パヤオ古窯址とは、中世の13世紀末から操業を開始した、現パヤオ県ムアン郡に散在する古窯址群の総称で、その領域はムアン郡の南から北に及んでいます。今回は、その窯址巡りの前段として、予備知識の習得が可能な博物館とパヤオ焼の特徴を説明し、その後窯址について紹介します。
パヤオ焼の知識が習得できる2箇所の展示施設を紹介します。最初に紹介するのはパヤオ湖の東南岸に在る、ワット・シーコムカム付属博物館(文化センター)です。
(ワット・シーコムカム付属博物館)
ここでは多くの展示物を見ることができますが、パヤオ陶磁も目にすることができます。下の写真は、後程紹介するウィアン・パヤウ(Wiang Phayaw)古窯址から出土した灰釉柑子口(こうじぐち)瓶で、この器形は中国陶磁の影響を受けたものと考えられます。当該付属博物館では、ウィアン・パヤウ古窯址から出土した、10点ほどの陶磁を見ることができます。
(灰釉柑子口瓶 ワット・シーコムカム付属博物館 現地撮影)
次に目指すのは、やはりパヤオ湖東南岸の国道1号から、北へ向かって右へ暫く入ったところにあるワット・リー付属博物館です。そこの展示品は、やや専門的になりますが、数寄者にとって驚きの連続でした。その一つはパヤオ褐釉印花象文盤です。
(褐釉印花象文盤 ワット・リー付属博物館 現地撮影)
カベットには鎬文を配し、見込みの周辺には小さな三角の印花文(後述)が放射状に押され、中央が大きな象の印花文で装飾されています。写真は薄墨色に写っていますが、実際は褐色じみていました。
割れの補修を上手にして欲しいのですが、完器であればパヤオの名器中の名器でしょう。尚、具体的な焼成窯は不明です。
(貼花鹿文陶片 ワット・リー付属博物館 現地撮影)
二つ目は写真の貼花文(後述)で、その出所は明確でフェイ・メータム(Huay Mae Tam)窯です。白土をスリップ掛けした後に鉄分の多い陶土を、見返りの鹿か麒麟を見立てて貼付けたもので、このように種類の違う陶土を貼付けて貼花文とするのは、北タイで唯一の技法で、パヤオ焼でしかみることができません。
(掻取象文陶片 ワット・リー付属博物館 現地撮影)
驚いた展示品の三つ目は、象の掻き落とし文をもつ陶片で、このような技法は他の北タイ諸窯ではみかけず、中国・磁州窯の影響も考えられますが、そのことについては明らかではありません。これはフェイ・メータム窯で焼成されたことが明らかになっています。以上2箇所で予備知識を習得すれば、凡その焼物の特徴が分かろうかと思います。以下にパヤオ焼の種類と特徴を紹介しておきます。
<釉薬による分類>・・・パヤオ陶磁を釉薬によって分類すると
1. 灰釉・・・濃淡と色調の違いがありますが、灰色から黄土色に発色
2. 褐釉・・・濃淡をもつ褐色
3. 青磁釉・・・いわゆるオリーブグリーンに発色
・・・以上の3種類に分類されますが、青磁釉は少なく、それは後程説明するウィアンブア窯群の一部の窯で焼成されました。
<装飾技法による分類>
装飾技法としてほぼ共通しているのは、器の表面を白土の泥漿により、化粧掛け(スリップ掛けとも云う)している点です。パヤオの陶土は鉄分が多く、そのまま焼成すると発色に変化があるものの、概ね灰黒色から黒褐色に発色し見栄えはよくありません。そこで白土の泥漿で器の表面を覆う手法を採用しています。この手法はサンカンペーン焼と同じものです。以下スリップ掛け以外の装飾技法を列挙しておきます。
1. 印花文(いんかもん)・・・器を成形後、判子を押して文様形成する方法で多くが凸版ですが、僅かながら凹版を用いて、文様が浮き上がる印花文も存在します
2. 刻花文(こっかもん)・・・化粧土をスリップ掛け後、それが乾かないうちに割り箸のような道具で、掻きとるように描いた文様と、釘のような道具で成形後の器胎に文様を刻む2種類の刻花文が存在します
3. 掻取文(かきとりもん)・・・スリップ掛け後そのスリップが半乾燥したときに、ナイフのような道具で下地がでるまで掻きとり文様とします。掻落し文とも呼びます
