一昨日、茨城県取手市のJR取手駅のバスの中で、27才の男が14人にナイフで切りつける事件があった。男は「人生をおわりにしたかった」「誰でもよかった」と言っている。幸い死者は出なかったが、秋葉原の殺傷事件とまったく同じ構図である。テレビに映っていた実家は20年前に買ったという新興住宅、母親が二年前に亡くなり、一年前に派遣の仕事を切られて、無職の状態で、父親と二人暮らしだった。事件を起こす二日前に家でをして野宿で明かしたらしい。まあ、たぶん推測されることは、父親に「仕事もせずゴロゴロして」とどやされ喧嘩になったのだろう。問題は肉親からも見放された時、仕事もなく前途も見えず、孤独になって、「人生をおわりにしたい」と自殺行為に走ってしまう人が、この事件だけでなく、目に見えないところで、巷間増え続けているだろう現実だ。これから世の中はますます厳しくなって、さらに「人生を終わりにしたい」という人が増えるに違いない。往時、僕たちの時代のころは、家は借家だし、車どころか家電製品なんてほとんどない貧しい暮らしだった。それでもこんな事件を起こす自殺行為に走る人はほとんどいなかった。希望があり、人の絆があったからかも知れない。今はまったくの孤独の中で、まさに一人ひとりが「生きる力」を試されている。
昨日の話の続きをもう少し書きます。日本の未来を想像すれば、ぞっとし、中高年は逃げ切りを考え、若者は指標もなく呆然とする。そして、日本は生き抜くための壮絶なサバイバルの地と化する。そんな予感がします。昨日、また自堕落なぼくは競馬場に行きましたが、パパが3-4才くらいの子供と一緒に来ています。ママはいないんですよ。帰りの神社の境内にもパパがママなしで子供をあやしている。いわゆる「イクメン」が巷に増えてきました。昔ならせっかくの休日家族三人で仲良くというところですが、たぶん、共稼ぎでなければ生活できないので、土曜日でもママは流通業などの仕事に行っているのでしよう。今はまだこれで済んでいますが、日本の内需経済の衰退には歯止めがかからなくなります。働いても年収200万円以下の人が今の日本には1000万人もいるようになりましたが、正社員の年収も減り、派遣・アルバイト雇用はますます増えていくでしよう。子育てどころか結婚さえできなくなります。当然、人口は減っていきます。一方では、企業は海外に活路を求め、完全に日本は空洞化し、現地採用が進められ、国内の仕事はますますなくなっていきます。つまるところ、将来日本の人口は7000万人になり、それも高齢者が多数を占めるようになります。働き手に至っても、賃金の低いものばかりになります。そうなれば、消費税は20%になり、それでも年金健保などの福祉は崩壊し、地方合わせて1000兆円の借金を抱える日本は崩壊、そして衰退の道を辿る、そんな地獄絵図が目に見えています。あと残ったものはとにかく生き抜くためのサバイバルです。どうもそんな壮絶な将来が待っているようです。さて、どうするかって言ったって、揚子江の大河のように流れるそのような時代に逆らうことは、ひとりの力ではとてもできません。われら中高年はそんな地獄絵図になる前になんとかこの世からおさらばできそうですが、残った者は、とにかく生き抜くために、必死で知恵をめぐらし、まず自分が生きることができる手立てを考え、実行していくことしかありません。あーあ、辛い話です。
この12月3日に発売された村上龍のエッセイ「逃げる中高年、欲望のない若者たち」の広告が新聞に載っていた。キャッチコピーに「逃げ切ることだけを考える中高年、欲望と目標を失くした若者は、衰退していくこの国の象徴なのか?不安と閉塞感が覆ういま、村上龍が発信する生と希望へのサバイバル・メッセージ!「成功を考えてはいけない。考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」とある。ぼくはまだこの本を読んでいないが、このキャッチコピーだけで、うううっと唸った。逃げ切ることだけを考える中高年、まさにぼくがそうだからだ。丁度戦争が終わり、戦争を知らない若者として生まれ、高度成長期には夢や希望を抱き、社会に対して主体を放つ学園闘争を経験し、そして今度は企業社会の中でそれなりに活躍した手応えを感じて生き、子供も独立、現役を離れた今、「俺たちは本当にいい時代に生まれ、それなりに楽しかった。これからの日本はヤバイけど、あと我々は、お迎えが来るまで逃げ切るだけ」という心境だったからだ。それはやはり、欲望も目標も持てないからである。なにか建設的なことをしようと思っても、「なんの意味があるのか」と思うとエネルギーが湧いてこない。