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世界の街角

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北タイ陶磁に魅せられて:第4章

2019-06-20 08:16:03 | 北タイ陶磁

パヤオ古窯址とは、中世の13世紀末から操業を開始した、現パヤオ県ムアン郡に散在する古窯址群の総称で、その領域はムアン郡の南から北に及んでいます。今回は、その窯址巡りの前段として、予備知識の習得が可能な博物館とパヤオ焼の特徴を説明し、その後窯址について紹介します。

  

パヤオ焼の知識が習得できる2箇所の展示施設を紹介します。最初に紹介するのはパヤオ湖の東南岸に在る、ワット・シーコムカム付属博物館(文化センター)です。

(ワット・シーコムカム付属博物館)

ここでは多くの展示物を見ることができますが、パヤオ陶磁も目にすることができます。下の写真は、後程紹介するウィアン・パヤウ(Wiang Phayaw)古窯址から出土した灰釉柑子口(こうじぐち)瓶で、この器形は中国陶磁の影響を受けたものと考えられます。当該付属博物館では、ウィアン・パヤウ古窯址から出土した、10点ほどの陶磁を見ることができます。

 

(灰釉柑子口瓶 ワット・シーコムカム付属博物館 現地撮影)

 次に目指すのは、やはりパヤオ湖東南岸の国道1号から、北へ向かって右へ暫く入ったところにあるワット・リー付属博物館です。そこの展示品は、やや専門的になりますが、数寄者にとって驚きの連続でした。その一つはパヤオ褐釉印花象文盤です。

(褐釉印花象文盤 ワット・リー付属博物館 現地撮影)

カベットには鎬文を配し、見込みの周辺には小さな三角の印花文(後述)が放射状に押され、中央が大きな象の印花文で装飾されています。写真は薄墨色に写っていますが、実際は褐色じみていました。

 割れの補修を上手にして欲しいのですが、完器であればパヤオの名器中の名器でしょう。尚、具体的な焼成窯は不明です。

 (貼花鹿文陶片 ワット・リー付属博物館 現地撮影)

二つ目は写真の貼花文(後述)で、その出所は明確でフェイ・メータム(Huay Mae Tam)窯です。白土をスリップ掛けした後に鉄分の多い陶土を、見返りの鹿か麒麟を見立てて貼付けたもので、このように種類の違う陶土を貼付けて貼花文とするのは、北タイで唯一の技法で、パヤオ焼でしかみることができません。                                                

 (掻取象文陶片 ワット・リー付属博物館 現地撮影)

驚いた展示品の三つ目は、象の掻き落とし文をもつ陶片で、このような技法は他の北タイ諸窯ではみかけず、中国・磁州窯の影響も考えられますが、そのことについては明らかではありません。これはフェイ・メータム窯で焼成されたことが明らかになっています。以上2箇所で予備知識を習得すれば、凡その焼物の特徴が分かろうかと思います。以下にパヤオ焼の種類と特徴を紹介しておきます。

<釉薬による分類>・・・パヤオ陶磁を釉薬によって分類すると

1. 灰釉・・・濃淡と色調の違いがありますが、灰色から黄土色に発色

2. 褐釉・・・濃淡をもつ褐色

3. 青磁釉・・・いわゆるオリーブグリーンに発色

・・・以上の3種類に分類されますが、青磁釉は少なく、それは後程説明するウィアンブア窯群の一部の窯で焼成されました。

<装飾技法による分類>

装飾技法としてほぼ共通しているのは、器の表面を白土の泥漿により、化粧掛け(スリップ掛けとも云う)している点です。パヤオの陶土は鉄分が多く、そのまま焼成すると発色に変化があるものの、概ね灰黒色から黒褐色に発色し見栄えはよくありません。そこで白土の泥漿で器の表面を覆う手法を採用しています。この手法はサンカンペーン焼と同じものです。以下スリップ掛け以外の装飾技法を列挙しておきます。

1. 印花文(いんかもん)・・・器を成形後、判子を押して文様形成する方法で多くが凸版ですが、僅かながら凹版を用いて、文様が浮き上がる印花文も存在します

2. 刻花文(こっかもん)・・・化粧土をスリップ掛け後、それが乾かないうちに割り箸のような道具で、掻きとるように描いた文様と、釘のような道具で成形後の器胎に文様を刻む2種類の刻花文が存在します

3. 掻取文(かきとりもん)・・・スリップ掛け後そのスリップが半乾燥したときに、ナイフのような道具で下地がでるまで掻きとり文様とします。掻落し文とも呼びます

4. 貼花文(ちょうかもん)・・・器の表面に表現する対象物、例えば象の形に陶土を盛り上げて、あたかもその形を貼付けたように見える文様を云います。パヤオでは、それが色調の異なる陶土で表現され、寄木細工のように見えなくもありません

