さて、どうするか、急きょ金を手に入れるには、ここはまたどっかに身売りするしかない。俺は年明けすぐに新聞の就職ランから二つを選び、二つの面接をどちらに行くか迷っていた。二つとは焼き鳥屋と経営誌である。前の出版社の実業公論編集長時代に一度ペンを折ったことがあったので、もう経済記事を書くのはイヤだった。で、焼き鳥屋に勤め、焼き鳥を焼いて、余った時間で小説を書こうか、あるいは、やっぱり経済誌のほうが経験はあるし収入は安定するだろうしと、焼き鳥屋と出版社とどちらにするか迷っていた。しかし、とりあえず四谷にある経営政策研究所という「経営コンサルタント」という経営誌を発行する出版社に面接に行った。塩月修一といういかつい社長の面接となった。面談後、「君は編集より、営業がいい。給料は25万円」と塩月社長から言われた。当時、俺はもう39歳になっていたし、長男が中学生、長女が小学高学年だったので、最低30万円ないとやっていけなかった。それで塩月社長に「営業でもいいです。しかし、三ヶ月雇ってみて、こいつは使えると思ったら30万円に上げて下さい。その代わり、使えないと思われたら、ちゃんと三ヶ月でハラを切って辞めますから」「面白いことをいう奴だな、よし、それで行こう」。面接はOKとなった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。
私と丁度入れ違いだったようですね。
僕がいた頃は、黒沢君も東さんもよく知っています。
榎本さんと入れ違いで、10年もいましたから、まあ、いろいろありました(笑)。
一宮さんはその後、塩月社長と喧嘩して退社し、月刊「産業とエネルギー」を立ち上げました。
そこに小牧さんなど、経コン出身者もだいぶ行きました。
まあ、塩月社長には、いろんな意味で勉強になりました。
榎本さんも編集一筋ですか。
今では雑誌業界も衰退しましたね。
一時代でした。
うーん、塩月修一氏は、ざっくばらんに言えば、ちょっと精神に異常なところがありました。僕は10年も一緒に仕事をし、晩年塩月氏は糖尿で広尾病院に入院し、その後病院とやりあったのか、町田病院に転移し、そこで誤飲性肺炎で亡くなりました。あなたが知っている塩月の三女、K子さんにも、その異常性がありました。K子女史を編集部に入れ、その後営業もやらせ、後継者にしょうと考えていました。K子女史は、有名な作家にホテルで取材し、その時子宮外妊娠してしまい、手術をしました。そのころから精神的に不安定になりました。塩月氏が亡くなって、奥さんは会社を締めると言いましたが、経営的にはまだやれるし、社員の生活もあると奥さんを説得し、K子が育つまで、奥さんを社長に、私が副社長、K子を専務とした新体制を発足しました。ところが得意先にあいさつ回りをして、三人で昼食を取っているとき「あなたは腹黒い」とK子が私にくってかかりました。そんなことを言う彼女じゃないのにヘンだなと思いましたが、私はそれじゃあと、身を引きました。その後奥さんに電話をして「K子女史は精神的に病んでいるから、休職させたほうがいい」と言ったら「私の娘を精神病扱いにした。あなたの辞表は受理します」ということでした。しばらくして、私が失業保険で食っている時、奥さんに再び電話をしたら「あなたには大変申し訳ないことをした。あれからあなたの言う通り、K子は怪文書をお得意先にばらまき、恥ずかしいので、会社を潰すことにして、いま、残務処理をしています」とのことでした。なんとも無念な話でした。
塩月氏には三人の娘がいて、結婚相手を後継者にしたかったようです。長女の彼氏も経コンにいましたが、無能だったのでアウトになりました。次女は歯医者と結婚し、三女のK子は今言ったような状態でした。
塩月氏もK子女史も、残念ながら、ちょっと精神的異常があったと思っています。
エントリーにコメントを寄せて後、暫くして使用しておりますiMacがクラッシュ、OSの再インストールとグレードアップにて元通りに復旧はしたものの、当然ながらキャッシュも失われ、貴兄のブログへの再訪もままならない状態に。今未明、ふと思い出しては手掛かりを求めて訪うことが適い、そこでご返信を頂戴しているのを拝見。興味深く読ませて頂きました次第でございます。
