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図書「Southeast Asian Ceramics」より#5

2015-04-20 08:52:33 | 陶磁器
ミャンマー(Myanmar)陶磁(1)

 タイ陶磁ほどには知られていないミャンマー陶磁について、一章が設けられているので、それを紹介したい。歴史の古い順に、その時代時代の陶磁について、記述されている。


 歴史史料は、ミャンマーにおける早い段階から、施釉陶の伝統をもっていたであろうことを示唆している。
 ピュー(Pyu 驃)王国の史料によると、ミャンマー中央部のピィー(Pyi ヤンゴンの北北西300km 現地名・プローム Prome 別注参照)と同一視される都は、唐朝からの緑釉煉瓦の壁に囲まれていた。
 11世紀のバガン(Bagan)王国の中心バガンには、施釉の煉瓦は存在せず、無釉の煉瓦が発見されている。それらは仏塔の装飾に用いられ、建造物の壁には使われていない。
 バガンの最初の窯は、Abeyadana寺院近くで、1960年代の初めに特定され発掘されたが、報告書は未発行である。
 U Aung Kyaing氏は、1989年に同地域で多くの窯址を発見した。その後1999年にDr,Heinは、再発掘を主導し窯の形態について、幾つかのことを明らかにした。しかし、まだ明らかではない謎が残っている。謎とは、バガン・ミンカバ(Myinkaba)地域内の他の既知の窯より、多少異なる原理に基づいて構築されているようだ(それが何なのかについての説明はない)。
 “Martavan”とか”Marutaban”と呼ばれる黒釉の大型貯蔵壺が、東南アジアを訪れたヨーロッパ人の間で知られることになった。このことについては、イブン・バット―タ(Ibn Battuta)も紹介しており、この貯蔵壺は船中で果物を保存するために用いられた。
 16世紀にポルトガルから来たダーテ・バンボサ(Duarte Banbosa)は、黒釉の大型貯蔵壺がマルタバンで生産されていると述べている。そして生活必需品として輸出された。

 下の写真はマラッカの鄭和祈念博物館に展示されているマルタバン壺である。同様な壺は大分市の大友氏に関する遺跡からも出土しており、それを大分市立博物館が所蔵している。

 (別注:ピィー付近に存在した“シュリークシェートラ”のことで、ピュー王国の7つの城郭都市の中で最大で、王国の中心であった)

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