goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ陶磁の魚文様(前編)

2019-08-30 08:09:33 | 北タイ陶磁

当該記事でブログ開設以来1503回となった。過去、ブログ開設1500回記事&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載すると予告してきたが、今回よりその連載を開始する。

初回は『北タイ陶磁の魚文様』とのテーマで前編・中編・後編の3回に渡って紹介する。スコータイ王国やランナー王国の陶磁器文様には魚の文様が頻出する。何故魚なのか雑感風にまとめたものである。

先ず魚が描かれている北タイ陶磁器の幾つかを紹介することから始めたい。最初は日本で宋胡録と呼ぶスコータイ窯の鉄絵魚文盤である。以下、同じように宋胡録と呼ぶシーサッチャナーライの鉄絵魚文盤とカロン、サンカンペーンの鉄絵双魚文盤を順次紹介する。

(スコータイ鉄絵魚文盤:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)

(シーサッチャナーライ鉄絵魚文盤:町田市立博物館)

 (カロン鉄絵双魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Borderより)

 (サンカンペーン鉄絵双魚文盤:町田市立博物館)

北タイの陶磁器文様に魚が描かれていることがお分かりいただけたであろう。

 

『米と魚』なる書籍から、魚の文様が用いられている背景にせまりたい。その書籍は佐藤洋一郎氏の編書であり、学問的に裏付けられた書籍である。最近目にして米と魚の結びつきを再認識した。

かつて故・柳田国男氏は稲作の日本への伝播について『海の道』を唱えた。それは南の島嶼伝いに伝播したとの説で、単なる読み物、物語の域を出ないものと揶揄されてきた。しかし、筆者がフィリピンのセブ島で目にしたものは、弥生期の高床式住居や高倉に似た建物がフィリピンにも存在し、更に弥生期の甕棺と同じような棺桶も存在したのである。柳田国男説はたんなる物語なのか? それを調べる過程で、佐藤洋一郎氏の編書である『米と魚』という書籍の存在を知ったのである。

 

佐藤洋一郎氏は『米と魚、その同所性』というワードを使って説明している。日本では近世に至るまで、田圃の灌漑は近くの河川や溜池から取水した。それと同時にタガメやドジョウ、メダカや鮒が田圃に流れ込み、一部は留まり一部は下手の田圃や河川の下流または溜池に移動する。これらの小動物は雑草の生育を阻害し、その糞は稲の生育の助けとなる・・・これを佐藤洋一郎氏は『同所性』というキーワードで表現している。

この『米と魚』なる書籍を読んでいると、子供の頃(昭和30年前後)のことを思い出した。5~6月頃田圃に入ると、沢山のドジョウがいたのである。農薬を大量に使いだす前のことである。このことは日本のみならずモンスーンアジアの多くの地域における共通項だと云う。モンスーンアジアでは沿岸地域は海の魚により蛋白質を摂取できたかと思われるが、内陸部の魚と云えば淡水魚である。その淡水魚を焼いたり煮物にして食した。漁がなかった時のために干物にしたり、『ナレズシ』に代表される発酵、それも微生物や酵素を使った発酵法により保存されてきた。日本で『しょっつる』、ベトナムでニョクマム、タイでナンプラーとよぶ魚醤は、魚肉の細胞の蛋白質分解酵素の働きを借りて発酵をすすめたものである。

しかし東南アジアの全てが水田稲作地帯ではなく、丘陵部では取水困難な場所も存在した。そこは焼畑での陸稲(おかぼ)栽培である。陸稲栽培は冠水した水田ではないので、淡水魚とは縁がなかろうと思われがちだが、そこには縁があったのである。佐藤洋一郎氏によると、氏がラオス・ルアンプラバーン郊外で焼畑の調査をしていた時、焼畑の種まきの前に付近の山から竹を切ってくると、それで簡単な祠をつくり、高さ1mほどの竹竿の上に載せる。祠にはいくつかの装飾をつけるが、其の中に魚をかたどったものがある。村人の説明では、それは穀物を食べる鼠を獲ってくれる猫の好物だからだという。この説明では、魚は鼠の天敵である猫のためのものだが、それは同時に魚の存在証明になっている・・・と、佐藤洋一郎氏は記すが似たような話があり、それは後述する。

メコン川流域のラオスでは、田圃の中に縦横1~2m、深さ1.5~2mくらいの穴を掘る。乾季になって周囲の水が引けば穴に入った魚は取り残されるので、これを獲るのである・・・とも記されている。日本の稲作地帯でも溜池をみるが、灌漑用途のみならず、淡水魚の供給源でもあったことが伺われる。以上『米と魚、その同所性』について要点を紹介した。       