塩月氏が広尾病院に入院していたのは存じております。僕も一度ならず入院先の広尾病院へと足を運びました。あれは確か96年だったかと記憶しております。町田病院への転院、及び死因を巡ってはご返信にて初めて知りました。
国会図書館サーチにて調べましたところ、経営コンサルタント誌の納書は98年9月号までで、おそらく廃業も同年かと思料致します。塩月氏の奥様とは二、三度お会いしたこともあり、その人当たりから「さすが塩月氏の女房」とのインプレッションを抱いておりました。貴兄が触れられてらっしゃるように、奥様が社長を引き受け、貴兄が副社長に就く⋯⋯そんな体制が奏功・軌道に乗っていたなら、飽くまで「if」ではあれ、あるいは経営コンサルタントは今日に至るまで刊行を継続していたやもしれません。
さて御息女につきまして。
ご長女の彼氏が席を置き、後継者に擬せられながら無能で適材ではなかったとのお話は初耳でございます。僕が事情に疎かったのか、あるいは在籍していなかった頃のトピックなのかは分かりかねますが。
仰る通り僕の知る御息女は三女さんでございます。僕の記憶に残る範囲では、多少気と押しの強い面はあれど、至って普通のお嬢さんというところでございましょうか。否、寧ろ交通事故を起こされてあたふたとされるなど、気弱な顔すら持つ娘さんだったようにも思います。事故を起こされた折、塩月氏が「那須さん(東電会長)に連絡しろ!」と語気を荒げるなんて場面にも遭遇致しました。いずれにせよ、塩月氏が有するある種のエキセントリックさ(精神異常か否かはさて措き)は、少なくとも当時の三女さんには認められませんでした。故に貴兄の述懐される「その後の」三女さん像は実に意外の一言に尽きます。子宮外妊娠とその手術というエピソードも初めて知りましたが、それらを契機に何かが変わってしまわれたのでしょうか? まさか得意先に怪文書をばら撒き、それを引き金に会社を清算へと追い込むとは⋯⋯全く以て、僕の想像の及ばぬ埒外の顛末と申し上げるより外ございません。とまれ三女さんが貴兄を指して「あなたは腹黒い」などと血迷った世迷言さえ吐かなければ、前述の通り会社も雑誌も残っていたであろう可能性も充分考えられるだけに、極めて遺憾、残念なお話というよりございません。まさか斯様な事態を引き起こすような御息女だったとは。あっけない幕引きと併せてただ驚愕するばかりです。いずれに致しましても、貴重な後日談を知る良い機を与えられましたことに謝意を申し述べるとともに、末筆ながら貴兄のご健勝、ご多幸を心より祈念申し上げます。
(TK)さんの話を聞いていると、本当に経コン時代が懐かしいです。僕はどっちか言うと「文学青年」(笑)で、しかも発想力もないのに、哲学小説志向でした。それが文筆を勉強するために「実業公論」という経済誌に入り、経営的には火の車の中、編集長と言っても、広告営業中心で、記事も書き、広告も取るということをしてきました。そこで10年。それから土方をやったり、家電量販店の売り子やったり(笑)、そののち塩月社長の経コンに営業で入りました。
10年して辞めた時、親友が二人も亡くなり、「ああ、人生、一回コッキリだなあ」と思い、仕事の傍ら、今まで書き溜めていた哲学小説等をなんとか活字にしたいと思い、「いのちにふれる」という雑誌を立ち上げました。
勿論、金のない私、自費出版するほど持ち合わせがないので、財界人にトップインタビューし、広告を貰って、印刷代としました。
活字になり、書店に並べられて、それまでの「文学青年」(笑)とは、それでおさらばしました。そうすると今まで苦労をかけてきたカミさんに申し訳なく「今度は、文学を捨てて、カミさんのために金儲けにてっしょう」と決意し、「いのちにふれる」を経済誌に変貌させ、足かけ7年やりました。
言ってみればブラックジャーナルと哲学青年のはざまの人生でした。その意味では営業で鍛えてくれた塩月にも感謝しています。
