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藤ノ木古墳の金銅冠を見て考えたこと

2022-06-03 07:13:20 | 大和国

橿原考古学研究所付属博物館にて、藤ノ木古墳出土の金銅冠複製品を見て考えたことを記してみたい。当該古墳の被葬者像については、百家争鳴で定説らしきものはないようであり、今回はそれに加わるつもりはない。

(橿考研付属博物館にて)

金銅冠は伽耶や百済の影響を受けたモノであると考えられるが、彼の地に無い二つの特徴を持っている。左右二つの大きな立飾りの根元が山のように盛り上がっている。これを『広帯二山式冠』と呼ぶらしい。その山と山の間の谷になっている箇所下部の帯部分に蝶ネクタイのような装飾がつけられている。この2点は、朝鮮半島南部の金銅冠には認められないという。

以下、金銅冠が何を物語るか、博物館の展示品を見ながら考えたことである。先ず装飾には、花弁状の歩揺(ほよう)と鳥の歩揺が取り付けられている。装飾としては、鳥①、剣菱②、船③、波濤④が考えられる(③と④については異なる見解もあるようだが・・・)。これらの装飾で船③は、我が出雲の安来市鷺の湯温泉病院跡横穴墓から出土した金銅冠垂飾に、似た形状の船が存在する。

(島根県立古代出雲歴史博物館にて)

また滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳から出土した『広帯二山式金銅冠』には、二つに分かれた波濤に載る船があり、それとも似ており③を船にあてる妥当性は高いものと考えている。

(高島市HPより)

これらの装飾から想起されるのは、古事記所載の『天の鳥船』である。『天の鳥船』は天地をつなぐもので、死者の魂を天上や海上他界に運ぶものとされる。鳥はヤマトタケルのハクチョウ伝説にもあるように、死者の魂を天上に運ぶものであったり、『天の鳥船』の字義通りに、船の水先案内をするものである。ここで船③の中央の突起は、オールを架けるものか、はたまた熊本県山鹿市弁慶ヶ穴古墳壁画のように棺桶を示すのであろうか。

(弁慶ヶ穴古墳壁画 菊池市HPより)

このように藤ノ木古墳の金銅冠は、葬送儀礼に結びつけて考えられているようだが、果たしてどうであろうか。

ここで重要なコトは、この金銅冠が埋葬された王なり首長が生前身につけていたものか、それとも死後副葬品として新たに作られ、亡骸と共に埋納されたものであろうか。副葬品として亡き首長の生前の権力を示すものとして作られ埋納された、と捉えるのはやや無理筋の見解かと思われる。この金銅冠は、亡き首長が生前身につけていたものであり、その権力を誇示するためのものであったと考えるのが自然であろう。

そのように考えると、生前に死後の他界を示すような装飾の冠を着冠するであろうか・・・との疑問が湧いてくる。

橿原考古学研究所は、サンゴか樹木に見える立飾りを『生命の木』を象徴したものと発表している。古代中国の宇宙観によると、東の海のかなたに『陽谷(ようこく)』があって、そこに桑の大樹が二本、扶(たす)けあうようにそびえる『扶桑』であるという。太陽は朝、カラスの背に乗って大樹のてっぺんまで昇ったうえ、馬車で天空をめぐる。次の日もまた、太陽は生命を再生し、光り輝きながら昇る。このように太陽は生命と若返りのシンボルだから『扶桑』の木は『若木(じゃくぼく)』とも呼ばれている。

藤ノ木古墳の金銅冠を生前の被葬者が身につけていたとすれば、橿原考古学研究所が発表した『生命の木』とのコメントは、まことに相応しいものである。

被葬者である首長は、いつまでも若々しくありたいとの願いと共に、威厳を込めて金銅冠を着冠した。鳥①、船③、波濤④は自身の先祖が、遥かなる本貫の地から波濤を乗り越えて来たとの想いを感じさせると共に、統治する国邑の自然災害などの苦難を乗り越え、民衆に豊穣をもたらすシンボルのように見える。博物館にて複製された金銅冠を目前にして、考えたことは、生前の被葬者が死後の世界を冠に反映させたとは考えにくく、現世での威厳と治める国邑の豊穣を願ったモノであろうとの確信を持った次第である。

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<了>