以上の4分類の中で、数量的に多いのは①印花文と②刻花文です。以下具体的事例を紹介しておきます。                               

 (青磁印花日輪文盤 ジャオ・マーフーアン窯資料館 現地撮影)

写真は印花文の事例で、文様は日輪(太陽)を表現しています。パヤオ焼としては珍しいオリーブグリーンに発色した青磁で、後程紹介するジャオ・マーフーアン(Gao Ma-Fuang)窯で焼成されました。

 (褐釉刻花唐草文盤 バンコク大学付属東南アジア陶磁館 現地撮影)

事例の二つ目は、褐釉刻花唐草文盤です。見込み外周に波状文を刻み、カベットには唐草文を描いています。この文様はパヤオ陶磁としては、最もポピュラーで代表的な文様です。モン・オーム窯で焼成されたことが明らかになっています。

<パヤオ焼の文様>

1. 印花文の文様には双魚文、象や馬、鹿などの動物文様、獅子やタイでホン(ハムサ、ハンサとも云う)と呼ぶ霊獣や霊鳥文、日輪文、仏教関連文様が存在します

2. 刻花文としては、唐草文や蔓唐草文がメジャーな文様で、波のような波状文もあります。また釘のような道具で刻んだ刻花文には魚文も在ります

3. 掻取文には象などの動物文様と、幾何学文様が存在します

4. 貼花文には先に紹介したような動物文と幾何学文があります        

<パヤオ焼の器形>

量的に多いのは盤・皿の類です。次に多いのが別名ハニー・ジャーとも呼ばれる二重口縁壺や、先に紹介した柑子口瓶等の壺・瓶類です。僅かながら燭台等の生活用品も焼かれました。

<パヤオ焼の特徴>

パヤオ焼の種類や分類でも触れましたが、パヤオ焼の最大の特徴は、鉄分の多い陶土を覆いかくすような、白土の泥漿を用いたスリップ掛けです。もう一つの大きな特徴は焼成技法からくる、口縁の釉剥ぎです。これはサンカンペーンの焼成技法と同じで口縁と口縁を重ね、高台と高台を重ねて焼成するため、不可欠なことでした。この2つがパヤオ焼の大きな特徴です。特徴と云えば、カロン焼きやサンカンペーン焼に見る、鉄絵文様の陶磁を見ないのがパヤオの不思議の一つです。

最も多く焼かれたのが盤や皿類で、文様としてポピュラーなものは、先に紹介した褐釉刻花唐草文盤ですが、それと共に印花双魚文盤もポピュラーでした。以下それを紹介します。

 

(褐釉印花双魚文盤 ジャオ・マーフーアン窯資料館 現地撮影)

この印花双魚文盤は完品ではありませんが、サンカンペーンの印花双魚文盤とよく似ており、どれがパヤオでどれがサンカンペーンか見分けが付きかねるほど似ています。 そこで判別の仕方が重要ですが、それを述べるには専門的になりすぎ割愛いたします。

パヤオ焼の特徴として、中国とサンカンペーンの関係を説明し最後と致します。次の写真は元末期の龍泉窯・青磁貼花双魚文盤です。

 (中国・龍泉窯 滋賀・K氏コレクション)

次に掲げるパヤオのウィアン・ブア(ブア村)から出土した陶片は、上の龍泉窯の双魚と、まさに瓜二つの魚文です。ブア村出土の陶片は貼花ではなく、凹版のスタンプを用いた印花文ですが、凹版ゆえに文様は器面より浮き上がり、貼花の趣を示しています。またカべットには、ウィアン・ブア窯群の特徴ある印花文様で、幾重にも重なる三角形状の鋸歯文を使って装飾されています。

 

(印花双魚文盤片 出典:เครื่องถ้วย พะเยา『タイ語書籍・陶磁器パヤオ』)

予てより、パヤオやサンカンペーンの双魚文は、バラモンやヒンズーの占いに等に登場する黄道十二宮の双魚宮からきたものと考えていましたが、種々追及すると上述のように、中国からの影響がより大きいと考えるに至りました。

次にサンカンペーンとの関係ですが、双方極似した印花双魚文盤を有すること、その盤は双方共に口縁が釉剥ぎされていること、更にはパヤオ・モンオーム古窯址からサンカンペーン褐釉印花双魚文盤が出土したことから、双方が兄弟関係にあったことが伺われます。つまり双方の陶工は、何がしらの繋がりが存在したと思われます。C-14炭素年代測定法に依れば、双方共に13世紀末の年代を示していることも、兄弟関係を暗示しているように思えます。以上のことから識者の見解は、中国南部の陶工が元朝の南下政策、いわゆる元寇に追われて北タイに逃れ、それらの人々が開窯に関与したと述べています。この見解の可能性はあろうかと考えますが、それを裏付ける文献として中国側の元史や明史に記載はなく、当然ながらタイ側の年代記類にも記載はありません。尚、パヤオとサンカンペーンの兄弟関係については、パヤオの方が器形の多様性や装飾の多様性、魚文の中国文様との類似性、更には地下式の穴窯で北タイでは、最も古様を示すことより、パヤオが兄でサンカンペーンが弟分と考えられています。

