まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

テレビドラマは死んだ!

2020-04-28 | 発言
最近のテレビドラマは随分ひどくなった。テレビがインターネットに広告を奪われたせいなのか。ドラマプロデューサーにまったくヤル気がない。最低線の視聴率をマークしようと刑事ものか医療ものばかりである。1-3月は「テセウスの船」が唯一面白く最終回の視聴率は19%をマークした。こんな冒険は例外中の例外で、4月期はもっとひどい。「ハケンの品格」「半沢直樹」「家政婦のミタゾノ」なんて以前ヒットしたリメークものばかりである。これでは視聴者がますますテレビ離れをして当然である。以前は「淋しいのはお前だけじゃない」「俄か侍」など素晴らしいテレビドラマがあった。以前のテレビドラマ界は市川森一や山田太一などオリジナル脚本家を育てていたが、今はまったくそれがない。冒険もしない。目先の刑事ものか医療ものとまず網をかけてドラマづくりをしているようだ。もはやテレビドラマは完全に死んだ。

安倍首相のあまりにも幼稚なコロナ対策!

2020-04-18 | 政治
安倍首相は「コロナは第三次世界大戦だ」と明言した。ところが、戦争にマスク2枚を配布で「アベノマスク」と有頂天になっている。技術革新の現代に信じられない政府のコロナ対応だ。たかがマスク2枚では毎日一枚洗えばひとつしか使えないではないか。また医療現場では防護服がなく、雨ガッパを民間から公募している。それにまたコロナ検査も依頼してもなかなか応じてくれない。百人もの高熱者が検査のために列をなしている所もあるという。こんな対策の初歩的なところで足踏みをしている。医療現場は崩壊ぎりぎりの状態である。一体政府は何をしているのか。コロナ対策を真剣に考えるならば、まず蔓延しないように、初動の段階でストップをかけなければ蔓延してしまうだろう。
「戦争」というならば、市中にマスクがなければ、国として縫製企業に強行的に作らせばいいし、医療機関の防護服にしても同様だ。またPCR検査体制も微弱と言わざるを得ない。コロナ検査を望むものすべてに検査を行える体制を国として、強硬手段をとってでしても行わなければならない。
それに医療現場が崩壊の危機にあるというならば、戦時中は学徒動員したと同じように看護学校の生徒を特待生として各病院に派遣させればいいし、医学部の学生もインターンとして各病院に派遣させればいい。みずから「コロナ第三次世界大戦」といいながら、やっていることは幼稚極まりない。他国の例をみても、日本はまだまだこれからもっと蔓延するだろう。こんなことぐらいで足踏みしていたら、それこそワクチン開発はさらに遠い先のことになる。大変な時代がやってくる。首相みずから「コロナ第三次世界大戦」というならば、国家権力を使ってでも「戦争」に打ち勝つ実行をしなければならない。

自叙伝「青春哲学の道」

2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」
(1)

