goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

図書「Southeast Asian Ceramics」より#6

2015-04-21 08:50:04 | 陶磁器
ミャンマー陶磁#2

 従来知られていないタイプの施釉陶がタイーミャンマー国境のタークとオムコイで1984-1985年に発見された。かつてミャンマーは東南アジアにおける、施釉陶の文化をもっていたと思われていたが、それを証明した。
 パンダナン(Pandanan)の難破船(ブラウン女史はスコータイの魚文盤より1450-1487年としている)から、1460年代より早い時期にスワンカロークないしは北タイから、運ばれた陶磁の中に、少なくとも一つのビルマ青磁盤が発見された。
 (そのことからの考察として)陶磁生産は国境を越えて別の領域で、同時に発生するのか、学者は陶工が移動していると推測しているようだ。
 東南アジアの歴史には、征服者によって大集団の強制移動が記録されている。マレーシアのケダ(Kedah)では17世紀にアチェ(Aceh)により征服された、そしてパタ二(Patani)のマレー王朝はバンコク王朝に征服された。
 15世紀のタイ陶磁に似たビルマ青磁は、タイの陶工がミャンマーに移動したとブラウン女史は云う。しかし、この移動は歴史上の記録がなく、そして我々の分析によれば、陶工の移動や技術の移行があったとは認められていない。
 多分ビルマ陶磁で最も謎めいているのは、白い背景の上に緑の線状の装飾(以降、錫鉛釉緑彩陶と記載)を有するものである。それらの陶磁はタークとオムコイや北スマトラ島で発見された。釉薬や胎土で似た事例が、イラワジ川デルタのトワンテ(Twante)やマンダレーの北シュエボー(Shwebo)でみとめられているが、その錫鉛釉緑彩陶の陶片は、これらの窯のいずれからも発見されていない。(下の写真はバンコクの東南アジア陶磁博物館の蔵品である)

 そしてサンプル分析の結果、釉薬には低温焼成可能な鉛成分が検出された。所謂錫鉛釉緑彩陶は多くが盤や鉢で、タークやオムコイで発掘されたものは、15世紀末頃のものである。





図書「Southeast Asian Ceramics」より#5

2015-04-20 08:52:33 | 陶磁器
ミャンマー(Myanmar)陶磁(1)

 タイ陶磁ほどには知られていないミャンマー陶磁について、一章が設けられているので、それを紹介したい。歴史の古い順に、その時代時代の陶磁について、記述されている。


 歴史史料は、ミャンマーにおける早い段階から、施釉陶の伝統をもっていたであろうことを示唆している。
 ピュー(Pyu 驃)王国の史料によると、ミャンマー中央部のピィー(Pyi ヤンゴンの北北西300km 現地名・プローム Prome 別注参照)と同一視される都は、唐朝からの緑釉煉瓦の壁に囲まれていた。
 11世紀のバガン(Bagan)王国の中心バガンには、施釉の煉瓦は存在せず、無釉の煉瓦が発見されている。それらは仏塔の装飾に用いられ、建造物の壁には使われていない。
 バガンの最初の窯は、Abeyadana寺院近くで、1960年代の初めに特定され発掘されたが、報告書は未発行である。
 U Aung Kyaing氏は、1989年に同地域で多くの窯址を発見した。その後1999年にDr,Heinは、再発掘を主導し窯の形態について、幾つかのことを明らかにした。しかし、まだ明らかではない謎が残っている。謎とは、バガン・ミンカバ(Myinkaba)地域内の他の既知の窯より、多少異なる原理に基づいて構築されているようだ(それが何なのかについての説明はない)。
 “Martavan”とか”Marutaban”と呼ばれる黒釉の大型貯蔵壺が、東南アジアを訪れたヨーロッパ人の間で知られることになった。このことについては、イブン・バット―タ(Ibn Battuta)も紹介しており、この貯蔵壺は船中で果物を保存するために用いられた。
 16世紀にポルトガルから来たダーテ・バンボサ(Duarte Banbosa)は、黒釉の大型貯蔵壺がマルタバンで生産されていると述べている。そして生活必需品として輸出された。

 下の写真はマラッカの鄭和祈念博物館に展示されているマルタバン壺である。同様な壺は大分市の大友氏に関する遺跡からも出土しており、それを大分市立博物館が所蔵している。