『米と魚』について論じているが、それと北タイで見かける装飾文様との関連を考えてみたい。北タイの山岳少数民族が、銀製の装飾物で身を飾ることを御存じの方は多いと思われる。その銀製の装飾物は何故か魚である。

 

 (チェンマイ山岳民族博物館展示)

 

 (ハノイ女性博物館展示)

上からチェンマイ山岳民族博物館展示のリス族の銀製ネックレスである。下は北タイではないが、北ベトナムに居住するタイ族の銀製ネックレスで、いずれも魚をモチーフとしている。チェンマイ在住者でこのような魚のネックレス等の装飾物を目にされた方々は多いと考えている。更に北タイの陶磁器文様に『魚』が頻出する。スコータイでは単魚文が多いが、チェンマイ以北では双魚文が圧倒的で複数魚文も存在する。

銀製ネックレスや装飾品と共に陶磁器文様の魚文を見ると『何故・魚文なのか』・・・と云う想いが頭をよぎる。中国では古来より魚の卵は多産で、子宝に恵まれ家門繁栄を示す吉祥文であると云われてきた。更に双魚文は陰陽配置が殆どであることから、陰陽道の影響を受けたとか、景徳鎮の染付文様の影響、更には龍泉窯の青磁貼花双魚文の影響を受けたと喧伝されている。そのような言説を受け、バンコク北郊ランシットに在るバンコク大学付属東南アジア陶磁館では、下の写真のように右に龍泉窯・青磁貼花双魚文盤を左にサンカンペーン・褐釉印花双魚文盤を並べて展示している。

 (バンコク大学付属東南アジア陶磁館展示)

何故・魚文なのかについては、インドの影響もあろう。中世の北タイはヒンズー教と上座部や後期大乗仏教の影響を受けた占星術(ホーラーサート)がある。いわゆる星占いの双魚宮、それは黄道十二宮の一つである。

 

(ワット・ノンナム碑文:ランプーン国立博物館展示)

ランプーンのワット・ノンナムの碑文(1489年ランナー文字で記され建立)の事例を紹介する。二重円圏の中の外周部は十二分割されている。この中に十二宮が配置される、それは占星術の星座で双子座、牡牛座、牡羊座、魚座、水瓶座、山羊座、射手座、蠍座、天秤座、乙女座、獅子座、蟹座である。このように中世のランナー領域は、インド占星術の影響を直接受けていたのである。

更にインド仏教では、双魚は八吉祥とか八宝の一つとされ、自由に水中を泳ぎ回れることから幸せのシンボルで、繁殖と豊富さを表しているとされた。つまり西方インドの影響であろうとの議論である。更なる西方イスラムの陶磁器文様にも双魚や三魚文が存在することから、西方の影響もあろうかとも考えていた。中国や西方インドからの影響はありそうだが、何かしっくりしない思いが残る。 

ところが『米と魚、その同所性』を読むにつけて上述の認識は、ややズレが感じられる。魚文のネックレスや陶磁器文様を見るにつけ、中国や西方インド云々では、中世北タイで日常生活を営んだ人々の声が聞こえてこない。上述の背景認識よりも、日々の営みである稲作と、その田圃や周辺湖沼・河川での淡水魚の漁撈は日常的であり、副食のメインである魚が陶磁器に描かれたと理解する方が納得感が高いと感ずる。以上のようなことで、北タイ山岳民族の首飾りや陶磁器装飾文様に頻出する魚文が、足が浮いたような中國やインドの影響といった話しのみではなく、日々の営みの上に成立したものだと確信した次第である。                  

振り返ってみると、北タイで以下の風景を過去に見て来たが鈍感の為せる業、『米と魚の同所性』なぞついぞ感じなかった。書籍『米と魚』を読んで見つめ直してみる。

 

写真は2010年10月末のチェンマイ県メーテン郡の田園風景で、同所のインターキン古窯址へ行った際に写したものである。稲の刈取りには今少し時間を要するであろうが、立派な穂が沢山ついている。写真を注視すると田圃は方形に区画整理されている。メーテンには取水用のかなり大規模なクリークが存在する。そのクリークと区画整理は一体のものと思われ、ここには『米と魚の同所性』は失われているであろうと思われる(実際はどうか不明)。

次はチェンライ県パーン郡の水田である。パーンのサイカーオ古窯址訪問の際に見た、現地の田園風景である。

ここも一枚の田は広い様である。写真左上は溜池で書籍『米と魚』に表現されている田圃の中に溜池が存在する典型例のようにみえる。

 

その様子をグーグルアースにより俯瞰してみる。田圃の中に多数の溜池と、今となっては整備された用水路を見ることができる。乾季のみならず、この溜池で漁撈していると考えて良いだろう。普通に考えて一枚の田圃に多くの溜池を分散して置く必然性は漁撈以外に考えにくい。

