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出雲は+と×の王国 ―日本古代の道教(其之五)―

2022-05-25 07:33:17 | 古代日本

当該ブログで政治的な事どもは、あまり記載していないが、山口県阿武町は我が島根県益田市の隣町で、それなりの関心事である。田口翔容疑者に4630万円が誤って振り込まれ、それを流用された事件。事件の一連の過程を追うと、呆れたことばかりであるが、阿武町が契約した中山修身弁護士の費用が463万円とのこと。当該弁護士は対象額の1割であり、決して高額ではないと宣わるが、漁夫の利以外の何物でもない。阿武町が取り戻したのは、約4299万円とのこと。してみれば田口容疑者の流用額は331万円となる。その額を上回る463万円が弁護士費用と云う。言葉が悪くて恐縮であるが、中山弁護士は何を考えているのか、通常ならボランティアであろう。弁護士の風上にもおけない人物であろう。

<先週水曜日の続き>

とんでもないことから書き始め失礼しました。『出雲は+と×の王国』とは、やや誇張した表現と思わなくもない。

以下、松本司氏の著述内容を元本に考えてみたことである。陰陽道における四神相応吉祥の地とは、陰陽の交差により霊力が生まれるとの考え方である。それを単純に図形化したものが+や×で示されると、氏は記述されている。

その+字形を陰陽五行説の相克説では、五芒星の形で表されるという。それは須恵器の刻書や墨書による魔除け・辟邪の文様として見られる。

五芒星のバリエーションの一つに、五山送り火の大がある(五山の送り火については諸説そんざいする)。

(出典・京都市公式HP)

大は人の形であると同時に魔除け、厄除けの形であると松本司氏は記す。長野県木島平村の根塚遺跡から出土した3世紀後半の土器に刻まれた大もそれであろうか。

(長野県木島平村パンフレット)

+字形は冠木門(閂・かんぬき)形、井桁、九字、格子の文様などのバリエーションを持っている。

これらの文様は、古代出雲でそれなりにみることができる。先ず十字形である。加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸が出土した。袈裟襷文銅鐸の田の字というか十字の文様で、その帯の内側は格子文様である。

次は×の文様であるが、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39口中13口、神庭荒神谷遺跡出土銅剣358本柱344本に×印の刻印が刻まれている。写真は銅剣中子(軸)に刻まれた×印である。

×と云えば、出雲大社の千木は×形であり、ついでに四隅突出墳丘墓も×にみえる。

宍道湖沿岸の後期古墳(伊賀見1号墳、下の空古墳等々)の玄室閉塞石には冠木門(閂:かんぬき)状の文様を見ることができる。

(下の空古墳復元石室:来待ストーンミュージアムにて)

格子文は銅鐸にも多用されているが、松江市の丹花庵古墳の石棺文様にも見られる。

(丹花庵古墳石棺:現地にて)

このように弥生時代以降、およそ魔除けが必要と思われるものに、これらの文様が用いられている。以上、松本司氏の見解を自分なりに解釈して記述したが、時代は弥生時代後期から古墳時代にかけての話しを、ごっちゃ混ぜにして語っており、我ながら信憑性は?であることをお詫びしておく。

話しは飛ぶが、出雲の6世紀の石棺式石室をもつ古墳は、前述の伊賀見1号墳、下の空古墳、丹花庵古墳のみならず魚見塚古墳や東淵寺古墳等が存在する。その6世紀は、継体天皇やその御子の欽明天皇によって、地方支配が進められた時代であった。527年の磐井の乱が平定された後は、各地に王権の直轄地である屯倉(みやけ)が置かれた。

この出雲の石棺式石室は、肥後の様式と似ている。これは磐井の乱後、九州で勢力を伸長した肥後と出雲の交流の証であろう。ヤマトに両者が連携した証であろうか。そのせいもあってか、肥後の古墳の装飾文様と、前述の出雲の石棺文様に共通点が多い。以下、肥後の古墳ではなく、出土埴輪の格子文様を紹介しておく。

(立山山8号墳出土埴輪の斜格子文様・福岡県八女市)

(立山山13号墳出土埴輪の格子文様)

以上、話は飛んだが、上述の魔除け・辟邪の文様について、松本司氏は陰陽道で説明つけられている。はたしてどうか。諸家の見解をしらないので、何とも言い難いが、個人的には古来からのアニミズムの影響も大きいものがあると考えている。特に×印の文様は、今日の東南アジアの少数民族も、辟邪の文様として多用している。これらのアニミズムと道教の関係はどうであろうか。時間を見つけて調べたい事柄である。以上で週1回の5回シリーズを終了する。

<了>

 



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