                               

パヤオ古窯址群の中から3箇所の窯址を紹介することにします。北タイはパヤオに限らず、保存の手が行き届かずに破壊されてしまった窯址が殆どです。今回紹介するウィアン・パヤウ窯は破壊されてしまった窯址です。原形を留める窯址としてジャオ・マーフーアン窯とポーウィ・ターエン窯を紹介します。

 

〇ウィアン・パヤウ(Wiang Phayaw)古窯址

 

上のウィアン・パヤウ窯址群を示すグーグルアースに『◎確認した窯址』と示している窯址を紹介しましょう。ここは地主に案内して頂きましたが、地主でなければ探し出すのは不可能だったと思います・・・と云うのは、窯址は破壊され単なる平地だったことによります。

 

 (ウィアン・パヤウ窯址地 現地撮影)

地主によると陶片が落ちているとのことでしたが、目を凝らして見ないと分からず、落ちている陶片は僅かしかありませんでした(写真・丸印)。写真の右側が田圃で、それに向かって20度程度の下り傾斜がついており、幾つかの煉瓦を見ましたが、窯体は見当たりませんでした。

このウィアン・パヤウ窯では、壺・瓶類が多く生産されたようで、ワット・シーコムカム付属博物館に展示されている、ウィアン・パヤウ窯の焼物は全て壺・瓶類でしたし、確認した窯址の落下陶片も壺・瓶類のものでした。

 

〇ジャオ・マーフーアン古窯址

 

ジャオ・マーフーアン窯はウィアン・ブア窯群のみならず、パヤオ古窯址群を代表する窯址です。ここはバンコク保険会社の資金援助にて、窯址の覆屋と貴重な陶片類を展示する資料館が建てられています。窯址の前面には小川が流れ、水の供給には苦労がなかったでしょう。また窯はウィアン・ブアの環濠が、築かれた丘に向かう斜面に設けられています。

 

(ジャオ・マーフーアン窯の覆屋と資料館 現地撮影)

 (覆屋内部の窯址 現地撮影)

写真ではやや分かりづらいのですが現地に立つと、これらの窯は地下タイプの穴窯(横焔式単室窯)であったことが分かります。ランナー領域において先駆けの役割を果たした、古様を示しています。窯の全長は5.2m、幅は1.9mで、サンカンペーンの窯より一回り大きくなっています。この窯と共に、焼成時に破損した品物や不良品を捨てた捨て場(これを物原と云う)も保存されています。

 (ジャオ・マーフーアン窯物原 現地撮影)

この物原を隅から隅まで観察すると、写真のカベットに鎬文をもつ褐釉盤の陶片をところどころで目にすることができます。まさにサンカンペーンと瓜二つの陶片です。これもサンカンペーンと兄弟関係を伺わせる資料です。

                              

〇ポーウィ・ターエン古窯址

ジャオ・マーフーアン古窯址から300m東南に位置し、そこはウィアン・ブアの環濠の麓にあたります。そこへ行くには民家の庭先を通る必要があり、家人に窯址を訪問する旨を伝えて下さい。この窯址も穴窯で伝統的な横焔式単室窯です。全長は5.5m、全幅1.7mで、先のジャオ・マーフーアン窯よりスリムな形をしています。

 (ポーウィ・ターエン古窯址 現地撮影)

ジャオ・マーフーアン窯は複数の窯で構成された窯群でしたが、このポーウィ・ターエン窯は写真の1基しか確認することはできず、窯群であったかどうかについては、情報をもちあわせていません。ここでは写真に陶片が写っているように盤・皿類を中心に焼成されました。

 

<了>


北タイ陶磁に魅せられて:第3章

2019-06-18 08:53:30 | 北タイ陶磁

昨年10月に不定期連載と称してUP-DATEしてきたが、昨年12月28日に第2章をUP-DATE以降中断していた。不定期連載ながら以降は、もう少し間を詰めて紹介したい。先ず、第1章と第2章が間があきすぎたため、そのレビューから始める。

第1章:ラーンナー古陶磁を訪ねて

第2章:ラーンナー古陶磁の窯址を巡る・カロン窯址編

 