以上、北タイにおける平地の田圃を紹介してきたが、なだらかな丘陵傾斜地の棚田の様子も紹介しておく。

 

チェンマイ郊外メーリムの谷筋の丘陵傾斜地の棚田である。田植え後1週間程度であろうか。これだけ見ていると、田圃に淡水魚類が棲息しているかどうか判断できないが、近くに溜池が存在する。

谷筋の河川から引水し溜池に流し込み、田圃の灌漑は溜池から行っている様子である。従って淡水魚は棚田ではなく溜池に棲息しているであろう。過去の資料を引っ張り出し、北タイの『米と魚の同所性』について確認してみた。やはり佐藤洋一郎氏の論旨に該当するようである。            

さて漁撈用具であるが、それを展示しているのはチェンマイ山岳民族博物館である。

山岳民の人形の横に縦長の竹網籠が見えるが、日本でも見るような淡水漁撈具である。残念ながら実際に漁撈している現場は、未だ実見していない。

 

ここまで話がまとまると、ある二つの想いがよぎる。先ずは、ラームカムヘーン王碑文に銘文が刻まれている。ในน้ำมีปลา ในนามีข้าว・・・(水に魚在り、田に米在り・・・)との文言である。

二つ目は、北タイの稲作儀礼に魚が登場する。それは「岩田慶治著・日本文化のふるさと・角川選書」に、タイ・ヤーイ(シャン)族の稲作儀礼が紹介され、稲穂が成長すると稲田の端にケーン・ピーと称する小祠を建てるとのことである。ケーン・ピーに招かれるのは、稲の守護神であり、それは女性のピーであると云う。そのケーン・ピーの周囲には、色々なターレオを掲げて悪霊の侵入を防いでいるが、幟状のそれは百足(ムカデ)の形、魚の形をしたものである。岩田慶治氏によれば、陸棲動物の代表ムカデと水棲動物の代表魚がともに稲のピーの守護にあたっていると云う。その図を模写して掲げておく。

尚、チェンマイではローイクラトン前にガティン祭りが開催され、それを祝うムカデの幟(トゥン)が街角に立つ。年に一度の大規模な功徳を施す行事であるが、それは元々タイ族の収穫儀礼であったのである。

 

横道に反れたが、ターレオは何度も目にしているが、このケーン・ピーは残念ながら未だに見ていない。

更に収穫儀礼でもトライ・カムプリアンなる小魚の串刺しが登場する。岩田慶治氏は同書に以下の如く記す。『大昔には、稲が実っても稲刈りなどしなくてもよかった。籾(もみ)が自ら空を飛んで、パラパラと米倉に降ってきたからである。ところがあるときのこと、米倉の隣の若夫婦が不快な音をたてて稲のカミを驚かせてしまった。それに加え稲のカミに不謹慎な言葉を口にしたのである。稲のカミは立腹して、高い山の入口の狭い穴に逃げ込むこととなった。稲のカミが不在になるとクニ中の人々が飢えに苦しむこととなった。そこで稲のカミを連れ戻すための使者に選ばれたのがトライ・カムプリアンで、苦心の末に穴ぐらに入り込み、稲のカミを連れ戻したのである。しかしそれ以来、トライ・カムプリアンは狭い穴に入るため魚体が扁平になったのである。』

この説話は、2つのことを示している。一つ目は、稲(米)と魚の結びつきは古来からのものであること。二つ目は、その魚は扁平であることが示されている。

以上、北タイにおける銀の装飾品や陶磁器文様が魚である背景を理解して頂けたものと考える。

 

<続く>

 


CHAO392号

2019-08-21 06:57:06 | 北タイ陶磁

昨年中頃から今年初めにかけて、チェンマイの日本語情報誌CHAOに、『ラーンナー古陶磁の窯址を巡る』とのテーマで5回に渡り不定期連載してきた。その後388号から3回に渡り続編を不定期連載することになった。今回は2回目の392号である。北タイ在住者で興味をお持ちの方は、一読されたい。尚、日本でも入手できるので数寄者の方々には是非目を通して頂き、ご意見を拝聴したいものである。

今回は『ワンヌア窯址編』である。

 ◎予備知識を習得するには?

 ◎ワンヌア焼の特徴

  〇焼成された焼物の形状

  〇確認できている印花文様の種類

 ◎さあ、窯址を訪ねてみよう!