あれから先行するエントリー、後続のエントリーを通読、言わば貴兄の「一代記」を体感させて頂いた恰好でございます。「いのちにふれる」にて成功された件は微笑ましくも嬉しく思いつつ読ませて頂きました。勿論「哲学小説」も興味深く拝読致しました。僕の知る貴兄は情熱的であり且つ親切な方。何より圧倒的な存在感を放ち、他の営業部員の存在を認識させないほどでございました。故に往時、貴兄が病と闘いながらその身に鞭打たれてらしたのは存知得ず、意外の感を抱いたというのが正直のところでございます。やはり塩月氏と深く関わる者は、どこかしら病んでしまうものなのでしょうか。思い返せば確かに、塩月氏という人物は他者を追い込むところがあったやもしれません。僕などもご多聞に漏れず、それで体調不良に陥り挙句に病み、辞めざるを得なかったように感じております。退社の後、事務的な手続きで来訪した折には、それを知ってか塩月氏は玄関先のエレヴェーターの前で待ち構え、僕を散々罵倒して去って行きました。そのエキセントリックさには実に驚きを禁じ得なかったものです。
さて往時の編集部は、明確に「編集長」たるポストを設けていなかったやに認識しております。しかしながら以前述べました通り、Y氏が実質的な編集長としての役割を果たし、塩月氏の奥様のご兄弟が誌面の割り付けなどを担当されつつデスクのように振る舞われておりました。Y氏は理性的で落ち着いた物腰ながら、酒が入ると豹変するようなところもございました。他には確か銀行出身で共著を持つことを自慢にされていたS氏。彼はどこか協調性に欠け、灰汁のある独特の人物でした。また僕より後に編集部入りしたT氏。アパレル業界から転じてきた彼は歯がなく、入稿直前には決まって体調不良を理由に休んでおりました。どうやらご自宅にて原稿をまとめてらっしゃったご様子。そして以前にも触れたK君。東京新聞にてアルバイト経験を有する彼は明晰にして理知的。観点も鋭く素晴らしい記事を幾つも物しておりました。それで塩月氏に目をかけられたのでしょうか。称賛しつつ酒席を設けては御息女を陪席させたのは、これは飽くまで僕の邪推に過ぎませんが、あるいはK君へ御息女を娶せるお心算だったのではなかったのかしら? とすら感じたりもする今日この頃です。それをK君は厭い、去って行ったのやもしれません。
ところで「経コン」退社後の僕は、暫く静養の後、とある月刊誌に記者・編集者として席を置き、副編集長まで努めましたが、当該誌廃刊を機に離れ、広告代理店にてライティング・デザイン部門の責任者として迎えられました。今でこそウインドウズによるDTPも盛んになりましたが、当時は専らマッキントッシュが主流。当時、同代理店にてマッキントッシュを扱えたのは僕、それと先輩の女性従業員の二人きりという状態でした。そうした中で後進を指導、育成しつつ責任者としての役目も果たし、数年後には独立、今に至ります。現在はデザイン(紙媒体&WEB)と著述、翻訳を生業に日がな暮らしております。複数人の異性とも交際致しましたがいずれもご縁なく、五十路を越えた今でも「独身貴族」(死語?)を謳歌しております。幸か不幸か取引先との案件で手一杯であり、業務用WEBサイトは非公開処理を採っております。ブログは運営しておりません。SNSはMixiとtwitterを利用しておりますが、MixiはそのIDが古いメールアドレスにてうっかり失念してしまいログイン出来ず、放置の状態が続いております。twitterは原則的に一日一度、業務終了後の17時過ぎに呟くのみですが、少なくないフォロワーさんらとの交流を楽しんでおります。一応twitterのURLを記載させて頂きます。貴兄がもしもtwitterをご利用されてらっしゃいましたなら、何卒お気軽にフォロー、お声がけ等下されば幸甚に存じます。末筆ながら、貴兄のご健勝、ご多幸を心より祈念申し上げます。
おかげさまで当時を偲ぶことができました。
Yさんというのは、山内健二君のことでしょうか。
彼とは編集部のなかでも気心があって、経コンを辞めた後も、時折交信していました。彼はその後、清掃の仕事をやりながら、執筆活動を続け、ブログで小説を書きあげ、それが電子書籍(ペンネーム天野響)にもなりました。ところが昨年の11月から交信がプッツリ途絶え、連絡も取れず、心配しています。ひょっとしたら、高層ビルの窓ガラスを拭いていて落ちたのかと・・
僕はもう73才になります。このブログも、もう書く意欲がなくてとん挫しています。身体の調子も、塩月時代の自律神経失調が尾を引いているようで、あまりよくありません。しかし、自分の人生に悔いはありません。自分なりのちっちゃな持ち味でやれるだけのことはやってきたし、もう、生きてきてよかったなあと、満足しています。ただ、やっぱり死ぬのが怖いですね。ハラが出来ていません(笑)。