 (別注:ピィー付近に存在した“シュリークシェートラ”のことで、ピュー王国の7つの城郭都市の中で最大で、王国の中心であった)

図書「Southeast Asian Ceramics」より#4

2015-04-16 10:39:11 | 陶磁器
 「東南アジアの伝統的な中国式焼成窯」として、次の2項目が掲げられている。一つは”The Traditional Chinese Kilns of Southeast Asia"で二つ目は”Chinese Kilns in Southeast Asia"である。何れも期待した程の内容ではないが、種々想像させてくれる内容ではある。

"The Traditional Chinese Kilns of Southeast Asia"
・1~2世紀前に中国人陶工が西ボルネオのSingkawangに窯を構築した。それらはまだ存在(ブログ”マニラ短信”によると、長さ30mを超えるという)しており、大きな貯蔵壺やその他の器物を生産している。
・1900年頃、青磁を作る窯がチェンマイ近郊に再開された。おそらくミャンマーのシャン州から移行して来たシャン人によってのことと思われる(興味のある記述であるが、これ以上の説明はない)。
・東南アジアにおける中国式の窯の実態については、未だ研究が充分ではない。それらを研究することは、東南アジアに陶磁生産を伝播させる背後にある理由、中国と東南アジアの陶工との相互作用を理解するのに有用であろう。そのことは一般的な、技術移転が行われる状態をチェックする手段を与えてくれる。

"Chinese Kilns in Southeast Asia"
・中国の陶工が13世紀後半にスコータイに行き、タイの陶磁生産を始めたとの伝承を検証することは不可能である。しかしながら清王朝下、東南アジアに中国人陶工によって窯が築かれた。
・この現象の最も精巧な事例は、インドネシア・ボルネオ島の西カリマンタン州のポンティアナックの北145kmのシンカワンの町で発見された。
・西カリマンタン地域への中国移民はWang Dayuan(人名と思う)によって、14世紀の早い段階で記録されている。
・明末期から清初期に、多くの中国人がこの地域に入植した。そこには金鉱があったので、1700年の半ばMempawahとSambasのスルタンは、金を採掘するため中国の労働者を入植させた。
・正確なことは分からないが、20世紀初頭にシンカワンの中国人陶工が大きな龍窯を築き施釉陶を生産した。それらは鉢、盤そして大きな貯蔵壺であった。



 明代永楽帝治下、鄭和が大船団で遠く東アフリカまで遠征した事実のもとで、ボルネオなど日常的に交流があったのであろうか。シンカワンの龍窯の写真を探すが見つからない。但し道観の写真は掲載されており、当地に中国人なりその末裔が暮らしていることがわかる。

 最もしりたい、1900年頃のシャン人陶工による、チェンマイ近郊への築窯説について詳しい記述がない。シャンの100年前は横焔式単室窯にて焼造されていたとの、津田武徳氏の調査報告書があり、この100年前云々は横焔式単室窯と思われるが、何とか調べてみたいものである。
 いずれにしても中世北タイの横焔式単室窯は雲南経由ランナーに至ったであろうと考えているが、未だそれが考古学的に証明されていないのが残念である。



図書「Southeast Asian Ceramics」より #3

2015-04-14 10:02:28 | 陶磁器
 三度Rovanna Brown女史の論文であるが、女史は北タイなかでもサンカンペーンは窯も陶磁もラオスに似るという。そのラオスについて女史は以下のように記す。
 タイからメコンを渡ったビエンチャン郊外で、1970年多くの窯址が発見された。困難な状態にもかかわらず7基の窯址が発掘された。窯や器退はサンカンペーンのものに似ていた。
 華やかなパイプを含む工芸品が、時々タイ北部やミャンマーで発見されている。アメリカとの接触が確かになって以降、タバコがアジアに導入された。従ってこれらの(陶製)パイプは16世紀初頭に先立つ可能性は低い。これらの窯は、それよりも先に操業し始めている可能性があるが、16世紀初頭に稼働していたに違いないと思われる。
 1989年、ビエンチャンを取り囲む城壁の外側であるシーサッタナークで、窯址が発掘された。器を国内消費用に生産したと思われ、西ミャンマーのパガンに供給した華やかなタイプの喫煙パイプ(これは女史の誤解か?ミャンマーでも陶製パイプが焼造されていた)が出土した。窯の構造は横焔式単室窯であった。
 量的に多い器は無釉、少ない割合ではあるが緑釉もあった。C14年代、共伴した中国陶磁、タバコを喫煙するためのパイプから窯は1600年頃である。
 一般的には、窯のサイズ及び形状は、むしろ北タイにおける窯よりもスワンカロークやスパンブリーの中央タイの窯との類似性を実証している。但しそれらは、すべて似通ってはいるが(言及していることに一貫性がなく、北タイ云々から中部タイに話が変化している
)。
 窯は盛時100に及ぶと推測されているが、発掘現場では15基の窯址が存在することが確認された。
 ・・・以上がロクサナ・ブラウン女史の論文を引用した、ラオスの陶磁と窯の記事である。