俺は小さい頃、どもりだった。どもりは差別用語で今では吃音者というそうだが、ちゃんちゃらおかしい、どもりが最も適切だ。それほど皆から哂われていたからだ。「どもり、どもり、うつるから近づくな」、子供の頃よく石をなげられたものだ。また小中学生の頃は先生に申し送りがあったのか、教科書の朗読を当てられるというのが少なかったが、高校になるとよく当てられた。それがとても辛かった。俺の名を呼ぶなと心で叫んでいると、どうしてか俺が当てられるのである。高校三年の時、席順の前の女性に惚れてしまった。向こうもまんざらでなく、河原で二三度デートしたことがある。ある日、物理の授業で教科書の朗読を当てられた。ああ、彼女とはもうこれで終わりだなーと思いながら立った。「あ、あ、あ、――」一行も読めないのである。みんなの冷ややかな嘲笑が小耳に聞こえてくる。きっと、前に座っている彼女は自分がどもっているような恥ずかしい思いをしているのだろう、それは見える次第に小さくなっていく背中のまるみに現れていた。
当然のことながら翌日から彼女は俺と口を利こうともしなかった。それに対して、俺は別に彼女を恨むことは一切なかった。むしろどもる自分が悪いのであり、彼女に恥ずかしい思いをさせて申し訳ないと思った。しかしこれはこたえた。家の二階で、窓のガラスを素手で割った。手から鮮血が滴った。「どうしてわしを産んだんやあ」。父親は静かな声で「そんな小さなことに拘るな。宇宙はひとつや」、ぽつんとそう言った。
のちに解ったことだが、左利きを矯正すると70%はどもりになるという。俺は左利きだった。母親が、小さい頃から左でハシを持ったり字を書いたりすると俺の左手をパシっとひっぱたいたものだ。左を使いたいのに何故だめなのか、母親は世間様に恥ずかしいからというが、俺にとって左手を使うことは自然な行為で、どうしてダメなのか解らなかった。手を使うというのは一種の表現行為である。その否定が言語という表現行為にも自信をなくすという影響を及ぼしたと俺は思っている。かといって母親が悪いわけでもない。母親は俺の左利きの不自由さを思ってしたことだからだ。しかし結果的に左利きより嘲笑されるどもりになった。
お前は生きるのか、死にたいのか、自分に問うてみた。生きたい、そう思った。だったら強くなるしかなかった。どろんこでゴールめざして戦うラグビーをやれば強くなるかもと、ラグビー部に入った。しかし強くはならなかった。夏休みには夜間の工事現場で働いて、その金で北海道に二週間野宿をしながら一周した。自分の何かを変えたかった。でも変わらなかった。郵便のアルバイトをしてトランペットを買い、毎日吹いた。いい音が出たり、出なかったりの繰り返しだった。自己流で唇にマウスピースを押さえ過ぎて、吹けば吹くほどヘタになっていった。でもトランペットの音色は孤独感を癒し、放課後の教室でよく吹いた。油絵にも没頭した。内面から吹きあがる何かを絵筆で表現したかった。しかし、トランペットも油絵も、自分を変え得なかった。強くなろう、強くなるしかない。やがて、解りもしない哲学書を読み漁った。サルトルの「嘔吐」「自由への道」ニーチェの「ツアラトウストラ」、そこからパスカル、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデッガー、ほとんど解らなかったが、数行読んでは考え、一頁読んでは一日中考えた。
ニーチェを読んで、「そうか、脱皮しないヘビは死ぬ、か」、「超人をめざせ、か」、そうだ、形而下の問題なんて、なんぼのもんじゃい、と思った。どもりだといって哂うのは、そいつが善人とか悪人とかという問題じゃなく、人間という生き物だからだと思った。日常的な人間など超えてしまえ、そう思った。次第に、世間の常識や日常生活というものを否定、あるいは軽んじるようになっていった。しかし世間でいうグレルということはなかった。どもるのは世間が悪いのではなく、自分が悪いと、内面的には自分を攻め立て、グレルなどという余裕はなかった。そして頭が悪かったのか、いつ当てられるかという思いで授業に集中できなかったせいか、成績は悪かった。ただ、おぼろげに、俺はたぶん世間並みの常識的な普通の生き方はできないだろうと思っていたし、そういう生き方を拒否するようにもなっていった。だからタバコを吸ったり、カンニングをしたりして学校にバレても平気だった。担任の女教師が「あなたには就職を斡旋しない。学校の恥さらしになるから」、そんなことも言われた。しかし俺は「上等じゃあねえか」と、日常というものを軽蔑し女教師を哂う余裕さえ生まれていた。ニーチェの超人への道、それは精神があらゆる重みに耐える駱駝になり、らくだが意志を持った獅子になり、そして最後に何にも放たれた自由な子供になる。俺はそれを信じていた。俺は今、駱駝じゃねえか。そう思えば怖いものはなくなっていった。
やがて高校を卒業してまもなく、俺は新聞広告を見て、自動車の整備工場で住み込みで働くようになった。工場では先輩たちに苛められた。仕事も建設機械の背丈ほどもある大きなタイヤのボルトをパイプではずしたり、油まみれになった。夜になるとぐったりしたが、寮の二段式のベッドの上で、電球を服で覆い、先輩たちが寝静まったなかで、俺はこのままでは終わらないとニーチェを貪り読んだ。
半年ほどして将来は先生になると新潟大学の教育学部に行ってるはずの友人が突然工場に訪ねてきた。話を聞けば、体育クラブに入ったものの、シゴキが激しく耐えられず逃げてきたというのだ。入学金など親が親戚にまで借金して入れてもらったのに、実家には帰れないので、俺のところに直接来たというのだ。そんな弱いことでどうするんだと殴りもしたが、もうすでにヤツの気持ちは逃げてきたという自責の念で普通ではなかった。とりあえずヤツを実家に帰した三日後、今度は親から電話が寮に入った。家の中で家族に暴力を振るい、あばれまくるので、病院に入れ、少し治まったので、今、家にいる、どうしたらいいでしょうかというのだ。
俺は、とりあえずヤツを引き取って、自分の実家の二階に住まわせた。精神状態がまだ不安定でひとりにはしておけなかった。俺は工場を辞めてヤツと一緒に住むようになった。
最も俺にとっても整備工場は潮時だったのかも知れなかった。
しばらくして、ヤツの心は安定し、新潟に戻っていった。
さて、次に俺はどうするか。大学行って、哲学を勉強したい。そんな気持ちになっていた。しかし、家には金がないので、とりあえず入学金を稼いで、大学の二部にでも入って哲学を勉強しようと思った。哲学を勉強して、トランペッターになって、ナイトクラブでトランペットを吹きながら、酒飲み客など形而下の人間を嘲笑しながら暮らそう、そんなことを夢想した。俺はまた新聞広告で、たこ焼き屋で仕事をするようになった。三ヶ月間働けばとりあえず入学金は稼げる、そう思った。
たこ焼きは軽自動車で、路上で売る仕事だった。社長、専務と呼ばれるものがいて、車も20台くらい保有していた。午後三時頃から指定された商店街につけ、主婦や子供相手に夕方七時頃まで売る。一時間休憩を取って、次にパチンコ屋の前につけて、サラリーマンを相手に十一時頃まで売る。それから今度は繁華街につけて、水商売の連中や、飲み屋帰りの客に売る。午前一時頃に終わって、社に戻り、売り上げを清算して、家に帰ると午前二時ころだった。「専務、タコが入ってないと客からいわれたんですけど」。確かに仕込みの材料を見ても、キャベツ、テンカス、紅しょうがだけを混ぜたものだった。「あのな、自動車で売るのにナマモノは保険所がうるさいんじゃ。じゃから、タコを乾燥させて粉末で入れてあるんや。客にそういっとけ」「はい、そうします」。俺は一生懸命、焼いて、売った。手で具をわし掴みにして一杯入れるものだから、タコが入ってなくとも美味しいと評判もよかった。八時頃に材料がなくなって、社に帰ることもあった。そうした日が続くと、ある日、路地の影から専務が俺の様子を見に来て、「やっとるな」と声を掛けた。「はい」、「そうか、そうやったんか」「は?」「実はな、材料の減り方があまりにも多いんで、皿を自分で調達して、売り上げごまかしてるのんちがうか、ちゅう声もあってな。それだけ具を入れたら、そらなくなるわな」「専務、タコ、粉末で入ってるって、嘘でっしゃろ。せめてお客さんには、美味しいタコ焼き食べてもらおうと・・」「わかった、わかった。売り上げもあがっとるし、社長にはわしから言うとく。その売り方でええ。明日から材料多めに仕込んだる」。
客が来ない時は哲学書を読んでいた。サルトルの「嘔吐」などはたこ焼きの油で汚れていた。存在することの嘔吐、なにげない日常の嘔吐、実存主義は投企する。人間は常に途上であり、自らを未来に投企することによって存在する。存在と無。
「おっちゃん、たこ焼きちょうだい」、ぼろ服を着た小学生がよく来た。五円玉を握り締めて。三つ一〇円からで五円じゃ買えないけれど、黙っていつも一〇個ほどまけてやった。「あいつなあ、家ひどい貧乏なんやで。障子なんかボロボロや」、別の商店街の裕福そうな子供が言った。
