Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

柿右衛門様式色絵花鳥文芙蓉手小皿

2019年12月21日 15時39分47秒 | 古伊万里

 先日(2019年12月18日)、酒田の人さんが、「回想の古伊万里34(初期赤絵四寸皿)」を紹介し、その中で、「初期赤絵」と「初期柿右衛門」の違いについて触れていました。

 「初期赤絵」と「初期柿右衛門」の違いは難しいですね。

 私も、この酒田の人さんが紹介している「初期赤絵四寸皿」と似たような小皿を所持しており、それを、以前、既に閉鎖してしまっている拙ホームページに紹介しておりますが、そこでは、その小皿を、「初期赤絵」としてではなく「初期柿右衛門(正しくは「柿右衛門様式」ですが)として紹介しています。

 

 柿右衛門様式色絵花鳥文芙蓉手小皿     表面

口径:14.4cm

製作年代:江戸時代前期

口縁の11時半と6時の方角に新たな疵が見られますが、それは、2011年の東日本大震災の時に被災した疵です。

 

 

裏面   高台径:7.9cm

 

 

ところで、この拙ホームページでの紹介文には、「初期赤絵」と「初期柿右衛門」の違いについても触れていますので、次に、それを、再度、紹介したいと思います。

 

 

 



<既に閉鎖している拙ホームページの「古伊万里へ誘い」から再紹介>

 


*「古伊万里随想25 続・古伊万里の分類」(平成14年10月7日登載)                

 東京国立博物館の古伊万里の分類が、
  ① 伊万里○○世紀
  ② 伊万里古九谷様式
  ③ 伊万里柿右衛門様式
で、古九谷様式と柿右衛門様式以外はすべて伊万里○○世紀と分類されていることを(ただし「鍋島を除く。)、ここの古伊万里随想の「18 古伊万里の分類」で記したところである。

 ところで、この分類は、一見、奇異に感じるほどの印象を与えるが、従来、おおむね、
  ① 初期伊万里様式
  ② 古九谷様式(藍九谷様式)
  ③ 柿右衛門様式(藍柿右衛門様式)
  ④ 古伊万里様式
の四つに分類されていたことに思いをいたせば、①初期伊万里様式と④古伊万里様式を合わせて一つにして、「伊万里○○世紀」としたにすぎないのであって、分類そのものにはそれ程驚くにはあたらないようだ。

 問題は中身である。最近では、特に、古九谷様式と柿右衛門様式の分類のぎりぎりの所がよくわからないのである。学問の発達とともに、益々よくわからなくなってきたのではないかと思っている。

 昔は、古九谷様式と柿右衛門様式の分水嶺は素焼の有無にあり、生掛けが古九谷様式で、素焼したものが柿右衛門様式だと言われてきた。ところが、最近の研究では、古九谷様式を焼いたとされる窯跡から、中・小皿についてではあるが、素焼した陶片が出土するにおよび、古九谷様式と柿右衛門様式を分類する基準が、中・小皿については、素焼の有無には関係ないことになってしまったのである。

 また、有田町赤絵町旧北島家を発掘調査した結果、その岩盤に近い最下層から、古九谷様式の色絵磁器と柿右衛門様式の色絵の磁器が共伴して出土したらしい。古九谷様式の色絵と柿右衛門様式の色絵は同時期に存在したことが判明したわけだ。そうすると、現実には、それらの様式の境目に相当するようなものは、どっちに区分していいのかわからないという問題が発生したとみていいと思う。

 国内需要のために作られたものが古九谷様式、海外輸出用のために作られたものが柿右衛門様式との前提にたてば、従来古九谷様式に分類されていたものでも、現実に多くが海外に伝世していたようなものは柿右衛門様式に分類替えをせざるをえまい。

 かように、最近では、古九谷様式と柿右衛門様式をどこで区分していいのか難しいのである。古美術商の「これは古九谷です。」との言を信用して買ってきて家で調べると、どうも柿右衛門様式らしいとか、「これは柿右衛門の名品です。」との言につられて買ってはみたものの、どうも古九谷様式らしいなど。

 コレクターにとって、最近は悩ましい。昔は古美術商の言うとおりに信じていればよかったが、今はそうはいかないのである。買った後も、なんか、落ち着かないのだ!

