まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

年金問題は遅々として進んでいない

2008-08-31 | 発言
テレビでは一件落着したかのように年金問題はさっぱり取り上げられなくなった。マスコミというのは実にいいかげんなものである。5000万件の実態は一体どうなったのか。実はまったく解決していないのである。数日前、僕のところに総務省のクロダさんから電話があった。総務省だと聞いて、うちのカミさんはてっきり振り込め詐欺だと思ったという。ぼくが電話を代わって聞いてみると、ぼくが出した年金記録確認地方第三者委員会への年金記録に係わる確認申立書が総務省について、これから電話でさらに追確認をさせて頂き、それから第三者委員会に回します、というのである。ありゃりゃ。ある期間、国民年金を払っていたのに、三年間支払っていないようになっているので、異議申し立てをしたのは、一年も前のことである。その一年前も、社会保険事務所に三時間も待って、ようやく国民年金課の窓口に当時のいろんな資料を持って異議申し立ての申請をしようとしたら、担当者が「第三者委員会はだいぶ混んでいて申請受理は控えるように言われていますし、当時の領収書でなければ証拠になりません」というから、「ばかもん、これが証拠になるかならないかはあなたが判断すべきものではなく、第三者委員会が判断するものだ」と部屋に響き渡るほど大声を出してしまったほどだ。大声を出すと、すんなりこれにお書きくださいと書類を持ってきたが、その異議申し立てを申請してから一年も経って今回の電話だ。それも何回同じ事を言っても要領を得ない。ぼくは昭和57年から60年まで編集プロダクションの自営業をしていた時期があり、その当時は、年金も国民健康保険も一体だと考えていたので、女房子供二人がいて万が一病気にでもなればと、100%加入していたわけである。しかしもう30年前のこと、領収書はないし、なんとか当時の状況説明とそれに付帯する資料を提出してあるはずだった。総務省のクロダさんとの電話は一時間以上にもなり、それも何回もかかってくるのである。ぼくは要領を得ないその電話の応対にだんだん虚しくなってきた。国は、国民が虚しくなって諦めるのを待っているのかも知れないなあっと邪推したくなるほどである。一年前の異議申立書には備考欄に次のように書き添えておいてはずだが-
「当時の国民年金支払い領収書を出せといわれても、こんなことになるとは国家を信頼していたので予測しておらず、領収書は残っておりません。しかしあなた方も逆に私が支払わなかったという確実な証拠をお持ちですか?私は100%、国民年金に上記の理由から加入していましたし、支払いも行っておりました。しかし残念ながらこの申し立てを持ってしても却下されることでしよう。国家は国民に対してこのような詐欺行為を働き、国民の信頼を失ったこの国は必ず滅亡するでしよう」。

シゲちゃーん、だいじょうぶかー

2008-08-30 | 随筆
東京の近郊、わが街の昨日の豪雨といったら、そりゃあひどかった。特に夜中の12時から朝方5時頃まで、雷はピカピカ、ドドーンと鳴りっぱなし、雨はそりゃあもう土砂降り、一時間に100ミリ降ったというから滝のような雨である。都合前後で200ミリ降ったという。おかげで、朝起きてニュースを見ると、近くで電車が脱線したり、家が土砂に押し流されたり、道路が川になって冠水したり、住宅が床下浸水したり、避難勧告が出たりのてんやわんや。うちの高台にある団地でも、朝、防犯部の車がスピーカーで「シャベルを持って集まってください」というから、何事かと思ったら、突き当たりの山肌が崩れたらしい。
昼ごろ、ようやく雨が上がったので、河原にウオーキングに行ったら、犬を連れたおばあさんが「わたしゃ、ここに80年暮らしてるけど、初めてだったねぇ、こんな雨は。昨日は雷が恐くって、眠れなかったよ」と川の濁流を見ながら言っていた。
そういえば、シゲちゃん、どうしたろうか。シゲちゃんとは「人生の失敗はその人の性格にある(3)」で書いたが、河原でテントを張って、ホームレスをしているのだ。ぼくは足早にテントに向かったが、いつもの橋の下にテントは跡形もなかった。橋げたにゴミが絡まっている状況を見ると、今は水が引いているものの、橋の下一杯まで水が来てたようだ。川幅はさほど広くないので、一気に水か増える可能性もある。真夜中だったので、シゲちゃんは濁流に押し流されたのだろうか。あるいは逃げられて、テントだけが流されたのだろうか。水が引いた今もシゲちゃんの姿はどこにも見当たらない。河原横の道にはシゲちゃんが空き缶を運ぶための自転車が置いたままになっていた。

もう天皇制を廃止してもいいのでは

2008-08-29 | 発言
またまた右翼に怒られそうだが、ぼくはもう天皇制を廃止してもいいのではないかと思っている。日本帝国憲法下では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあり、廃止などと言うものなら不敬罪で逮捕され死刑である。しかし戦後新憲法が出来てもう63年が過ぎ、日本もすっかり民主主義が定着した国になった。そこでもうボチボチ天皇制を廃止したらいいのではないかと思う。第一、雅子様が実に痛々しい。勿論自分の意志で嫁がれたわけだが、あまりの環境の変化に適応障害になられ、一向に回復されない。病は、環境に適応できない病であり、環境を変えなければ一生続くのではないだろうか。平民なら離婚して実家に戻るだろうけど、離婚はできない。一生苦しみ続けて生きなければならない。そんなことを国民が強いる権利がどこにあるのだろうか。皇太子にしてもそうだ。生まれた時から皇太子で天皇になる宿命で職業の選択の自由などない。そんなことなど国民が強いていいのだろうか。もう民主主義が定着した今の日本で「国民の象徴」という訳の分かったようなわからないような日本国憲法第一章の「天皇」を削除する時期にきたように思う。世界を見ても189カ国中、君主制をとっているのは、イギリス、オランダ、スペイン、スウェーデンと数えるほどしかない。日本はもう個人的人権も職業選択の自由も認められた民主主義の国だ。宮内庁もいらなくなるし、経費の削減にもなる。
雅子様も皇太子も愛子様も解放してあげたらいいのではないか。

青春哲学の道(2)

2008-08-28 | 自叙伝「青春哲学の道」
(前編をお読みでない方は、左のカテゴリーの「小説」をクリックすると収録されています)