逃げるように去って行く子供の背中見ながら、お前も強くなれよ、と心の中で呟いた。
商店街が終わるとバッテリーの電気を消し、油で汚れた白衣のまま、近くの喫茶店で一時間コーヒーを飲んで、また哲学書を読むのが習慣だった。夕飯はいつも自分の焼いたたこ焼きで済ましていた。喫茶店の客は俺ぐらいで、そこのウエイトレスといつも目があった。彼女と薄暗い空間で、何も語らず、見詰め合っていた。そんな日が毎日続いたある日、パチンコ屋の前でたこ焼きを焼いていると一台の車が止まった。運転席の男に何か言って、ウエイトレスの女が俺のほうに駆け寄ってきた。「あたし、喫茶店の息子さんと結婚することになったの」。それが彼女との最初で最後の会話だった。あの沈黙の目の語り合いは何だったんだろう、そういう落胆がないわけでもなかったが、「おめでとう」、俺は車のテーブルに飾ってある一輪のユリの花を手渡した。「うん」、彼女はそう頷いて、また足早に車に戻っていった。
車に乗ってたこ焼きを売っていると、いろんな人たちが話しかけてくる。しかし、車の鉄の囲いが常に俺とその人たちの間に立ちはだかって、それ以上入り込むことはなかった。
車の中で、俺は、この鉄板の外の人とは違う、そういう意識が強かったのかも知れない。
ある雨の日、傘をさして一人の女が来た。サイドの窓から「あたし、大学の中で、男を知らないのはあたしだけなの。お願い、今度の休みに待ってるから」。指定した場所に来いという。「待ってるから」、女は懇願するように言い残すと、とぼとぼ何処かに帰って行った。脚が悪いのか、少し右脚を少し引きずっていた。俺は行かなかった。ある日その女が来て、「どうして来なかったの、させてあげたのに。恐かったの?」。俺も女は知らなかったが、好きでもない女とする気にはなれなかった。それ以降その女は来なくなった。
高校を卒業する時、社会科の教師が文集に贈る言葉を書いた。芥川龍之介の言葉で「ひとを食わずんば生き得るものに非ず」。ええか、これはニューギニア戦線の日本兵の話と違うぞ。お前らこれから社会に出て、人にあった時、ひとに飲まれるな、会った瞬間、そのひとを飲み込むぐらいの気迫を持って生きろというこっちゃ。その教師はポンチュと呼ばれていた。昔、ヒロポン中毒だったらしい。その教師の話は、俺にとって印象的だった。
ニーチェの超人の思想とも相まって、それ以降、人をひととは思わなくなっていった。不思議なことに、そう思っていくと、次第にどもらなくなっていった。人をひとと思わなければどもらなくなる、皮肉な話だった。
大学の入学金が溜まりかけた頃、ひとりの女に惚れてしまった。客として初めて会った時、その女は黒のスカートに真っ赤なブラウスという派手な服装で化粧も濃かった。水商売かなと思ったが、話すと純真で、それ以降はたこ焼きは買わず、ちょくちょく顔を出すようになった。親戚の家に間借りして美容師になるために美容学校に通っているという。俺は本気で、惚れてしまった。彼女の休みのたびにデートを重ねた。ラブホテルで俺は初めて女を知った。むこうも初めてでシーツに赤い血が滲んだ。歳は俺よりひとつ上の二十歳だった。俺の頭の中は、彼女がすべてになった。神でもあり仏にもなった。俺はこいつと結婚しようと思った。大学など先の話はもういい。俺は貯めた金でアパートを借りた。一緒に住もうと思ったからだ。しかし彼女は一緒には暮らさなかった。相変わらず、休みの日だけアパートに来た。しばらくして、彼女が「子供ができたかも知れない」と言った。「そのことは黙って親に会ってくれる?」。俺は同意し、彼女の家に行って、両親と会った。「結婚させて下さい」と言って、「その歳で結婚だなんて、狂ってるとしか言いようが無い」と言われた。よほど子供のことを言おうと思ったが約束だったので口にはしなかった。彼女の兄というものが出てきて「失恋することも人間を大きくするよ」と言われた。
アパートの一室で、たこ焼き屋という仕事が悪いのかとも思った。社長や専務に可愛がって貰っていたが、俺はたこ焼き屋をやめることにした。背広を着て、ネクタイを締める仕事ならいいのかと、電話の債権の訪問販売の仕事をした。ところが、直接電電公社に申し込めば、安く電話が引けるのに、一種のサギのような仕事だった。それに彼女の休日と合わず、俺はその会社を辞めた。何回か会ってるうち、子供も出来ていないことがわかった。一体、俺は何をやってるのだろう。アパートで金に窮し、メザシばかりを食べていた。結局、再びアパートを引き上げて、実家に帰らざるを得なくなってしまった。
またたこ焼き屋を始めた。しばらくすると、社長から「おまえ、車一式と場所代格安で売ってやるから独立しろ」と言われた。俺は実家で材料を仕込んで売るようになった。金は一週間でサラリーマンの一ヶ月分の給料に相当するほど儲かった。しかし俺は金に執着がまるでなかった。仕事が自由になった分だけ、仕事をしなくなった。寺に行って、仏像を観るのが好きだった。庭園で哲学書を読み、また、仏像とにらめっこした。
ある日、久しぶりにたこ焼き屋の会社に行くと、なにやら人が集まって揉めていた。話を遠巻きに聞いていて、初めて、ここはテキヤであり、何々会という暴力団の息の掛かった所だと知った。「坊主、お前は関係ないから向こうへ行ってろ」、目をかけてくれていた社長は俺を巻き込みたくないようだった。
ある日、深夜に繁華街で売ってると、二人連れの客がきた。「このごろの素人は恐いね、兄貴」、そういいながら背広の泥を落としたり、顔の傷を拭いていた。俺はふっと口から出てしまった。「兄さん方、どちらから来られたんですか?」、土地を聞くつもりだった。「なに、この野郎、降りろ」、言うなり、車から引き釣りだされ、胸倉を掴まされた。そうか、組関係か、その時初めて俺は気づいた。とっさにこれしかないと俺は思った。「兄さん、俺をやってもいいけど、ほら、事務所のもんが見てまっせ。あんたら、ぼこぼこにやられまっせ」。
事務所の連中など誰もいないのに、俺はハッタリをかました。彼等にはその言葉が通じたようだ。「兄貴、やめよ」「ああ」。二人は銭を置いて立ち去って行った。
頃は70年安保騒動の最中だった。多くの学生たちがデモで練り歩いていた。「安保反対、安保反対!」、みんな頑張っているのに俺は何をしているんだろう。そう思って、一度デモにも参加したことがある。シュプレーヒコールのあと、皆で座り込んで、「夜明けは近い~」とフォークソングを合唱した。言い知れぬ、共生感、連帯感に酔った。しかし、車の鉄板のように、やっぱり他者と俺と遮断する何かがあった。俺は組織には入れない、入りたくても、仲間とともに生きることはできない、俺は、孤独でいい、それしか俺の道はない、そういう思いだった。統一教会の若者にも誘われた。彼は身振り手振りで「日本の夜明けは京都から」と俺を説得し、文鮮明の「原理主義」の本を手渡された。キリスト教にも興味はなかった。ニーチェの「神は死んだ」のほうを信じていたからだ。孤独でいい。孤高でいい、何にも属さず、俺は生きる、そう思っていた。
仏像を観ていると、心が浄化した。ニーチェの「超人」に通じるものがあった。その日も寺に来ていると、本堂からお経が聞こえてきた。何気なく見ると、外人がお経を読んでいる。「すごいね、外人なのに」、俺は声を掛けた。話を聞いてみると、二人の外人はカナダ出身でフランスに住んでいて、ひとりは日本語を研究、もうひとりは哲学を勉強しているらしく、日本人のフィアンセと三人だった。今日泊まるところをまだ決めていないというので、俺んちに来いよと、たこ焼きの車に乗せて、実家に着いた。外人たちが数日宿泊した翌日、俺は、コマーシャル製作会社の面接があった。俺は、絵も音楽も好きだったし、テレビコマーシャルを創る仕事ならやってみたいと思っていた。やっぱり新聞募集を見ていくと、女の社長だった。俺は、たこ焼きの車を横付けにして、自分で色を塗ったりした独自の履歴書を持っていった。それのほうが受けがいいと思ったからだ。面接の終わり方、不採用の感触だった。だから俺は給料はいらんから勤めさせてくれと言った。しかし「あなたのような人はどうせ独立するから」と言われた。ケツの穴の小さい女社長め、唾を吐いて外にでた。実家に帰ると、外人たちも観光から帰ってきており、面接がダメだったことを報告している時だった。印刷工場に勤め、妻と子供と同居している俺の兄が仕事から帰ってきて、疲れもあったのか、俺に文句をいいだした。「なんじゃ、おまえは。働きもせず、外人なんか連れてきて、ええかげんにせんかいッ」。口論になった。「だいたい実存主義かなんか知らんが、外国かぶれしやがってッ」。この一件で、俺はもう実家に居場所がないことを知った。日常生活をちまちまと必死で守って生きている兄貴やおやじを反面否定する思いが兄貴にも伝わっていたのかも知れなかった。テレビではまさに安田講堂で学生と機動隊の衝突を生々しく報じていた。東京にいけば、俺の生きる道があるかもしれない。俺は外人たちとたこ焼きの車で東京に向かった。21歳の夏だった。