 例えば画像の古伊万里(注:上に掲載した写真)などどう分類すればいいのだろうか? 肉眼では、素焼しているのか生掛けなのか、よくわからない。したがって、昔の基準によると、古九谷様式なのか柿右衛門様式なのかわからないのである。しかし、従来の様式区分からすれば、余白を十分にとったものが柿右衛門様式であるから、この小皿は、余白が十分ではないので、古九谷様式ということになるであろう。ところが、最近の研究からすれば、このタイプの多くが海外に伝世しているので、初期の輸出期の柿右衛門様式のものということになるようである。

 ところで、最近、インターネット上で大変に面白いものを発見した。 有限会社ジェイピー美術クラブのホームページの「JP美術クラブ」
 (URL http://www.jpartclub.com/jp/ )(:現在は表示されないようである)

である。

 

 ここでは、古伊万里を、
  ① 初期伊万里様式
  ② 前期様式
  ③ 盛期様式
  ④ 後期様式
の四つに分類している。これは、今までに見たこともない画期的な分類である。勉強不足の私にとっては初めて見るものである。

 この分類によれば、「古九谷様式」、「柿右衛門様式」の区分がないので、画像の小皿の様式区分は簡単である。すぐに「前期様式」との回答を導くことができよう。

 簡単に様式区分が出来てしまうので、今まで悩んでいたことは何だったのか! の思いである。

 しかし、しかしである。簡単に様式区分が出来たと喜んではみたものの、何か、物足りなさを感ずるのも事実ではないだろうか。「柿右衛門」とか「古九谷」なる用語は、これまでに、あまりにも一般的になってきてしまっていて、コレクターの心の中を広く占領してしまってきているからである。

 古伊万里の色絵物については、「古九谷様式」に属するのか、或いは「柿右衛門様式」に属するのかは、未だにコレクターにとっては、知りたい思いなのである。

 また、現実には、初期と前期を何で判別するのか、前期と盛期の区分の判断はどうするのか、盛期と後期との境界線を何に求めるのかの問題も生じてこよう。

 かように、古伊万里の分類の基準を作ることは、なかなか難しい。古伊万里研究の最初にして最後の命題なのかもしれない。

 

 


 なお、上の文章の中に、「古伊万里随想18 古伊万里の分類」というものが出てきますので、ついでに、その「古伊万里随想18 古伊万里の分類」も、次に載せておきます。

 

*「古伊万里随想18 古伊万里の分類」(平成14年7月1日登載)

(この文章は、「公益社団法人 日本陶磁協会」の月刊機関誌「陶説」に投稿し、陶説568号(H12.7月号)に登載されたものですが、既に閉鎖している拙ホームページの「古伊万里への誘い」の「古伊万里随想」にも再登載したものです。)

 

 久しぶりに上野の東京国立博物館に行った。先日、テレビの「新日曜美術館」を見ていたら、同館で「オランダ王室コレクション展」(2月15日~3月20日)が開催されていることを知ったからである。オランダ王室といえば、オランダ東インド会社→VOC→古伊万里と連想する。テレビで、さわりの部分の若干の紹介はされていたが、恐らく古伊万里の名品を沢山見られるにちがいない、と期待に胸をふくらませる。これは、古伊万里好きとしては見逃すわけにはいかない好企画。押っ取り刀で出かけたというわけだ。

 歴代国王の肖像画や数々の秘宝が並ぶ。もちろん古伊万里も。久方ぶりの目の保養。田舎で毎日、田圃や畑に囲まれて生活している身には強烈な刺激である。眼福このうえなし。

 古伊万里は、ヨーロッパでは必ずしも壷や皿1点1点が独立して飾られたわけではないことを知る。いくつかの壷や皿が金属で繋がれ、シャンデリアや豪華な蜀台に加工されている。古伊万里をシャンデリアや蜀台の材料に使おうなどという発想の自由さに驚く。

 かくして、特別展のみで十分に満足した。普通、特別展を見終わると、そのまま帰ってしまうところであるが、今回は、どうも様子がちがうことに気付く。新しい建物が増えているのである。法隆寺宝物館、平成館なるものが増えている。時間的余裕もあったので、本館も含めて、それらの常設展も覗いて帰ることにした。

 法隆寺宝物館では仏像の圧倒的な数に驚かされるとともに、しばし、平安なる心境に浸る。平成館では瓦経(がきょう)数枚を拝観し、我が家の仏間の瓦経残欠に思いを馳せ、平安貴族の祈りの心境の一端を垣間見る。