東京に来る時、東名高速を軽のライトバンに四人乗って100キロだすと、揺れていた車体が沈むようになった。「お前ら、これから社会に出た時、フランス語でシャンソンのひとつでも歌えるようになっとけ」。社会科の先生が卒業間際にそう言って小さなポータブルレコーダーにイブモンタンのレコードを掛け、ガリバン刷りの歌詞を配ってくれた。それで覚えた「枯葉」を疾走する車内で歌いだすと、外人たちは笑い出した。そして一緒に歌うようになった。なんじゃ、通じてるじゃねえか。俺は自信を持ってさらに声を張り上げた。
ギーとギーの恋人・江美、イボンと俺の四人は高らかに枯葉を合唱した。車は世田谷の江美の実家に着いた。ぼくもそこに泊まることになった。しばらくして「マサオはこれからどうする?」江美が言った。「映画を創りたい。それにはカメラか脚本の勉強をしようと思ってる」俺が言った。夜になって、江美の父親が、俺が油絵を描いているのを知って、アトリエで自分の描いた油絵を見せてくれた。人物や静物、風景といずれも具象絵画だった。年季の入った筆捌きで、デッサン力も確かだった。が、絵は自分の感性で突き上げる何かを表現するものだ、あるいはモノの存在することの本質を抉り出すことだ、それには目に見える表面の具象など捉えたことにはならない、さらに奥深く追究して初めていい絵といえる、そんな理屈を俺は持っていたので、俺は父親の絵を見てあしらってしまった。「マサオ君、君はもう少し礼儀というものをわきまえないと生きていけないよ」「はい」。はいっと返事はしたが、その意味がよく解らなかった。
数日して、それでも父親の紹介で三輪晃久というプロカメラマンの家に弟子入りすることになった。東京オリンピックか大阪万博で活躍した有名な写真家らしい。ところが、毎日、毎日、庭掃除ばかり、こんなことをしてて何になる、気の短い俺は誰に言うでもなく一週間でトンズラしてしまった。今から思えば、辛抱して頑張っていれば、絵心と物の本質を追究する眼がある俺のこと、いい写真家になっていたかも知れない。チャンスは目の前にあっても、本人がチャンスだと気づかなければ、チャンスにならないものだ。
俺は、渋谷駅前で野宿をした。新聞に包まい、夜露を凌いだ。ああ、これが有名な忠犬八公かー。朝になると、京都とは比べようもない人の群れが現れた。以前読んだリースマンの「孤独なる群集」。俺は群れの中の一人だが、孤独感はまったく無かった。未来に向かえばよかった。野宿を何日かして考えた。外国に行って、外国から日本を見てみたい。そして本を書いて、映画を創る、そうだ、ギーやイボンがいるフランスに行ってみよう。金はない。俺はとりあえずフランス大使館に飛び込んだ。そして大使館員に聞いてみると、フランスは行っても仕事がないという。カナダで稼いでフランスに来たほうがいいと言われた。今度はカナダ大使館に飛び込んだ。カナダでは美容師の仕事か、看板の仕事ならあると言われた。俺は新聞を買って、就職案内欄で、美容師見習いを見つけて池袋に行った。中年の女性が出てきて「21才ねえ、あなたの歳で見習いはもうちょっと遅いんじゃないかしら。それに泊まるところもないって、私も一人暮らしだし、世間の目もあるし、ちょっと二階に住み込みはムリねぇ」。そうか、そういうものか、情熱だけで世間を知らない俺は、笑いながら勉強にもなった。よし、美容師がダメなら看板屋だ。俺はまた新聞で見つけて葛飾金町の新工社という看板屋に飛んだ。国語辞典を編纂している金田一何がしという人と親戚だという社長と面接し、寮もあり住み込みOKで採用となった。こうして俺の東京生活は始まった。寮生活が半年ほど続いた。会津から出てきたホシ君、茨城のコヒガ君など同じ歳の先輩もいた。彼らと商店街のポールをペンキで塗ったり、飾りつけをしたりした。また捨て看といって、100枚ほど布に印刷した立て看板を電信棒にくくりつけて行く、あるいはまたそれを回収したりした。工場の中年の男たちはそれぞれ職人で、トタン板に風呂屋の広告を書いたり、ネオン看板を作ったりしていた。やがて28歳のコマダさんと親しくなった。コマダさんはアパートを借りて、そこから看板屋に通っていた。アパートに行ってみると、コマダさんの描いたという50号くらいの油絵が何枚もあった。メディームを使い、古典絵画のタッチの風景画だった。「コマダさん、単なる林の中を描くのではなく、たとえば、ここに、裸の赤ん坊の泣き叫ぶ姿を描くとか、そうすれば随分面白い絵になる」。俺は絵の批評は得意だった。コマダさんは青森で警察官をしていたが、県の油絵展で入賞し、画家になろうと上京してきたらしかった。「なあ、この{知覚の現象学}貸してくれるかい?」当時3000円もする高価な哲学書をコマダさんに貸したことがある。しかし、後日、コマダさんはアルバイトに行ったトンネル工事で、100Vの電源をさわって感電死した。柔道3段のコマダさんが100Vで死ぬとはショックだった。結局コマダさんの妹が実家にまとめて荷物を送ったので、俺の高価な本は戻ってこなかった。
来る日も来る日も看板の仕事をやっていた。しかし手に職をつけるというより雑務的な仕事ばかりだった。ある日電気カンナで木を削っている時、考え事をしていたのか、夏の太陽にうだっていたのか、スイッチを入れたまま電気カンナが膝に触れてしまった。膝の肉に食い込み、骨が見えた。病院で手当てを受け、二週間ほど仕事を休んで松葉杖を使っていたこともあった。ちよっと待てよ、また俺は考えた。考えてみれば、俺は映画を創りたい、そのためには本を書く、そのために外国にいく、そのために看板の作り方を覚えるために今、働いている。一見、筋は通っているが、手段の手段、そのまた手段で、あまりにも回り道すぎやしないか。本を書くことから入ろう。そのためには寮をとりあえず出ることだ。俺は近くにアパートを借りて、寮を出た。
双葉荘の六畳一間のアパートでさっそく新聞を取った。小説になりそうな題材や気になる記事を壁に貼り、看板の仕事が終わると机に向かって、執筆を始めた。来る日も来る日も机に向かったが、なかなか思い通りにいいものが書けなかった。そんな時、京都で付き合っていた美容師のリツコが大きなスーツケースを持って、突然現れ、俺に飛びついてきた。アパートに落ち着いてから何度か手紙を書いたが、まさか東京まで来るとは思わなかった。それから彼女との甘い生活が始まった。彼女はお茶碗や箸など近所で買ってきて二つづつ揃え、料理を作り、縫い物をした。しかし俺は次第に苛立ってきた。二週間ほど経ったある夜、俺はまた黙って机に向かって書き物をしていた。しかし、隣で俺の靴下のほころびを縫っているリツコの日常的な仕草に耐えられなくなって、とうとう「そういうこと、止めてくれッ」と大声を出した。彼女にしてみれば、夫を支える妻の役割を夢見心地で行っていたのだろう。しかし俺は書けない理由を、焦りもあって、その日常性のせいにしていた。次の日、仕事から帰ってくると、リツコはいなかった。「大きな愛を得るために小さな愛を犠牲にしないで」という置手紙だけが机の上に置かれていた。悪いことをしたと俺は思った。情けない自分に、書けない自分に苛立った。本を書くにはやはり文章の勉強だ。出版社に勤めれば、活字の勉強もできるし、収入も安定して、スーツも着られて、リツコの父親を説得できるし、リツコを正式に呼び寄せることもできる。俺は新聞の求人案内を調べた。ところが、編集記者募集、業界新聞記者募集、活字に携わる仕事はいずれも大卒が条件だった。そうか、こういう業界は高卒ではダメなのか。しかし俺はどうしても活字業界に入りたかった。ある日、実業公論社という、学歴のことが書いてない出版社が人材募集をしていた。俺はどうしても入りたかったので、自分が行きたかった立命館大学文学部哲学科中退と履歴書に詐称して、面接に行った。
ええっと、三崎町。JRの水道橋駅で降りて、行けども行けどもそれらしい会社はなかった。近辺をうろついて、ようやく古びたビルに実業公論社の看板を見つけた。ええっ、これが出版社かい?俺はもっと立派なビルを想像していたが、今にも倒れそうなあまりにもみすぼらしい雑居ビルに愕然とした。急に肩の力が抜けた。まあいいか、俺は薄暗い細い階段を上がって、右の部屋のドアに実業公論社の板看板を見つけた。
「とりあえず、このテーマで原稿4枚ぐらい書いてください」。そう俺は言われて、原稿を書いた。何を書いたか忘れたが、それなりにしっかりと書いた。「大学を中退されたのは何でですか?学園紛争ですか?」「は、まあ、いろいろと・・」「まあ、いいでしょう、採用ということに致します。横の喫茶店でお茶でも飲みましょう」。荒川信一というその社長はニコニコしながらそう言った。喫茶店に入ると、コートを着たままの俺に「ところで、君、こういうところではコートを脱いで、畳んで横に置くものです」「は、はい、わかりました」世間知らずの俺に社長は几帳面だった。
とにもかくにも、こうして俺は、活字世界の第一歩を踏み出した。俺は22才になっていた。

