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秦氏は何者?『太秦・秦氏と秦始皇帝』

2023-11-12 10:04:34 | 古代日本

過日、山城国葛野郡太秦を本拠とした秦氏について調べていると、以下の内容を掲載したブログがHitした。

秦河勝像 大酒神社

曰く“『日本書紀』によると、秦氏の出自は現カザフスタンとウィグルの間にある「弓月国」であるとのこと。弓月国はネストリウス派キリスト教(景教)を信仰する国”・・・とある。多分、言語学者・佐伯好郎氏や田中英道氏の著書を参考にされたものと思われるが、どこの何が出典なのか記載されていないのでよくわからない。しかし『日本書紀』には、上掲の一文はどこにも記載されていない。

『日本書紀』によると秦氏の初出は、以下のようなものである。応神天皇十四年①、弓月君が百済からやってきた。奏上して「私は私の国の百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているのでみな加羅国に留まっています」と云った。そこで葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)②を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった。 ―略― 十六年八月、平群木菟宿祢(へぐりのつくすくね)らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れて、その罪に服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきた。”

先述の秦氏の出自が「弓月国」であるとは、『日本書紀』は応神天皇条以降のどこにも記載されておらず、ましてや「弓月国」なる文言は、「弓月君」以外にどこにも出現しない。

そこで「弓月君」と「秦氏」についてである。渡来後の「弓月君」の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のようだったことから、仁徳天皇の御代に「波多」の姓を賜ったとされている。

広隆寺山門 秦河勝建立

京都・大酒神社 

創建に関して『広隆寺来由記』では、仲哀天皇(第14代)の時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、弓月君の父親)が「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるとする

京都・木嶋神社(別名・蚕の社)

秦忌寸都理が祀った松尾大社と同じ神紋をもつ。秦氏との関連が指摘されている

ここで太秦・秦氏は秦始皇帝の末裔であるとの伝承にふれておく。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば、“太秦公宿祢として「左京 諸藩 漢 太秦公宿祢 秦始皇帝三世孫考武王之後也」”と記され、これは“秦氏は、秦始皇帝の末裔”という意味の記載である。この記載内容は、年代が合致しないなど信憑性に疑問ありとされており、その出自は百済からの渡来(新羅渡来説も存在する)であるものの、その素性は明らかでなく、秦氏自らが権威を高めるために、秦王朝の名を借りたというのが定説となっている。

但し『日本書紀』は弓月君が百済から渡海したと記している。秦末期の動乱時に秦の民が、朝鮮半島に逃れ、その末裔が弓月君の集団であった可能性は考えられる。しかし、これは推論であり、古文献は黙して何も語っていない。

つぎに「弓月国」である。それに関連して中国史書を渉猟したのが佐伯好郎氏である。資治通鑑は元豊七年(1084年)に成立し、全294巻で構成されている。その巻199に「弓月道」との記載がある。“永徽二年(651年)秋,七月,西突厥沙鉢羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城 及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、 右驍衞大將軍契苾何力爲弓月道行軍總管,右驍 衞將軍高德逸、右武候將軍薛孤呉仁爲副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。”つまり、西突厥の沙鉢羅可汗が幾つかの県や城を攻め数千人を殺戮したので、梁建方将軍、 契苾何力将軍を弓月道行軍総管に任じ・・・・云々とある。ここで「弓月国」との文言はなく「弓月道」と記載されている。この「弓月道」は北海道の用法と同じであるので、一定の地域を表していることになる。

その「弓月道」は、漢族にとって異民族の西戎の地である現・新彊ウィグル自治区伊寧市の弓月城が道都であったかと思われる。この弓月城が秦の始祖あるいは秦始皇帝の系譜とどのような関係にあるのか。

前905年、周の考王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴(えい)の姓を賜り、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現・甘粛省張家川回族自治県)であったと云う。この秦の最初の本拠秦邑と弓月城との関係は、中国史書は黙して語らず、先の資治通鑑も「弓月道」の記載以外に弓月道と秦の事どもについて何も語っていない。従って秦氏あるいは秦の姓である嬴(えい)氏の出自が「弓月城」なり「弓月国」と繋がることは文献上証明できない。

左上の白抜きが弓月城、右下のそれが秦邑。秦始皇帝の始祖(非子)は姜族との説もあるが・・・

思うに「弓月君」と「弓月城」の語呂合わせと、証明不能な『新撰姓氏録』の記載文が連想ゲームのごとく組立てられたものと思われる。

尚、崇神天皇諡号「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)」の「御間城入彦」とは、任那から倭へ渡来したと云う意味。入彦とは任那から倭へ入り婿となったと云うこと。「イニエ」は「伊寧(いねい、イー二ン)」を表していると考えられるとした、原始キリスト教徒たちは、伊寧(弓月城)から任那へ来て、その人々が渡来したとの説も存在する。まさに苦しい語呂合わせで証明不能な話である。

以上、結論として思うに『日本書紀』の記述によれば、秦氏は百済から渡来した「弓月君」とその子孫で、動乱を避けて逃れてきた漢族であったことは推測できるが、秦始皇帝とつながり、それはユダヤ人であるとの俗説には同意しがたい

注)

①応神天皇十四年: 応神天皇十四年は西暦283年とされるが、そうであれば時代観はまったく合致しない。実年代は4世紀末―5世紀初とされている。

②葛城襲津彦: 武内宿祢の子で4世紀末―5世紀前半頃の人物とされている。

③大酒神社: 延喜式神明帳によれば式内社で、当時は「大避神」と呼ばれていた。祭神は秦始皇帝、弓月君(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)である。このことも、秦氏が秦始皇帝の末裔であるとの誤解を与えている一要因と思われる。広隆寺由来記では、第14代仲哀天皇の時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、弓月君の父)が、「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるとする。また、大避神の大避とは、漢語で大闢(だいびゃく)と記し、ダビデをさしており、秦氏はユダヤ人の景教徒だとの解釈もある。ところが中国語翻訳で“ダビデ”と入力すると“大衛”と翻訳される。大闢(だいびゃく)がダビデとの説も今一つ腑に落ちない。

④木嶋神社: 通称「蚕の社」と呼び、秦氏との繫がりが云々されている。神紋は双葉葵で、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が祀った松尾大社の神紋と同紋である。

<了>

 



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