サンカンペーン窯は、チェンマイの東25kmのピン川支流で、ピュー川渓谷の麓に80基以上の窯址群が横たわっており、その総称としてサンカンペーン古窯址と呼びます。そこはサンカンペーン郡オンタイ地区で、チェンマイとランプーン更には、南100kmのランパーンとの交易ルート上にあり、そこに住まいする人々に陶磁を供給することができました。サンカンペーンが窯業地となったのは、前述の交易上の利点と、近隣および当地から燃料、水、陶土や化粧土を入手することができたことによります。

サンカンペーン窯の成立については、ヨドヒストラ王子がピサヌロークからランナーへ帰順したさいの1451年に、連れて来られた陶工により操業されたとする説、更にサワンカロークからの陶工が、戦争捕虜として連れて来られ、それらの陶工により操業した説等々が存在しますが、今日ではこれらの説は否定され、先にCHAO 365号で紹介したバンコク考古学センター・サーヤン教授の『C-14炭素年代測定法』と呼ぶ炭化物の化学分析により、13世紀末には操業を開始したのではないかと云われています。そして盛時は14世紀から15世紀の間でした。

サンカンペーン窯の存在を初めて明らかにした故・ニマンへーミン氏は1952年に、83基の窯が操業していたと公表していますが、1970年のタイ芸術局の調査では、83基は過小評価の可能性が高いとしています。窯は数平方キロの範囲に群れをなして散在しており、主にMae Pa Haen(Maeとは川)とMae Lanに沿った周辺に存在しています。その領域はバン・パトゥン(パトゥン村)とバン・ポン(ポン村)にまたがっています。                                    

 

窯址巡りの前に予備知識が習得できる所を3箇所紹介しておきます。先ずは改装後のチェンマイ国立博物館です。紙数の関係で詳細は述べられませんが、改装後は陶磁器関係の展示コーナーが一新されました。写真のように窯の焚口と焼成室を模したジオラマ展示が出迎えてくれます。

(チェンマイ国立博物館ジオラマ展示 チェンマイ国立博物館にて)

そしてサンカンペーン窯址から出土した完品や陶片が数多く展示されています。その数は改装前に比較し大幅に増加しており、サンカンペーン焼の概要が把握できます。また嬉しいことに改装後、写真撮影可能となったことです。尚、国立博物館に向かって左手奥の建物が、タイ芸術局第8支所です。北タイの窯址に関する情報がゲットできるものと思われます。

2箇所目は、チェンマイ大学考古学資料室です。ここではサンカンペーン焼としては、大変珍しい装飾の陶片を見ることができますが、やや専門的であることと敷居が高いため、パスしても良いでしょう。

3箇所目はオンタイ地区パトゥン村のワット・パトゥン付属博物館です。道順については、後程窯址巡りの項で紹介します。ワット・パトゥンの山門を入ってすぐ右手が下写真の付属博物館です。建物の入り口にはピピッタパン(博物館)との表示があります。                                           

(ワット・パトゥン付属博物館 現地撮影)

この付属博物館では、窯の焼成時に用いられた窯道具を見ることができます。それが下の写真です。これを見ると口縁(こうえんと呼ぶ:CHAO365号の用語参照)と口縁を重ね、高台(CHAO365号の用語参照)と高台を重ねて焼成する、重ね焼きの技法が用いられていたことが分かると思います。

(ワット・パトゥン付属博物館・重ね焼き展示 現地撮影)

この重ね焼きは、小型の窯で焼成効率を高める、つまり数多く焼き上げるため工夫されたものでした。そのために盤や皿の口縁の釉薬を拭き取り、口縁同士が付着するのを防止しています。この口縁に釉薬が無い盤と皿は、サンカンペーン焼の大きな特徴です。

●窯址巡りで注意したいこと

ランナーの窯は小形で規模が小さいのが特徴で、行政による保護が十分ではありません。窯址は私有地に在るのが殆どで、窯址巡りをしようとすれば、私有地に踏み込むことになります。無用なトラブルを避けるため、下記の配慮が必要です。先ず窯址を所有する地主を探し出してください。地主に案内頂ければ何ら問題はありません。運悪く地主に巡り合うことができなければ、村長を探し出し窯址位置の情報をゲットすると共に、窯址を訪問する旨伝えてください。それも出来なかった場合は、窯址の地理に明るい村人を探し、その人に案内してもらって下さい。くどいようですが、言葉も分からない日本人が単独でウロツクことは差し控えてください。従って窯址巡りには、タイ語を流暢に操ることができなければ、タイ人日本語ガイドの同行が不可欠です。尚、地主等々の案内をしていただいた方には謝礼が必要でしょう。

国道1317号でプロムナーダの前を通過し、サンカンペーン方向に向かいます。やがてランプーンに向かう国道(旧県道)1147号の分岐に至ります。そこを右折して道なりに直進するとパトゥン村で、右手にはワット・パトゥンが見えきます。そこには先に説明した付属博物館が在りますので立ち寄りましょう。

