。次回は失われた30年、何故成長鈍化したのか真相に迫りたい。

<続く>