(TK)さんは、まだまだお若いし、これからです。頑張ってください。
本当に交信してくださってありがとうございました。感謝、感謝です。
どうぞ、これからの人生、頑張ってください。
さて仰る通り、Y氏とは山内氏でございます。彼は先述のように、理性的で落ち着いた物腰であり、時折ユーモアを交えた軽妙洒脱な語り口を披歴したり、ざっくばらんにも気さくに応じてくれる──そんな方でした。印象的なエピソードが二つほどあり、内一つは「経コン」以前、パチンコ紙の編集者・記者をしていたらしく、その仲間達から復帰を懇望されるも、彼らの姿勢に疑問を抱いていたようで、頑なに断られていたというお話。もう一つは、幼少の砌、韓国で暮らしていたらしく、そこで凄絶ないじめに遭っていたという話。これらのエピソードが僕の心の内に深く刻まれております。「酒席で豹変」とは些か語弊があったやもしれません。実際に豹変した姿を見たのは一度限りで、確か忘年会の二次会終了後の一度のみ。けれども、酒の席では時に悪ノリが目立つなど、総じて酒癖は良い方ではございませんでした。彼がその後、記者・編集者の途を捨てたというのは意外中の意外でございました。それでも筆は折らなかった由。試みに「天野響」で検索致しましたが、何ら得るものはございませんでした。ただ、その途上で「天野響一」という手掛かりを見出し、それを辿って検索したところ、2019年にアマゾンKindleにて小説を出版していたのを知りました。彼のブログとFacebookアカウントも見つけました(ただし僕はFacebookをやっておりませんので、その中身については詳細を窺うことは出来ません)。また貴兄のブログエントリのコメントにても「天野響一」名義のそれを見出しました。彼が「清掃業」という全く異なる世界で糊口をしのぎつつ、執念の末に小説を上梓したというのは嬉しい出来事であり、称賛に値すると存じます。その作品は未読ながら、ブログエントリには後続作品が掲載されており、読み始めたところでございます。癖のない文体で、語り口も折節説得力に富み、また章立て・構成には独特の感性が光る、そんな印象でございます。ただ同じ文筆人として気になるのは、三点リーダを使用せず、中黒にて代えている点。まあそれも彼の個性というところでしょうか。彼のブログエントリの後半は、独特なタッチの漫画で占められておりました。彼も貴兄同様絵心があったのでしょうか。
確かに貴兄も気を揉んでらっしゃるように、ブログ自体も昨年11月14日で途絶えております。一体どうしたのでしょう。彼は確か、今年で齢59乃至は還暦を迎えるはず。貴兄が恐れてらっしゃるような事態に出会したのか、あるいは病を得たのか⋯⋯いずれに致しましても気に懸かるところではございます。
実のところ、僕も絵画と小説には手を染めておりました。絵は幼い頃より描くのが好きで、小学6年生の折にはコンクールにて銅賞を受賞。中学時代は美術部へ。その後十代後半まで油絵を描き、以降はデッサンとイラストを主体としておりました。経コン後の記者・編集者や広告代理店時代には、自作イラストをあしらいデザインしつつ、各種広報誌やパンフレットなどに寄稿もしておりました。今でも稀に描いております。小説の方は三十路を過ぎてより。四百字詰め原稿用紙換算で五百枚を超える長編から、一定のテーマの下にて読み切りを纏めた掌編集まで、およそ十数本。題材もホラーから私小説的なそれなど多岐に渡りました。幸い伝手もあり、複数の大手出版社文芸部編集者の知遇を得て、有用なアドヴァイスや示唆を受けたり、中には具体的なデヴューの段取りを提案する編集者もおりました。ところが並行して応募していたとある公募賞にて最終選考まで残りつつ、惜しくも大賞受賞を逃してより、自身の小説に一片の価値すら見出せなくなりました。その後もデヴューのお誘いを受けましたが、以降は一切のお誘いをお断りし、完全に小説から足を洗うこととなりました。その点、貴兄も天野氏もそれぞれ形は異なれど、公開出版をされたのですから頭が下がる思いでございます。