 

〇ワット・チェンセーン古窯址

いよいよ窯址巡りです。ワット・パトゥンの前を直進すると2-3kmで、左手にワット・チェンセーンが見えてきます。その斜向かい、つまり進行方向右側にワット・チェンセーン古窯址が在ります。そこは公的機関の管轄下にあり、見学のための許可を得ることは不要と思われます。写真は二十年前のものです。写真のような覆屋で保存されていましたが長年の風雨で朽ち、近年再整備されました。

(ワット・パトゥン古窯址全景 現地撮影)

(ワット・パトゥン古窯址 現地撮影)

次の写真が2018年に訪問した時に見た、新しい覆屋で四方に回廊が設けられ見学し易いように改善されています。

(ワット・パトゥン古窯址・新覆屋 現地撮影)

窯址を見ると、目分量で長さ3m程度の非常に小さな窯であることが分かります。ココでは翠色の鮮やかな青磁鉄絵双魚文盤や青磁鉄絵草花文盤、さらには青磁の高坏などが焼成されました。                                      

 

〇トン・ジョーク古窯址

次にトン・ジョーク古窯址を紹介します。ワット・パトゥンの手前にポン村の入り口ゲート(写真参照)が見えます。冒頭の窯址位置図の矢印方向に進んで、その入り口ゲートを越えて直進することになります。

(バン・ポン入り口ゲート 現地撮影)

しかし具体的な窯址位置が分からないので、事前にワット・パトゥンの僧侶に在処を尋ねると、ポン村の村長を紹介すると電話して頂きました。そして村長宅を訪ねたところ、懇切丁寧な教示を受け、現地で迷ったら電話せよと携帯番号まで教えて頂きました。教示頂いた窯址が窯址位置図にプロットした地点です。教示に従って先ず着いたのは、Mae Lanダム湖の東側の細長い広場です。この細長い広場のどこに窯址があるのでしょうか?・・・お言葉に甘えて早速電話をしました。その後暫く左右を探すと、奥に向って右側に比較的程度のよい窯址があり、何か調査をしたような痕跡がありました。

(トンジョーク古窯址 現地撮影)

(トンジョーク古窯陶片 現地撮影)

その窯址はワット・チェンセーン窯より僅かに小型で、煙道を含めても3m程と思われます。周囲には多くの陶片が転がっていました。見ると貫入のある青磁釉の破片で、見込みに鉄絵のある破片は見つかりませんでしたが、口縁に鉄絵圏線のある破片を目にしたので、鉄絵文様の盤を焼成していたことが伺われます。この窯址はトン・ジョーク窯址群の一つですが、個々の窯址名称が不詳であり、とりあえずトン・ジョーク古窯址と表現しておきます。尚、トン・ジョーク窯址群の多くはMae Lanを堰き止めたダム湖により、その湖底に沈みました。従って今日目にできるのは僅かの窯址のみになりました。

ここでサンカンペーン窯と呼ばれる窯址群の特徴を説明し、窯址巡りの項を終えます。下の表を見てください。ランナーの窯に共通するのは小形の穴窯(横焔式単室窯)ですが、なかでもサンカンペーン窯は3.5m未満と最も小さいものです。

(窯サイズ比較表 出典:Ceramics in Lanna:サーヤン教授著)

これらの窯の幾つかは平地に近いところに築かれています。粘土構築の窯が多いのですが、幾つかは煉瓦が確認されているので、それと粘土で構築されていたものと思われます。サーヤン教授は地下タイプの横焔式単室窯と述べていますが、ワット・チェンセーン窯の写真を見ても分かるように、地表から窯までの距離が浅く、半地下式であったろうと思われます。これらの窯址を訪れると、長年の風雨によって壊れており、全容を留めるものはありませんが、その窯址の状況からチェンマイ国立博物館前庭に移築復元されている地下式のカロン・ワンヌア窯と形状は同じであったろうと云われています。それは地面を僅かに掘り下げた、煉瓦と粘土による窯です。小型の窯であり大型の器物を焼成するのは不向きでありますが、高さ50~60cm程の壷も焼成されました。   

 サンカンペーン陶磁の最もポピュラーな文様は双魚文で、ホテルのデコにも用いられています。写真は、現U-NIMMANホテルのトレードマークで、改築前の旧・アマリリンカム・ホテルのそれでもありました。

(U-NIMMAN HOTELトレードマーク)

この文様は、鉄絵双魚文と呼ぶのですが、尻尾が非常に簡略化されて描かれているのが、サンカンペーンの魚文の一つの特徴です。

先ずサンカンペーン焼の種類から説明します。一番多く焼かれたのが盤や碗と皿の類です。それと共に焼かれたのが大壺、ハニー・ジャーと呼ばれる二重口縁壺、中小型の壺・瓶類、高坏、僅かですが建築用材もあります。盤については後程説明しますので、ここでは3点の壺・瓶類を紹介します。