4. 貼花文(ちょうかもん)・・・器の表面に表現する対象物、例えば象の形に陶土を盛り上げて、あたかもその形を貼付けたように見える文様を云います。パヤオでは、それが色調の異なる陶土で表現され、寄木細工のように見えなくもありません
以上の4分類の中で、数量的に多いのは①印花文と②刻花文です。以下具体的事例を紹介しておきます。
(青磁印花日輪文盤 ジャオ・マーフーアン窯資料館 現地撮影)
写真は印花文の事例で、文様は日輪(太陽)を表現しています。パヤオ焼としては珍しいオリーブグリーンに発色した青磁で、後程紹介するジャオ・マーフーアン(Gao Ma-Fuang)窯で焼成されました。
(褐釉刻花唐草文盤 バンコク大学付属東南アジア陶磁館 現地撮影)
事例の二つ目は、褐釉刻花唐草文盤です。見込み外周に波状文を刻み、カベットには唐草文を描いています。この文様はパヤオ陶磁としては、最もポピュラーで代表的な文様です。モン・オーム窯で焼成されたことが明らかになっています。
<パヤオ焼の文様>
1. 印花文の文様には双魚文、象や馬、鹿などの動物文様、獅子やタイでホン(ハムサ、ハンサとも云う)と呼ぶ霊獣や霊鳥文、日輪文、仏教関連文様が存在します
2. 刻花文としては、唐草文や蔓唐草文がメジャーな文様で、波のような波状文もあります。また釘のような道具で刻んだ刻花文には魚文も在ります
3. 掻取文には象などの動物文様と、幾何学文様が存在します
4. 貼花文には先に紹介したような動物文と幾何学文があります
<パヤオ焼の器形>
量的に多いのは盤・皿の類です。次に多いのが別名ハニー・ジャーとも呼ばれる二重口縁壺や、先に紹介した柑子口瓶等の壺・瓶類です。僅かながら燭台等の生活用品も焼かれました。
<パヤオ焼の特徴>
パヤオ焼の種類や分類でも触れましたが、パヤオ焼の最大の特徴は、鉄分の多い陶土を覆いかくすような、白土の泥漿を用いたスリップ掛けです。もう一つの大きな特徴は焼成技法からくる、口縁の釉剥ぎです。これはサンカンペーンの焼成技法と同じで口縁と口縁を重ね、高台と高台を重ねて焼成するため、不可欠なことでした。この2つがパヤオ焼の大きな特徴です。特徴と云えば、カロン焼きやサンカンペーン焼に見る、鉄絵文様の陶磁を見ないのがパヤオの不思議の一つです。
最も多く焼かれたのが盤や皿類で、文様としてポピュラーなものは、先に紹介した褐釉刻花唐草文盤ですが、それと共に印花双魚文盤もポピュラーでした。以下それを紹介します。
(褐釉印花双魚文盤 ジャオ・マーフーアン窯資料館 現地撮影)
この印花双魚文盤は完品ではありませんが、サンカンペーンの印花双魚文盤とよく似ており、どれがパヤオでどれがサンカンペーンか見分けが付きかねるほど似ています。 そこで判別の仕方が重要ですが、それを述べるには専門的になりすぎ割愛いたします。
パヤオ焼の特徴として、中国とサンカンペーンの関係を説明し最後と致します。次の写真は元末期の龍泉窯・青磁貼花双魚文盤です。
(中国・龍泉窯 滋賀・K氏コレクション)
次に掲げるパヤオのウィアン・ブア(ブア村)から出土した陶片は、上の龍泉窯の双魚と、まさに瓜二つの魚文です。ブア村出土の陶片は貼花ではなく、凹版のスタンプを用いた印花文ですが、凹版ゆえに文様は器面より浮き上がり、貼花の趣を示しています。またカべットには、ウィアン・ブア窯群の特徴ある印花文様で、幾重にも重なる三角形状の鋸歯文を使って装飾されています。
(印花双魚文盤片 出典:เครื่องถ้วย พะเยา『タイ語書籍・陶磁器パヤオ』)
予てより、パヤオやサンカンペーンの双魚文は、バラモンやヒンズーの占いに等に登場する黄道十二宮の双魚宮からきたものと考えていましたが、種々追及すると上述のように、中国からの影響がより大きいと考えるに至りました。