  〇メープリック窯址

  〇ワンポン窯址

・・・で構成されている。 

日本で入手する方法

 振込先:楽天銀行サンバ支店

 普通口座:4081258

 口座名:高橋敏(タカハシビン)

 尚、一部350円

 口座振り込み後

 ①氏名(ふりがな)、住所、電話番号、バックナンバー記入

 ②振込の領収書コピー

 二つを合わせて郵送かFAXにて申し込み

 宛先:Bridge International Foundation

 FAX番号:0-5312-7175

 住所:296/136 Moo2 Laguna Home T.Nongjom A.Sansai Chiangmai 50210

 

<了>


北タイ陶磁に魅せられて:第6章

2019-08-15 07:39:46 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去5回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48

 

過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の初回(第6章)はナーン・ボスアック古窯址群です。

チェンマイ在住者には、ナーンは馴染み薄かと思われます。ナーンはチェンマイの東方に位置し、アーケード・バスターミナルからの移動時間は5時間半ー6時間を要し、特別な事情がなければ縁遠い処です。

ナーン・ボスアック陶磁は長期に渡って焼成され、焼成方法の特徴から前期陶磁(13世紀後半ー15世紀後半)と後期陶磁(16世紀ー17世紀)に区分されています。前期陶磁は匣(サヤ)なし焼成でしたが、後期陶磁は匣と焼成道具を用いた焼成で、匣を用いるのは北タイでは稀なことです。

古窯址群が存在するのは、ナーン県ムアン郡のバン・スアックパッタナーとバン・ボスアック、バン・ノントンにまたがる場所ですが、日本では通称バン・ボスアック(บ้านบ่อสวก:Ban Bo Suak)と呼んでおり、ここではその通称に従うものとします。今回、番外編としてボスアック古窯址群の中から、幾つかの窯址を紹介します。尚、蛇足ながらタイの正式名称では、บ้านเตาไหแจ้เลียง(Ban Tao Hai Jae Liang)と呼んでいます。それはナーンのワット・ナーサオで発見された、古い貝葉に記されていたためです。

 

ボスアック焼きは、四方を山に囲まれた旧ナーン王国内で、その大半が消費されたためナーン以外ではみかけることが非常に稀な焼物です。タイ芸術局により1982年から予備調査が行われ、正式な発掘調査は1999年-2006年に行われましたが、刊行物もほとんど無い状態で概要が掴みにくい焼物です。ここでは予備知識が習得できる3箇所の展示施設を紹介します。

〇ワット・プーミン付属:プーン・パン博物館

 (プーン・パン博物館)

(プーン・パン博物館展示風景)

ワット・プーミンでは、プー・マン(男性)がヤー・マン(女性)の耳元で囁いている壁画が特に著名ですが、その境内にプーン・パン博物館が在ります。

ボスアック古窯址群へ行く前に寄ると、理解度が深まると思います。ここでは、完品の展示は少ないのですが、盤、皿、鉢、瓶、壺などの容器と動物肖形を見ることができます。

 

〇ナーン国立博物館

 (ナーン国立博物館)

(ナーン国立博物館展示光景)

ナーン市街にある国立博物館にも是非立寄りたいものです。ここでは、比較的程度の良いナーン焼を30数点まとめて見ることができます。展示されているのは大壺、小壺、水注、碗、鉢、瓶と二重口縁壺で、盤以外の焼物が網羅されています。

 

〇サーエン・チューエン私設博物館

 (サーエン・チューエン私設博物館)

(私設博物館展示品)

ボスアック村の住人である、スーナン・ティッカム氏の敷地に程度の良い窯址が並んでいますが、その一画に氏の私設博物館が存在します。そこには大壺、小壺、瓶、盤、鉢、皿、二重口縁壺が展示されています。

先にも記したように、旧ナーン王国内の流通が主体であったことが理由と思われますが、完品なかでも盤類の完品は、1点を除き未だ目にしておりません。それほど流通量は少なかったことと思われます。

以下優品であるバンコク北郊ランシットのバンコク大学付属東南アジア陶磁館の展示品を2点紹介して、予備知識習得の項を終わります。

(褐釉二重口縁壺・・・ハニージャーとも呼ぶ蜂蜜貯蔵壺で、二重口縁部に水を張り蟻の侵入を防止します。釉薬の発色の良い完品で優品です)

(灰釉大壺・・・釉薬の発色に乱れは無く風格のある逸品です)

 

 ●ボスアック焼きの特徴

〇釉薬による分類

 褐釉、黒褐釉、肌色に発色する灰釉、白色釉、青磁釉が存在

〇器形による分類

 碗、鉢、盤、皿、大小の壺類、大小の瓶類、二重口縁壺、動物肖形

〇装飾の種類

 印花文、鉄絵文、貼花文・・・印花文は魚文の他に象文や花文、更には幾何学文が存在します。鉄絵文は稀に見ることができますが、草花文や花卉文が主流で、且つ後期陶磁でしか見ることができません。貼花文は後期陶磁の装飾の主流で、鳥の顔面をデフォルメして文様としています。以下印花文、貼花文、鉄絵文の順に事例を紹介しておきます。