(サンカンペーン・灰釉玉壺春瓶:チェンマイ国立博物館)

(サンカンペーン・青磁盤口双耳壺:町田市立博物館)

写真のように二段になった口部を盤口と呼んでいます。この口部の形状は北タイ陶磁の一つの特徴です。

(サンカンペーン・褐釉掛分け広口双耳大壺:チェンマイ国立博物館)

高さ60cmに及ぶ大壺で見事なものです。濃淡の褐色釉を掛け分ける手法は、クメールの影響を受けているとの説もあり、何らかの影響があったであろうと考えられます。

それでは最も多い盤類について説明します。盤類は装飾技法によって大きく3分類されます。その装飾技法別の凡その割合は以下の通りですが、これらのデータは筆者が記録に残している200点を越える盤・皿から導き出したもので、実態を反映しているかどうかについての保証はできませんが、データの数からそれなりの確度であると考えています。                                       

①   鉄絵装飾               約60%

②   印花装飾(判子を用いて装飾する技法) 約20%

③   その他の装飾技法           約20%

サンカンペーン焼も、北タイに多い鉄絵文様の盤類が多いことが分かります。尚、用いられている釉薬は青磁釉、灰釉、褐釉で各々濃淡を持っています。このうち褐釉以外は、下地の上に白色粘土の泥漿(でいしょう)で化粧掛け(スリップ掛けとも云う)されており、これがサンカンペーン焼の特徴です。それでは具体的な装飾文様別に多い順に下記します。

鉄絵双魚文を筆頭に印花双魚文、鉄絵草花文、打刷毛目文(*1)、鎬文(*2:説明下記)、鉄絵幾何学文の順で、これらで全体の7割を構成しています。これらの内から幾つかの事例を下に紹介します。                             

(サンカンペーン・青磁鉄絵双魚文盤:チェンマイ国立博物館)

(サンカンペーン・褐釉印花双魚文盤:滋賀・K氏コレクション)

*2:盤のカベット(CHAO365号参照)に放射状の刻線をみます。これは正式な鎬文とは云えませんが、鎬文と呼んでいます。

(サンカンペーン・青磁鉄絵草花文盤:チェンマイ国立博物館)

サンカンペーン焼の種類と特徴ということで、それについて紹介してきましたが、装飾文様の残り3割は実に多様なものです。その多様さの事例として『青磁鉄絵魚草文盤』を紹介しておきます。

(サンカンペーン・青磁鉄絵魚草文盤:京都北嵯峨・敢木丁(カムラテン)コレクション)

見込み(用語:CHAO365号参照)には草文が描かれています。その見込み中央下に魚の頭部を見ることができ、草文は鱗にみたてることができます。器の内壁にあたる箇所をカベットと呼びますが、そこには回遊する三匹の魚文が描かれていますので、合わせて四魚文ということになります。過去サンカンペーン焼の盤は300点近く実見していますが、この手の盤は敢木丁(カムラテン)コレクションの盤が唯一のものです。奥行きの深さとして一つの事例しか紹介できませんでしたが、その装飾は多様性に富んでおり、それがサンカンペーン焼に魅了されるゆえんです。

魅力と云えば、北タイに装飾性に溢れた謎の大壺が存在します。その謎の大壺の産地が未だ確定していません。その理由は、それらの大壺の陶片が北タイのどの窯址からも出土・発見されていないからです。可能性としてナーン県ムアン郡のナーン窯とともにサンカンペーンが有力視されています。残念ながら、そのことについて語るには紙数がたりません。もし機会があれば紹介したいと思います。 

*1、打刷毛目文を説明するには紙数が足りません。別に機会があれば触れたいと思います。

    <了>                                          

 

 


CHAO 388号

2019-06-10 08:59:54 | 北タイ陶磁

昨年中頃から今年初めにかけて、チェンマイの日本語情報誌CHAOに、『ラーンナー古陶磁の窯址を巡る』とのテーマで5回に渡り不定期連載してきた。今回388号から3回に渡り続編を不定期連載することになった。北タイ在住者で興味をお持ちの方は、一読されたい。尚、日本でも入手できるので数寄者の方々には是非目を通して頂き、ご意見を拝聴したいものである。

今回は『ナーン・ボスアック窯址編』である。

 ◎知られざるナーンの焼物を求めて

 ◎ナーン・ボスアック古窯址群とは?

 ◎予備知識を習得するには?

