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弥生・古墳時代とアカ族の舟形木棺

2021-04-09 07:47:27 | 日本文化の源流

我が国の円墳、方墳などの土盛りした高塚古墳のルーツは、中国江南の土墩墓と云われている。その土墩墓から舟形木棺が出土する。四川省成都では、約2500年前(春秋晩期―戦国早期)の舟形木棺群が発見された。この舟形木棺は四川から江蘇までの長江流域以南に存在する。その舟形木棺は日本の弥生期の墳丘墓や古墳にも存在し、鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉を伴っている。

この舟形木棺について、日本では一般論として、丸木舟や準構造船の刳舟部を模したと云われているが、果たしてどうであろうか? 『古事記・上巻』には、「鳥之石楠船神、亦名謂天鳥船(とりのいわくすふねのかみ、またのなをあめのとりふねという)」と記されている。天鳥船は、鳥が地上や海上を自由に飛ぶことから冠せられ、霊魂を船に載せ鳥に案内させて、太陽のもとに行く思想であったと思われる。

ここで中国に於ける舟形木棺について、いま少し詳しくみてみる。浙江省杭州の水田から良渚文化期の遺跡で発見された舟形木棺の断面は、弧の形をしており大木を刳り抜いて作られ、赤色の漆が塗られていた。この舟形木棺は土葬であった。中国では舟形木棺は、地下に葬られるものもあれば、断崖絶壁の洞穴内に置かれるものもあり、断崖絶壁に懸けられているものもある。

断崖絶壁の洞穴内に置かれた舟形木棺として著名なものとして、武夷山九曲渓のそれがある。四曲と三曲間の両岸の絶壁にある洞窟に安置されていると云う。SNS上で写真を探すが刳舟状の木棺と明確に視認できる写真が目に入らない。

断崖絶壁に懸けられる舟形木棺の葬送を中国では、懸棺葬と呼ぶようである。この懸棺葬について調べていると、新華網日本語版に『古DNAの解析で懸棺葬の起源を解明』との記事が掲載されていた。“雲南省昭通市威信県の瓦石懸棺遺跡人骨をDNA解析した結果、被葬者は古代百越(古越族)の子孫であることが判明したと云う。そして、懸棺葬の風習が約3600年前に、中国南東部(呉越)の沿海地区で生活していた百越のグループで発生したと推測している。”

(雲南省昭通市威信県の瓦石懸棺遺跡 出典・新華網日本語版 明瞭に舟形木棺と視認できる)

余談であるが、漢族の南下圧力に押されて、古代百越の一派が渡海して日本列島に来たとも云われている。

この懸棺葬というより舟形木棺は、百越で発生したとする傍証として、『淮南子・主術訓』に以下の文言が記載されている。「湯武①は、聖主なり。しかるに越人と干舟に乗りて江湖に汎かぶ能わず」とある。干舟とは刳舟であると云われている。刳舟は生活必需品であり、その所有者が死後、副葬品のように冥界中においても継続して用いられるよう、願いを込めて舟形木棺になったであろうと考えている。先に古事記の天鳥船の記事を引用して、霊魂を船に載せ鳥に案内させて、太陽のもとに行くという思想であったろうと記した。そのようにも考えられるが、何でもかんでも古代人の信仰や霊魂のありように帰結させる話には、少なからず抵抗を覚えるが、生活必需品の形をそのままに木棺にしたとの想定には抵抗を覚えない。

先の新華網日本語版には、ベタの数文字ではあるが、懸棺葬遺跡に関して、“タイのパーンマパー郡の懸棺葬遺跡”と記されているものの、それ以上の記載はない。タイのパーンマパー郡とは、メーホンソン県最北部で避暑地バーン・ラックタイの東隣りであるが、パーンマパー郡の懸棺葬について種々検索するもヒットしない。勝手ながら記事内容から想定して紀元前後の遺跡と考えられる(サバの読み過ぎか?)。

(パーンマパー郡の位置関係は、県都メーホンソンの北東に位置し、国共内戦で国民党第93師団が逃れてきたバーン・ラックタイの東隣となる)

そこでアカ族の舟形木棺である。アカ族は中国雲南では哈尼(ハニ)族と呼ぶ。北タイのアカ族は、せいぜい100-150年前に雲南から移住してきたものである。その哈尼族は古羌人(こきょうじん)から分かれたものであると云われている。羌族の初出は『後漢書・西羌伝』からで、羌(きょう)族の詳細が記されている。それによると羌の源流は三苗、姜氏(きょうし)の別種とある。三苗の領域は、長江流域の洞庭湖から鄱陽湖の間であるといわれている。つまり哈尼族と苗族の本貫の地は隣接しており、倭に渡海した百越の一派の本貫である越にも隣接していることになる。

