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古代日本のルーツ・長江文明の謎(その3)

2021-11-02 07:16:44 | 日本文化の源流

〇古墳文化のルーツはどこにあるか

以下、安田教授の記述内容である。”1996年に奈良県纏向石塚古墳が発見された。実際に纏向石塚古墳を訪れてみると、それは驚くべきものであった。その古墳の土壇は、その規模といい、高さといい、長江文明の龍馬古城宝墩(りゅうまこじょうほうとん)遺跡のそれにきわめて似ているのである。纏向石塚古墳の土壇が三段なら、龍馬古城宝墩遺跡の土壇もまた三段である。墳丘の上に葺石がまったくないことも、日本と長江の二つの遺跡は共通する(当該ブロガー注:日本の弥生期の墳丘墓には葺石や貼石を持つものと、纏向石塚古墳のよに持たないものとが共存しており、持つものは朝鮮半島系と考えてよさそうだ)

また、纏向石塚古墳の封土のつき固め方にも、驚嘆せざるをえなかった。そのつき固めた土の感触が、龍馬古城宝墩遺跡での感触と非常によく似ていたのである。

これまで日本の古墳文化のルーツというと、高句麗をはじめ北方騎馬民族に求めるのがふつうであった。実際のところ、古墳時代に北方から渡来した人々が増えているのはたしかである。しかし、それだけではなかっただろう。日本の古墳文化のルーツを北方騎馬民族に求める考え方そのものも、根本的に見直す必要があるのではなかろうか。

日本の古墳のルーツについて、長江流域との関係を早くから指摘していたのは、樋口隆康氏である。氏は日本の古墳のルーツを長江流域の土墩墓に由来するのではないかと指摘しておられるが、その方向での見直しが求められてきている。”

また、古墳の副葬品からは、さらなる仮説を導き出すことができる。纏向石塚古墳からは直弧文が発見されているが、このルーツを長江の良渚遺跡に求めることができるのではないかという仮説を安田教授はもっているという。良渚遺跡から出土した玉器には、神獣人面文様が彫られているが、これがやがて日本の纏向石塚古墳の直弧文となったのではないかと安田教授は思っていると云う。

(良渚遺跡出土・玉琮(ぎょくそう)に刻まれた神獣人面文様 人民日報より)

(直弧文石)

とにかくこれまで北方騎馬民族の影響ばかりが取り沙汰されてきた古墳時代について、見方を変える必要があることは確かである。つまり古墳のルーツは朝鮮半島経由の騎馬民族の習俗一辺倒では、説明できないであろうとの安田教授の指摘である。

<不定期連載にて続く>