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纏向遺跡の建物遺構は太陽神殿か?・その1

2017-07-07 08:55:59 | 古代と中世

纏向遺跡の建物配置と神戸大学・黒田龍二准教授の復元模型が従前より気になっている。纏向遺跡の総面積は300ヘクタールに及ぶと云う。時代は、弥生末期から古墳前期の遺跡であるという。ここでは東西配置の建物群の柱穴が発掘された。

その復元模型が神戸大学・黒田龍二准教授から発表されている。ここで気になる点は2点で、1点目は復元模型の構造であり、2点目は何故東西配置なのか?・・・という設問である。

(桜井市のパンフレットより)

先ず1点目である。配置図で今回見つかった建物跡右の大型建物の復元は、出雲大社型であるのに対し、左の小振りの建物は伊勢神宮型で復元されている。柱穴跡を分析して黒田准教授による復元であるが、復元に当たり出雲大社型と伊勢神宮型で復元された背景は何なのか?柱穴跡を基本にこのようになるであろうとの思いと考えられるが、中国深南部やタイ北部の少数民族の家屋構造は、双方の形が存在し、しかも現存している。これに倣ったであろうとも思われる。・・・してみれば、何であろうか?

建物を高床にするのは、江南・越の地以南で、瘴癘の害を避けるためである。中国古代の史書によると越には百越が蟠踞すると云う。諏訪春雄氏は倭族百越の一部としている・・・であるとすれば、建物復元に双方の形が存在するのは理解できそうだ。

次に2点目の何故東西配置かという設問である。纏向や桜井周辺の地理には不案内で頓珍漢の記述になるかも知れない。何かの著名古墳(といっても弥生末期の墳丘墓でなければならないが・・・)と高嶺の山を直線で結ぶと、配置図の東西軸になるのか?・・・この可能性を捨てきれないが、この東西配置はインド古来の配置であろう。日本では飛鳥以降、中国式の南北配置となる。漢委奴國王印を拝領したとか、魏志倭人伝には卑弥呼の朝献に対し、親魏倭王と為し金印紫綬を仮したとある。倭国側の使者は中国・都城に出向き、南北配置の都城と建物を見たのだが、古代・倭国の遺跡・環濠は円形や楕円形で、建物配置はやや時代が下った纏向でさえ、今回の課題である東西配置である。これは中国の都城建設思想や北辰を重要視した建物配置に毒されていないことを示している。従ってこの東西配置は太陽崇拝の徒の仕業としか思えない。つまり纏向の出雲大社型の大型建物は、太陽神殿であったと思われる。

 

                              <続く>