 しばし、敬虔なる信徒と化し、心静かな悟りの境地(?)を得、極楽浄土に遊ぶ心地にて、しずしずと本館へと誘(いざな)われていった。ところが、古伊万里のコーナーに達したときのこと、一瞬にして悟りの境地は破れ、現実の世界へと引きずり戻された。古伊万里愛好家としての知識が脳裏をよぎったからである。知識や教養は、時として人の至福の境地を崩壊さす。いわゆる教養が邪魔するというやつだ。

 古伊万里は、 
 ①伊万里  ○○世紀
 ②伊万里  古九谷様式
 ③伊万里  柿右衛門様式
の三つに分類されていたのである。そこには、初期伊万里もなければ金襴手もない。古九谷様式と柿右衛門様式を除いたものはすべて「伊万里○○世紀」である。「こんな分類方法もあるのか!」との思い。と同時に、「なるほど!」と感心させられもした。

 たとえば、初期伊万里は「伊万里 17世紀」であり、元禄期金襴手は「伊万里 17・18世紀」である。もちろん、通常一般的に古伊万里といわれている典型的な向付などは「伊万里 18世紀」、「伊万里 19世紀」等と分類・表示してある。

 記憶が定かではないが、以前はこのような分類・表示ではなかったと思う。少なくとも「伊万里 古九谷様式」などというものがなかったことだけは確かである。古伊万里研究の飛躍的な進歩は、古伊万里の分類においてもダイナミックな再編成を試みつつある。東京国立博物館の新たな分類・表示は、こうした再編成過程を最大公約数的にまとめて表現したものであろう。

 なお、「鍋島」は「伊万里 鍋島様式」というようには分類されておらず、依然として「鍋島」であった。

 思えば、器物の分類・表示は極めて重要な意味を持つ。その館の看板にもなり、その館の特性をも表わす。たとえば、「伊万里 江戸時代」の表示一点張りで、それ以外の表示は一切しない美術館がある。その館としては、「タイムカプセルに乗って見てきたわけでもなし、江戸時代の何時頃に作られたのかまでは分るわけがないではないか!江戸時代に作られたとだけ表示すれば十分だ!」、「○○様式などというのは後世の者がかってに付けた名称であって、作った者は、そんなことは意識なんかしてなかったであろう!」と主張しているのであろう。

 館側からすれば、それはそれでよいのかもしれない。でも、見る側からすれば、ちょっと物足りなさを感ずるのは人情だ。「江戸時代の何時頃に作られたのだろう?」との素朴な疑問は湧こう。それに素直に応えてくれたならばありがたい。また、人間には分類的知的能力が備わっている。なんでも仲間分けをしたがるのである。古伊万里のすべてが何の分類もされずに一律に扱われていたのでは、見る方に欲求不満が残る。

 その館に信念があるのなら、「通常は・・・・・に分類されるが、当館では・・・・・の理由により・・・・・と分類・表示するものである。」旨の宣言がほしいところである。そうでないと、その館の分類・表示そのものが博物館入りをしてしまっているかのような印象を与えるだろうし、ひいては、その館そのものが博物館入りをしてしまったととられても仕方がないかもしれない。

 古伊万里のような鑑賞陶磁の本格的な研究は、大正5年頃結成された彩壷会あたりから始まったようである(川島公之「陶説」532号「中国観賞陶器の成立と変遷(5)」74頁参照)。従って、その頃から分類も行われてきているのだろう。もう80年以上も経過していることになる。けっこうな年月の経過である。古伊万里は、ひとり研究者の研究対象ばかりではなく、愛好家の愛好の対象でもある。80年以上もの経過の中で、研究者と古美術商と愛好家との三者によって、少しずつ古伊万里の分類は形成されてきたのだと思う。今後も、三者が納得のいく、よりよい分類が形成されていくことを願うものである。

 

    


  また、この「柿右衛門様式色絵花鳥文芙蓉手小皿 」に関しましては、同じく、既に閉鎖している拙ホームページの「古伊万里への誘い」の「古伊万里ギャラリー48」には、次のようにコメントしましたので、それも、次に載せておきます。

 