 青磁印花双魚文盤片*(後期陶磁:腹鰭2箇所、背鰭1箇所)

青磁貼花鳥文大壺片(後期陶磁)

青磁鉄絵五弁花卉文鍔縁盤片(後期陶磁)

〇焼成技法

前期陶磁で盤類の焼成は、サンカンペーン窯やパヤオ窯と同じように口縁と口縁を重ね、高台と高台を重ねた重ね焼きが主流でしたが、後期陶磁では匣(サヤ)と呼ぶ、保護容器に入れて焼成されました。しかし、この技法を実際の焼物で判断するのは容易ではありません。

〇前期陶磁と後期陶磁における印花魚文の違い

北タイで、判子をつかって器の表面に印をつける、いわゆる印花文の焼物を焼いていたのは、パヤオとサンカンペーン、ワンヌア及びナーン・ボスアックでした。そこで焼成された印花魚文(但しワンヌアには魚文は存在せず)は窯場毎に特徴をもっていました。その特徴を次の表に示しておきます。             

ナーン・ボスアックの特徴は、前期陶磁の魚文が示すように尾鰭と腹鰭がそれぞれ1箇所で、パヤオやサンカンペーンと異なる独自性を示しています。しかし後期陶磁になると、パヤオと同じように腹鰭2箇所、尾鰭1箇所の魚文も見ることができます。何やら3箇所で違いを強調しているように思われます。

ここで前期陶磁と後期陶磁の魚文の事例を紹介し、『ボスアック焼きの特徴』を終えたいと思います。

前期陶磁魚文事例 

(背鰭、腹鰭各1箇所)

後期陶磁魚文事例 

(背鰭、腹鰭各1箇所)

後期陶磁で青磁印花双魚文盤片*(背鰭1箇所、腹鰭2箇所)の事例は先に紹介済です。尚、焼物としては後期陶磁を中心に紹介しました。

 

 

ボスアック古窯址群は3つの集落にまたがっていることは、先に紹介しましたが、そこへの行き方を説明しておきます。国道101号をナーンの市街地から5km南に行くと、Ban Du taiの集落があり、写真の道路標識を見ることができます。

この道路標識はナーン市街に向かう車線の左側に設置してありますので、見落とさないでください。その標識に従い左折し、道なりに10km進むと窯群のあるバン・ボスアックの十字路に到達します。十字路の一画は、公園ですので分かりやすいでしょう。その十字路を右折して300mで、次に紹介する窯場に到着します。それを以下のグーグルアースに示しておきます。

これから紹介する窯址は、いずれも私有地内に存在します。見学は随時受け入れてもらえますが、必ず家人に声をかけて見学して下さい。尚、窯の概要については、バンコク考古学センターのサーヤン教授の報告書を参考に記述しています。

〇ジャーマナス窯

窯は半地下式の横焔式単室窯で、穴窯にほかなりません。サンカンペーン窯に較べれば一回り以上の大きさで、全長は6.5mになります。開窯時期は13世紀後半で、これはパヤオ窯とサンカンペーン窯の開窯時期と重なります。これら3つの窯群の開窯時期が重なるのは、元寇で追われた陶工が開窯に関与したとの説がありますが、定かではありません。そして14世紀前半まで操業したと云われています。
尚、窯址から出土した陶磁には、以下のものがあります。
 無釉陶・・・大型壺、二重口縁壺
 施釉陶・・・碗、鉢、盤、二重口縁壺、大型壺、印花魚文盤

〇スーナン窯

開窯時期と操業期間は、先のジャーマナス窯と同じく、13世紀後半から14世紀前半です。窯の全長もジャーマナス窯と同じ6.5mです。窯址から出土した陶磁を次に記しておきます。

 無釉陶・・・大型壺、二重口縁壺
 施釉陶・・・碗、鉢、盤、二重口縁壺、大型壺、印花魚文盤

〇チューエン窯

先に紹介した2つの窯と同じような穴窯で、全長は4.9mと先に紹介した窯より、やや小振りの大きさです。そして焼かれた焼物も、先の2つの窯とおなじものでした。ここで施釉陶と表現していますが、それには褐釉、黒褐釉、肌色に発色する灰釉、白色釉、青磁釉が存在しています。

尚、ナーン・ボスアック窯群は、初期:13世紀後半ー14世紀前半と後期:16世紀ー17世紀が存在していますが、ここでは初期の窯のみ概要を紹介しました。 

半月後に第7章をUp Dateする予定です。

<了>  

 

 


予告:Up Date5周年&1500回記念・北タイ陶磁特集の連載開始

2019-07-24 08:14:32 | 北タイ陶磁

2018年2月から4月にかけて、Up Date1000回記念として下記のテーマで記事を掲載してきた。

1.サンカンペーン窯と焼成陶磁:เครืองปั้นดินผาและเตาเผาส้นกำแพงhttps://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/895c6f193a6090b3461b5f41f8ccac8d