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2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」

(2)

東京に来る時、東名高速を軽のライトバンに四人乗って100キロだすと、揺れていた車体が沈むようになった。「お前ら、これから社会に出た時、フランス語でシャンソンのひとつでも歌えるようになっとけ」。社会科の先生が卒業間際にそう言って小さなポータブルレコーダーにイブモンタンのレコードを掛け、ガリバン刷りの歌詞を配ってくれた。それで覚えた原語の「枯葉」を疾走する車内で歌いだすと、外人たちは笑い出した。そして一緒に歌うようになった。なんじゃ、通じてるじゃねえか。俺は自信を持ってさらに声を張り上げた。
ギーとギーの恋人・江美、イボンと俺の四人は高らかに枯葉を合唱した。車は世田谷の江美の実家に着いた。ぼくもそこに泊まることになった。しばらくして「マサオはこれからどうする?」江美が言った。「映画を創りたい。それにはカメラか脚本の勉強をしようと思ってる」俺が言った。夜になって、江美の父親が、俺が油絵を描いているのを知って、アトリエで自分の描いた油絵を見せてくれた。人物や静物、風景といずれも具象絵画だった。年季の入った筆捌きで、デッサン力も確かだった。が、絵は自分の感性で突き上げる何かを表現するものだ、あるいはモノの存在することの本質を抉り出すことだ、それには目に見える表面の具象など捉えたことにはならない、さらに奥深く追究して初めていい絵といえる、そんな理屈を俺は持っていたので、俺は父親の絵を見てあしらってしまった。「マサオ君、君はもう少し礼儀というものをわきまえないと生きていけないよ」「はい」。はいっと返事はしたが、その意味がよく解らなかった。
数日して、それでも父親の紹介で三輪晃久というプロカメラマンの家に弟子入りすることになった。東京オリンピックか大阪万博で活躍した有名な写真家らしい。ところが、毎日、毎日、庭掃除ばかり、こんなことをしてて何になる、気の短い俺は誰に言うでもなく一週間でトンズラしてしまった。今から思えば、辛抱して頑張っていれば、絵心と物の本質を追究する眼がある俺のこと、いい写真家になっていたかも知れない。チャンスは目の前にあっても、本人がチャンスだと気づかなければ、チャンスにならないものだ。
俺は、渋谷駅前で野宿をした。新聞に包まい、夜露を凌いだ。ああ、これが有名な忠犬八公かー。朝になると、京都とは比べようもない人の群れが現れた。以前読んだリースマンの「孤独なる群集」。俺は群れの中の一人だが、孤独感はまったく無かった。未来に向かえばよかった。野宿を何日かして考えた。外国に行って、外国から日本を見てみたい。そして本を書いて、映画を創る、そうだ、ギーやイボンがいるフランスに行ってみよう。金はない。俺はとりあえずフランス大使館に飛び込んだ。そして大使館員に聞いてみると、フランスは行っても仕事がないという。カナダで稼いでフランスに来たほうがいいと言われた。今度はカナダ大使館に飛び込んだ。カナダでは美容師の仕事か、看板の仕事ならあると言われた。俺は新聞を買って、就職案内欄で、美容師見習いを見つけて池袋に行った。中年の女性が出てきて「21才ねえ、あなたの歳で見習いはもうちょっと遅いんじゃないかしら。それに泊まるところもないって、私も一人暮らしだし、世間の目もあるし、ちょっと二階に住み込みはムリねぇ」。そうか、そういうものか、情熱だけで世間を知らない俺は、笑いながら勉強にもなった。よし、美容師がダメなら看板屋だ。俺はまた新聞で見つけて葛飾金町の新工社という看板屋に飛んだ。国語辞典を編纂している金田一何がしという人と親戚だという社長と面接し、寮もあり住み込みOKで採用となった。こうして俺の東京生活は始まった。寮生活が半年ほど続いた。会津から出てきたホシ君、茨城のコヒガ君など同じ歳の先輩もいた。彼らと商店街のポールをペンキで塗ったり、飾りつけをしたりした。また捨て看といって、100枚ほど布に印刷した立て看板を電信棒にくくりつけて行く、あるいはまたそれを回収したりした。工場の中年の男たちはそれぞれ職人で、トタン板に風呂屋の広告を書いたり、ネオン看板を作ったりしていた。やがて28歳のコマダさんと親しくなった。コマダさんはアパートを借りて、そこから看板屋に通っていた。アパートに行ってみると、コマダさんの描いたという50号くらいの油絵が何枚もあった。メディームを使い、古典絵画のタッチの風景画だった。「コマダさん、単なる林の中を描くのではなく、たとえば、ここに、裸の赤ん坊の泣き叫ぶ姿を描くとか、そうすれば随分面白い絵になる」。俺は絵の批評は得意だった。コマダさんは青森で警察官をしていたが、県の油絵展で入賞し、画家になろうと上京してきたらしかった。「なあ、この{知覚の現象学}貸してくれるかい?」当時3000円もする高価な哲学書をコマダさんに貸したことがある。しかし、後日、コマダさんはアルバイトに行ったトンネル工事で、100Vの電源をさわって感電死した。柔道3段のコマダさんが100Vで死ぬとはショックだった。結局コマダさんの妹が実家にまとめて荷物を送ったので、俺の高価な本は戻ってこなかった。
来る日も来る日も看板の仕事をやっていた。しかし手に職をつけるというより雑務的な仕事ばかりだった。ある日電気カンナで木を削っている時、考え事をしていたのか、夏の太陽にうだっていたのか、スイッチを入れたまま電気カンナが膝に触れてしまった。膝の肉に食い込み、骨が見えた。病院で手当てを受け、二週間ほど仕事を休んで松葉杖を使っていたこともあった。ちよっと待てよ、また俺は考えた。考えてみれば、俺は映画を創りたい、そのためには本を書く、そのために外国にいく、そのために看板の作り方を覚えるために今、働いている。一見、筋は通っているが、手段の手段、そのまた手段で、あまりにも回り道すぎやしないか。本を書くことから入ろう。そのためには寮をとりあえず出ることだ。俺は近くにアパートを借りて、寮を出た。
双葉荘の六畳一間のアパートでさっそく新聞を取った。小説になりそうな題材や気になる記事を壁に貼り、看板の仕事が終わると机に向かって、執筆を始めた。来る日も来る日も机に向かったが、なかなか思い通りにいいものが書けなかった。そんな時、京都で付き合っていた美容師のリツコが大きなスーツケースを持って、突然現れ、俺に飛びついてきた。アパートに落ち着いてから何度か手紙を書いたが、まさか東京まで来るとは思わなかった。それから彼女との甘い生活が始まった。彼女はお茶碗や箸など近所で買ってきて二つづつ揃え、料理を作り、縫い物をした。しかし俺は次第に苛立ってきた。二週間ほど経ったある夜、俺はまた黙って机に向かって書き物をしていた。しかし、隣で俺の靴下のほころびを縫っているリツコの日常的な仕草に耐えられなくなって、とうとう「そういうこと、止めてくれッ」と大声を出した。彼女にしてみれば、夫を支える妻の役割を夢見心地で行っていたのだろう。しかし俺は書けない理由を、焦りもあって、その日常性のせいにしていた。次の日、仕事から帰ってくると、リツコはいなかった。「大きな愛を得るために小さな愛を犠牲にしないで」という置手紙だけが机の上に置かれていた。悪いことをしたと俺は思った。情けない自分に、書けない自分に苛立った。本を書くにはやはり文章の勉強だ。出版社に勤めれば、活字の勉強もできるし、収入も安定して、スーツも着られて、リツコの父親を説得できるし、リツコを正式に呼び寄せることもできる。俺は新聞の求人案内を調べた。ところが、編集記者募集、業界新聞記者募集、活字に携わる仕事はいずれも大卒が条件だった。そうか、こういう業界は高卒ではダメなのか。しかし俺はどうしても活字業界に入りたかった。ある日、実業公論社という、学歴のことが書いてない出版社が人材募集をしていた。俺はどうしても入りたかったので、自分が行きたかった立命館大学文学部哲学科中退と履歴書に詐称して、面接に行った。
ええっと、三崎町。JRの水道橋駅で降りて、行けども行けどもそれらしい会社はなかった。近辺をうろついて、ようやく古びたビルに実業公論社の看板を見つけた。ええっ、これが出版社かい?俺はもっと立派なビルを想像していたが、今にも倒れそうなあまりにもみすぼらしい雑居ビルに愕然とした。急に肩の力が抜けた。まあいいか、俺は薄暗い細い階段を上がって、右の部屋のドアに実業公論社の板看板を見つけた。
「とりあえず、このテーマで原稿4枚ぐらい書いてください」。そう俺は言われて、原稿を書いた。何を書いたか忘れたが、それなりにしっかりと書いた。「大学を中退されたのは何故ですか?学園紛争ですか?」「は、まあ、いろいろと・・」「まあ、いいでしょう、採用ということに致します。横の喫茶店でお茶でも飲みましょう」。荒川信一というその社長はニコニコしながらそう言った。喫茶店に入ると、コートを着たままの俺に「ところで、君、こういうところではコートを脱いで、畳んで横に置くものです」「は、はい、わかりました」世間知らずの俺に社長は几帳面だった。
とにもかくにも、こうして俺は、活字世界の第一歩を踏み出した。俺は22才になっていた。

(3)

「報道は社会の公器にて、我々はその真髄に生きる」、社是として事務所の壁に大きく掲げられていた。実業公論社では、月刊の経済雑誌「実業公論」を発行していた。そうか、俺は、雑誌記者になったんだ。社会の公器なんだ。めらめらと自分なりの正義感が燃え滾ってきた。荒川社長の下に、編集部には小野編集長と女性の上森、デスク見習いの福岡、そして企画部には笹間企画部長に俺と、同期の宮川、園田がいた。大阪にも支社があって、船木支社長から時折電話が入っていた。後で知ったことだが、俺らが入る前にこの実業公論では大変動があったらしい。大阪支社長の川又さんが辞め、印刷業に転出。東京では、広告の稼ぎ頭だった高橋兄弟が辞めて、新しく「財界にっぽん」という経済誌を創刊したらしい。この大変動のせいで、社の経営は著しく悪化していたので、新たに新卒の人材を笹間部長が新たな発想で育てていくというものだった。だから30歳の小野編集長と笹間企画部長のほかはほぼ新卒の同期だった。俺だけが詐称の中退だった。当初、企画部長はなんのレクチャーもなく、自由に取材をやらせてくれた。俺は各新聞に目を通し、もっと掘り下げて取材したい記事をくりぬいた。当初、毎日、川口市に足をはこんだ。鋳物工場の多い、あのキューポラのある街である。斜陽で苦しい業界をどうするか、をテーマに、市議会議員から、市長、鋳物工場の経営者など、汗だくで取材していた。「ちょっと君たち集まってください」。荒川社長が黒板を前にレクチャーをしだした。「いいですか、ほかの雑誌社は編集部と広告をとる営業部に分かれています。ところがうちは単なる営業部ではなく企画部としたのは、広告も取ってもらうが記事も書いてもらうということです。この両立を果たしてください」。なるほどなあ、企業を取材するだけでなく、広告も取らにゃならんのか。入社から二週間も経って笹間企画部長が新人に広告の話しをしなかったから、荒川社長がシビレを切らしたのだろう。「そこで今回はこの中小企業合理化モデル工場を取材し、広告も取ってきてください」。毎年、中小企業庁は合理化モデル工場を全国の中小企業から選定し、それを表彰する。「いいですか、取材項目は今から言います」。俺らは必死でノートにメモを取った。「そして取材がほぼ終わる直前に、今回の取材は、モデル工場の特集なんで、このようなモデル工場のグラビアも一緒に組みます。これについては有料で5万円になっておりますと切り出します。その時にこの契約書に社印、それと現金か小切手を貰ってきてください」。広告掲載申込書には「現金相添え申し込みます」とあった。俺の担当は長野県更埴市の高原シャツという会社だった。現地まで列車を乗り継いで行って、言われた通りに取材をし、社長の顔写真も撮って、広告に使うパンフレットや契約書、小切手を貰って帰ってきた。これがジャーナリストか?ちょっと違うな。何か心苦しい思いを、この仕事ですでに感じていた。しかし、社に着くと、「ご苦労さん、遠いところ、よくやったね」と社長たち幹部がねぎらってくれた。雑誌が出来て、初めて俺の記事が活字になった。うれしかった。俺は記者なんだ。何度も活字になった自分の記事を読み返した。
ある日、アパートに帰ると、リツコから手紙が来ていた。俺はその手紙を見て愕然とした。妊娠したけど父の反対もあって降ろしたとしたためてあった。なぜ、どうして、俺に一言の相談もなしにそんなことをするのか。実業公論でしばらく落ち着けば、俺はリツコの父親に会って説得し、リツコと結婚するつもりだった。自分の心の中では、それは揺ぎ無いものだった。しかし絶対俺はリツコと結婚するという俺の思い入れは、かってに降ろしたという事実に、急速に冷えていった。許せなかった。一言相談してくれれば、俺はすぐに飛んで行ったにちがいない。今から考えて見れば、ちょっとした歯車の違いで結婚できない、若さゆえのズレのようなものだったかもしれない。返事も書きようがなかった。俺は仕事にうちこんだ。当時、カラーテレビの二重価格が不当表示にあたるのではないかと問題になっていて、さっそく取材を試みた。公正取引委員会や全国電器小売商業組合の事務局長、そして日立、東芝、松下電器、三洋電機、三菱電機など家電メーカーの部長クラスに取材を試み、一頁10万円の広告を松下、日立、三洋から得た。広告を貰ったからといっても、単なるちょうちん記事にはしたくなかった。自分はジャーナリストだ。記事は記事、広告は広告だ。しかし企業側が広告を出すということは、少しでも企業側にいい記事を書いて欲しいという思いがある。一方ジャーナリストとして質すところは質さねばならない。矛盾を抱えると、なかなか原稿が進まなかった。それでも苦労してようやく書き上げた。早稲田出身のミヤガワ君は「華麗なる三菱の挑戦」という三菱自動車の記事だけで広告は取れなかった。法政の園田君は当初から競馬新聞を朝から見て「俺はさすらいのギャンブラー」などと言ってシラケていたが半年で辞めていった。神奈川大のデスクの福岡君は、コツコツと編集長から誌面の割付を教わっていた。「どうする?二重価格」。俺の記事は4頁モノで、小野編集長は記事の末尾に俺の名前を入れてくれた。署名入りの記事、この記事に記者として責任を持つということかと思い、同時に誇りも感じた。
リツコからまた手紙がきた。その封筒にはデートで京都嵐山の渡月橋で写した二人の写真が切られ、俺の写真だけが入っていた。そして「お金をください」と書いてあった。勝手に俺の赤ちゃんを下ろしたショックで、返事も書いていなかった。なんのリアクションもない俺に、リツコは決別を決めたのだろう。しかしお金の話しなどするようなリツコでないことは分かっていた。彼女自身、悩んで悩んだ末に、俺に写真まで切って送りつけ、何らかの反応が欲しかったのだろう。反応すればまた二人の仲は修復可能だったに違いない。しかし、俺はどうしても許せなかった。どうして俺が信用できなかったのか、リツコや子供一人くらい俺はどんなことをしてでも養っていく自信はあったのに。苦い無念の唾を俺は飲み込んだ。