だから刹那的なギャンブルに走ってしまう。欲望、目的のないのは、なにも若者だけでなく、日本人のほとんどがそうである。生きている「意味」さえ分からなくなっている。昔70年代にアメリカ映画で「グリーン」というSFがあった。安楽死を政府が認め、死にたい人はいつでも、美しいオーロラビジョンを観ながら美しい音楽を聴いて安らかに死んでいける施設を設けたのである。老人たちはその施設で死んでいき、その死体が緑色の食糧チップとなって横の工場のベルトコンベアから運ばれてくる。そういう映画だったと記憶している。今の日本でそんな施設が認可されたら、老若男女問わず殺到して、日本人口の3割は「生きるのやーめた」となるに違いない。それほど今の日本は生き辛くなっている。往時チャップリンは「人間が生きるに必要なものは、希望、勇気、そして少しのお金」と言っている。希望とは何ものにも代えがたい生の糧である。希望がなければ欲望も湧かない。この日本の絶望的な閉塞感は一体どこからきているのだろうか。それは人を信じるという絆が切れてしまったからに他ならない。そういう社会風潮が蔓延化し、日本の人々は誰もが孤独の絶望の淵を彷徨っている。
全くさっぱり判らん政界。小沢を切って、自民党と菅との大連立かよー。その連立じゃあ、どう考えても大反対だ。俺は小沢が連立の主導権を握れば大賛成なんだが・・。いずれにしても、政党助成金の関係で、この年末にはなんらかの決着がつくかなー、いやいや、どう考えてもさっぱり判らん情勢になってきた。政界は魑魅魍魎、一寸先は闇ってかー。
小沢一郎が動き出した。そして読売のナベツネも谷垣総裁と会談、昨日は、小沢一郎が鳩山兄弟、舛添と会談、連立を模索している。小沢一郎は官僚ベッタリで国民を裏切り続ける菅内閣に見切りをつけ、日本を憂う気持ちから連立しかないとハラを括ったようだ。連立に目星がつけば、200人を引き連れて民主党を割って出る。そして、大連立で新政権を発足させるだろう。そうなれば、原口新政権、細野官房長官、それに鳩山、舛添などが大臣に加わるかも知れない。ワイワイガヤガヤ、まるで子供たちがやっているような幼稚な菅内閣に日本の明日はなく、こうなれば、大連立で新政権に明日を託するしか道はないかも知れない。
昨日は相模湖の上流で糸を垂れていました。だあれもいない湖のほとりで、コンビニ弁当を食べながらの魚釣り。トンビが天高く舞い、カラスやカモもいる。もう、ずいぶん水が冷たくなったので、魚の動きも鈍く、当たりがありません。しばらく釣っていると、いつもの野良猫がやってきました。白黒模様の日本猫です。はじめて出会った頃は警戒して2mくらいまでしか近づかなかったのですが、今では体をこすりつけてきます。一緒にコンビニ弁当を食べました。「魚が釣れたらやるからな、少し待ってろ」と僕が言うと、「はやく釣れないかなー」猫が言います。一人と一匹はそうして浮きの動きをじっと見ていましたが、やっぱりちっとも動きません。何度も餌を打ち返しましたが、まったくダメでした。「よおし、これが最後の一発、今日はダメだったねー」、ぼくは帰り支度をしようと思ったとき、浮きがむずっと消し込み、合わせると、魚の感触、「おい、来たぞ、逃がさないようにゆっくりあげるからな」。水面に上がってきたのは30センチ弱のハヤでした。野良猫の目つきが変わり、水面で動く魚を注視しています。「今やるからな、逃げないようにゆっくりと・・」、岸辺近くまで寄せた時、突然、猫がその魚をくわえて、逃げようとしました。「ば、ばか、おい、針がついてるんだから、だめだよ」。ぼくは糸を引っ張りますと、魚は土の上に落っこち、代わりに猫の口に針がかかっていました。「ダメだった言ってるのに・・」、野良猫はううーっと唸り、ぼくと引っ張り合いになりました。猫はパニック状態になっているので、むやみに近づくと噛まれる恐れがあります。ぼくはとにかく引っ張って糸を切るしかないと思いました。引っ張り合いで、糸鳴りがし、さらに引っ張って、やっと糸が切れました。猫はやぶの中に逃げました。切れた糸の先を見ると、やはり二本の針がありません。針は猫の口に刺さったままなのでしょうか。「あーあ、なんてこった」、ぼくの胸は痛みました。中途半端な優しさは却って仇になるって、このことを言うんだなあ、ぼくは道具を片づけながら暗い気持ちになりました。片付け終えた頃、やぶの中から、ひょっこりまた猫が現れました。痛そうな様子もなく、いつもの表情で、どうも針は取れたようです。ぼくは魚を投げると、ぱっと加えて、いつものように去っていきました。ああ、よかった、針が取れて、まさか、猫を釣るなんて・・中途半端な優しさは却って仇になる、ちょっと心の痛い一日でした。