神社の参拝作法の初原は邪馬台国の時代から?
魏志倭人伝に記述されている一文と、それから想定した事どもを記してみたい。まず魏志倭人伝の該当部分を紹介する。
魏志倭人伝は『見大人所敬、但搏手以當跪拝』と記す。大人とあるからには首長ないしは、それに連なる貴人であろう。この一文に対し一部の識者は、「大人の敬う所に見あうときは、但手を搏(う)ちて以て跪拝に当(あ)つ」・・・とする。『但手』を柏手(拍子:かしわで)との解釈のようだが、『但手』なる熟語は存在しない。そこで『搏手(ばくしゅ)』であるが、これは熟語として存在し、「平手で打つ」との意味がある。そこで『見大人所敬、但搏手以當跪拝』の一文は、「大人の敬う所に見あうときは、但(ただ)手を搏(う)ちて以て跪拝に当(あ)つ」・・・となる。つまり、神社の参拝のように手を打って跪(ひざまずいて)て拝む・・・ということになる。
そこで『大人の敬う所』とは何だ。つまり『何処で何を敬うのか』。考えられるのは祖先(祖先神)や精霊、或いは豊穣の神々と考えて大誤ないであろう・・・とすれば、神々に柏手を打ち跪拝する習慣は邪馬台国、つまり弥生時代から存在していたことになる。
では『敬う所』の『所』とは、どんな所なのか。倭人伝は語っていないが、それは神々の依代としての磐座や大木(御神木)の類と思われ、今日の神社の原形は古墳時代以降と考えている。しかし、弥生時代の痕跡がまったくないわけではない。松江市の弥生遺跡である田和山遺跡からは9本柱の高床式建物の柱穴が出土している。9本柱の高床式たてものと云えば、出雲大社本殿がある。しかし田和山遺跡からは祭祀遺構や遺物が伴っておらず、神社建築の初源とはやや考えられない。
話が反れたが、後段の『但搏手以當跪拝』は、神社の参拝のように手を打って跪(ひざまずいて)て拝むことである。では誰か? それは、大人が依代に向かって敬っている所を見ている人々、つまり参列者のことである。これと同じ光景は、今日でも見ることができる。
ここで話しは飛ぶ。『古事記・神代記』によれば、大国主命は素戔嗚尊のもとから『天の詔琴(のりこと)』を抱えて逃亡したとの伝承が記されている。『詔(のり・みことのり)』とは、神ひいては天皇の『みことのり』に他ならない。
弥生時代後期遺跡である出雲市・姫原西遺跡から『琴』が出土した。その琴は、弦がない琴板と呼ぶ木箱であった。この琴は、出雲大社で祭礼に現在でも用いられている、柳の撥で打ち鳴らす琴である。
(熊野大社環翠亭にて)
この琴を叩き鳴らして神の降臨を仰ぎ、神のお告げを聞いたのである。
琴といえば弦つきの琴も弥生遺跡から出土している。写真の琴は鳥取・青谷上寺地遺跡から出土したものである。
では、弦を張るこの琴の使途である。またまた魏志倭人での一節をご覧願いたい。
読み下し文で紹介する。”始め死するや、喪を停(とど)むること十余日、時に当たりて肉を食らわず、喪主、哭泣し、他人、就(つ)きて歌舞飲酒す”・・・となる。ここで歌舞飲酒とある。この歌舞に弥生遺跡から出土する土笛と共に、この琴が用いられたと想定している。
このように、祖先神となった故人の喪にあたり、用いられる弦付琴と神の降臨を願う琴板。琴は古来、神とは不可分の楽器であったことが分かる。
青谷上寺地遺跡の琴についてのキャップションには、日・月・星辰について記されている。道教と云うか陰陽道以外の何物でもない。今回は、このことにつて触れないが、別途考察してみたい。
<了>
魏志倭人伝を原文で読めるんですね!
失礼な言い方になってしまいますが、全く読めない私からみましたら、凄いな~と思いました。