2.サンカンペーン古窯址https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/033d3247f8d5bb0ba3862b88e0b4166e

3.サンカンペーン鉄絵昆虫文盤の真贋についてhttps://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/182bfe9d7b4ccf135c8254ea46290403

4.E-Museum of the Sankampaeng Old Ceramics https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcd6141bfb1a0e78d52a65501e3189d

5.双魚文考https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/c9101e72e274386576e3c1f25af54401

6.サンカンペーン印花双魚文の系譜https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/f0993b767badd5ce069f5efa9e659eb2

7.印花魚文の装飾技法https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/46caf0a5ff23cedf47fa0dd683f5ee10

8.法輪文考https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/b69d1866352a15959419994ef353cf57

9.チェンマイ県メーテン郡インターキン古窯址https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/0108a602969c866dd8c38a0736fa0261

10.オムコイ山中発掘現場https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/3200035c87a946255014b5494bd67af4

 

今回は以下の内容で記事を掲載したいと考えている。多くの北タイ陶磁愛好家に訪問頂ければと考えている。

(1)北タイ陶磁の魚文様

(2)ランナー(チェンマイ)王朝の王室陶磁

記事のテーマは少ないが、それなりの中味であると自負しているのでお楽しみに。

 

<了>

 

 


北タイ陶磁に魅せられて:第5章

2019-07-13 16:45:21 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去4回に渡りUP-DATEしてきたが、あまりにも間隔が空いているため、過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

 

それでは第5章としてパーン窯址編を紹介する。其の前に過日、ネット・オークションにパーン青磁刻花四弁花文盤が出品されていた。縁は巧みに輪花形状で削り込み、それに沿って櫛歯文を見る、近年まれに見る優品の出品である。最後まで見届けていないが、多分3万円程度であったか? バンコクの一流アンティークショップでは、5万ー10万バーツになるであろう。落札者は儲けものである。近年タイの経済成長で、タイ古陶磁の価格はタイが日本の価格を上回っている。日本に持ち込まれたタイ古陶磁がタイへ還流するのは時間の問題とも思われる。オークション出品のパーン青磁刻花四弁花文盤が下の写真である。

いきなり横道にそれたが、パーンの青磁が如何に優れたものか御理解頂けたと思われる。オリーブグリーンに発色した釉薬は、まさに耀州窯青磁を思わせる。それでは本題の第5章を紹介する。

 

パーン窯は他の北タイ諸窯に比べ、やや遅い14世紀後半から15世紀に開窯したと云われていますが、窯の形式は他と同じながら、もっとも進歩した地上式の穴窯(横焔式単室窯)でした。そのパーンの古窯址は、明らかになっているタイの窯址で一番北に位置し、北からポーンデーン地区とサイカーオ地区、そこから南東方向にやや離れたバン・チャンプーの3箇所に古窯址群が存在しています。窯址は3箇所に分散していますが、所在地はいずれもチェンライ県パーン郡内です。

パーン窯の最大の特徴は、胎土が緻密で磁器のように固く焼締まり、青磁の発色も素晴らしいものです。それは同じタイのシーサッチャナーライ焼き、いわゆる宋胡録(スンコロク)に勝るとも劣らない素晴らしさをもっています。

今回はチェンマイ国立博物館前庭に移設されているポーンデーン窯、同じポーンデーン地区ながら、その西の端に在る一つの窯址、更にバン・チャンプーの窯址群の中から一つの窯址を紹介します。原形を留める窯はチェンマイ国立博物館前庭移設の窯のみで、他は原形を留めていないのが残念です。

窯址巡りの前にパーン陶磁を見ることができる展示施設を紹介します。

先ず紹介するのはChao377号にも掲載したパヤオのワット・シーコムカム付属博物館(文化センター)です。ここでは、残念ながら綺麗な翠色の青磁盤を見ることができませんが、写真のようなやや肌色に発色した青磁の盤や壺などを見ることができます。

 ワット・シーコムカム付属博物館

肌色に発色した青磁盤

次はリニューアルされたチェンマイ国立博物館です。合わせても10点に満たないのですが、写真のようなパーン焼特有の刻花文様で装飾された碗を見ることができます。

 チェンマイ国立博物館

チェンマイ国立博物館 青磁刻花花卉文碗

パーン陶磁を見ることができる2つの展示施設を紹介しましたが、いずれも展示の品数は少なく、概要を理解するには物足りなさが残ります。

そこでもう1箇所紹介します。それはバンコク郊外ランシットのバンコク大学付属東南アジア陶磁館です。パーン陶磁の名品が皆様方をお待ちしています。ここではパーン陶磁の名盤をひとつ紹介しておきます。大振りの名盤です。