  〇ワット・プーミン付属:プーン・パン博物館

  〇ナーン国立博物館

  〇サーエン・チューエン私設博物館

◎ボスアック焼きの特徴

  〇焼成技法

◎前期陶磁と後期陶磁における印花魚文の違い

◎さあ、窯場を訪ねてみよう!

  〇ジャーマナス窯

  〇スーナン窯

  〇チューエン窯

・・・で、構成されている。

 

日本で入手する方法

 振込先:楽天銀行サンバ支店

 普通口座:4081258

 口座名:高橋敏(タカハシビン)

 尚、一部350円

 口座振り込み後

 ①氏名(ふりがな)、住所、電話番号、バックナンバー記入

 ②振込の領収書コピー

 二つを合わせて郵送かFAXにて申し込み

 宛先:Bridge International Foundation

 FAX番号:0-5312-7175

 住所:296/136 Moo2 Laguna Home T.Nongjom A.Sansai Chiangmai 50210

 

別件)過去、『北タイ陶磁に魅せられて』と題して不定期連載で第1章、第2章を紹介してきたが、その後中断していた。近日中に再開する予定である。

 

<了>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(10)

2019-03-11 07:13:35 | 北タイ陶磁

<続き>

〇ラワ族(佤族)

タイ人が西南下する前の先住民は、ラワ族(ルワ族とも云い、北タイではワー:ว้าと呼び、雲南では佤と云う)であった。北タイ北端に後世チェンセーン王国と呼ばれるグンヤーン王国がラワ・チャンカラートなるラワ族の部族長によって建国され、その系統が700年間統治することになる。その17代目がメンライ王と云われている(つまり、メンライ王の系統はラワ族とタイ族の血が混交しているものと思われる)。

ラワ族はインドシナ半島北部山岳地帯にいるオーストロアジア語族で、紀元前後にミャンマーのマルタバン湾岸からサルウィン川(怒江)を遡り、チベット系民族と混ざった後、3-5世紀頃にチェンマイ盆地に進出した。サルウィン川を遡上すると、中国名怒江となりその源流はチベット高原に行きつく。標高5000mにも達する高地であり、この民族がタノン・トンチャイ山脈やオムコイの峰に墳墓を築く下地はありそうだ。しかし、それをもって墳墓の被葬者はラワ族と即断するには無理がある。ラワ族の葬送儀礼はどのようになっているであろうか。

メーホンソン県の南部にメラノーイという小さな町があり、そこから東へ20kmほどの山の尾根筋に、ラワ族集落が存在する。チェンマイからそこまでは、あまりにも遠く行く機会がない(メラノーイの東約20kmの山中に、バン・メーラエというラワ族集落が存在する。周囲は山また山で、棚田をつくり自給自足の生活を行っている。集落は山の頂で標高1000mほどである)。

そこで文献を検索するが、これという文献がヒットしない。キーワードを変更し繰り返し検索すると、鳥越憲三郎氏・若林弘子女史共著の『弥生文化の源流考』に行きついた。雲南省孟連県海東村・倭族の葬送儀礼が記されている。以下、要点を紹介する。

“正常死の場合、遺体は居間の左側に、頭を男女にかかわらず奥に向けて安置する。そして木棺に遺体を納める。棺の長さは約2.5m。納棺の時バサイ(葬儀信仰の役職者)は棺の底に布を敷き、死者には新しい衣服を着せ、肩から麻袋を掛け、口に家族の数だけ銀貨を少し削って入れる。それは冥土での財産のためである。そして木の皮を水に浸し、絞った水を遺体の頭にかけて清める。納棺が終わると、決められた埋葬の日取りに葬送が執り行われる。

葬送当日、少なくとも犬三匹のほか水牛一頭を犠牲にする。出棺に先立ち、バサイは部屋に安置された死者の霊に食べ物を供え、それを自分でも少し食べる。部屋から棺を出すとき、戸主や老人以外は、奥部屋と庇部屋の間の壁を一部壊して出す。戸主である女性や老人は壁全体を壊し、バサイたちは梯子を経ないで死者の頭を先にして出す。これは死者の霊が戻れないようにするため、日常の通路でない方法をとるためである。野辺送りの先頭はバサイが務め、行列が裏門の奥の墓地につくと、男性全員の手で墓穴が掘られる。埋葬前にバサイによってもう一度、死者に食べ物が供えられ、バサイたちも少し食べ、村人たちも少し食べる。最後の食い分かれの儀礼である。

それが終わると、死者の頭は村落の方向に向けられ、棺が墓穴に降ろされる。棺の上には板か筵を置き土を掛け、最後にバサイたちが土を掛けて、上を平らにして埋納が終わる。その後墓の回りに竹垣をめぐらす。その竹垣には、棺に入れなかった故人の編み笠などの遺品が掛けられる。佤族の墓はいくつも見たが、必ず竹垣に笠が掛けられている。“・・・とある。