風水、運気ってあるんだろうか

2008-08-27 | 随筆
ぼくは東京郊外の都心まで一時間半もかかるところに35年も住んでいた。結婚したての頃は環八近くの東中野に住んでいたが三才になる子供が気管支炎を起こしたので、ヤバく思い、思い切って、郊外のアパートに引っ越した。御陵の近くにあって、空気もよく、二階だったので日当たりも良かった。文化住宅というヤツで、6畳・4畳半・3畳の三間、それが上二軒下二軒の木造のアパートだ。それが二つあった。前が道路になっていたが、50mほど行ったら山があって行き止まりになっていた。だから車も通らず、子供たちは近くの子供たちと遊んですくすくと育った。やがてそれぞれの子供たちが巣立って行き、引っ越して30数年が経った頃、前の道路が貫通するようになった。山は切り開かれ、新たに住宅団地が出来た。道路には車が行き来するようになった。そうしたら次々とアパートの住民が引っ越しし始めたのである。まず隣のユウキちゃんが実家のある福島に引っ越した。ダンナがマージャン狂いでアパートに帰らず、とうとうダンナと離婚したのだ。後日、風の便りで、福島で20才になる次男が自殺し、それが縁でまたダンナと復縁したという。ついで、後ろのアパートのイノウエさんが、家賃が払えなくて、雨の日にご夫婦で息子の住んでるアパートに夜逃げをした。そしてその横の○○さんは、遺産が入り、マンションに引っ越して行った。すると斜め下のモリモトさんも息子が名義人となってマンションを買い、引越していった。そして下のモロズミさんもダンナの実家に引越し、ぼくら夫婦も中古住宅を買って引っ越したのだ。30数年も殆ど移動のなかったそれら住民が、前の道路が開通した途端、バタバタと引っ越して行ったのである。引越しの事情は千差万別なのに、時期だけが何故か道路の開通と一致している。そして、時々車でその道路を通る時、アパートを見るのだが、もう未だに誰も住んでいない。ぼくはカミさんと「道路が開通して、風が吹いたのかなあ」といつも話している。偶然にしてはよく出来ているので、道ができたことで、風水とか運気とかが変わったのだろうか。

