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ブログ掲載1000回記念:サンカンペーン窯と焼成陶磁(1)

2018-02-08 09:16:55 | サンカンペーン陶磁

今回の掲載が999回目となるが、今回から1000回を記念して<北タイ陶磁特集>の連載を開始する。初回は『サンカンペーン窯と焼成陶磁』である。

サンカンペーン窯は、チェンマイの東25kmのピン川支流で、ピュー川渓谷の麓に横たわっている。そこは、サンカンペーン郡オンタイ地区で、チェンマイとランプーン更には、南100kmのランパーンとの交易ルート上にあり、それらの人々に陶磁を供給することができた。

中世、他国からチェンマイへの侵攻は、都城内は城壁で守られているものの、都城の外の村々は必然的に侵略された。サンカンペーン窯が都城から離れた位置に設けられたのは、安全上の都合からであろう。サンカンペーンでは、燃料、水、陶土を入手することができたので、その要因も大きいと考えられる。

サンカンペーン陶磁の最もポピュラーな文様は双魚文で、ホテルの装飾にも用いられている。写真は、現U-NIMMANホテルのトレードマークで、改築前の旧・アマリリンカム・ホテルのそれでもあった。

 (U-NIMMAN HOTELのトレード・マーク)

サンカンペーン窯についての初出は、故ニンマナハエミンダ氏で、タイ芸術局へのレクチャーの中で述べられた。ニンマナハエミンダ氏は、ヨドヒストラ王子がピサヌロークからランナーへ帰順したさいの1451年に、連れて来られた陶工により、窯が操業されたと説いた。更に彼は、他の北部諸窯は、サワンカロークからの陶工が、戦争捕虜として連れ来られ、それらの陶工がランナーの各地で、ほぼ同時に創業したと示唆した。

更に、ワット・チェンセーンの碑文には、25家族の奴隷を喜捨したと記され、陶磁産業を基盤として繁栄したコミュニティーの存在を証明していると述べている。

 

(写真はワット・チェンセーンの碑文を保管するワット・パトゥンの陶磁資料室)

続けて故ニンマナハエミンダ氏は、ビルマがランナーを征服した結果、1558年に窯が放棄されたとし、年代記類に職人と芸術家がビルマに連行されたと記録されていると云う。故ロクサナ・ブラウン女史は、この見解に疑問を投げかけている。ニンマナハエミンダ氏は1952年、83基の窯が操業していたと記しているが、1970年のタイ芸術局の調査では、83基は過小評価の可能性が高いとした。何年にも渡って盗掘した村人によれば、ビルマとの戦乱で窯が破壊された痕跡は認められないとしている。窯は数平方キロの範囲に群れをなして散在しており、主にMae Pa Haen川とMae Lan川に沿った周辺に多いと云う。ワット・チェンセーン地区では8つの窯が、タイ芸術局により発掘され、一つの窯が保存されている。

(写真・ワット・チェンセーン古窯址)

J・C・Shaw氏によると、それらの窯はすべて小型(長さは3m未満)で、幾つかは平地に近いところに築かれ、ワンヌア窯と同じように作られていると記している。更に、過去情報が少ない時は、窯址には煉瓦を見出せなかったことから、稚拙で簡単に構築されたものと云われていたが、近年の調査では煉瓦が確認されているので、それと粘土で構築されていたものと思われる・・・とも記している。

この窯址を訪れると、長年の風雨によって壊れており、全容を留めるものはないが、その窯址の状況から巷間では、チェンマイ国立博物館前庭に移築復元されているカロン・ワンヌア窯と同形状であったろうと云われている。それは地面を僅かに掘り下げた、煉瓦と粘土による窯で、奥行き3m程である。小型の窯であり、大型の器物を焼成するのは不向きであるが、高さ50~60cm程の壷も出土する。

 

(写真・チェンマイ国博・ワンヌア窯)

しかし規模から云えばカロン・ワンヌア窯より、チェンマイ県メーテン郡ムアンケーンのインターキン窯に類似している・・・と、筆者は捉えている。

 (写真・インターキン窯)

 サンカンペーン窯に多い盤等は、口縁と口縁、底と底を重ねた2段3段の重ね焼により、窯の焼成効率を高めたことが知られている。Shaw氏によると、上述の窯址から焼成の熱で崩れ、2段から3段溶着した残片が発見され、匣(サヤ)の中に納めた焼成ではなかったことが示されている。写真は、チェンマイ大学陶磁資料室所蔵の溶着盤である。これを観ればご理解いただけるものと考える。

 

(写真・チェンマイ大学・溶着盤)

このような残片と、小型窯の構造が示すのは、焼成技術の稚拙さである。焼成雰囲気と温度管理は制御が困難で、その焼成技術というよりも幸運が左右し、十分な高温を得ることは少なかったかと思われる。それらのことは低温で白濁した青磁釉の盤があることから裏づけられる。次に示す盤は、当該ブロガーのコレクションで比較的大径の鉄絵盤であるが、青磁釉がやや白濁している事例である。

 

(写真・白濁青磁単魚文盤)

また窯址に残された多くの破片からは、焼成中の崩落や窯そのものが崩壊しやすかったことが想像され、83基の窯址が現認されてはいるものの、焼成の歩留まりは低く、ランナー王朝域外にまで供給する余力はなかったであろうと、考えられていた。しかし近年の難破船の一部から、MON陶と共に出土が確認されている・・・とは、云うもののそれらは少数であり、多くはランナー王国の域内が主流であった。

                          <続く>

 


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