*「古伊万里ギャラリー48 柿右衛門様式色絵花鳥文芙蓉手小皿」(平成14年10月7日登載)   

 これを買ったのは昭和59年のことであるから、もうかれこれ20年近く前のことになる(注:令和元年の現時点で計算すると35年近く前ということになる)。

 購入当時も、この小皿の分類は曖昧であった。初期柿右衛門だろうとか、古九谷であろうとか、はたまた初期色絵ではないだろうかなどと、人それぞれであった。

 それでも、初期柿右衛門と言う人が一番多かったように思う。研究の進んだ現在でも、柿右衛門様式の初期のものと見る人が一番多いように思われるから、人間の感性なんてものは、学問の発達ほどには進化しないようである。

 もっとも、様式分類なんてものは感覚的なものであり、感性の問題であるから、理性の問題の学問とは関係のないことかもしれない。

 ところで、芙蓉手は、もともとは中国産である。日本の茶人の間で、夏に咲く芙蓉の花に似ていることから、俗に芙蓉手と言われるようになったらしい。

 この芙蓉手、大変に日本人に好かれたようで、寛永の頃から江戸後期までの長期間にわたって作られているようだ。

 ところが、我が家ではあまり好かれないようで、芙蓉手はこの一点だけのようである(注:その後1点追加されている)。それは、私が、真夏に咲くあの芙蓉の花の、そのあまりにもの強烈さに恐れをなし、近寄りがたい感情を抱いているからかもしれない。

 

 


 それに、やはり、既に閉鎖してしまった拙ホームページの「古伊万里への誘い」の「古伊万里日々雑感」の平成22年9月13日及び平成22年9月18日のところには、「古伊万里の分類」について、次のようにも書いていますので、それも再度紹介いたします。

*「古伊万里日々雑感 古伊万里の分類」(平成22年9月13日)

 現在、戸栗美術館で「古九谷展─伊万里色絵の誕生─」が開催されていますが(2010年7月4日~9月26日)、ちょっと行けそうもありませんので、せめてその概要だけでも知りたいと思い、戸栗美術館のHPを訪れ、「現展示のご案内」を拝見させていただきました。

 それを拝見していて、少々気になることというか、自分自身の「古伊万里の分類」について考えさせられました(~_~;)

 それは、どういうことかということですが、それには、まず、その「現展示のご案内」をお読みください。

 

<現展示のご案内>

古九谷展─伊万里色絵の誕生─
                  
会期:2010年7月4日(日)~9月26日(日)


《古九谷とは》

 肥前の有田(現・佐賀県有田町周辺)で17世紀中期に焼かれた伊万里焼であるにもかかわらず、長い間、加賀の九谷村(現・石川県加賀市)で焼かれていたと思われていた磁器が「古九谷」です。幕末に加賀で焼かれるようになった「再興九谷」に対して古い九谷焼という意味で名付けられ、加賀百万石のやきものと認識されてきた古九谷が、実は伊万里焼なのではないか、という学説が発表されたのは昭和13年(1938)のことでした。以降、長年にわたって古九谷は九谷産か有田産かという激しい「古九谷産地論争」が繰り広げられてきましたが、現在では発掘調査や文献資料の研究などによって、有田で作られたものであるという説が有力になり、その内の色絵製品の一部を便宜的に「伊万里焼の古九谷様式」と表現しています。


【17世紀中期の伊万里焼】

 伊万里焼は1610年代に佐賀県有田地域で始まった、日本初の磁器です。草創期には酸化コバルトを呈色剤とする顔料の呉須(ごす)で下絵付けをして青い文様をあらわす染付や、青磁や銹釉(さびゆう)などの色釉による文様表現しかなかった伊万里焼に、赤・黄・緑・紫などの上絵具でカラフルに絵付けをする色絵の技術が誕生したのは1640年代後半でした。それから20年間ほどの間に伊万里色絵は、淡い色調で幾何学文様を多用した祥瑞手(しょんずいで)・中国絵画のような人物や花鳥の文様が描かれた五彩手(ごさいで)・緑や青、黄色などの濃厚な絵具を使って大胆なデザインが描かれた青手(あおで)など、多様な展開と高度な技をみせるようになります。これらが現在、「古九谷様式」と呼ばれているものです。

