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古墳の源流二元論

2021-11-03 09:10:46 | 日本文化の源流

前回、安田喜憲教授の著書『古代日本のルーツ・長江文明の謎』から『古墳文化のルーツはどこにあるか』との一文を紹介した。教授によると、奈良県纏向石塚古墳と長江文明の龍馬古城宝墩(りゅうまこじょうほうとん)遺跡のそれはきわめて似ている云う。

(龍馬古城宝墩遺跡 出典・4Travel)

龍馬古城宝墩遺跡は長江上流域に属すが、その下流域にあたる呉越の地と、わが国古代の墓制は共通するものが多い。横穴式古墳や支石墓のほかに円墳、方墳など盛り土による高塚のルーツは呉越の地にあり、周代の土墩墓は吉野ヶ里の墳丘墓に似ている。

(周代土墩墓・人民日報より)

(吉野ヶ里遺跡墳丘墓:覆屋に覆われている)

これをもって安田教授は以下の如く記されている。”これまで日本の古墳文化のルーツというと、高句麗をはじめ北方騎馬民族に求めるのがふつうであった。実際のところ、古墳時代に北方から渡来した人々が増えているのはたしかである。しかし、それだけではなかっただろう。日本の古墳文化のルーツを北方騎馬民族に求める考え方そのものも、根本的に見直す必要があるのではなかろうか。”

この指摘に賛同は覚えるが、やや筆が走り過ぎているきらいがある。吉野ヶ里とほぼ同時代の我が出雲の四隅突出墳丘墓をどうとらえるのか。

(西谷3豪墓復元模型 島根県教育委員会HPより転載)

墳丘裾には配石を巡らし、斜面は貼石で覆われている。写真を見て分かるように墓槨は墳頂の直下に在り、高句麗・積石塚と同じ構造である。積石塚は石だけで築いたものを云うが、四隅突出墳丘墓のように土台を土で造り、表面を石で覆った古墳は、明らかに高句麗・積石塚の影響と考えてよさそうである。

(高句麗将軍塚:WIKIPEDIA)

話しは飛ぶが、四隅突出墳丘墓は出現から消滅まで、高句麗とは海を隔てた出雲~越の日本海側が舞台であった・・・これが物語るものは?

話しが反れたので戻す。考古学者の森浩一氏は北朝鮮・鴨緑江河畔の雲坪里古墳群を訪れた際、四隅突出墳丘墓の源流?とも云われている墳丘を見た際に、『墳丘の裾を強調しようとした意図がはっきりわかる』と指摘しておられる。

雲坪里古墳群には積石による前方後円形の墳丘墓が存在する。NHK出版の『騎馬民族の道はるか』には、その前方後円形の墳丘墓の写真が掲載されており、なるほどそのように見える。

やはり、日本の古墳の源流は呉越の地と、朝鮮半島基部の高句麗の故地の2箇所に存在していた二元論で説明できるであろう。

ここで話しを複雑にして申し訳ないが、高句麗の積石塚の源流は中央アジアの騎馬民族に求めることができそうだ。それは南シベリアのパジリク古墳群(紀元前3世紀-前2世紀:但し学者により200年程度の差あり)、北モンゴルのノイン・ウラ古墳群(下限・紀元1世紀)、そして北西モンゴルのオラーン・オーシング遺跡である。

驚いたことに北西モンゴルのオラーン・オーシング遺跡(ココ参照)には四隅突出墳丘墓の原形と思われる古墳も存在しているようだ。また内蒙古自治区和林格爾後漢墓は基壇裾に配石があり、それは前方後円形の墳墓と云われている。内蒙古といえば匈奴、匈奴といえば騎馬民族である。

以上、似ている、似ていない程度の話も併せて記載したが、日本の古墳の源流は二元論で説明できそうであり、高句麗云々はもとより、さらに中央アジアの墳墓との関連もありそうである。

<了>