世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

卑弥呼と出会う博物館・大阪府立弥生文化博物館(2)

2019-06-15 06:52:18 | 古代と中世

卑弥呼のフィギュアである。ハッキリ云って、ちょっと待って欲しい。卑弥呼の時代とは弥生だが、その時代にこのようなカラフルな衣装が存在したのか?

朱は存在したであろう。それは糸を染めることもできたはずだ。では青というか藍色はどうであろうか。う~ん分からない。

しかし景初二年十二月帯方太守劉夏は卑弥呼に『親魏倭王』の金印紫綬と絳地交龍錦(こうちこうりゅうきん)五匹・絳地縐栗罽(こうちすうぞくけい)十張・蒨絳(せんこう)五十匹・紺青五十匹を更には特に汝に賜うとして、句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を下賜したと魏志倭人伝にある。それらの反物がどのようなものであるか知識をもたないが、紺青とあることからフィギュアの紺色の布地そのものであったろうか? いずれにしても魏の皇帝から劉夏経由賜ったものである。

倭人は更に次のように記す。”其の(正始)四年に倭王(卑弥呼)は使いを遣わして、生口・倭錦・青縑・緜衣・布・丹木・・・等々を上献した”・・・とある。ここの倭錦とは絹織物以外のなにものでもない。つまり邪馬台国の時代に絹織物は自前で作ることができた。してみればフィギュアの衣装は、眉唾ではないであろう。光る鏡を仰ぎ持ち、邪馬台国の人々に魅力的な衣装を身に着けている卑弥呼は、カミ以外の何者でもなかったと思われる。

博物館には大阪府亀井遺跡から出土した儀仗が、復元展示されている。

卑弥呼は鏡で鬼道を行う以外は、このような儀仗をもち王権を誇示していたであろう。

ついでに卑弥呼の食卓が想定復元されている。先ず右側の漆塗り高坏には、玄米の炊き込みご飯とある。高坏は存在していた。魏志倭人伝には籩豆(へんとう)とあり、籩豆とは高坏のことである。しかし、漆塗りの高坏が存在していたのかどうか。これについては、漆塗りの器物が邪馬台国の時代に存在していたので可能性はたかい。

次に漆塗りの四角の脚付の膳が存在していたかどうかは知識を持たない。何故玄米か卑弥呼もメタボを気にしたのか? それにしても精米の技術は伝来していたと思われるが・・・等々不明に思うところもあるが、なんと贅沢な食卓であろうか。一汁一菜などと僧侶のみならず、江戸期の下級武士など較べようもない贅沢さで、なによりもカラフルでモノトーンではなく、暗さは感じられず明るい雰囲気がいい。

卑弥呼の宝石箱として、想定復元した首飾り等の宝飾品が展示されている。先に示したように魏から賜った真珠や金八両から作った金環(イヤリング)は見当たらないが・・・。先の卑弥呼の着衣と宝飾品で身を飾る様は、現代人と何ら変わることはなく、江戸期や昭和初期の庶民のモノトーンの世界と比べれば何なのかという想いがよぎる。ひょっとすると卑弥呼の宮室は、賜った鉛丹により朱色に輝いていたのではないかと、飛躍して考えたくなる。

卑弥呼のはなしのついでである。“卑弥呼以死”をどのように判断するのか、通説は“以て死す”とか“すでに死す”とする。松本清張は『清張通史Ⅰ』で“よって死す”とした。狗奴国との戦いに敗れ、その責任を追及され殺されたとする。卑弥呼は“年己長大”であると倭人伝は記す。年齢が長大になり、占い祈祷の能力が低下し、今までとは異なって忌み嫌われる存在となったのであろうか? 古天文学なる分野を開拓した元東京大学教授の斎藤国治氏によると、『天の岩戸隠れ』は皆既日食のことではないかと考えた。日食や皆既日食などの天文データは、規則的な天体の運動の結果として起こるので、古代に発生したことも正確に計算できると云う。その結果紀元248年に皆既日食が起こっていたことを突き止められた。248年とは“卑弥呼以て死す”と同年である。不吉なことが起こり、且つ狗奴国との戦に敗れた卑弥呼。やはり殺害されたのであろう。

卑弥呼に関する展示物は、上述のように暫し妄想の世界に導いてくれた。

 

<了>

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