日本人を外国人移住で増やせ

2008-08-26 | 発言
このタイトルを見て、何たることを、と思われるかもしらないが、日本はこのまま行けば没落してしまうのです。単純に統計をとってみても、少子高齢化が進み、2055年には1億3000万人いた人口が9000万人になってしまう。しかも65歳以上のお年寄りが人口の40%を占めるようになる。働き手は今の8400万人から4600万人になる。今まで三人で一人を支えていたのが、一人で一人を支えるようになる。これはもうどう見ても国に活力が無くなり破綻しそうな数字だ。そこで日本人の意識が大きく変わらねばならない時期に来ていると思う。もう日本は単一民族?というような鎖国的な発想はやめて、どんどん外国人を移住させ、衰退していくだろう日本の活力を取り戻すのである。単純計算してみても、現在の働き手をキープするには50年後までに4000万人の働き手が必要なのである。過疎地のように老人ばかりになってくると必ずその国は滅びてしまう。
だからこそ門戸を開いて、外国人に移住してもらうのだ。それには改善しなければいけない問題が山とある。
日本は今、外国人労働者について、大学の研究者や専門的な分野の労働者に限り門戸を開いているが、単純労働者の受け入れについては、日本の経済社会に多大な影響を及ぼすということで禁止されている。1990年に出入国管理法の改正があって、日系人ならいいということになり、日本では今ブラジル人が約30万人働いている。例えば群馬県の太田市や大泉町などは、富士重工や三洋電機の工場、協力企業の工場があり、ブラジル日系人やペルー人が沢山働いている。静岡県の浜松もそうだ。日本全体でいうと、外国人登録者数は約200万人、人口の1.2%を占めている。しかし、単純労働者の多くは、「興行ビザ」や「外国人研修・技能実習」といった隠れ蓑で入国しているのが実情だ。そして殆どが正社員ではなく、請負労働者の形で、労働環境は劣悪だ。彼らの社会保障の問題もある。日本語がわからず家族や子供の不就学の問題もある。言ってみれば受け入れ態勢がまったく整備されていないのである。
そしてここに来て、インドネシアとの協定によって、看護師、介護師を受け入れるようになった。確かに今看護師は全国で3万7000人不足しており、約200万人の介護職員は一年で20%も離職しているという。そこでその不足を外国人で補おうというわけだが、言葉の壁があって国家試験に通らず、帰国する人も多く出てくるだろう。
日本人が働きたがらない、いわゆる3Kの仕事に外国人を使うという発想も問題だ。
大事なことは、外国人を単なる労働力として扱うのではなく、日本を共に支えてもらい、日本人と外国人が共に安心して暮らせる共生を目指して、態勢づくりを進めることだ。
そういう発想で、50年先の日本を見据え、法を改正し、整備を整え、出稼ぎでない外国人の移住を進めることが大事だ。そうしなければ、日本は没落していくだろう。

若い人たちへ・人生を有意義に生きるコツ

2008-08-25 | 発言
人生に最も大事なことは「強い心」を持つことです。一昔前、高校生の間にルーズソックスってのが流行りました。女の子のほとんどが、下がったダブダブの靴下を履いていましたね。今、通勤電車に乗ってごらんなさい。ビジネスマンは殆ど黒のスーツを着ています。東京駅から丸の内に吐き出されるサラリーマンを見るとみんな黒ネズミのような異様な光景です。このように今の日本人ってのは、みんなと同じでないと仲間はずれになるんじゃないかと、とっても気持ちが弱くなっています。でも結局、みんなと同じにしていても、みんながあなたを助けてくれるわけではないのです。弱いものは人を助ける力がないからです。一度しかない人生を有意義に過ごせるか、そうでないかは、あなたの心が強いか、弱いかにかかっています。
もしあなたの心が弱かったら、それはあなたに希望や目標がないからです。船の航海でも羅針盤がなければ、船は蛇行してしまいます。希望や目標を持つことは、他人の言動に振り回されない強い心をつくってくれます。
人生にまだ大きな目標を持てない人は、今日一日とか、とりあえず一週間とか、小さな目標でもいいのです。まず、小さな目標でも持つことが大事です。そうするとその目標を達成しようとすれば、少しだけでも情熱が沸きます。少しだけでも、集中力がでます。その集中力は、今まで自分がこだわっていた余計なことを捨ててくれます。それに、目標を達成しようとすると、ちょっぴり苦労をします。でもこの苦労こそが、君を強くしてくれるのです。自制心とか自律心というものを養ってくれるからです。そして、そのちっちゃな目標を達成したら、必ず、ヤッターという喜びが得られます。それがちょっぴり自信となります。それを何度も繰り返していくと、目標を持っても、スムーズにことが運んで壁がないとだんだんつまらなくなってきます。世の中で、成功した人たちというのは、みんな壁を乗り越える喜びを知っています。むしろ乗り越える壁が高ければ高いほど、後の喜びが大きいことを知っています。ほとんどの人は高い壁が見えると、ああ、とても超えられそうにない、これはできないと思ってしまいます。けれど、成功した人たちというのは、壁が見えて初めてそれからが勝負だという方程式を身体で知っていますし、そこで彼らは勇気を出します。だからまたさらに成功するのです。
目標を持つと、日々に流されることなく、日々を自分でコントロールする力がついてきます。どうぞ、ちっちゃな目標でいいですから、一歩前に踏み出してみてください。人生が変わりますよ。人間というのは闘える動物なんです。闘って、自分と社会を変えていける動物なんです。心が変われば態度が変わります。態度が変われば習慣が変わります。習慣が変われば人格が変わります。人格が変わればあなたの運命が変わります。
どうぞ、いい人生を送ってください。