更に“事故などで亡くなった非業の死の場合は、とくに村外での死は凶とされ、遺体は村内に運ばれることなく、そのまま墓地に運ばれる。しかも納棺するまで死体は担がず下げて運ばれ、墓に埋納するときも棺は蓋をしないで埋められる。三、四日以内に葬らなければならない。非業の死は鬼に化したと考えられ、その禍を避けるためである。その墓は、正常死と異なり別の場所で、その人が死んだ方角の村の外に埋められる。”

以上をまとめると正常死の場合は、集落の奥の墓地に土葬される。異常死の場合も土葬であるが、それは墓域とは別の場所に埋葬される。尚、正常死の場合の墓地には竹垣が巡らされている。また集落の標高は1250m前後である。

<続く>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(9)

2019-03-09 07:53:01 | 北タイ陶磁

<続き>

雲南や北タイの少数民族の葬送について、現在までに分かった範囲で、その様子を紹介したい。

〇アカ族(哈尼族)

アカ族を雲南ではハニ族と云うが、その先民は古代の和夷。和夷は古羌人が分かれたもので、4世紀から8世紀にかけて雲南省西南部へ移動した。羌の源流は三苗(三苗の主要域は長江流域の洞庭湖と鄱陽湖の間)と云われている。

アカ族の葬儀は1週間に渡って執り行われる。その棺桶は一本の白木の大木を刳り抜いた舟形の木棺である。棺ができると遺体を納め男部屋に安置される。ピュマもしくはボェモと云う仏教であれば僧侶にあたる役職者が棺の前に座り、お経のような節回しの儀礼の言葉を暗唱する。埋葬の日、ピュマやボェモが水牛を生贄にする儀礼を行なう。集落の奥が埋葬地であるが、北タイでは山の尾根に集落を営むものの標高1000mまでである。尚、事故死等の非業の死の場合も土葬なのかどうか?・・・調べているが、そのことについて記述した資料に巡り合っていない。

以上を要約すると正常死の場合は、木棺に土葬で、墓地は集落の奥であるが、そこは標高1000m前後である。

〇ヤオ族(瑶族)

ヤオ族は武陵蛮・五渓蛮と称された古代湖南の山地住民の子孫で、湖南省から雲南や東南アジアに分布し、盤古神を信仰する。ヤオ族の葬儀は通常3~5日で、他の民族に比較し葬儀期間は短い。そして土葬と火葬が存在すると云う。一般的には火葬後、骨のみを埋葬して墓を作る。棺桶に遺体を納め、火葬場所に到着すると、棺に対して後ろ向きで4箇所に点火し、火が付いたら全員その場を去る。火葬の半日後、骨を拾い上げ陶製の壺に入れる。骨壺の埋納は翌日に墓地で行われる。

ヤオ族の場合は、火葬と骨壺の墓地への埋葬である。集落は山地であるが標高には、ばらつきがあり500mから1200mと幅がある。

〇ラフ族(垃祜族)

ラフ族の葬儀は2日~1週間と、他の民族に比較しやや短い。ラフ族は古羌人と同じ祖先をもち、青海チベット高原から南下する中で形成された民族である。

ラフ族の伝統では、亡骸は棺桶に入れず、毛布にくるんで家の中の居間に安置される。出棺の時、竹で組まれた簡易な棺(担架のような形状のもの)が組まれ、それに遺体をのせて籤でくくりつける。墓地は集落から数キロ離れた小高い丘の上に在る。墓地に参列者が全員到着すると、まず埋葬地の選定がなされる。祈祷師が生卵を投げて、そこに死者を埋葬してよいかどうかを占うのである。割れればそこに埋葬してよいが、卵が割れなければ場所を変えて何度でも試みる。埋葬は墓穴を掘り、青竹を割って墓穴の壁に沿って底や側面に敷く。火のついた松明を燻すように竹の敷物にかざして儀礼する。その上に毛布にくるまれた遺体が剥き出しのまま入れられる。参列者はそれぞれ森の中でとってきた葉のついた木の枝を墓穴に投げ入れ、同時に全員がそれぞれ土をひとすくいし、一斉に遺体にかぶせる。その後本格的に土をかぶせる。

参考にした文献には、異常死の場合について言及がないので、それについては分からない。正常死の場合は竹棺に納棺し墓は、竹槨を設け土葬にふす。墓地は集落から離れた小高い丘の上である。

3つの民族について、分かる範囲で事例を掲げた。タノントンチャイ山脈やオムコイ山地の埋葬地の姿と似ている民族もあるが、それらの埋葬地では竹棺や木棺の残滓が出土したとの報に接していない。700-800年を経過し、竹棺や木棺は土に還ったのか?

<続く>