バンコク大学付属東南アジア陶磁館 青磁輪花縁刻花々卉文大盤

見込み中央には三弁の花卉文様が刻まれ、盤の端は外側に反れています。このような口縁を鍔縁(つばぶち)と呼んでいますが、その鍔縁が等間隔で削りこまれ、リズミカルな印象を与えています。このような形状の鍔縁を特に輪花縁(りんかぶち)と呼ぶこともあります。尚、中央の三弁の花卉文様ですが、大方の見方が花卉文と表現していますのでそれに従いますが、これは仏教で云うところの煩悩を打ち砕くチャクラ(投擲武器:とうてきぶき)を図案化したものと、個人的に考えています。

尚、蛇足ながらパーン陶磁の名品は日本の2箇所の展示施設で鑑賞可能です。一つ目は近年富山市立美術館に寄贈された敢木丁(カムラテン)コレクションと、福岡市美術館の本多コレクションです。まさに名品中の名品が所蔵されています。

●胎土(陶土)

素地に微細な黒と白の粒が散見されますが、夾雑物はほとんどなく緻密であり、陶器というより磁器にちかく固く焼きしまっているのが最大の特徴です。

●釉薬

他の北タイ陶磁諸窯は一つの産地で種々の釉薬や、装飾技法では鉄絵と判子を用いる印花文、掻取りで文様を示す刻花文など、複数の装飾技法を駆使していますが、不思議なことにパーン焼では青磁のみ存在します。その青磁は焼成時の還元度合いにより、まさに青磁の翠色に発色したものと、還元不足により肌色に発色したものと、2つに分類されます。特に翠色に発色した青磁は、細かい貫入(石垣のような釉薬のヒビ)が入っています。尚、青磁とは鉄分を含んだ釉薬で、それを還元雰囲気で焼くと、翠色つまり青磁色に発色します。還元度合いが低いと、肌色や鉄錆色に発色します。

●器形

翡色か肌色かは別にして、釉薬は青磁釉の一種類ですが、それが色々な器形と組み合わさって焼成されました。目にすることができる器形には以下のようなものがあります。

 盤、大皿、皿・・・それぞれ鍔縁付きと鍔縁無し(直口縁という)

 鉢、碗類

 大小の壺

 二重口縁壺(ハニージャーという)

 燭台の生活用具

この中で、最も多い盤や大皿にパーン焼の特徴があります。他の北タイ陶磁に比較し、盤や皿の高台は径が小さいのが最大の特徴で、焼成台に載せて焼成されたため、その焼成台の跡がクッキリ残っています。ここでは端正な姿の大きな壺を1点紹介しておきます。

●装飾技法

パーン焼には鉄絵による装飾文様が存在しません。またサンカンペーンやパヤオでみる判子を用いた印花文も存在しません。在るのは道具や櫛歯を用いた刻花文(猫描き手、櫛歯文)のみです。尚、無装飾の盤や鉢・皿も存在します。

パーン焼の刻花文の最大の特徴は、装飾の文様に独特なものがあります。それは二つの特徴をもっています。一つ目はシーサッチャナーライの文様と似た猫描き手(ねこがきて)の文様ですが、パーン焼のほうが大振りな感じを受けます。二つ目は見込み中央に三弁の花卉文様、その周囲には四匹の魚が右回りで回遊する見事な装飾の青磁盤です。この見込み中央文様は、ミャンマーの陶磁器に頻出するモチーフで、何らかの関連があると思われますが、詳しいことは分かっていません。

それでは二つ目の特徴である、三弁の花卉文様を中心に周囲を四匹の魚が回遊する刻花文の大盤と、十弁の花卉文様の盤を紹介しておきます。

 バンコク大学付属東南アジア陶磁館 青磁花卉四魚文大盤

バンコク大学付属東南アジア陶磁館 青磁花卉文盤

以上がパーン焼の特徴です。 

窯址を巡った順に紹介します。何度も記載して恐縮ですが窯址巡りでは、語学力に自信のない方は、タイ人日本語ガイドを同伴してください。

 バン・チャンプー古窯址

それでは窯址巡りです。先ずパーン市街を経由し、そこから10kmチェンライ方向に走ると国道1号の両側に家並が見え、行く手には横断歩道橋が見えてきます。そこを右折すると、バン・チャンプーまで3kmの道路標識が掲げられています。直進してその突き当りに在る、ワット・チャロエンムアンを左に曲がって、道なりに進むとバン・チャムプーの村落に到達します。当然ながらバン・バンチャンプー古窯址の位置など分かりません。そこでバイクで通りかかった人に尋ねると、その窯址の地主を知っているとのことで電話して頂きました。
バイクの人に尋ねた場所から200m北上し、その地主を尋ねると、既にバイクに乗って準備完了でした。地主のバイクを追走すると、小高い丘をのぼり寺院(ワット・パープッタ二ミット)に突き当たり、そこを左折して道なりに走ると、丘の下りになり田園の平地にでました。そこを尚400-500m北上すると、左手の田んぼのこんもりした立木が窯址でした。

