まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「疑う」ということと、「信じる」ということ。

2009-07-17 | 発言
その日発表された事実を記事にする新聞記者やテレビの報道記者に、「速報」では月刊でも週刊でも雑誌記者はとても勝てない。ニーチェのいう「真実は虚妄の中にある」ではないが、新聞記者の集めた「事実」から、掘り下げて「真実」に近づくか、あるいは大宅荘一の言ったように「世間が黒と言っていたら、白の視点を見出す」、そんな作業をして雑誌記者は、マスコミにない視点から真実に迫ろうとする。いずれにしても「事実」を疑うことから出発する。そんな生活を35年も続けていると、何に関しても疑いの眼を持ってみるようになる。世の中への疑問から、その眼は自己存在意義にまで及ぶようになる。一方、宗教人は「信じる」ことから出発する。神様か仏様か、あるいはキリストや日蓮など、それぞれの神を信じ、後世が作った教典を実生活に活かそうとする。また、「信じる」ということについては、宗教だけでなく、「恋愛」も「友情」も「信頼」も「正義」等すべて「情」に関する事柄は、信じることで成立し、不信によっていとも簡単に消滅してしまう。人間というものは脆いものである。人間はなぜ存在し、どこへ行こうとしているのか。その弱さ、脆さは、何かを「信じる」ことによって少しは支えられ、掬われる。ぼくみたいに疑念を持つより、信じる生き方のほうが、ずっと明るく生きやすい。ほかの動植物は、疑念を持つということがない。だから迷うこともなければ悩むこともない。ひたすら、子孫を後世に残すことだけに生をまっとうしている。しかし、ぼくには「信じる」ものがない。これはぼくの不幸である。