NHKは子会社を一掃し、不偏不党の原点に還れ

2008-08-24 | 発言
自民党議員の中には会まで作って、NHKを民営化しろという動きがある。しかし一方の民営の放送局は、どの局も商業主義が露骨に出て、視聴率第一の実にくだらない番組を垂れ流しているのが現状だ。マスコミ、ジャーナリストというものは不偏不党でなければならない。しかし今の利益第一主義の商業ジャーナリズムには歯止めがかからない。そこでぼくは唯一「国民のための、国民による」公共放送があってもいいと思う。ところがそのNHKの現状を見れば、うすら寒い気がする。子会社をどんどん作って、天下り、随意契約と、アメーバーのように増幅しているのだ。NHKは受信料を財源に運営が賄われているため、原則放送に関するもの以外の事業を放送法第九条によって営むことを禁じている。ところが道路関連と同じように、子会社・関連会社をどんどん作り、NHKの番組と商業的な事業を行い、利益をあげている。受信料などNHKの事業収入6855億円中、1293臆円も子会社等に支払われているのだ。もう少し詳細にみると、(株)NHKエンタープライズ、(株)NHKエデュケーショナル、(株)NHK情報ネットワークなど子会社23社を擁し、売り上げ2266億円、関連会社も4社、関連団体7団体を持っている。その全体は34法人で、売り上げ2673億円に達し、その半分近くの1293億円は、NHKからの業務委託で、殆どが随意契約だ。しかも全役員数344人中、NHKからの天下りが234人もいる。まずNHKは株式会社の子会社を何故作る必要があるのかどうか問いたい。
国民による受信料だけで粛々と国民のための番組制作を行うべきである公共放送が、なぜ利益を目的とする株式会社を作るのか。ぼくの目には、天下りの確保先をつくったとしか思えない。しかし、さらに大事な問題がある。それは株式会社の子会社を持つことによってNHKの報道が偏向してしまうということだ。NHKの子会社が、政府機関や業界団体からイベントを請け負って、それを収録した番組をNHKで放送しているという事実が多々ある。これは大変な問題である。株式会社はどうしても売り上げや利益をあげるため、どこからでも営業で仕事を取ってくる。そのスポンサーの意向を反映した番組を公共放送で流されたら、これはもう公共放送の意味はない。しかしこれが現実に行われているのだ。しかも、これは政府の広報ですとか、○○団体の支援によるイベントですとかの、何のテロップもなしに垂れ流されているのだ。これほど恐い話はない。国民による国民のための公共放送だと思って安心していたら、知らず知らずの間に、別の意図するモノによって、その意図に沿って洗脳されていくのだ。政府に内閣情報調査室というのがある。ここは時の政府が内閣を維持するための広報予算を持っている。その予算が「よろしく」と広告代理店の電通に発注され、秘密裏のプロジェクトチームが構成されていると以前聞いたことがある。電通は内閣支持の著名な評論家やオピニオンリーダーに金を渡し、テレビや新聞などマスコミに出演のセットを組み、内閣のPRをさせる。見る側にとっては、提供内閣総理府とは出ないので、客観報道だと勘違いして、そのまま洗脳されてしまう。いわゆる世論操作というヤツだ。
こんなことなら、NHKは民放にしたほうが、まだマシだ。どうせスポンサー付きの番組だからと、一歩引いて観ることができるからだ。
NHKよ、公共放送の不偏不党を崩してしまえば、もう自分の首を自分で締めているようなものだ。今すぐ、子会社、関連会社を解散もしくは全株を放出し、天下りを一切なくし、競争入札とし、不偏不党による「国民による国民のための番組作り」の原点に還れ。これは受信料を払っている国民への裏切り行為だ。

ひげの話

2008-08-23 | 発言
北京オリンピック・柔道男子は弱かった。観ていて気づいたことがある。無精ヒゲだ。次から次と出てくる日本柔道男子はほとんど無精ヒゲを生やしている。こりゃあ負けるなーっとぼくは思った。アテネ金メダルの野村なんか、スッキリヒゲを剃ってたし、一方負けた井上更生は無精ヒゲを生やしていた。今度の北京でも、金メダルを二つも取った水泳の北島は顔だけでなく全身剃って挑んだという。ぼくの独断的な深層心理学からいうと、無精ヒゲを生やす人間は「自分を律する気持ちがなく、心に不安や迷いを抱えている」。案の定、100キロ級の金メダル確実視されていた鈴木桂治も無精ヒゲで登場し、一回戦で敗退、敗者復活戦も一回戦で敗退、双方の試合も一本の完敗となった。鈴木は一本取られて、何が起こったんだと呆然としていたが「自分を律する気持ちがなく、まい進し、一方で心に不安や迷いを抱えていて、心にスキができた」とその無精ヒゲは語っていた。
ヒゲには無精ヒゲのほかに、鼻の下のチョボヒゲ、あごヒゲといろいろあるが、そもそもヒゲを生やす人で、尊敬できそうな立派な人格者にお目にかかったことがない。どちらか言うとみんな嫌なヤツばかりだ。アゴヒゲのあの人は、人を威圧し、一方では小心者だった。チョボヒゲのあいつは、売上金をくすねたことがあるし、浮気を自慢していた。あのチョボヒゲも自分のことはタナに上げ、人に攻撃的だったなー等々、今まで出会ったヒゲ面に、いい印象がまったくないのである。そこで、「ヒゲを生やしている人は本来小心者で、その自分の弱さを隠すためヒゲを生やし、相手を威圧しようとしている」という独断的な深層心理学に到達したのである。そんな話を37才になる息子に電話でサワリだけ一週間前に話しをした。すると、昨日、息子から電話があって「ジィ、おれ、ヒゲ全部剃ったヨ」。ありゃりゃ、そうだ、わが愛する息子もアゴヒゲを生やしていたんだ。傷つけたかなー、悪いこと言っちまったなー、と、頭カキカキ、独断的な自分に反省することしきりでした。

団塊の世代に生まれてよかった

2008-08-22 | 随筆
ぼくは昭和23年生まれ、カミさんも昭和22年生まれの、いわゆる団塊世代だ。団塊の世代というのは昭和22-24年生まれの、戦後のベビーブームに生まれた人たちをいう。戦争が終わって、お父さんたちが戦地から帰ってきたので、いっきに子供たちが生まれたわけだ。この三年間の人口の多さは特出していて、僕たちはその後、学校もすし詰め、就職もたいへんと、競争の中で生きてきた。そのカミさんとよく話しをする。団塊世代って本当にいい時代だったよなーと。
まず戦後に生まれて、「戦争を知らない子供たち」だし、かといって、お父さん・お母さんから「戦時中はイモのつるを食べてねー」なんてヒモジイ話も聞かされている。けど、ぼくらよりちょっと前の世代のように、少年時代を戦時中に過ごし、飢えて育ったわけではない。ぼくらが少年の頃はもうなんとか食べ物だけはあったし、路地があり、長屋があり、子供の頃は、近所に子供たちが沢山いて、メンコ、ラムネ(ビー玉)遊びやカン蹴り、相撲、野球などして、ほとんど外で遊んだものだ。学校へ行くと校舎がたらなくて、急遽建てたプレハブの教室だったり、廊下にまで机を並べたり、そりゃあ大変だった。でもその後、日本は高度成長の波に乗って、どんどん豊かになっていく。テレビ、冷蔵庫、掃除機の三種の神器が各家庭に普及し、今日より明日はさらによくなるという右肩あがりの夢の中に生きていた。と同時に戦後初めての民主教育を受けてきて、同世代の多さからくる競争があったものの、自由と仲間を思いやる気持ちも強かった。エレキブーム、ファッションではアイビールック、芸術ではサイケデリック、ヒッピーの出現など、新しいものが次々と生まれ、またどんどん取り入れていった。しかし最も青春期にぼくらの世代で衝撃を受けた事柄は、安保闘争だろう。日米の安全保障条約締結への反対闘争は、市民までも巻き込み、国会へのデモ行進、各大学の学園闘争まで波及していった。またゲバ棒が登場し、羽田闘争,三里塚闘争、全共闘運動などが激化し、東大安田講堂陥落でついにその幕を閉じた。この一連の闘争は何だったのだろうか。今から思えばよくわからない闘争だったが、ひとつだけ言えることは、あれは権力に対する闘争であったし、思いは「社会をよくしょう」という闘争だった。しかしこの闘争の挫折によって、「社会をよくしようなんて、もういい。これからはマイホーム」と、それ以降の国民の意識が社会から個人へと大きく変わったことは確かだ。価値観は社会より個人の物質的な豊かさに目が向けられ、やがて頂点でバブル時代を迎えた。中年になったぼくらの下は新人類なるものが出現し、ぼくらはもう声を出さなくなっていった。その後、バブルが崩壊し、失われた10年という不況が続き、また、大企業だけの好景気の10年を経て、気がつけば、ぼくらの世代は定年で、年金生活時代となっていた。
団塊の世代はこのように、貧乏も豊かさも、仲間意識も、競争も、そして青春の闘争も経験してきた。そして年金もなんとかギリギリ持ちそうなところで、フニィッシュを迎える。
孫くらいの時代になるとこりゃあもう大変だ。高齢化社会で年金制度は崩壊して、にっちもさっちも行かなくなるだろうし、地球温暖化で、オゾンも破壊されるだろうし、考えただけでもぞっとする。
若い世代には申し訳ないが、前世でいいことでもしたのか、団塊の世代に生まれて、ほんとうに良かったと思う次第です。

