日本書紀は難解である。従来適当に読み流していたが、今回それなりに読んでいると、神代上の、いわゆる天地開闢譚に大八洲國(日本)は魚の上に浮かび漂うとある・・・これは何ぞや。以下、『日本書紀』における天地開闢の一節である。
古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟滓にして牙を含めり(いにしえにあめつちいまだわかれず、めをわかれざりしとき、まろかれたることとりのこのごとくして、ほのかにしてきざしをふふめり)。其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて、精妙なるが合へるは摶り易く、重濁れるが凝りたるは竭り難し。(それすみあきらかなるものは、たなびきてあめとなり、おもくにごれるものは、つついてつちとなるにおよびて、くはしくたえなるがあえるはむらがりやすく、おもくにごれるがこりたるはかたまりがたし)。故、天先づ成りて地後に定まる(かれ、あめまづなりてちのちさだまる)。然して後に、神聖、其の中に生れます(しかうしてのちに、かみ、そのなかにあれます)。故曰はく、開闢くる初に、洲壌の浮び漂へること、譬へば游魚の水上に浮けるが猶し(かれいわく、あめつちひらくるはじめに、くにつちのうかびただよえること、たとえばあそぶいおのみづのうえにうけるがごとし)。時に、天地の中に一物生れり。(ときに、あめつちのなかにひとつものなれり)。状葦牙の如し。(かたちあしかびのごとし)。便ち神と化為る(すなわちかみとなる)。國常立尊と號す(くにとこたちのみこととまうす)。至りて貴きをば尊と曰ふ(いたりてとうときをばそんといふ)。自餘をば命と曰ふ(これよりあまりをばめいといふ)。並に美拳等と訓ふ(ならびにみことといふ)。下皆此に効へ(しもみなこれにならへ)。次に國狭槌尊(つぎにくにさつちのみこと)。次に豊斟渟尊(つぎにとよくむぬのみこと)。凡て三のの神ます(すべてみはしらののかみます)。乾道獨化す(あめのみちひとりなす)。所以に、此の純男を成せり(このゆえに、このをとこのかぎりをなせり)。・・・とある。
ここで・・・『古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして』から、『神聖、其の中に生れます』までの叙述が、中国古典の『淮南子』や『芸文類聚』などの文章を借用しての表現であることは、多くの学者が指摘してきたことである。
そう云えば須弥山は、世界の中央で大海に浮かぶと云う。『日本書紀』によれば推古天皇二十年(612年)の項が、須弥山の初出だと云われている。それには・・・是の歳、百済国より化来る者有り、・・・略・・・仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構らしむ・・・と記載されており、更に斉明天皇五年(659年)に・・・吐火羅の人、妻舎衛婦人と共に来けり。甲午、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗たまふ・・・と、この一文は我が国最初の庭園が、仏教的世界観を象徴したものであったと述べている。
参照:(https://blog.goo.ne.jp/mash1125/m/201707)
日本書紀の成立は、養老四年(720年)に舎人親王等の撰で成ったと云われている。つまり須弥山思想伝播の百年後に成立したのである。本邦の天地開闢に須弥山が登場するとは思ってもみなかった。
ところが、タイでは須弥山は日常的と云うより、日本とは比較にならないほど親しみや信仰の対象のようである。2018年のチェンマイでのロングステー中にLAN NA EXPO 2018を覗いてみた。出目金のような木彫りの造形物があり、そのブースのおじさんに聞いてみた。するとปลาอานนท์(プラー・アーノン:アーノンと呼ぶ魚)だと、教示して頂いた。
タイに於ける宇宙観は、西方インドの影響つまり、ヒンズーや南伝上座部仏教の思想を受け継いでいる。それによると須弥山(スメール)は宇宙の中心で、プラー・アーノン(サット・ヒマパーンに棲む魚)によって支えられ水面に浮かんでいる。
参照:(https://blog.goo.ne.jp/mash1125/m/201806)
これをみていると、文化や文明は西から来たもので、東は海原だけで何もないものと認識されていたように思われる。タイでは生草坊主も多いが、タイ人は敬虔な仏教徒であると認識せざるを得ない。
<了>
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