斯様に眺めて参りますと、貴兄と天野氏、そして僕、三者ともに「絵」と「小説」という共通項が通底しているのは、真に興味深い事実でございます。偶然かはたまた必然か。何か「縁──えにし」のようなものさえ憶える次第でございます。共通していない点を挙げるとすれば「音楽」でしょうか。僕は高校の頃より吹奏楽を始めたのを皮切りに、ピアノやチェロなど多くの楽器を演奏。合唱もやりました。17歳より編曲を始め、19歳には作曲を開始、25歳頃までop(作品番号)12を含むおよそ二十曲ほどの作品をものしました。アマチュアながら數多の舞台にも立ち、指揮をしたり自作発表の機会にも恵まれました。けれども25歳頃、op.12に当たる「交響曲ハ調」がとある評論家にコケにされてより、作曲頻度はめっきり落ちました。爾来30歳頃まで散発的に數曲書きましたが、先の酷評に加え、経コン時代の塩月氏の毒気にも当てられ、結局のところ経コン退社直後に鬱病を患う羽目へと陥りました。それは未だに寛解せず、今でも不安障害や不眠に悩まされております。投薬により安定してはおりますが。とまれ記者・編集者としては辛うじて命脈を保ったものの、音楽への情熱はすっかり冷め、三十路に入る頃には全て已めてしまいました。今でも脳裏を様々な楽想が掠めるのですが、記譜をすることは断念しております。
折々些か脱線してしまい、今般は所々で長々とした自分語りに終始してしまいがちでございますが、僕も貴兄同様、天野氏のその後が気懸りでなりません。貴兄も返信にて仰られたように、五十路はまだ若い。されど身体にはガタを来す頃合いでもございます。先の大晦、僕は年内最後の買い出しへと出掛ける途上で意識を失い、救急搬送されました。その車中にて朧げな意識のまま救急隊員と応答する最中、僕は「死の概念」へと初めて邂逅したように感じております。「鬱病」由来による「希死念慮」には何度か悩まされましたが、現実的に「死」へと肉薄したのは、これが最初の体験でございました。カテーテル施術やCTスキャン等の結果、下された診断は「肺血腫」。この1月9日まで十日ほど入院致しました。劈頭にて触れました通り、最近は骨折も経験しております。若いとは思えど、諸々と無理の利かぬ世代へと差し掛かりつつあるのだとも痛感致しております。天野氏もあるいは同様かもしれません。病を得て連絡がつかない蓋然性も否めません。無論、貴兄が返信にて触れられるような事態へと見舞われた可能性も同じく否めません。いずれにせよ、音信普通という抜き差しならぬ局面からの脱却を切に願う次第でございます。
貴兄とこうして遣り取りをしておりますと、過去の自身、そして今ある自身──その様々を顧み、そして点検する良い機を与えられているようで、いつもながら感謝の念を憶える心地でございます。貴兄には改めて謝意を申し述べたく存じます。
末筆ながら貴兄のご健勝、ご多幸を心より祈念申し上げます。
本当に(TK)さんの返信を読んでいると感無量になります。
私も高校時代トランペットを吹いていて、将来、トランペッターになりたいと思う一時期もありました。油絵、音楽、小説、それに病気まで共通していますね(笑)。自叙伝にもありましたように、過呼吸で倒れて以来、今もまだ、頭がフラフラして、体調がよくありません。うつ病なのか自律神経失調なのか、いずれにしても塩月と接して以来、その緊張からか、間脳がパンクしたようです。いまも心療内科に通って、精神安定剤と向精神薬を飲んでいますが、体調は脱力感もあって、よくありません。
しかし、自分の人生に悔いはなく、もういつ死んでもいいと思っています。ただ、死の恐怖は強く、フラついただけでオジオジしています(笑)。
そうでした。僕の間違いで天野響一さんです。彼も独身で、若い頃は、一度カミさんとフルートを吹いている女性を紹介したことがあります。四人でカラオケに行ったら、山内君が「リンダ、リンダ・・」を舞台で踊りながら歌い出し、せっかく彼女にと思ったのに、カミさんとそれを聞きながら「終わったな」と言ったものです(笑)。彼は現在も独り身なので、プッツリと連絡の採りようがありません。メールも連絡がつかず、どうしたのか、心配です。
そうか、(TK)さんも病と闘いながら、ですか。
心から、強く、生き抜かれることを願っています。
頑張ってください。