人生の失敗は外にあるのではなく、その人の性格にある(3)

2008-08-21 | 随筆
もうひとりは、カミさんの同級生のホソノさんだ。ホソノさんは解体業を営んでいて、バブル時代は豪邸に住んで、羽振りもよかった。人のめんどうもよく見て、八王子の暴走族を取りまとめて仕事をさせたりしてたらしい。ところがだんだん景気が悪くなったらしく、その上、去年国税庁が入り、税金を払えとさらに追い討ちを掛けられた。奥さんとは慌てて偽装離婚し、会社は倒産、一人アパートに住むようになった。今年になって、もう一度再起を図ろうとしたが、奥さんのほうの名義にした財産は奥さんがシャッターアウトして、事実上、偽装ではない離婚となった。今年の春になって、同窓会の後、うちのカミさんだけにその事を話しして、ぼくはその事を知った。二週間ほど経ったある日の夜、ホソノさんは、カミさんを尋ねてきて、同窓会で映したビデオを持ってきてくれた。カミさんは、ぼくに「所持金がもう250円しかないの。これからどうするつもりかしら。50万円あったら、なんとかなるって言ってたけど・・」。ぼくは今日中に50万円なんとかするから、明日の朝とりにくるようにホソノさんに連絡をとれとカミさんに言った。たぶん50万円ぽっちで再起は難しいと思っていたが、寿命が一ヶ月でも延びればと思って、次の日「これは、香典の前渡しだから、返済も領収書もいらないから」と初めて会うホソノさんに渡した。「すみません、大事に使います」そう言って、ホソノさんは去っていった。「おい、アパートに一度電話してごらん」、二ヶ月ほど経って、ぼくはカミさんにそう言った。「この電話は使われてませんって。携帯もつながらないわ」。「やっぱりなー、たぶん、もうアパートにはいなくって、どこか富士の裾野にでもうろついているんじやないかな」、予想通りとは思いながらも、どこかで生き延びていてくれれば、と願った。
もうひとりは、今も近くの河原でホームレスをしているシゲちゃんだ。シゲちゃんはカミさんの行くカラオケスナックの常連だった。音大を出ているだけあってカラオケは昔の歌を歌わすとうまかった。教師をしていたらしいが、ケンカをして辞めて、それから離婚し、八百屋に勤めたり、中華そば屋で働いたりしていたが、長続きせず、いつの間にかホームレスになっていた。いつも健康のためにウオーキングする河原にシゲちゃんのテントがあり、定期的に堰のコンクリートで集めてきた空き缶をつぶしている。ある日、カラオケスナックにシゲちゃんが来て「オレ、ホームレスやってんだ」とあっけらかんとしていたという。夏はテントの中にムカデが入ってくるので、昼間は図書館に出入りしている。空き缶は近所の集積所に回収日の前日の夜に回れば、いくらでもあるという。それをつぶして、自転車で回収業者のもとに持っていけば2500円になるらしい。最近、テントに市から撤去の張り紙が貼ってあったと常連客が言っていたが、シゲちゃんも河原にいつまでいられるだろうか。
最後にあげるのがクロちゃんだ。クロちゃんは糖尿を患っていて、インシュリンを打っている。運送のドライバーをしていたが、飲酒運転でジコってから、無職となり、パチンコ通い、瞬く間に借金が膨らんで、聞いてみた時には、サラ金などから700万円も借りていた。ぼくは自己破産の手続きをするように弁護士を紹介した。自己破産手続きが完了し、ようやくサラ金の取立てがこなくなった。今は、深夜に運転代行の仕事をして、なんとかやっている。
今まで取り上げてきた人たちに共通するのは、人はいいけど、脇が甘いということだ。いずれも憎めない人たちだが、落ちるべくして落ちた、という性格上の必然性がある。
人間は勿論、どんな人間も完璧ではない。しかし落ちていく人たちには、自分への甘さが性格となって付きまとっている。その性格を変えない限り浮上することは難しい。悲しいことだが、傍は見ているほかはない。自分の性格に気づき、その性格を直し、自らの力で変貌するしか道はないのである。みんな、元気で、とにかく何処かで生きていることを願っている。

人生の失敗は外にあるのではなく、その人の性格にある(2)