(4)


「上森さん、デートしようか」。フランスベッドの山田副社長に会って、同社が新入社員を自衛隊に入れて教育しているという記事を書き終えた夕方、俺は社長もいる皆の前で、上森女史にお誘いの声をかけた。上森美恵子さんは俺よりひとつ上の23才だが、随分とふけて見えた。
俺はリツコのことを忘れようとしていた。そして急速に上森さんと親しくなって、早稲田近くにある彼女のアパートにも出入りするようになった。彼女には何か、暗くって世をすねたようなところがあった。家族のことを聞くと口ごもり実父を中心に何か事情がありそうだったが、自分のことについては多くは語らなかった。
ある日、仕事が終わって、会社のみんなと九段の桜の木の下で宴会をすることになった。社長のほか東京の全部が集まった。ひとたま飲んで、次の日、いつも真面目な笹間部長が会社に来なかった。実家から電話を受けた荒川社長は見る見る顔が蒼白になった。「笹間君が死んだそうだ」、突然のことでリアリティーのない言葉だけが室内に響いた。社長はその慌てぶりから当初何か事件に巻き込まれたのかと思った節がある。しかし麻布十番の実家に行って、朝母親が起こしに行くと布団の中で死んでいた、いわゆる心筋梗塞か、ぽっくり病ということだった。前夜の酒のせいだろうか。俺にとってもショックだった。笹間部長を人間としても信頼し、尊敬していたから余計だった。葬式が終わって暫く経って、笹間部長のお母さんが会社に現れた。「上森さん、これをうちの子があなたにあげようと持っていたの。受け取ってね」、母親は上森さんに金のネックレスを差し出した。俺はそれを見てどういうことだろうかと思った。後日、小野編集長が酒屋で立ち飲み酒を飲みながら言った。「荒川さんが、笹間君はもう30になるし、結婚させるために上森さんを入社させたんだよ。二人はもう婚約していた仲だった」。そういうことはアパートに行っても上森さんは俺にオクビにも出さなかった。どういうことなんだろう。そんなことを知っていれば俺は上森さんと付き合わなかっただろう。夜の公園で彼女に問うてみた。「君は笹間部長と婚約してたの?」。彼女は黙ったままだった。そして暫くしてようやく「ただ流れに、流されていたの」、ぽつんとそう言った。
彼女の真意を掴みかねた。世の中にどうでもいいやという投げやりな思いが、淋しそうな横顔に出ていた。
しばらくして、荒川社長は、上森さんを編集部から企画部の配属にし、男でも広告を取るのが難しいのに、上森さんは自然と辞める結果になった。
笹間部長がいなくなって、広告収入が減り、経営が一段と厳しくなったようだ。本来雑誌の質を高める編集記事だけを書いていた小野編集長が「私も企画モノして稼ぎますよ」と荒川社長と話していた。荒川社長はまた俺と宮川、福岡にレクチャーを始めた。「いいですか、大手企業の資材部長に協力企業をどう育成するか、取材をしてください。そして代表的な下請けに紹介電話を入れてもらい、下請けの社長に会って、協力企業側の意見を聞いて、一本の記事にする。同時に特集ということで、下請けから広告をとります」。おいおい、今度は下請けイジメか、なんだかジャーナリストには程遠い仕事だなー、「報道は社会の公器にて我々はその真髄に生きる」の社是がだんだんと霞んでいった。夕方、事務所に残った小野編集長と茶碗酒を飲んだ。「編集長、ジャーナリストは社会の公器でしょ」。小野さんが言う。「なかなかなー、奇麗事ばかりでもいかんのよ、谷さん。もうこの会社は一杯、一杯になってるのよ。だから社長と私が北海道いったり、群馬行ったり、地方のどさまわりや県経済の特集やって広告取って、なんとか食いつないでるのよ。毎月の給料を稼がないと武士は食わねど高楊枝ってわけにはいかんしね。文武両道、文武両道だよ、谷さん。力がないと雑誌というのはやっていかれんのよ」。
雑誌の公称発行部数は5万部。しかし実際は5000部くらいを刷って、2500は企業への贈呈を含む直送分で、それらは出来上がると印刷所に行って袋詰めをし、郵便局に持っていく。そして後の2500部は日販を通して書店で販売していたが、殆どは毎月返品で業者が処分しており、実際の売り上げは広告収入が殆どだった。広告をとるためのジャーナリストか。そんな矛盾を抱えて仕事をするのは嫌だった。俺は悩んだあげく、入社8ヶ月で辞表を出した。
夜のベンチに座って、ふっと星空を見上げた。京都から出てきて、俺は何をやってんだろう。そういえば、京都の公園の星屑は綺麗だったなあと、たこ焼き屋時代を思い出した。仕事が終わって午前二時頃、いつも実家の前の公園に安楽椅子を水銀灯の下に持ち込んで、商売のコーラを飲みながら、哲学書を読んでいた。水銀灯には虫たちが群がり、空は満点の星、近所の人たちは寝静まって、俺は宇宙と連結していた。心が澄んでとっても贅沢な時間だった。しかし東京に来てからというもの、その心が萎んできたように思った。
上森美恵子に会いたくなって、早稲田のアパート高風閣に向かった。美恵子のアパートには何もない。布団と、木箱の机だけである。壁はボロボロ落ちてくるし、殺風景そのものだ。ほんとにヘンな女だった。そんなことを思いながら、高風閣の前あたりまでくると、美恵子が男と肩を並べて歩いている。親しそうだった。初めて美恵子と寝た時、美恵子に「お前、何人男と付き合ってたんだ?」と聞いたことがある。彼女は父親から遠ざかるため、静岡三島の富士見が丘短大に入り、そこで造園業の俺と同じマサオと付き合っていたらしい。それと別れて、国際電気に勤めている羽生田、そして笹間さん、俺と続いているようだった。そのほかにも俺の知らない男がいたかもしれない。「悪女をめざしていたの」、後日彼女はそう言ったことがある。俺は二人の後を、無意識に追ってしまっていた。後姿を見ながら、つけていく自分がだんだん惨めになってきた。ようやくわれに戻って、「もういいか」と一人呟き、自分のアパートに帰って行った。
アパートの玄関を開けて、スリッパに履き替え、自分の部屋に入ろうとすると、隣のヤクザ屋さんが顔を覗かせ「客が来てるぜ、大家に言って、開けてもらったからな」。部屋に入ると、高校時代の親友の新谷がいた。「ポンチュ、来てしまった」。ポンチュというのはヒロポン中毒だった社会科の先生と俺が同姓だったためついたあだ名だ。話を聞くと、新潟大学は部活のシゴキに耐えられず結局中退し、金を出してもらった実家の京都に居場所がなくて東京に来たという。
「しばらく、ここに泊めてくれ。こっちで仕事を探して、そのうち出ていくからよう」。新谷は居候を決め込んだ。その後、ヒマな二人は遊んだような気もするが、何をしたのかあまり記憶にない。一ヶ月ほど経って、男ふたりの生活にちょっと疲れが出てきたのと傍にいられると小説が書けない苛立ちもあって、俺は美恵子のアパートに居座るようになった。美恵子はほるぷ出版に入り、百科事典や童話をホテルなんかの展示会で販売するようになった。やがて新谷も銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになった。俺は美恵子のアパートで一向に進まない小説にしがみついていた。実業公論を辞めて数ヶ月経ったある日、美恵子が言った。「わたし、出来たかも知れない。でも、あなたに責任とれと言わないから、自分で処理するから」。今から考えてみると当時はそんなに美恵子のことを好きというほどでもなかった。リツコと別れた空白を美恵子で埋めていたというのが本音だった。しかし子供が出来たという事実はおろそかに出来なかった。「馬鹿言え、産めよ。結婚しよう」。リツコとの失敗をもう二度と繰り返したくなかった。「俺、もう一度社長に頭下げて実業公論で働かせてもらうから」。翌日、荒川社長に会って、再び働くようになった。まず、美恵子と生まれてくる子供のために稼ごう。俺は取材申し込みの電話を掛けまくり、広告をどんどん取っていった。しかし、以前の取り組み方と少しは違って、出きるだけ広告を貰う相手には取材時に有用な情報を提供することによって、ギブアンドテイクの形をとっていった。相手も納得するし、自分の心のバランスも少しはとれて仕事がやりやすくなった。ライターメーカーのマルマンの片山社長に会って、10社下請けから広告を取り、記事も8頁書いたら、マルマンの宣伝課長から「よく書いてくれた」と、向こうのほうから広告を出稿してくれたこともあった。柴又のアパートは新谷に譲って、俺は東中野に二間のアパートを借りた。ここで美恵子と暮らそうと思った。しかし、美恵子は来なかった。高風閣のアパートに行ってみると、深夜を越えてから、美恵子が真新しい高価そうなスーツを着て帰ってきた。「こんな時間まで仕事か」。ほるぷ出版の進藤課長と飲んでいたという。そしてスーツも課長に買ってもらったという。こいつ、課長とも深い仲なのか? でなければこんな高価なスーツなど買ってもらえるわけがない。俺は嫉妬した。嫉妬したというより、こいつの生き方って何なんだと、理解できなかった。男遍歴を重ねて悪女を目指しているつもりか。俺はもうどうでもいいと思った。「俺は、明日、京都に行く。正月を向こうで過ごして、5日には帰ってくる。もし俺と結婚する気持ちがあるなら、男関係を整理して10日までに東中野に来い。来なければそれで俺たちは終わりだ」、そう言って、俺は薄闇のなかを出て行った。