 窯址と地主

レンガが一部残存する窯址

写真のこんもりとした処が窯址で、右の人が案内して頂いた地主です。畦道を伝って現地に立つと、殆ど崩壊しているが、煉瓦の基礎部分と散乱する陶片から、地上式の窯址と認識することができました。

 散在する窯址群の遠景

それにしても村人の案内がなければ、到達できないうえに地主に出会えたのはまことにラッキーでした。地主によれば、西の山塊の麓の田園の中にまだ窯址があるとのことでしたが、そこはパスすることにしました。上の写真の辺りとのことでした。

 ポンデーン窯群

 バン・チャンプー古窯址より国道1号に戻り、再び北上すること約5kmで家並が見えてきます。徐行してバン・ノーンパックジックの道路標識のところを左折し、ポンデーン古窯址でチェンマイ国立博物館へ移設前の窯が、在った処に向かことにしました。1kmも進んだでしょうか? 住居前に人をみたので、場所を尋ねると要領を得ません。更に近くにいた人にも尋ねましたが、知らないようでした。行ってみたいものの2人以外に尋ねる人もいません、チェンマイ国立博物館の前庭に移築復元されていることもあり、残念だがあきらめることにしました。
いよいよ最後はバン・ノーンパックジックの家並の手前で、ポンデーン古窯址群の西の端にある窯址群の探索です。国道1号左折地点より3kmも走ったでしょうか、丘を下って平地に出た地点に小川が流れており、そこを右折したまではよかったのですが、そのどこに窯址があるというのでしょうか?
運が良いのは重なるのでしょうか? たまたまバイクで通りかかった農夫に尋ねると、自分の所有地に在るので、ついて来いとのこと。追走すること1.5-2kmで小川が左へターンするところが目的地でした。何とラッキーなことでしょう。そこは、周囲が田んぼで、半径200m程のこんもりと木々が茂る林の中で、半分はラムヤイ(竜眼)の果樹が植わっています。

そこを入るといきなり左手に高さが1.5m、長さが5-6mのこんもりした封土がありました。そこが窯址のようで、陶片が散乱していましたが、窯の概要は分かりません。そこをパスして更に150-200m進んで行くと、林の西南端で田んぼとの境界付近に、比較的窯体が残る場所に案内されました。そこはタイ芸術局が過去に発掘調査したようで、立て看板が残っていました。窯の名称を案内して頂いた地主にたずねましたが、窯の名前はついていないとのことでした。そこはポンデーン古窯址群の西南の端に相当しています。残念ながら窯址は、タイ芸術局の調査とともに陶片も全て回収されていました。そこは煙突部らしき構築物と焼成室の基盤部分の煉瓦が残るが、焼成室幅が2mほどであったので、全長は5-6mと推測されます。

 残存する煙突

残存する窯址の煉瓦

窯址で見た陶片

ここも地元の案内人がいないかぎり、近くまでアプローチできても、古窯址にたどり着くのは困難と思われます。
帰途、ラムヤイ畑のなかには陶片の散乱物が無数に在り、青磁の陶片と共に焼成台などの焼成具も目に付きました。其の中でびっくりしたことがありました。パーンと云えば、盤や皿の縁の形状が輪花縁や鍔縁と呼ぶ形状で、刻花文や櫛歯文様の青磁盤(前掲写真参照)が著名ですが、ビックリしたことに当該盤は、口縁が釉剥ぎされ盤形も含めてサンカンペーンのようにも見えます。このような口縁の釉剥ぎの存在など思いもつきませんでしたが、驚き以外の何物でもなく新たな発見でした。

今回各古窯址ともに崩壊が激しく、まともな窯址を見ることができませんでした。そこでチェンマイ国立博物館の前庭に移設されている窯址を紹介して、パーンの一連の古窯址訪問記の終わりにしたいと思います。

 チェンマイ国立博物館移設のパーン・ポンデーン窯址

移設された窯址は、北タイ諸窯の中では異例の大きさで、長さは10mを越えます。これをみればサンカンペーン古窯などは三分の一の大きさでしかありません。この移設された窯址を観察すると窯壁が二重になっていることが、お分かりになると思われます。推測ですが天井も二重であったと思われます。これは青磁を焼成するための還元焼成による窯圧上昇で、天井や窯壁が崩壊するのを防止するための処置と、気密性向上の手段と思われます。優れた青磁が焼成できたことをご理解頂けたと思います。

 

<了>