まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

尖閣、竹島、北方領土、みんなくれてやれ!

2010-09-28 | 発言
尖閣諸島は中国は台湾領土の一部であり、中国側は自国の領土であることを譲らない。日本はこっちが先に発見し、100人も日本人が住み着いていた時があり、明らかに日本の領土であるという。第一、昔、尖閣の近くで中国船が難破した時、多くの乗組員を救助した時、中国が「沖縄の尖閣諸島の皆さん、ありがとう」と、日本の領土と認めた上で感謝状を贈ったではないか。勿論日本人であるぼくは、正義はこちらにありと思う。ところが中国人は戦中の痛みから、反日教育を徹底して行ってきており、にっくき日本人、尖閣はおらが国と教育を受けてきている。その赤い豚だか虎だか知らないが、そのシッポを前原外相が逮捕しろと元気に踏んでしまったから収まりがつかなくなってしまった。元気なナショナリズムもいいけれど、もう少し平和に外交をやれんのかねー。だいたい、今や経済的に日中はもはや切っても切れない関係になっている。中国と喧嘩したって経済的損失は計り知れない。中国は核だって持っているし、資源が眠っていると言っても小さな無人島ひとつのことで、ナショナリズムを振りかざして戦争したって、今の日本じゃあ負けることは目にみえている。いくら「尖閣は日本の領土、それが正義」と言ったって、「正義」というのはいつの時代でも勝ったほうが「正義」になるんですよ。歴史というものはそういうものです。喧嘩するどっちもが「正義」だと思って戦うわけですら、勝ったほうの正義が「正しい」となるわけです。となると、もう負ける戦争はやらないほうがいい。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶことです。もう尖閣なんて、中国にくれてやりゃあいいんです。それに北方領土、これだって同じです。ロシアは資源が眠っていると四島に今や6000億円も投資している。そんな領土をロシアが還すわけないでしょ。だいたいこの国も終戦になってから侵略してきた卑怯な国です。しかしこっちも核を沢山持って、今の日本が喧嘩したって、やっぱり勝負にならない。ついでに韓国ともめてる竹島、韓国なら戦争しても勝つだろうけど、ついでにこれも韓国にくれてやんなさい。これですべて日本の領土問題は解決で、日本は非核三原則同様、国際社会に向かって、徹底的に平和外交を推し進めればいいのです。隣国と喧嘩しても戦争しても一銭の得にもならない。二度とあの悲惨な戦争を起こしてはならないし、「平和日本」を貫くべきです。領土問題は、元気なナショナリストには耐えがたいでしょうが、負けてこそ勝つ、くれてやればいいのです。

改ざんは検察の組織ぐるみだった!

2010-09-22 | 発言
押収資料のフロッピーディスク(FD)のデータを改ざんしたとして証拠隠滅容疑で逮捕された大阪地検特捜部検事・前田恒彦容疑者(43)が、今年2月初め頃、特捜部の当時の大坪弘道部長(現・京都地検次席検事)に対し、「FDを手直ししてしまった可能性がある」と報告し、当時の次席検事、検事正にも伝わっていたことも判った。やっぱり地検の組織ぐるみである。こういっちゃあ失礼だが、地検は村木局長クラスのザコを相手にしていたのではない。民主党の重鎮石井一議員の逮捕である。麻生政権下でヨレヨレになってしまった権力を立て直すには世論操作が必要であり、そのために鳩山前総理、小沢一郎前幹事長と、軒並み民主党凋落のために重鎮を社会問題化しターゲットにしてきた、これが60年にわたって癒着してきた自民・検察・マスコミの実態である。組織ぐるみで証拠の改ざんまでするとは、何が何でも民主党を叩き潰すという指令があった証左である。小沢一郎氏の大久保秘書起訴を担当したのもこの前田主席検事だが、大久保容疑者は一転して否認に転じており、この取調べにおいても前田検事は恣意的な行為を行ったに違いない。今の検察はもはや正義の砦ではなく、自民党の番犬と化している。マスコミもそのことに一切ふれず、検事としての前田容疑者の資質の問題、そして「村木さんが可哀想」というレベルの報道で矮小化しようとし、検察が石井一議員をターゲットにしていたことを一切報じない。大政奉還的な政変時には、旧権力の巻き返しがあるものだが、この自民・検察・マスコミのトライアングルを解体しなければ、国民はいつまでも世論操作されっぱなしである。因みに官房機密費はマスコミ記者に渡っているし、内閣調査室は電通に多額の金を出して、時の内閣に有利なコメンティーターをテレビに出させたりして世論操作をしている。仮に菅政権が落ち着けば、やがて逆に、自民、小沢一郎一派などを追い落とす作戦にでるだろう。いつまでも権力と作られる民意の構図は変わらない。

リーダーなき烏合の衆に何ができるか!