(5)

京都に行ったら実家に姉さん夫婦がきた。「企業におべっかを使う雑誌か。マサオ君、そんな仕事やめたらいい」、義兄がにべもなく吐き捨てた。二人とも日本共産党員だった。俺はカーッと来た。「何言ってるんだ。お前らに食わしてもらってるわけじゃなし、第一お前らだって、日本電池に勤めて、企業にエサもらって生きてるんじゃねえか。いい子ぶるんじゃねえよ」。「マサオやめときよし」、母親が傍でオロオロしていた。せっかく実家の両親に安心させようと思ってきたのに、俺は予定より早く切り上げて東京に戻った。東京に戻って美恵子との約束の10日の日が来たが、美恵子は来なかった。よし、もういい、と踏ん切りをつけた夜になって、美恵子が現れた。「ごめん、痔が痛くって・・」。俺は噴出しそうになった。翌日荒川社長も切って名医だったという痔の専門医に連れて行き、手術をし、オシメを買って、タクシーで東中野に連れて帰った。俺は治るまでの二週間、仕事から帰ると、せっせとオシメを取替え、夕食を作った。リツコが書いた置手紙の「大きな愛を得るために小さな愛を犠牲にしないで」という言葉が心に残っていた。リツコのためにも美恵子を幸せにしなくてはと、肩に力が入った。
美恵子が歩けるようになって、ご両親に結婚の承諾を得に二人で八王子駅に着いた。一時間近く、電車の中で美恵子は殆ど口を利かなかった。駅についても、すぐ実家に行こうとは言わず、「ちょっと近くの喫茶店で心構えをさせて」と言った。俺は首を傾げながらも頷いた。コーヒーを一口飲んで、美恵子はため息をついた。「父がどんなこと言っても怒らないでね。それと、お腹の中に子供がいることは黙ってて」。「ああ」。タクシーで実家に着いた。ご両親に一通りの挨拶を終えた。美恵子の父は元検事で、あごひげを生やし、髪の毛は伸ばしっぱなしの長髪だった。和装でいかにも明治生まれの男らしかった。どんな会話だったか忘れてしまったが、幸せにできるのかとか、この泥棒猫とか言われ、俺に追究の質問ばかり投げかけてきたように思う。とにかく俺は帰りの玄関で「お父さん、ここは裁判所じゃないんですから」と捨て台詞を吐いたことだけは覚えている。とりあえず話は通すだけは通した。
荒川社長にその旨報告すると、子供が出来たのなら、結婚式は挙げておいたほうがいいだろうと、式場を紹介してくれた。区の経営する豊島振興会館で、ふたりで貸衣装を借り、荒川社長が仲人になって結婚式を格安で挙げた。披露宴は社長同士が知り合いなので中華料理の銀座菜館で、俺の両親と、荒川社長、それに美恵子を実業公論に紹介してくれた「食品流通経済」の成ヶ澤社長の6人だけだった。美恵子の両親には荒川社長が最後まで電話を掛けてくれたが、結局姿を現さなかった。
半年後、新宿日赤病院で、美恵子は帝王切開の手術を受けた。へその緒が首に巻き付いていて、そのまま出産すると赤ちゃんが窒息死するということだった。手術日俺は取材が一本入っていて、どうしても出産に立ち会われなかった。取材を終えて病院に駆けつけると、荒川社長が俺の代わりに美恵子の手を握ってくれていた。「お父さん、男の子ですって、看護婦さんに君と間違えられちゃったよ」、笑いながら荒川社長は言った。美恵子は麻酔が切れると、朦朧とした意識の中でうなり声を挙げ続けた。よほど痛いのだろう。
その後、長女も生まれて、東中野のアパートで二人の子供が育って行った。長男が三歳になる頃、咳き込むようになった。今まで気づかなかったが、国道の環八が近くにあってトラックの排気ガスで100m先は霞んで見える。汚れた空気のせいかも知れない。俺は思い切って自然のある高尾に三間のアパートを見つけて引っ越すことにした。今までのような古びた部屋ではなく、新築で、日当たりも、風通しも抜群だった。樹木に囲まれた環境で、長男の咳は瞬く間に治った。これで美恵子も子供ものどかに暮らせるはずだ、俺は安心した。問題は俺のほうだった。通勤に会社まで二時間かかった。始めの二週間はウンコが細くなってびっくりしたぐらいだ。
それでも俺は仕事に頑張った。中小企業だけでなく大手企業の取材も行った。ニュータウン建設と民間ディベロッパー」と題して、建設省の川上宅地開発課長、西部鉄道・長谷川常務、三井不動産・横井常務、東急不動産・秋元専務、三菱地所・吉野取締役、住友不動産・佐藤常務に取材し、座談会形式に纏め上げ、問題提起した記事になり、広告も全社から取った。余談だが、この半年後、浅間山荘事件で赤軍派の吉野が逮捕されたが、その父親は俺が取材した三菱の吉野取締役だった。エリートコースを歩み次期社長と目されていたが、息子の責任をとってすぐさま辞任した。また、いすゞ自動車の特集も行った。記事・広告を含めると40頁にも亙るもので一人で行った。いすゞの岡本利雄副社長に会うとき、階段を登ると美人秘書が全員廊下に出てお辞儀をする。そこを24歳の若僧がカメラやテープレコーダーの入ったショルダーバックを下げて、赤い絨毯を踏みしめて歩く。だんだんと自分がエラくなったような気がした。この時すでにいすゞはGMと提携していたが、その立役者が岡本副社長で、荒牧社長は実質お飾りでしかなかった。「岡本さん、今後の日本経済の行方は?」と、だだっぴろい応接室で、財界人とサシで渡り合う、これは快感だった。提携を進めた伊藤忠商事の瀬島龍三副社長(のちの会長)やGMのジョンクイック副社長にも、苦労して取材ルートを探して会うことが出来た。ジョンクイックの場合は、通訳を向こうに立ててもらって日本で取材した。ジョンクイックから俺の質問に対して「グッドクエッスチョン」などと言われると嬉しかった。取材は相撲と同じだった。むこうがどんな偉い人でも、土俵に上がれば一対一、鋭い質問や共感を示す相槌を打ってさらに深い話を聞く。相手は質問されているようで、実は俺の存在がいかばかりのものなのか値踏みしながら話しに応えてくるものなのだ。その意味では、このジャーナリストは勉強している、情報も持っている、質問も鋭いといった存在感を示さなければ、相撲に負けて適当にあしらわれてしまうのである。まさに一時間半の取材は一対一の格闘技だった。その格闘技に勝てさえすれば、朝日新聞の経済部記者だろうが、二流の実業公論の記者だろうが関係なかった。俺の存在を相手に認めさせることによって、一流紙に勝てることが出来た。事実何度か一流紙の他紙よりも早く、スクープしたことがある。オイルショックの時、一バーレル40ドルという高値で日商岩井が落札したが、それはその国の機械受注を得るためのバーター取引だった。原油の値をスポット価格でつり上げる役割を果たす代わりに機械を受注していたわけだ。しかし、俺は日刊紙ではない。月刊の一ヶ月先ではスクープでもなんでもなくなるのである。俺はその情報を丸紅の原岡常務(のち副社長)に話した。彼はすぐさま調査した結果事実と判り「谷さん、すごいねー」と褒めてくれた。そうすることによって、丸紅から広告も取れるし、常務の信頼もさらに厚くなる。そういう手法で俺は仕事を広げていった。
「記者というのは眼が大事なんだ。我々は経済誌だから、これは経済の正常化に照らし合わせて、正しいのか間違っているのか、そういう視点をいつも持っていることだ」。そう言って、編集のイロハを教えてくれた小野編集長が、広告が取れなくて責任を取って退社し、宮川、福岡もいつの間にか辞めて、会社は新しい人たちだけになった。俺はよりどころのない孤独な闘いになった。

