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続・蘇我氏はスサノオの末裔か?

2022-01-15 08:34:13 | 古代日本

再び根拠希薄な話で恐縮である。蘇我氏とスサノオ、更に言及すれば蘇我氏と出雲族神が繫がりそうだ。それに比較し大和の南部を古代風に表現すれば磐余。その磐余と云うか蘇我氏の領域(今日の橿原市、桜井市、明日香村に限定した)に天孫族神が鎮座する神社は、出雲族神を祀る神社より少ない。まさにコレは何だ。

(上表の前提は、彼の領域の天津神と国津神の内、天孫族神と出雲族神のみをピックアップしたものである)

大和建国の創始者・神武天皇は磐余に宮居を構えたと伝わるが、神武天皇を祀る神社は橿原神宮のみで、その創建も明治時代で遥かな後世である。天照大御神を祀るのは5社に対し、大国主命を祀るのも5社である。特筆すべきはスサノオを祀る神社が11社で圧倒的に多い。これは何故だ。

磐余において神武天皇は歓迎されなかったのか?。梅原猛氏ではないが、出雲族神はヤマトを追い出され、まさに『神々の琉竄』として、出雲の地に追いやられたのか?。

磐余では天照大御神も神武天皇も、出雲族神に囲まれて居心地が悪かったに違いない。Google Earth上にはプロットしていないが、15代・応神天皇の母君である神功皇后の宮居が磐余(若桜宮)に存在する。応神天皇は即位後の遷都記事が存在しないことから、引き続き磐余の若桜宮を用いたと考えられる。その応神天皇を祀る神社は、当該領域で16社にのぼる。

妄想をお許し願えれば、神武天皇は磐余の地では相手にされなかった。そこは出雲族神の天下であったのだ。応神天皇の御代に至り、出雲族神は排除された。しかしながら出雲族に繋がる蘇我氏の庇護のもと、出雲族神を祀る神社は存えることが可能であったろう。何よもスサノオを祀る神社が多い。このことからも蘇我氏はスサノオの末裔であろうかと思われる。

注目すべきことがある。それは継体天皇だ。継体天皇の生まれは近江・高島であるが、育ちは越前である。越前の三国国造は蘇我氏との伝承も残る。蘇我氏領域の磐余に継体天皇の玉穂宮。そこはスサノオの領域でもあった。継体天皇は一体何者か・・・との疑問を持ち続けている・・・これについては、何時の日か語りたい。

以上、やや疑問符のある話を綴った。残念なのは、表の神社数について検証を行っていないことである。少なくとも延喜式所載の神社に絞って、話を展開すべきであろうが、面倒クサイとの理由だけで、各神社の創建由緒まで調査していない。大神神社のように古社から明治創建の橿原神宮まで、一つの土俵にのぼらせている。従って記述の内容は、限りなく疑問符がつく話である。

<了>



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