次にサンカンペーンとの関係ですが、双方極似した印花双魚文盤を有すること、その盤は双方共に口縁が釉剥ぎされていること、更にはパヤオ・モンオーム古窯址からサンカンペーン褐釉印花双魚文盤が出土したことから、双方が兄弟関係にあったことが伺われます。つまり双方の陶工は、何がしらの繋がりが存在したと思われます。C-14炭素年代測定法に依れば、双方共に13世紀末の年代を示していることも、兄弟関係を暗示しているように思えます。以上のことから識者の見解は、中国南部の陶工が元朝の南下政策、いわゆる元寇に追われて北タイに逃れ、それらの人々が開窯に関与したと述べています。この見解の可能性はあろうかと考えますが、それを裏付ける文献として中国側の元史や明史に記載はなく、当然ながらタイ側の年代記類にも記載はありません。尚、パヤオとサンカンペーンの兄弟関係については、パヤオの方が器形の多様性や装飾の多様性、魚文の中国文様との類似性、更には地下式の穴窯で北タイでは、最も古様を示すことより、パヤオが兄でサンカンペーンが弟分と考えられています。
パヤオ古窯址群の中から3箇所の窯址を紹介することにします。北タイはパヤオに限らず、保存の手が行き届かずに破壊されてしまった窯址が殆どです。今回紹介するウィアン・パヤウ窯は破壊されてしまった窯址です。原形を留める窯址としてジャオ・マーフーアン窯とポーウィ・ターエン窯を紹介します。
〇ウィアン・パヤウ(Wiang Phayaw)古窯址
上のウィアン・パヤウ窯址群を示すグーグルアースに『◎確認した窯址』と示している窯址を紹介しましょう。ここは地主に案内して頂きましたが、地主でなければ探し出すのは不可能だったと思います・・・と云うのは、窯址は破壊され単なる平地だったことによります。
(ウィアン・パヤウ窯址地 現地撮影)
地主によると陶片が落ちているとのことでしたが、目を凝らして見ないと分からず、落ちている陶片は僅かしかありませんでした(写真・丸印)。写真の右側が田圃で、それに向かって20度程度の下り傾斜がついており、幾つかの煉瓦を見ましたが、窯体は見当たりませんでした。
このウィアン・パヤウ窯では、壺・瓶類が多く生産されたようで、ワット・シーコムカム付属博物館に展示されている、ウィアン・パヤウ窯の焼物は全て壺・瓶類でしたし、確認した窯址の落下陶片も壺・瓶類のものでした。
〇ジャオ・マーフーアン古窯址
ジャオ・マーフーアン窯はウィアン・ブア窯群のみならず、パヤオ古窯址群を代表する窯址です。ここはバンコク保険会社の資金援助にて、窯址の覆屋と貴重な陶片類を展示する資料館が建てられています。窯址の前面には小川が流れ、水の供給には苦労がなかったでしょう。また窯はウィアン・ブアの環濠が、築かれた丘に向かう斜面に設けられています。
(ジャオ・マーフーアン窯の覆屋と資料館 現地撮影)
(覆屋内部の窯址 現地撮影)
写真ではやや分かりづらいのですが現地に立つと、これらの窯は地下タイプの穴窯(横焔式単室窯)であったことが分かります。ランナー領域において先駆けの役割を果たした、古様を示しています。窯の全長は5.2m、幅は1.9mで、サンカンペーンの窯より一回り大きくなっています。この窯と共に、焼成時に破損した品物や不良品を捨てた捨て場(これを物原と云う)も保存されています。
(ジャオ・マーフーアン窯物原 現地撮影)
この物原を隅から隅まで観察すると、写真のカベットに鎬文をもつ褐釉盤の陶片をところどころで目にすることができます。まさにサンカンペーンと瓜二つの陶片です。これもサンカンペーンと兄弟関係を伺わせる資料です。
〇ポーウィ・ターエン古窯址
ジャオ・マーフーアン古窯址から300m東南に位置し、そこはウィアン・ブアの環濠の麓にあたります。そこへ行くには民家の庭先を通る必要があり、家人に窯址を訪問する旨を伝えて下さい。この窯址も穴窯で伝統的な横焔式単室窯です。全長は5.5m、全幅1.7mで、先のジャオ・マーフーアン窯よりスリムな形をしています。
(ポーウィ・ターエン古窯址 現地撮影)
ジャオ・マーフーアン窯は複数の窯で構成された窯群でしたが、このポーウィ・ターエン窯は写真の1基しか確認することはできず、窯群であったかどうかについては、情報をもちあわせていません。ここでは写真に陶片が写っているように盤・皿類を中心に焼成されました。
<了>
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