 また、1660年代前後にはヨーロッパ向け輸出品として、素地の精製などの技術が飛躍的に発展した初期輸出タイプが作られました。

 17世紀半ばの伊万里焼には、色絵のみならず染付や茶色い銹釉を掛けた薄手のうつわ、明るい青緑色を呈した青磁、呉須を釉薬に溶かして瑠璃色に発色させた瑠璃釉(るりゆう)の製品にも優品が見られます。これらも、それぞれ藍九谷(あいくたに)・吸坂手(すいさかで)・青磁手(せいじで)・瑠璃手(るりで)などと呼ばれ、かつては「古九谷」とされていました。研究によって伊万里焼であることが確認され、古九谷から外されて伊万里焼になったのです。

 このように、一つの名称ではまとめきれない程さまざまな様式のやきものが「古九谷」という名前のもとにまとめられ、しかも認識されていた生産地が違っていたということから起きた混乱は長期化し、今なお研究者、陶磁愛好家、陶芸家、郷土史家らの間でくすぶり続けています。
 古九谷産地論争が過熱した一因は、古九谷の持つ大きな魅力です。当時の上流階級の求めに応じた丁寧な作行き、美しい絵付け、大胆な文様構成。この個性的なうつわに魅せられて多くの人々の想いが、半世紀以上にも及ぶ大論争を招いたといえます。今展示では、現在「古九谷様式」と呼ばれている祥瑞手・五彩手・青手に加えて、かつて「古九谷」と一括りにされていた17世紀中期の伊万里焼を一堂に展観して、複雑な研究史を整理しつつ、その技と美を紹介します。 
 

 これを読みますと、かつて「古九谷」と言われていたもののほとんどは、「研究によって伊万里焼であることが確認され」たということで「伊万里焼」に分類されています。
 わずかに、色絵製品の一部の「祥瑞手」・「五彩手」・「青手」のみが、今なお古九谷産地論争が研究者、陶磁愛好家、陶芸家、郷土史家らの間でくすぶり続けていることに配慮してか、便宜的に「伊万里焼の古九谷様式」と表現するということで「伊万里(古九谷様式)」と表記されています。かつて典型的な「古九谷」とされてきた初期輸出タイプの物にさえも「古九谷様式」という「様式」の表示をせず、単に「伊万里」のみの表示です。

 「古九谷」が有田産であることが明らかになってきた現在においては、当然の区分でしょう。
 また、「古九谷」が有田産であることが明らかになってきたことから、かつての「古九谷」を「伊万里(古九谷様式)」というように、やたらと「古九谷様式」、「古九谷様式」と「様式」を乱発することには混乱を伴うことも事実です。
 「伊万里焼」を「様式」で分類しますと、初期輸出タイプの物は「伊万里(初期柿右衛門様式)」と表記すべきなのか、「伊万里(古九谷様式)」と表記すべきなのかと迷います(>_<)
 「古九谷様式」と表示する分野を、極めて限定的に、色絵製品の一部の「祥瑞手」・「五彩手」・「青手」のみに限定するというようにすれば問題は少なくなるわけです(^_^)

 翻って、私の場合はどうでしょうか。すべて「様式」で区分しています。 「伊万里(古九谷様式)」、「伊万里(柿右衛門様式)」、「伊万里(鍋島様式)」などの如くで、どの様式にも属さない物は「伊万里(古伊万里様式)」としているわけです。

 私は、かつて「古九谷」といわれたようなものは、すべて、「伊万里(古九谷様式)」と表示していますので、拙HPの「古伊万里ギャラリー」には多くの「古伊万里(古九谷様式)」が登場するわけです(~_~;)

 ただ、このように「様式」で区分していますと、上に書きましたように、例えば、初期輸出タイプの物は「伊万里(初期柿右衛門様式)」と表記すべきなのか、「伊万里(古九谷様式)」と表記すべきなのかと迷いますし、また、どちらの様式にも当てはまらないような物の場合にはその様式表示に悩みます(>_<)

 では、様式区分は止めてしまえば、というご意見はもっともなのですが、、、、、。
 でもね~、昔は、古九谷とか、柿右衛門とか鍋島は別格だったんです。伊万里とは別物だったんです。古九谷とか柿右衛門とか鍋島に属さない、いわばカスが古伊万里だったんです。
 そういう歴史の流れの中で蒐集してきましたので、古九谷とか柿右衛門とか鍋島には特別な位置づけを与えたくなって、どうしても「古伊万里(古九谷様式)」とか「古伊万里(柿右衛門様式)」とか「古伊万里(鍋島様式)」とかの表記をしたくなるんです。