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2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」

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1973年、俺は25才になっていた。当時国鉄(現在のJR)は膨大な赤字を抱え、政府は運賃値上げ法案を通そうとしていた。赤字の元凶は借金の利子と貨物にあると言われていたが、俺はそれだけではないという情報を掴んだ。当時労働組合のドンといわれていた合化労連委員長の太田薫である。俺はさっそく太田薫に取材を試みた。彼は「その赤字は国鉄一家といわれる国鉄官僚と、その背後にいてこれを操る大蔵(今の財務省)官僚が、国鉄経営に関係がある企業と癒着して、膨大な利潤をつかみ、役得を得て、そこから出る損失を国民に転嫁しているに過ぎない」と資料を片手に言い放った。資料を見ると、鉄鋼・電機・土木・通運・サービス業などに、社長や重役で天下っているものだけで1200人、部長以上では2000人も天下っていた。そしてその取引の殆どは競争入札ではなく随意契約である。太田は新日鉄、車両会社など、民間関連企業に対する発注単価の利益率の公表をすべきだと言った。俺はさっそく、篠原春夫国鉄資材部長にインタビューを試みた。そして、新日鉄の大内俊司常務、川崎重工の横山勝義常務にも取材を試みた。「資材を徹底追究する」(太田)、「企業育成こそ国民の利益」(篠原)というタイトルに、レールを納めている新日鉄・大内の「実情は原価を割っている」、車両から川崎重工・横山の「業界の大手術はなにゆえか」という10頁の相対する活気ある記事を纏め上げた。好評だった。この記事で知り合いになった新日鉄の大内俊司(のちの山陽特殊製鋼会長)が月刊現代で、経済小説作家の清水一行に伏魔殿と叩かれた。大内は新日鉄会長永野重雄の大番頭で、永野は自らの子会社で私服を肥やし、それを大内が処理していたらしい。大内常務は俺に清水一行と会わせてもらえないだろうかと言ってきた。俺は清水一行に電話をかけ、大内常務が会いたいと言っている旨を伝えると、清水一行は「あなたも同じジャーナリストなら会えないことぐらい判るでしょ。大内さんに言っておいて下さい。こちらには検察の資料があると。ただヘンな動きをしなければこれ以上書かないと」。俺はそのまま大内に伝えた。大内は、受話器の向こうで何回も、ありがとう、ありがとうと繰り返し、のち、アパートにお礼のワイシャツ仕立券を送ってきた。そして後日、大内は「販売代理店の三社の社長に電話を掛けておいたから回りなさい、広告をくれるから」と言ってきた。俺は純粋なジャーナリストを目指している。経済の正常化に照らし合わせて、正常か否か、小野さんに教えてもらった記者の眼でモノを書きたいと思っている。しかし経済誌は広告で食っている以上、その限界が明らかにあった。企業人とも仲良くしていかなければ雑誌を刊行できない一面があった。いい記事を書けば書くほど、ペンが汚れていくようだった。「いやあ、あなたの記事は素晴らしかった。芥川賞の小説よりよかったよ」。日立製作所の下請、オリオン化成の山腋泰虎社長は、俺の日立の下請け対策の記事を読んで感動してそうも言ってくれた。只単に日立のちょうちん記事でなく、下請けから取材した外注政策の課題といったものまで、某協力企業幹部とニュースソースを伏せて書いたからだろう。また、住友不動産の安藤太郎社長とキャバレー王の福富太郎と対談させたこともあった。安藤太郎、通称アンタロウは住友銀行頭取の椅子を巡って堀田に破れ、副頭取から住友不動産社長に転出した男だ。福富太郎はキャバレーを何店舗も持つ南海開発社長として、テレビで人生相談なんかにもレギュラー出演していた。しかし、話が若干かみ合わなくて、俺はこのままで記事にするとマズイといささか捏造した。この対談記事のゲラを見て福富は「ぼく、こんなこと言ったかなあ、君記事書くのうまいねー」と言い、「ぼくは単行本を何冊も出しているんだけど、ぼくのゴーストライターやらないか、印税は全部君にあげるから」と誘われたこともあった。また、福富はスタジオで会った女優の大原麗子に惚れたらしく「君の雑誌で大原麗子と対談やらせてくれ。費用と段取りは全部こちらで持つから」と言うから対談させたこともあった。席上で福富は大原に向かって「いやあ、この記者がどうしても大原さんと対談してくれってうるさいもんだからね」、俺は下を向いて噴出してしまった。俺は広告も取らなければいけないという経済誌の範疇の中で、どうにかしていい雑誌にしようと多彩な企画で精一杯仕事をしていた。ある日、丸紅の原岡常務が自ら揮毫した色紙をくれた。「巧言冷色少なき仁」。まるで自分のことを言われているようだった。人間としてこういう人生を歩んでいていいのだろうか。何かが違う。心の奥底では、やっぱり銭金に関係のない文学という純粋な小説を書くしか自分自身を納得させることは出来ないと思っていた。しかしアパートに帰ると、妻と子供二人がいて、気分的に書ける状況ではなかった。文学に対する精神的な緊張感と平和な日常生活とは相反するものだった。やがて俺は28才になり、俺は思い切って、東大近くの本郷に二畳一間のアパートを借りた。美恵子に「小説を書きたいから、アパートを借りた。月曜から金曜まで、そこで夜小説を書いて通勤し、土曜日曜とここにいる」と告げた。突然の別居生活に美恵子は驚いたに違いない。しかし俺は自分の文学の事で「書かなければならぬ」と心が一杯だった。アパートと言っても間切りした二畳、窓もなく布団と小さな机を置けば足の踏み場もなかった。しかし静かに小説が書ければそれでよかった。ベニアで仕切った隣から時折老婆の咳が聞こえた。夜になると仕事から帰ってきて、俺は孤独の中でペンを走らせた。しかし半年しても納得のいく作品は書けなかった。自分の才能の乏しさに、ひしひしと絶望的になっていった。「すまなかったねえ、自分の我がままで淋しい思いをさせて。頑張ったけど書けなかった。本郷のアパートは引き払うよ」、俺は美恵子にそう言って詫びを入れた。美恵子は今まで我慢していたのか、その場に泣き崩れた。

(7)

