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『稲作文化の原郷を訪ねて』最近読んだ書籍から(1)

2023-06-01 14:20:46 | 日本文化の源流

森田勇造著『稲作文化の原郷を訪ねて』三和書籍 2022.2.17初版本に目を惹く一文があったので、今回それを紹介する。

それは、森田勇造氏の1990年頃の中国の紀行文で、話し主体の写真なしが残念である。以下、注目した点のみ紹介する。

『はじめに』と題するイントロダクション2Page目に、“越時代の人々①は、男は褌を締め、全身に入れ墨をし、女は腰巻姿であったとされている。また儀式の時には、頭に精霊の宿る鳥の羽根をさす『羽人』でもあった。”さらに“越はやがて西の楚に滅ぼされ、越国の住民の多くが、南の福建に逃れ、閩越(びんえつ)国を建国する。”・・・と記されている。

ここで、アンダーライン部分の記述について、森田氏の現地での見聞によるものか、出典が記載されていないので確証が得られないが、呉越の民は羽人であった可能性を示唆されている。これは河姆渡(かもと)遺跡から出土した象牙の彫り物である『双鳥朝陽』が物語っている。

双鳥朝陽・河姆渡遺跡出土象牙線刻品

河姆渡人は太陽と鳥を崇拝していたので、このことは森田氏の記述内容の裏付けとなる。

本文28Pageには、“1990年2月5日、河姆渡遺跡博物館を訪れた。展示物の中に鳥の頭をデザインした器具があった。何に使われていたのか分からず、同行の叶樹望氏に尋ねと「これは祭事用か儀式用に使われたもので、当時の人々は精霊信仰であったと思われる」”・・・と説明されたと云う。これも写真が掲載されていないので具体的な姿が分からないが、東南アジアで現在も残る習俗や、日本の弥生土器に刻まれた線刻絵画に残る羽人のシャーマンも似たようなものと考えている。

注目した2点目は、1996年1月、江西チワン族自治区武鳴県馬頭鎮前鮮村を訪れられた際、広場に死者を弔う旗が三本の竿になびいていた・・・と、写真付きで記されていた。残念ながら、その写真の掲載は遠慮しておく。

これは、日本の古い習俗と同じである。日本書紀神代上の一書(第五)に云う。『一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗、祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣。』

つまり、一書(あるふみ)に曰く、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を産むときに火傷を負い、それがもとで逝去する。故に紀伊國の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る・・・と、記している。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の埋葬地には旗がなびいていたことになる。今日、中国深南部やインドシナ半島北部の少数民族の習俗と古代日本の習俗には、驚くほどの一致点が多いが、前述の事例もその一つである。Cf)「日本の幟や幡は何なのか」

森田勇造氏の『稲作文化の源郷を訪ねて』と題する、いわゆる回顧録であるが、現在では目にすることができそうもない1990年代の見聞である。果たして今日、どこまでこれらの習俗が残っているであろうか。記録媒体が多様な現代、映像で残して欲しいものである。

<了>

 



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