〇中国東北部小規模国家群成立と高句麗及び倭国
紀元前8-7世紀には、遼寧省付近で、幅広の遼寧式銅剣や多紐鏡を特色とする青銅器文化が成立し、やがて朝鮮半島に伝わって一種独特の文化圏が形成され、それは日本列島に影響を及ぼすに至る。前4世紀になると鉄器が半島北部に登場して古代社会の状況を一変させる。
(遼寧式銅剣:韓国中央博物館HPより)
中国東北部にあった燕國の影響を受けたこの鉄器文化が、半島南部に伝わるのは、それからかなりあと、紀元前2~前1世紀のことで、この鉄器の普及によって、それまでの共同体的な村落社会から、首長に率いられた小規模な国家群が成立する。中国の秦始皇帝が全土を統一する頃にあたる。
その中で檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮の三つの王朝が相次いで興亡した。
そのなかで高句麗の建国は、紀元前後であると考えられている。高句麗騎馬民族が平壌の地に都を遷したのは、5世紀初めであった。遷都を決めたのは好太王(広開土王・在位391-412年)であろう。
好太王碑は、子の長寿王が414年に古都丸都城に建てたものである。その碑文は、民族の出自を語るところから始まる。
(好太王碑=広開土王碑 Wikipediaより)
『惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北扶余天帝之子』
碑文は、高句麗は鄒牟王(すうむおう:朱蒙・東明王)が建国し、その彼は北扶余の天帝の息子であったとしている。『三国遺事』によれば、北扶余は、天帝が紇升骨城に天下って建国したものと記している。これは本邦の天孫降臨神話と同じである。
『三国遺事』巻二の『駕洛國記』に、伽耶の建国神話が記されている。そこには『古事記』の建国神話と類似した構成を持っている。
- 国土を支配せよとの天神の命を受けて天降ること
- 真床覆衾(まとこおふすま)(記紀)、紅幅(駕洛國記)などの布帛(ふはく)に包まれて降下すること
- 槵触(くしふる)、旨日(くしひ)、久土布流(くしふる)(以上、記紀)
、亀旨(駕洛國記)など、ほぼ同一地名に降下したこと
(韓国・亀旨峰 Google Earthより)
以上のことから、天孫降臨の神話をもつ民族が北から南下し、伽耶の地を経由して日本列島へ渡って来たルートが浮かび上がる。但し、その民族が日本に征服王朝を建国したか・・・と云うことは疑問であるが。
<続く>
碑文の解釈は百家争鳴です。