世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

魏志倭人伝・食飲用籩豆手食(後編)

2019-11-12 07:12:45 | 古代と中世

<続き>

(参照)魏志倭人伝・食飲用籩豆手食(前編)

次に食器以外の器具類である。それを卑弥呼や首長クラスの食事風景から考察したい。これも大阪府立弥生文化博物館に展示されている。

 

卑弥呼の食卓とある。う~ん!グルメ以外の何物でもない。現在であれば相当の出費となる。ここで調理された食べ物は、漆塗りの脚付の膳に並んでいる。膳は古代中国で云う『案』である。この『案』が邪馬台国に存在したのかどうか?

この『案』に似た長方形の木製の板に低い脚を付けた几(き)が登呂遺跡から出土している(登呂に行ったのは二十数年前、従って写真は残っていない)。登呂遺跡では他にも盆に似た、縁が四周に渡り盛り上がる板材が出土している。これは盆と考えてよかろう。

してみれば卑弥呼の食卓と称する『案』は、存在したとしても荒唐無稽なことではなさそうだ。しかし、箸や匙は見当たらない。これらを卑弥呼が手食したとは考えにくいがどうであろうか。

噺はやや飛ぶ。魏志倭人伝に記される事柄をレビューしてみる。伊都國は郡使が常に駐まる所なり・・・とある。

次に女王國より北には、特に一大率を置き諸國を検察する。諸國はこれを畏れ憚(はば)かる。常に伊都國に治し、國中に於いて刺吏の如きあり・・・とも記している。

 

更には、以下の一文もみえる。それは景初二年六月に倭の女王が大夫難升米等を遣わして郡(帯方郡)に至らしめ、天子に至りて朝献せんことを求む。帯方郡太守劉夏、吏を遣わして将って送りて京都(魏の都)に至らしむ・・・とある。

 

倭人伝には以下の一文も記載されている。それは正始元年に帯方郡太守弓遵(きゅうじゅん)が建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国に至らしめ、倭王に拝仮し、併せて詔をもたらし、金・錦罽・刀・鏡・菜物を賜う・・・とある。

 

これらは。何を物語っているか。帯方郡使が倭国に遣って来た際は、いつも伊都国に駐在した。この帯方郡使は漢族か、それとも扶余族であろうか。いずれにしても箸や匙を使う人々である。その郡使等の食事には箸や匙が用いられたであろう。伊都国では箸や匙は周知のことであったと思いたい。

伊都国には一大率が置かれた。その官吏は帯方郡使と交渉があったであろうことは、容易に想定される。彼らに箸や匙が伝播するのは、さしたる時間を要しなかったであろう。

また大夫難升米は魏都へ向かい朝献(朝見)したのである。難升米は魏都で箸・匙を確実に使用したであろう。場合によっては土産として持ち帰った・・・この程度の想定は許されるであろう。

帯方郡守・弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉梯儁(ていしゅん)を倭に遣わし、倭王に拝仮させたとある。倭王は卑弥呼にほかならず、梯儁は卑弥呼に面会したのである。確実に歓迎の宴が開催されたであろう。この梯儁が手食したとは思えない。

以上のように見てくると、卑弥呼の食卓に違和感はなく、何故箸と匙をディスプレイしなかったのかと疑問が湧く。

もう少し事例を追求してみたい。前編でも述べたように古代中国で几や箸が用いられたのは、祭祀・儀礼用を初めてとする。卑弥呼は巫女(シャーマン)と云われている。祭祀・儀礼の延長としての卑弥呼の食卓は、無理な想定とは思われないことは、既に説明してきたとおりである。

ここで、一つの事例として吉野ヶ里遺跡・北内郭に想定復元されている祭殿に祭祀と首長以下役人や有力者と思われる人々が会合をしている場面が、それこそ想定復元されている。

先ず、祭殿は巨大である。柱の数や柱間の寸法は、考古学的所見に基いているが、高さはどうであろうか?・・・三層をなしている。これも考古学的所見による復元であろうか・・・多少なりとも疑問に思うが、それが課題ではないので先に進む。その三階が祭祀場面である。まずその復元場面を紹介しておく。

三種の神器を祀った祭壇には、背の低い几に神饌が並んでいる。中国古代の故事に倣ったものであろう。この場面に違和感はないが、三種の神器はどうであろうか? つまり、古代の倭国では祭祀場面に几が用いられていたであろう。

次に祭殿の二階の場面である。

 

首長クラスになると会合・会食場面で几が用いられた様子が想定復元されている。あくまでも想定復元であるが、ここまで観てきたように几や高坏・碗は良いとして、箸ないしは匙が見当たらない。まさか手食ではあるまいと思うが・・・。

以下、くどいようであるが、もう一つの事例を考えてみたい。出雲弥生の森博物館の展示ジオラマで、四隅突出墳丘墓の墳頂での葬送儀礼場面である。

 

 

埋葬場面を見守る首長夫妻の前には、供物がそなえられた几が三つ並んでいる。一見高坏にも見えるが脚が4本あることから几である。儀礼の場面には几が用いられていたであろう。尚、首長夫妻は胡坐や正座ではなく、腰掛に座っている。

以上、観てきたように魏志倭人伝の『食飲用籩豆手食』は、庶民(下戸)の間の事で、倭人伝が記載する大人(だいじん)は箸や匙を用い、高坏と共に食膳に相当する案や、机に相当する几や盆を用ていたであろう。相当に衛生的であったろうと思われる。

 

<了>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