2008-08-20 | 随筆
もうひとりはオカドさんだ。相模原でトラック100台を持ち引越しを手がける運送会社の社長だった。丁度ぼくが前の出版社を辞めて、家にいた時、広告代理店の知人から「広告を手がけている得意先のオカドという会社が傾きかけている。お前の力ならできる。立て直してくれ」という依頼があった。ぼくも子供二人を抱え、失業中だったので、オカド社長に会い、企画室長という肩書きで、仕事をするようになった。最もぼくは雑誌生活が長くサラリーマン気質ではないので、勤めるというのではなく経営コンサルタントとして週5日常勤の請負仕事という形をとってもらった。中に入って調べてみると、まず、常用といわれる物流の仕事より、引越しのほうが5倍も粗利が出ることがわかった。まず、方針としては引越し部門を伸ばし、収益を上げること。次に現状の引越し受注を見ると、チラシ配布、電話帳広告が主軸だった。受付でお客のアンケートを実施させ調べた結果、引越しの売り上げに占める広告料はそのどちらも25%を占めていた。広告料を減らして、売り上げを上げる方法はないか。今でこそスーパー、コンビニのサービスカウンターは多サービスを取り上げているが、今から25年前は、ほとんどサービスカウンターを設置しただけで、各流通業も模索状態だった。一方引越し顧客を調査すると、市から同じ市に引っ越すのが3割、隣の県なり市に引っ越すのが3割、他県に引っ越すのが3割という状況だった。そうするとほぼ6割は地域密着の流通業とサービスとして提携できる素地があった。ぼくは、プレゼンテーションの資料を作り、スーパー、コンビニ、ホームセンターなどを回り、どんどん提携を進めていった。パンフレットを店に置かしてもらい、各流通業の店のチラシにも「引越し承ります」と広告を入れてもらい、受ける電話はオカドに置いて、成約できれば10%の手数料を支払うというシステムだ。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、ぼくはそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、ぼくの構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、オカドさんは、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。ぼくは、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。ぼくは四年弱やって、また雑誌社に戻っていった。
その後、時々オカドさんとは付き合っていたが、ぼくが開発した顧客ルートは、ひとつもホローせず、他社に取られたり、消滅したりしていた。「谷さん、もうだめだよー」。それから20年も経った去年、オカドさんから電話がきた。
国税庁が入って、消費税等累積の未納の税金を全部払えということだった。どうも市役所にも社員の厚生年金を納めていなかったが、こちらはなんとか分割で話がついたが、国税は潰しにかかっているという。税金を納めるなど基本なのに、オカドさんは甘く見ていたようだ。数ヵ月後、年商25億円もあったオカドさんの会社はあっけなく倒産した。家も全部担保にとられたに違いない。携帯も通じなくなり、オカドさんは行方不明になった。

人生の失敗は外にあるのではなく、その人の性格にある(1)

2008-08-19 | 随筆
ぼくの知人、友人、先輩の何人かに、ホームレスや行方不明のひとがいる。
一人はホシ君だ。20代の時、東京に活路を求めて会津からやってきた。ぼくも京都から出てきて、柴又の看板屋で一緒に働いていた。その後、ホシ君は姉のやっている宝石商を手がけるようになり、水戸で大儲けをした。美人の奥さんと結婚もし、ぼくは水戸にまで出かけて行って、披露宴の司会を引き受けた。ホシ君は順風だった。大きな豪邸を建て、会社はビルの一階を豪華な宝石店にし、ラジオにまで広告を流すようになっていた。「ホシ君、すごいねー」ぼくが言ったら、ホシ君は「俺はいつまでもお前のように夢にしがみ付かず、夢をはやく捨てたからな」と言っていた。それから10年の月日が流れたろうか、ある日、ぼくのアパートにホシ君がフラリと訪ねてきた。ホシ君の目はうつろだった。話を聞いてみると、その後ホシ君は儲かったお金で金融業にも進出したものの、素人故か、貸し付けた資金が回収できず、会社は倒産、水戸にはいられず逃げているらしかった。金を貸してくれというので、ぼくはあげるつもりで、いくらかの金を渡した。その後何年かすると、またホシ君が現れた。「一緒に暮らしていたフィリッピン女性が甲府のほうに男に連れていかれた。一緒に甲府に探しに行ってくれ」と言った。奥さんと子供二人を水戸に置いたまま、フィリッピン女性か、ホシ君は人生を捨ててるなーっと思った。ぼくは当時サラリーマンだったので、次の日仕事の日曜日の夜に来た彼に付き合うわけには行かない。それは出来ないと言ったが、また甲府に行く金がないというのでいくらかを渡したことがある。それからまた何年かして現れた。その時の彼は「水戸の海岸で車をつっこもうと思ったけど、死ねなかった」と嗚咽した。その後の経過を聞いてみると、ホシ君は奥さんの両親からも経営建て直しのために2000万円借りていたらしく、奥さんは娘二人とその両親のもとに帰り、生活していたという。ホシ君が娘の顔が見たいと水戸を訪れたところ、奥さんは40歳の若さでガンですでに他界していたという。ホシ君は自己破産の手続きもせず逃げ回っていたため、奥さんの実家に借金取りが押し寄せ、お嬢様育ちにもかかわらず奥さんは生活のために水商売に出るようになり、あげくの果て、売春までして生計を立て、ついにガンになって力尽きたという。なんとも悲惨な話だった。それからまた何年かしてフラッと現れた彼は、高尾で住み込みのマージャン屋で働いていたという。お客のメンバーが足らないとホシ君が参加して打つのが仕事だが、もし負けたら自分のツケになるシステムらしい。だいぶツケが溜まり、マージャン屋の売り上げも持ち逃げしてきたので、これから千葉に行って、またマージャン屋にでも働くという。「もう此処にこなくなったら形見だと思って、これ、持っててくれ」。彼はぼくに、宝石商で使っていたらしいルーペを手渡した。自己破産しなかったのは再起を夢見てたのだろう。そして逃げ続けるホシ君にとってルーペは唯一の心の支えであったに違いない。しかしそれをぼくに渡すということは、ホシ君の中でプッツリ何かが切れたのかも知れなかった。それ以来、もう10年になるが、彼の消息は途絶えたままだ。