2010-09-15 | 発言
日本の政治は菅総理に決まった。しかし、彼では、普天間問題、円高対応など山積する問題に何一つ手を打てず、結局は政治空白を引き伸ばすだけの結果になるだろう。彼は民主党議員「412人内閣」を作るという。全員参加の政治を目指すという。民主主義として聞こえはいいが、それはリーダーシップを取れない総理としての器がないことを意味している。そのことは今回の代表選の演説を通じてよく現われていた。小沢氏が「地方にひもつきなしの一括交付金を」と言えば「私もそう思う」と、自説を変節して横にいる小沢氏をびっくりさせ、「一命を賭けて」と小沢氏が言えば彼も「命を賭け」といい、小沢氏が「私には夢がある」と言えば、「私にも夢がある」と、小沢氏が決死の思いで放った言葉をすべて横取りしていた。これは財務官僚に洗脳され消費税値上げを言ったことと同じように、菅氏には自らの「展望」や「思い」がなく、風見鶏のように目先のいい話に順応するだけの場当たり的な器であることを露呈させていた。こういうリーダーシップなき人間に日本を引っ張れという日本国民も所詮烏合の衆である。自民・検察・マスコミのトライアングルで「政治とカネ」というでっちあげられた「推定有罪」を鵜呑みにしている国民はなんとおめでたいことか。連戦連勝と戦時中、マスコミが国民を煽りたて、原子爆弾を投下されるまで戦争を続けたのと同じように、検察が200名も動員し、小沢氏の家宅捜査を行い、1年も掛けて調べあげても起訴できる証拠が出なかったものを、マスコミは未だに「有罪」として「政治とカネ、小沢悪」として国民を洗脳してきた。法治国家なのに、証拠もなき推定有罪がまかり通り、烏合の衆の国民はそのまま鵜呑みにしているのである。企業や国家、その他すべての組織には、リーダーというものが必要である。勿論、ヒットラーやスターリンのようなリーダーでは困るが、組織というものはリーダーの手腕・器・決断力に大きく左右されるものである。誰でもリーダーになれるというのが民主主義であり、412人皆でやりましょうというのは民主主義のはき違えである。企業でも「ボトムアップ」と「トップダウン」経営がよく比較される。しかし混迷時には「トップダウン」のリーダーシップでなければ道を切り拓くことは出来ない。小沢氏には日本を導く展望と強いリーダーシップがある。来年3月頃、何一つ手を打てない菅政権は支持率10%台になり、小沢氏にバトンタッチするだろう。日本の改革は遅くなるが、それまで待つしかない。

日本人が壊れている!

2010-09-02 | 発言
小沢一郎は昨日の代表選出馬会見で「日本が壊れている」と言った。親の子殺し、子の親殺し、小中学生の自殺などが今の日本では日常茶飯事になってしまった。そして親が死んでも年金を継続して得るため、葬式も出さず、白骨と同居している事件も相次いで発覚している。まさに市井の巷から本来人間としてあるべき姿が壊れつつある。火葬にした白骨ならまだしも、悪臭を放ち腐乱していく親の姿を同居しながら観続けていくというのは、想像するだけでも壮絶な絶望的な行為である。それができるというのは、すでに人間としての精神が壊れているのである。親が子を殺す、子が親を殺す、というのも人間としての「本能」が壊れているし、未来のあるはずの小中学生が自らの命を断つというのも実に絶望的な行為である。往時のチャップリンは「人生には、希望、勇気、そして少しのお金があれば生きられる」と言ったが、今の日本人には、希望も勇気もなくなったし、経済的にも厳しい人が多くなった。チャップリンのいう人生の三つの必需品が今の日本人には持てなくなって壊れていっているのである。その根底にあるのは「ひととの絆」の欠落である。他人への人間不信が蔓延し、それが肉親にまで及んで、日本人は、老若男女問わず、それぞれが孤独の淵を彷徨っている実情だ。人間はやはり人とのつながりの中で、初めて希望が生まれ、勇気がわいてくるものである。本来孤独のなかで創作する芸術家でも、やはり仲間やそれを評価してくれる人がいて初めて創作意欲がわくものである。まして市井の人たちならなおさらである。今の日本人のように「ひととのつながり」がいつごろから希薄になってしまったのだろうか。隣近所にうるさい田舎と比較して、他人に干渉しないというのが都会的センスといわれていた時代もあった。しかし今では他人に干渉する「おせっかい者」もいなくなり、日本人は本当に孤独、バラバラになってしまった。これには「思い」と「情」が深く関係している。「思い」は「想像力」と言ってもいい。自分や他人への想像力の欠如から、「思いやり」、つまり「思い」を他人や自分に「やる」ことが出来なくなってしまっているのである。「思い」の高まりがないから、愛情、友情、親子愛、などの「情」も希薄になってしまったのである。人間は理屈では動かない、情で動くのである。いつごろから、どうしてこんな日本人になってしまったのか、ぼくにもわからないが。

暑さぼけに、つれづれなるままに。

2010-09-01 | 随筆
今年の暑さは観測史上始まって以来というから、たぶん日本の縄文時代から、いやそれ以前の石器時代からみても初めてに違いない。この猛暑のなかで、屋外でヘルメットを被りながら作業をする人たちには頭が下がる。ぼくといえば、もう殆ど「堕落」しっぱなし、昼間の炎天下では、涼しいパチンコ屋で過ごし、家にいる時は、クラッシックを聴いたり、読書をしたり、あれだけクリエイティブにこだわった生き方をしたきた私の今は、ただ、時の流れの「消費」だけにいそしんでいる。「やることがないから、しゃあねえだろう」っと半ば、いや、ほとんど開き直っている。ところで、読書は、五木寛之の「親鸞」上下巻を読んだ。まあまあというところ。それから村上春樹に移って「1Q84」の1.2.3巻を読んだ。村上ワードは、精神の異次元にいざなってくれて、まずまず面白い。で、同氏の「海辺のカフカ」上下巻、「ねじまき鳥クロニクル」1.2.3巻、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」上下巻と進んでいる。同氏の「ノルウェイの森」は出版された時に読んだ。こうして村上春樹の長編を読んでいくと、やはり「海辺のカフカ」が傑出している。15歳の少年が家出をし、図書館で暮らす物語だが、異次元の精神世界が実にうまく描かれている。村上春樹はちょうどぼくと同世代で、読んでいると彼の才能を認めざるを得ない。
 小説などほとんど読まなかった私だが、「やることがねえから、しゃあねえだろう」っと開き直って、今日も読んでいる。