さてアカ族の舟形木棺に関し、その葬送儀礼の一端を関東学院大学の勘田義治氏の論文から引用する。

“入棺式を迎える前に村人たちによって棺が作られる。式の3日前に若者が森に入り、パンロンと呼ばれる大きく丈夫な木を伐採する。伐採された木は1日そのまま山に置かれ、3日目に村に持ち込まれ、棺作りが始まる。持ち込まれた丸太状の木材はまず縦に二つに割かれ、それぞれから本体と蓋が作られる。本体は山刀でボート状に底を丸く削り込まれた舟形木棺である。埋葬地へ運ぶときに使われる翼の様な独特の形をした腕が本体から彫り出されるのが特徴である。蓋と本体が接する面は慎重に削られ、蓋をすると本体とは寸分の隙間も無いように作られている。棺の蓋と本体が出来上がると、祖先のもとへ子孫の一人が旅立つといった内容の祈祷と暗誦がピマ②によって始まり、村人たちによって内部が水もしくは酒で清められる。その後、光沢のある赤い布が敷かれる(筆者注:先に良渚文化期の舟形木棺は朱の漆が塗られていたが、その形が赤い布で連綿と繋がっているであろう)。遺体がピマと息子に抱かれて棺の中に収められる。遺体が棺に納められると“涙をぬぐう”という意味の儀式が家族によって行われ、綿の房で故人の目が拭われ、唇を湿らせる。覆いと赤い布が交換され、遺体が更に布で幾重にも巻かれた後、いくつかの新しい衣類のセットが遺体の上に置かれ、縁起物の布リング、故人の愛用品などが隙間なく詰められる。蓋と本体の継ぎ目に粘土が入念に塗られ、蓋と本体がしっかりと慎重に密封される。この日から4夜、棺は家の中に安置され、5日目に山の中の墓所に埋葬される。”・・・以上がアカ族の葬送の概要である。

過日、広島市立中央図書館に2時間かけて出向いた。カノミタカコ著『タイの山より愛をこめて』なる図書に、アカ族の葬送儀礼が記されているという。舟形木棺の写真が掲載されているものと考えていたが、思惑は外れ写真はなかった。そこで北タイ日本語情報誌に掲載されていたアカ族の舟形木棺のスケッチを掲げておく、なるほど弧を描く舟形の木棺である。

(アカ族の葬送 出典:北タイ情報誌CHAO掲載の写真をスケッチ 白木の舟形木棺である)

先にも記しが、木棺の底には赤い布が敷かれるという。これは、日本の弥生、古墳時代の墳丘墓・古墳の遺体の下に朱(水銀朱)が敷かれるのと同じ意味合いを持つものと思われる

さて、前述迄の弥生期・古墳時代の本邦の舟形木棺は、呉越の地からもたらされたものとやや断言的に記述した。しかし、朝鮮半島経由も考えられるので、その検証を行っておく。

従来、朝鮮半島では舟形木棺の出土例はなかった。SNSに掲載の大韓民国民団新聞の2006年4月19日付け記事によると、2005年に慶尚南道昌寧郡の松峴洞(日本語読みでは【しょうけんどう】)古墳群7号墳からクスノキ製の舟形木棺が発見された。長さ3.3m 幅0.8mの木棺であり、これほどのクスノキは朝鮮半島では自生しないという。済州島ではわずかにみられるが、日本列島のように巨木にはならず、列島から運ばれたと思われ、西暦500年前後とのこと。

 

(出典:民団新聞 松峴洞古墳群7号墳出土の舟形木棺)

後漢時代に洛陽の人びとは、クスノキの木棺材を数千キロ隔てた江南・呉越の地から運んでいた。従って舟形木棺の本場である江南からクスノキ材が、朝鮮半島南部に運び込まれたとも考えられる。その可能性はどうであろうか、1971年に発見された百済の武寧王陵の王と王妃の木棺材は、日本からもたらされたコウヤマキで、朝鮮半島では自生していない。このように木棺材はクスノキであれコウヤマキであれ日本列島から運ばれたであろう。

つまり、朝鮮半島の舟形木棺は半島北部からの南下ではなく、江南・呉越から直接伝播したか日本経由が考えられ、その根源は呉越の地で同じであろう。

(松峴洞古墳はまだしも、武寧王陵は日本列島からそれなりの距離である。古代人は想像を超えることをしばしば行ったようだ)

木棺材の日本列島からの運搬について「南北市糴」が頭をよぎる。『三国志』魏志東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」、同倭人条の「南北市糴」の記事について、対馬・壱岐の倭人は、コメを売買し鉄を入手していたと従来は解釈されていた。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で、5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで(最近は3世紀に始まるとの説が存在する)、倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によって得ていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から、それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものである。ここで従来は、鉄の取引はコメと想定されているが、伽耶でも稲作は営なまれており、平地の少ない対馬や壱岐からコメを交換材として運ぶ想定にはやや無理が考えられる。コメが代価であろうことは完全否定しないが、代価は木棺の材料としてのクスノキやコウヤマキもその一つであったと考えられる。

以上、長々と記述したのは、本邦の舟形木棺とアカ族の舟形木棺の出自は、中国呉越の地にあるであろうとの噺であった。若き研究者は日本古代の葬送儀礼研究に関し、広い視野に立脚されることを望んでいる。

(注)

 ①湯武:湯は殷の湯王、武は周の武王

 ②ピマ:アカ族の司祭

(参考文献)

 〇 新華網日本語版“古DNAの解析で懸棺葬の起源を解明”

 〇 2006年4月19日付け “大韓民国民団新聞”

 〇 関東学院大学・勘田義治氏 “チェンライのアカ族におけるキリスト教共同体形成過程とその変化”

 〇 北タイ日本語情報誌・CHAO 78号

<了>

 


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