テレビ番組のつまらなさ、テレビはメディアの原点に還れ

2008-08-18 | 発言
テレビが出来た頃、評論家の大宅荘一さんは当時「一億総白痴化になる」と言って一世を風靡したことがある。しかし、テレビという初めてのメディアで何を国民に伝えたらいいか、その混沌の中で、現場は必死で考え、数々の冒険があり、失敗があり、成功があり、その活気が実に画面に伝わっていたように思う。
ところが今のテレビは本当に下らなくなった。まず、品がない。どこのチャンネルを見てもタレントがバカ騒ぎをするバラエティ番組ばかりで、うんざりする。ドラマを見ても、リアリティのない派手な演出のマンガチックなものばかりだ。せっかく多チャンネルになりBSが増えたかと思えばどのチャンネルも延々とショッピングばかりである。冒険はしなくなったし、一度ヒットしたら他のチャンネルが真似事ばかり、どのチャンネルも同質化となり、現場の発想の貧困さが如実に現れている。これが視聴率第一主義の成りの果てなのだろうか。はたまた、広告収入低迷から経営効率化による現場への予算削減の結果なのだろうか。昔のほうが今よりずっと予算は少なかったはずなのに、この体たらくだ。脚本家の倉本聡さんは、テレビに「絶望」し、この秋の連ドラを最後に、もうテレビの脚本は書かないという。
テレビとは公共の電波だ。各局は国、すなわち国民から貴重な電波を認可して頂き、使わさせて頂いているのではないか。もう一度「テレビとは何か」という原点に立ち返って、姿勢を正して欲しい。
最も大事なことは「テレビはメディアである」ということだ。そしてそのメディアの持つ機能に、見る側に良くも悪くも「暗示」もしくは「洗脳」という働きがあるということだ。特にテレビには即効性がある。見る人にとって、くだらないと思えば「この世の中はくだらない」という即効的な暗示を受けるものだ。視聴者は「テレビを現実」として錯覚してしまうのである。例えば、火事を報道したとする。しかし小さな画面で切り取られたそれは、煙に息も出来ない現実の燃え盛る火事の現場とはあきらかに違うのである。しかし、テレビに映るものが現実だと錯覚してしまう。これがテレビの恐さだ。それだけに、作り手はその自覚と緊迫感を持って、製作に挑まなくてはならない。ところが今のテレビ界は、そういう自覚や緊迫感のない番組を垂れ流している。
視聴者が見てよかったと心が温まるもの、鋭く現実を切り取ったもの等々、冒険も実験もよし、現場は発想力豊かに、国民にいい暗示を与えるような番組制作に挑んで欲しいものだ。

宇宙のふたつの法則

2008-08-17 | 発言
自我が目覚め始める思春期のころ、自分ってなんでここに存在するんだ、この世って一体何なんだと誰もが思う。そして、この世に神はいるのだろうか、この世を創った創造主というものはいるのだろうか、と考える一時期がある。しかし、この答えは永遠にわからない。ぼくもそんなことを考えた子供の頃、大人の人たちはきっとその大きな秘密を知っているんだ、大きくなったらきっと分かる時がくる、そう思っていた。ところが「性」というものに目覚めてから、何だお父ちゃんとお母ちゃんがオマンコしたからぼくが生まれたんだということを知って愕然としたことがある。そして大人たちはエラそぶってるけど、この世が何で存在しているのかちっとも知らないじゃないかと、再び失望した記憶がある。
何十年も経って、ぼくはこう考えた。人間は60兆からなる細胞で成り立っている。そのひとつの細胞の中には、核と数千匹のミトコンドリアがいる。仮に、ぼくは一匹のミトコンドリアだとして、人間が宇宙の全体像だとすると、一匹のミトコンドリアはせいぜい隣の細胞から送られてくる「おい、お隣さん、もうちょっと活発に動いてエネルギーを造ってくれって、なんか指令が来ているぞ」くらいの電気信号の情報をキャッチする程度で、ひとつの細胞膜から出られないのだから、人間全体像を掴むことは永遠に不可能だ。そのことを思いついて、やっとこさ、形而上学を卒業した。永遠に解らないのだから、創造主がいてもよし、いなくてもよし、である。
次に考えたことは、宇宙、存在の法則だ。この存在の法則ってヤツは、宇宙にも、人間にも、社会にも、組織にも、動植物、鉱物に至るまで、同じ法則が適用されるから、言ってみれば万物の法則だ。
その法則とは、宇宙のあらゆるものが、「生き延びることを使命としている」ということだ。
人間は言うにおよばず、動植物も、鉱物も、あらゆる存在が「生き延びることを使命としている。
宇宙は膨張を続けている。地球もまた動き続けている。その動きは日々あらゆる次元で環境の変化を伴っている。その環境の変化に負けることなく常に対応し、生き延びることこそが、この世のあらゆる存在の使命になっているということだ。そのことは、例えば水ひとつをとってみても解る。水は、寒いと凍るし、熱すると蒸発する。なんじゃ、当たり前じゃんか、と言わず、もうちょっと考えてください。水H2Oは熱するとH2水素とO酸素に分解すると中学の理科で習った。理科はそれだけで考えを止めてしまうが、もっと続きがある。実はモノの存在の基となる原子には意志があるのです。原子は生き延びるために意志を持って、合体して分子となるのです。水も熱すると水として生きられなくなり、環境の変化に対応して、意志を持って、水素と酸素に分解して、生き延びようとしているのです。だから、人間だけでなく、ムシもミミズも植物も意志を持っている。
ぼくは創造主の存在を半分は信じています。宇宙の創世記、ビッグバン、つまり一センチくらいの物体が何かの刺激で爆発したといいますが、その刺激こそが創造主の「意志」であったと思っています。だから、原子にも人間と同じような「意志」を持っているのです。しかもその意志はどんな状況の変化にも対応して「ひたすら生き延びる」という実にシンプルなものです。
ふたつには運動の法則です。世の中には、明と暗、上と下、動と静、右と左など、すべて正反対の両極軸から成り立っています。その中で常にバランスを保とうとする動きこそが運動です。そしてどちらかの軸に極端に引き寄せられることは、その存在の死を意味します。簡単に人間社会に置き換えてみると、例えば貧乏と金持ちの二つの軸。仮に貧乏に近いと、金を稼いで俺は金持ちになるとバランスを保つために働きます。これが運動です。地球と月の引力もほどいいバランスで保たれています。バランスが崩れかかった時、存在は大きく運動を始めます。
このふたつの法則は、人間が生きて行く上で、最も大事な法則です。
人間も宇宙の一員である以上、宇宙の法則に沿った生き方が一番だからです。
あなたは今、環境の変化におじけることなく、例えバケモノになってもいいから生き延びようとしているか。極端な位置にいる方は、バランスを求めて、動いているか・・
ちょっと自分に当て嵌めて考えるのもいいと思います。