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古代日本のルーツ・長江文明の謎(その2)

2021-10-18 08:25:26 | 日本文化の源流

〇龍の文明と太陽の文明の覇権争い

以下、安田教授の著述より。”太陽や鳥の信仰と並んで、中国大陸にはもう一つの強力な信仰対象がある。それは龍である。いまから7000年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍が誕生した。龍は想像上の動物である。龍の原形は森に棲息するイノシシやシカ、川に棲む魚、草原を疾走する馬であったとみられる。これらの動物たちが混合され、シンボルとしての龍が誕生した。

遼寧省の査海遺跡には、長さ19.2m、幅3mにおよぶ巨大な石積みの龍が発見されている。その姿は龍と同じである。足下には雲を思わせる石積みがあり、空翔る龍である。この査海遺跡では7000年も前から空飛ぶ龍を創造し、龍を祀る儀式が存在していたのである。

龍信仰が体系化したのは、紅山(こうざん)文化の時代に入ってからである。紅山文化とは、内モンゴル自治区赤峰市の紅山周辺で栄えた6500年前の文化である。遼寧省の牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡がその代表で、赤色の土器とその上に黒色の彩色文様をつけた土器が特色である。その牛河梁遺跡からは、玉でつくった龍がいくつも発見されている。

(牛河梁遺跡 出典・中国新華網)

(牛河梁遺跡出土 玉製龍 出典・中国新華網)

紅山文化が栄えた時代、長江流域では河姆渡遺跡や良渚(りょうしょ)遺跡などの稲作漁撈文化が花開いていた。つまり、約7000年前の中国大陸では、北の黄河流域の畑作牧畜地帯では龍の信仰が、南の長江流域の稲作漁撈地帯では太陽と鳥の信仰が形成されていたことになる。

5700年前以降の気候の寒冷化によって紅山文化が崩壊すると、北方の人々の南下によって龍信仰は南方に伝えられた。良渚遺跡からは、明らかに北方の紅山文化の影響を受けた龍の玉器が出土している。

北方では最高神であった龍も、南方では新参者である。そのため、南方の稲作漁撈地帯では龍の地位は低かった。苗族の「黄龍退治」と呼ばれる伝承では、若い男女の人身御供を要求する黄龍が大ムカデに退治される話が伝わっている。その後、龍は水の神として河や湖を住処にするようになる。南方で龍が生き延びるには、水の神になるしかなかったのである。

長江流域には古くから蛇信仰があった。龍はやがて蛇と合一化していくことになるのだが、それには太陽信仰、鳥信仰、蛇信仰との長い戦いがあった。約4000年前には北方の気候寒冷化が、畑作牧畜民の南下をうながし、強力な武力を持った北方の民が三苗(さんびょう)と呼ばれる長江流域に暮らす部族を駆逐していく。

こうして北方の畑作牧畜民が勢力を拡大させていくことで、龍信仰も広く南方に浸透していった。湖南省の洞庭湖周辺にはいくつもの龍神伝説が存在するが、それらは北方から畑作牧畜民が南下して以降の比較的新しいものではないかと考えられる。宋代になると、龍の角は鹿、頭は駱駝、手は虎、爪は鷹などというように、いくつかの動物と融合したものとして表現されるようになる。それは、龍が中国各地の異なる文化や習俗と融合していったことを象徴するものだ。

龍信仰はさまざまな信仰と融合して生き延び、ついには中華文明のシンボルとなっていく。それは畑作牧畜民である漢民族の拡大と軌を一にした拡大であった。”・・・以上である。

我々の遠祖と思われる呉越の民の一派は、龍を奉ずる畑作牧畜民に押しだされて列島に遣って来た。別の一派は中国南部へ逃れることになる。

<不定期で続く>