 このような情緒的な態度はもう改め、ドライにスパッと学問的に割り切る時代にきているのかもしれません(~_~;)
 でも、まだ未練があります(>_<)
 私の態度は少しづつ変化し、最終的には割り切った分類をすることになるのかもしれませんが、もう少しこのままの分類が続くことをお許しください(~_~;)

 

 

*「古伊万里日々雑感 早トチリ:古伊万里の分類2」(平成22年9月18日) 

 先日、戸栗美術館の「現展示のご案内」を読んでの感想を書きましたが、そこには、早トチリがあったようです(>_<)

 その後、戸栗美術館のホームページをよく見て見ましたら、私に早トチリがあったことがわかりました(>_<)

 戸栗美術館では、従来「古九谷」と言われていたものについてだけ、「古九谷様式」の文言を限定的に使っただけで、従来「柿右衛門」と言われていたものについては、依然として「柿右衛門様式」の文言を使っていることがわかりました(~_~;)
 また、鍋島につきましたは、「鍋島焼」と分類していて、鍋島を「伊万里」には含めず、「伊万里」とは別格に扱っていることがわかりました(~_~;)
 「鍋島は別格だよ! 伊万里なんかとは一緒には出来ないよ!」という態度でしょうか\(^o^)/ その点は、栗田美術館と同じですね。
 とにかく、私のかなりの早トチリだったわけで、反省しきりです(>_<)

 まっ、それはともかく、九州陶磁文化館では、従来の「柿右衛門様式」という文言は使わず、それに代わって「延宝様式」という文言を使っていますよね。

 古伊万里の分類は「日進月歩」です。
 そして、古伊万里の分類は、人により、美術館によりさまざまです!
 これからも、古伊万里の分類につきましては、注視していきたいと思っております。

 

 

 



 なお、この「柿右衛門様式色絵花鳥文芙蓉手小皿」の類品が、「古伊万里再発見」(野田敏雄著 創樹社美術出版 平成2年12月25日発行)の図142に載っています。

 

色絵花鳥文芙蓉手小皿 (「古伊万里再発見」の図142)

口径:14.0cm 高台径:7.8cm

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葉物野菜の収穫

2019年12月16日 18時17分50秒 | 家庭菜園

 今日は、家庭菜園に、葉物野菜の収穫に行ってきました。

 冷蔵庫内に葉物野菜がなくなってきましたが、そろそろ家庭菜園の小松菜が採れる頃だな~思い、それを採りに行ってきたわけです。

 その他に、ホウレンソウ、チンゲンサイ、春菊などの種も蒔いてありますが、それらは、まだ、採れないようです。しかし、ホウレンソウは、もう少しで採れるかもしれません(^-^;

 なお、行ったついでに、食用菊の枯れ枝を根元から切って片付けたり、葉物野菜の根元付近に生えた雑草を取ったりと、ちょっと、家庭菜園の作業もしてきました。

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骨董市と古美術品交換会

2019年12月15日 18時55分08秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、月に一度の骨董市と古美術品交換会の日でした。

 12月も中旬なのに、今日は、それほど寒くもありませんでしたので、気分良く出発です(^-^;

 例によって、先ずは、骨董市のほうに、、、。

 骨董市は、だんだんと出店数が少なくなってきていて、どんどんと低調になってきている感じです(-_-;)

 それは、直ぐ近くに別な骨董市が出来、そちらの方が出展料が安いらしいので、そちらに出店替えをしている業者さんが増えてきているからなようです。

 そんな状況なものですから、古伊万里の出展数も少なく、気に入った古伊万里を発見することは出来ませんでした。

 それで、骨董市の方はそうそうにして引きあげ、次なる古美術品交換会会場へと向かいました。

 ところが、古美術品交換会のほうも、年末の納会だというのに、出席者が少なく、低調ムードです(-_-;)

 低調ながらも、淡々と進行していきます。否、むしろ、低調だからこそ、進行は早いんです。

 ところで、開始して間もなくの頃でした、伊万里の明治頃の大徳利が競りにかけられました。

 私は、特に興味はなかったんですが、どういうわけか、競り人と「目」が合ってしまったんです(^^;