 ラオス陶磁については、津田武徳氏の詳しい調査・研究がある。「東南アジアの古陶磁(6)」に掲載されている氏の報告書によると・・・
 ラオス陶磁が主に現ラオス国内と東北タイの国境に近い地方にしか分布していないのは、ラオス文化圏を越えてまでラオス陶磁は、交易されなかったということを物語っている(当該ブロガーはロクサナ・ブラウン女史の報告より、津田氏の報告に信を置く)。また津田氏が引用する発掘報告書によると、最大内幅2.1m、全長5.9mの窯が発掘されたとある。
 また陶製パイプの確実な産地として、当該シーサッタナーク、マンダレー近くのインワに隣接するサヨーフォーがあるほか、ルアンプラバーンやシャン州が想定されている。
 これらの武田氏の報告によれば、ロクサナ・ブラウン女史が述べる、パイプをバガンにラオスから供給したとの説に蓋然性はないことになる。
 
 武田氏の報告書にも、今回流用している「Southeast Asian Ceramics」にも、窯の形状を示す写真の掲載がない。そこでアデレード大学東南アジア研究センターのドン・ハイン氏著述でバンコク東南アジア陶磁博物館Newslettre2007の記事を引用して紹介しておく、ルアンプラバーンに近いメコン左岸のバン・サンハイの窯址や表層で下写真の陶片を発見した、として下の写真が掲載されている。


 なるほど、北タイの陶磁の雰囲気をみせているが、印花文の意匠は北タイとはどことなく異なるようにみえる。最大の関心事は窯構造を知りたのだが、いずれの書籍にも掲載されていない。調べるとあるにはあった。それは「見聞録 Leave one's footprints」なるHPである。そこの一コマにバン・サンハイの窯址が発掘したときの状態で残されている。しかし遠めの写真で、窯の概要はうかがい知れない。






図書「Southeast Asian Ceramics」より #2

2015-04-11 09:48:11 | 陶磁器
 #1に引続き北タイ陶磁に関する、ロクサナ・ブラウン女史の1988年論文の引用である。
 北タイ陶磁で知られている2番目として、サンカンペーン陶磁があり、Krasri Nimmanahaeminda氏が紹介した。多分チェンマイ観光の中心に近いため、村人によって窯址が発掘され、取り出した陶磁は土産品になった。そのため窯址は荒らされている。
 サンカンペーン陶磁は、北タイ諸窯のものよりむしろ更に東、ラオスのものに似ていいる(当件に関し、ロクサナ・ブラウン女史は何を言おうとしているのか?何もラオスを持ち出さなくても、パヤオやナーンに類似の焼物が存在する。またラオスと云ってもビエンチャン郊外のシーサッタナークか、ルアンプラバーンのバン・サンハイなのか?確かにシーサッタナークには白化粧が存在し、サンカンペーンとの共通性が認められるが、これとて先のパヤオやナーンがより近しい)。
 少なくとも83基の窯址から、7基の窯址が1970年に発掘された。窯構造はラオス(また、ここでラオスを持ち出している)のものに似ている。長手方向は2~4mと小さく、部分的に地下レベルに及んでいる(半地下式単室横焔窯)。そして破壊した煉瓦も利用している。



 (上の写真は集中豪雨で土砂が流れ込む前の、ワット・チェーンセーン古窯址。下は村人により発掘されたフェイ・バックピン古窯址である)
 サンカンペーンの年代としては14-16世紀の間である。しかしながら編年を阻害する幾つかの要因から、正確なことは把握できていない。サンカンペーンは多くの印花文の盤や鉢を作った。最もポピュラーなものは印花双魚文である。
 
 当該ブロガーからみると、甚だ不十分で必ずしも正鵠を得ない分析であるが、記述内容を正確に翻訳したつもりである。