 そうしましたら、競り人が、「お宅、買ってあげませんか。今日は、出席者も少なく、この大徳利を買ってくれそうなのはお宅くらいしかいないようだから、、、」と、私を直接指名してきたんです、、、(^^;

 それに対して、私は、「う~ん、でもね、大き過ぎて邪魔になるし、、、」と返答したんです。

 ところが、競り人は、「そう言わずに、買ってやったら、、、」と、再度、買うことを要求してきたんです(-_-;)

 そこまで言われると、私も、「今日は低調だし、今日の競りを盛り上げるためにも、景気付けの意味で、買ってやるか!」という気になり、発句に1,000円をプラスして競り落としました。

 競りは、その後もやはり低調で、低調のうちに午前中で終わってしまい、昼食を摂って解散となりました。

 

 今日ゲットした伊万里は、次の通りです。

 

伊万里染付牡丹文大徳利  正面

口には和紙を巻いた木製の栓が付いています。

高さ: 44.7cm

製作年代:明治時代

 

 

 

正面から右に90度回転させた面

 

 

 

正面から左に90度回転させた面

 

 

 

裏面(正面の裏側)

 

 

底面

高台径:13.5cm

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タイヤ交換

2019年12月14日 18時55分12秒 | その他の日記

 今日は、タイヤ交換をしました。

 ここのところ良いお天気が続いて暖かいんですが、このお天気が崩れると、一気に寒くなり、雪でも降ってくる可能性もありますので、早めに冬タイヤに交換したわけです(^-^;

 ところで、このタイヤ交換に備え、先日、ホームセンターから、油圧ジャッキと電動レンチを買ってきておきました。

 これまで、タイヤ交換は、手動式のジャッキと手動式の十字レンチを使用して行ってきたわけですが、最近、加齢とともに筋力が落ち、手動での交換が大変になってきたからです(><)

 もっとも、交換作業を車屋さんにお願いすれば済むことではありますが、当面は、引き続き、自力でやってみようと決意したわけです(^^;

 ただ、現実には、油圧式ジャッキや電動レンチはこれまでに使ったことがありませんから、まず、それらの取扱説明書を読むところから始めなければなりませんでした(><) そのことだけでも時間がかかってしまったんです(><)

 そして、いよいよ、実戦に及んだわけですが、おっかなびっくり、へっぴり腰の感があり、これまた、作業がスムーズにいきません(><)

 結局、これまでの手動でのタイヤ交換よりは多くの時間を要してしまったんです(><)

 でも、油圧式ジャッキを使っての車の上げ下げの作業は、力を入れることなく出来ましたので、かなり楽でした(^-^;

 また、電動レンチを使っての、タイヤのナットを緩めたり締め付けたりする作業も、力を必要とせず、しかも、ガガガガーと、瞬時に終わりますので、大変快適でした(^-^;

 今回は、初めてのことでもあり、これまで行ってきた手動での交換作業よりも時間がかかってはしまいましたが、だいぶ慣れてきましたので、次回からは、これまでのような強い力も必要としませんから、楽に交換出来ることでしょう(^-^; また、随分と時間も短縮されることでしよう(^-^;

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「黄金(きん)の日本史」

2019年12月13日 20時11分03秒 | 読書

 「黄金(きん)の日本史」(加藤 廣著 新潮社 2012年5月20日発行)を読みました。

 

 

 この本の「はじめに」には、次のようなことが書いてありました。

 

 

 「日本史が苦手」という人たちが多いと耳にした。

 「こんな面白いものは世の中に滅多にあるものじゃない」

 と信じている時代小説家としては、聞き捨てならない話だった。

 「一度ボクらの使う教科書を読んでみてください。うんざりしますから」

 若い人にそう言われ、早速、何冊かを手にしてみた。

 それは、老生が大学受験の時に学んだ教科書や参考書の三倍から五倍もあろうかと思われる、雑知識がすし詰めになった本であった。

 そこには、歴史を生きた人間の、呼吸も、息づかいも全く感じられなかった。

 これはもう、「歴史とはなにか?」という出発点の間違いである。文部科学省は、歴史を、ただの「暗記の学問」とでも勘違いしているのではないか?

 歴史は英語でヒストリー、フランス語でイストワールという。

 英語の「ヒストリー」の冒頭の「HI」は、呼びかけの、ハイ、ヘイと同じで、コーリング・アテンション(注目を呼びかける)の意味である(『コンサイス・オックスフォード・デクショナリー』)。その接頭語の後は、まぎれもないストーリー(物語)そのものである。

 つまり、併せると「注目に値する物語」となる。

 フランス語のイストワールは、もっとふるっている。

「①歴史」という訳語の次に、「②身の上話」「③作り話」という訳まである(『スタンダード仏和辞典』)から、思わず噴き出してしまう。

 さすが、鈴木信太郎、渡辺一夫といった、かつての洒脱な仏文学者たちの編集である。断然ユーモアがある。

 どちらにしても「おぼえる学問」ではないのである。

 といったわけで、お節介な老作家は、

「では、面白い歴史の本を書いてみよう」

 と、思い立った次第である。それには───

「なにか一つの柱を立てて、それにまつわる話にしよう。そうすると話の筋が一本通り、物語がよく判かるのでは───」

 それが「キン」である。

 この本の中では、俗に言う「おカネ」の「金」と区別するため、鉱物としての金を「キン」と片仮名書きにする積もりである。

 では、なぜキンが話の筋になるのか?

 それは「財の代表」であり、その集まるところが「権力と栄華の象徴」だからである。

 その結果が「注目すべき物語」になるのだ。

 

 

 また、表紙の裏面には、この本の宣伝文句として、次のように書かれていました。

 

 

歴史の主人公は黄金である。これを手中にするための覇権争いこそが日本史なのだ───金という覗き窓から定点観測すると、歴史教科書の生ぬるい嘘が見えてくる。ジパング伝説がどんな災厄を招いたのか、秀衡や秀吉の金はどこへ消えたのか、なぜ現代日本の金保有量は唖然とするほど低いのか───。歴史時代小説界のエースであり金融エキスパートでもある著者が、為政者への批判を込めて綴った比類なき日本通史。

 

 

 以上のように、この本は、「はじめに」や表紙の裏面に書かれた宣伝文句にありますように、「金(きん)」を柱にした日本史の通史になっています。

 ただ、普通の日本通史ではなく、エッセイ集といった形でもあり、内容的には経済史という面も有しています。

 著者の、長年にわたって蓄積された豊富な歴史知識に裏打ちされて書かれた内容の本で、気軽に読める内容でもあります。

 大変に面白い本です。是非、お読みすることをお薦めします。

 

追記: 先日(11月15日)、「家康に訊け」を紹介した際、ブログ友の遅生さんから、

 この本には、「家康の本拠地だった三河地方は、武田の甲州金山や織田の美濃金山のような、米麦以外の鉱物資源に恵まれていない」とありますが、美濃には金鉱山はおろか銅、鉄鉱山もなく、鉱物資源貧乏です。腐るほどあるのは石灰石。太古は海の底だったんです。
 織田の財布は、尾張熱田湊の交易です。美濃を必死に攻略したのは、戦略上の最重要地だったからにすぎません。美濃は今も昔も貧乏国です。

というような趣旨のコメントが寄せられました。

 それについては私も同感でしたので、本当に美濃に金山があったのだろうかと、その点に注意して読み進めました。 

それについて、この本では、次のように書かれていました。

 

「 最後の要因は、やはりキンである。信長はキンの産出国・美濃の斎藤道三の娘を妻に貰い、その妻の実家を奪って自分のものとした。これで懐にグ~ンと余裕ができた。

 そこに技術革新が加わった。信長の時代には、

  キン粉の採取から

  キン鉱石銀鉱石の発見へ

という新たな動きがあった。キン鉱石を採石し選別して、「灰吹法」という最新技術を用いて精錬する、その形が確立していった時期である。金山銀山もどんどん増えていった。

 一時、信長が天下を握りかけたのもそのお陰である。

                       (P.101) 」

 

 

 この本に依りますと、美濃に金山はあったことになりますね。

 でも、それは、とっくの昔に枯渇してしまい、今では話題にも上らないということなんでしょうか、、、?

 私の住んでいる所でも、少し山奥にでも行きますと、「昔の金採掘跡」というような場所がありますね。そのような所は、とっくの昔に採りつくされ、今では、せいぜい、小さな立て看板がある程度で、かつては金が出たことの名残を示している程度ですものね。

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