東京丸の内のビジネス街。まだ陽も登らない薄暗い早朝に、背広姿の男たちがネズミのように慌しく徘徊している。その中のひとりが俺だ。各大手企業の守衛室に名詞を置いていく仕事だ。これをしないと午前中の予約が取れなくなる。俺は九時近くなって名詞を置いた大手町ビルの9階にある三菱地所の総務受付に行く。ここで再び若い受付の女性が点呼をしていく。その時にいなければハネられるのだ。そうして呼ばれた者は隣の待合室に通される。そこで午前中約40人が「おつきあい」を待つ。「おつきあい」というのは何だといえば、大企業の総務課あるいは庶務課で、「賛助金」あるいは「賛助広告費」なるものを出していたのである。待合室には、総会屋、暴力団、右翼、業界紙誌、経済誌、それに交通のみどりのおばさんの会報誌まで、様々の人種がやってくる。名前を呼ばれると別室に入る。すると担当者がいて、数百枚以上はあるカードから俺のカードを抜き出す。「はい、実業公論さんね、二万円の領収書、書いてッ」「あのう、値上げを・・」「ダメダメ、後ろが混んでるんだから、早く書いてよ」、そう言って担当者は胴まきから二万円を取り出す。こんな具合だ。待合室に戻ると、エナメルの靴ごと机に脚をのっけて、靴を拭いている男が「おいッ、早くしろよッ」と叫んでいる。ここで、こういうヤカラの話をしてみよう。
まず、昭和30年代には「ばんざい屋」というのがいた。軒並み大企業本社の玄関口で、○○商事ばんざーい、と大声でやるのである。企業にとっては有難迷惑な話である。そうすると総務担当者が出てきて、ちっとこちらへと別室に連れて行き、幾ばくかの金を渡す、その金を家業にしているのが「ばんざい屋」である。次に「廊下トンビ」。これは国会の議員会館の廊下をウロウロするヤカラだ。右の先生のところに行っては小銭を貰い、左の先生に行っては小銭を貰い生計を立てているヤカラだ。それに「エセ」。出身を名乗って、企業から金を取る。「右翼」。我々は資本主義を守ってるんだと、企業に義勇金を募る。これはもともと、60年安保の時に、時の岸首相が、反政府勢力に対抗するために、右翼の大物・児玉誉士夫に頼んで、全国の右翼を統一させ闘わせたので、企業は金を出すようになった。それから、「総会屋」。これにはピンキリがあって、企業の株主総会進行の幹事役を務める総会屋はその企業から「先生、よろしく」と多額の金を貰うが、キリのチンピラ総会屋は3000円ほどだ。三菱グループは右翼か総会屋かわからない「防共挺身隊」という軍服を着た男たちが出入りしていた。昭和50年ごろまで、15分でシャンシャンと株主総会を終わらすよう、既存の幹事役総会屋が牛耳っていたが、小川薫率いる広島グループが上京し、株主総会を大声を張り上げて荒らすようになった。そうすると嶋崎ら既存の総会屋が暴力団を使って対抗するようになり、小川薫も暴力団を使うようになった。やがて暴力団は総会屋は儲かると勉強して、一気に企業を回り金を取るようになった。そのうち軒を貸した総会屋が暴力団に母屋を取られるようになり、昭和60年代になってやむ無く当局も商法を改正し、賛助金をやる側も罰するようになり、総会屋の数も次第に減っていった。「業界紙誌」。これらは各業界にそれぞれあって、「業界の発展のために」という名目で、購読や広告を取っている。次に俺の業界の「経済誌」、これについては次で話すこととするが、いずれにしてもこういうヤカラが夜明けと共に企業を徘徊し、一回に3000円から10万円を手にするのだ。何故大手企業はこんな金を出すのかというと、大きな企業ともなると、いろいろ脛に傷があるもので、それらを穏便に隠すための保険みたいなものだ。担当者にとっては社内でも闇の仕事なので、担当者になると出世は閉ざされ、何十年と配置換えもされず、ひたすら猛者連中のお相手が仕事となる。総会屋とはこんなに儲かるものなのかと、逆に担当者が馬鹿馬鹿しくなって総会屋に転進したものもいるし、どうせ出世はできないからと、値段を上げてやるかわりにバックリベートを要求し、懐を潤す担当者もいた。

(8)

さて、経済雑誌業界というものはどういうものか。筆頭に立つのが、昭和31年総理大臣になった石橋湛山を輩出した週刊「東洋経済」。これは経済誌の中でも別格で、広告や金でペンを折らない唯一の経済誌といってもいい。それから週刊「ダイヤモンド」、「実業の日本」「フォーブス」「プレジデント」などが出版社としてある。しかし経済誌は売れないので東洋経済やダイヤモンドでも発行部数6万部前後だ。これらに次ぐ経済誌は「トリ屋」的なところが殆どだ。「トリ屋」というのは、企業に食い込み、広告を取るということだ。もともと昭和30年代、小学館の週刊ポストや講談社の週刊現代が発刊され、広告スポンサーを得るため、梶山秀之などトップ屋を使って企業のスキャンダルやスクープ記事を書かせた。そこに雑誌に企業が金を出す下地が出来て、この30年代に経済誌の創刊が相次いだ。三鬼陽之助の「財界」、それまで議員会館の廊下トンビで「フェイス」を発行していた佐藤正忠が改題した「経済界」、財界の編集長をしていた飯塚が3万人のための情報誌として独立した「選択」、同じく財界出身の針木の「経営塾」(のちBOSSに改題)、若林の「インテリジェンス」、インテリジェンスの副社長をしていた渡辺の「リベラルタイム」、鳥飼の「財界展望」、油井の「実業界」、久保の「ジャパンポスト」、大河原の「実業往来」、そこの編集長をしていた荒川の「実業公論」、そして実業公論の営業をしていた高橋の「財界にっぽん」などが市販されていた。市販と言っても書店に並んでいるという広告を取るための口実だけで、実売部数は殆ど1万部を切っていた。しかし、雑誌コードを得て市販しているのはまだいい方で、雑誌コードのない経済誌がそのほか多数あった。経済誌で成功するのは、声が大きいこと、厚顔無恥であること、金に執着すること、権力欲を持っていることなどが上げられる。ジャーナリストとは程遠い世界だった。そういう主幹、あるいは社長が、ペンを武器に、財界人に食い込み、広告やPR代と称して金をせびるのである。なかでも「経済界」の佐藤正忠はその典型だった。ステッキを編集者の机に打ち続け「銭の取れる記事を書け」と叱咤した。銭の取れる記事というのは、広告を取るための企業スキャンダルのことである。それらは企業を脅す材料にも使われる。「経済界」はそうやって年商80億円にもなり、某政治家の紹介状を差し出され佐藤正忠に肩入れしていた三井銀行の小山五郎頭取みずから「所詮トリ屋が80億もとっちゃあいかん」と嘆かせた。経済小説家の高杉良が週刊朝日で佐藤正忠の娘婿に聞いた同人をモデルとした「濁流」という小説を連載、単行本にもなった。新日鉄の永野重雄から土地を譲り受けたり、ミサワホームの三沢社長に脅しをかけたり、一字だけ変えてあり小説と謳っていながら、それらはすべて事実だった。佐藤正忠はこの小説に激怒し、朝日新聞社を名誉毀損で訴えた。そうすると、どう和解したのか定かでないが、それ以降朝日新聞に「経済界」の広告が載るようになった。また商社のイトマンの河村社長にも脅しをかけ、一億円をせしめた。また、鳥飼の「財界展望」と油井の「実業界」は、タタキ記事とちょうちん記事ばかりだった。広告をくれない企業をタタいて見せしめにし、広告を取る政策に徹底していた。企業は広告では目立つので、記事広告と称し、有料の記事広告、いわゆるちょうちん記事を載せるようになった。「ジャパンポスト」の久保は事件屋というタイプだった。久保は児玉誉士夫と一緒に大陸に渡った仲で、恐喝事件で四度も逮捕されている。特に東京ガスには食い込んだ。というのも、東京ガスの安西浩会長が副社長の時、社長の座を10年も禅定されず、児玉誉士夫を使って、前社長を追い出し、社長の座を射止めたのである。それを知っている久保は東京ガスと関連企業から多額の広告料をせしめていた。また、「財界にっぽん」の高橋社長に話しを聞いたことがあるが、企業の担当者の接待や、高価な壷を担当者にやって広告をとったり、そちらのほうが忙しいので、自分の雑誌など何が書かれているのか見たことがないと言っていた。経済誌では編集者の地位は低かった。それは領収書代わりの雑誌さえつくればよかったのである。それから最近「リベラルタイム」が公明党の矢野元委員長を連載で叩いているが、これも創価学会とのバーター記事である。創価学会の広報部長が、金を積んで書かせているのである。これらから見ると、実業公論は可愛いほうだった。もともと経済誌は営業に強くなければ成り立たない業界だが、荒川社長は編集出身だから「報道は社会の公器」と真面目だった。しかしその反面、広告はとれず、社内はいつも火の車だったのである。

(9)

昭和52年、いすゞ自動車は岡本利雄新社長に代わって以来、業績を上げ続けた。その時俺はあえて「いすゞは本当に立ち直ったか」と4頁モノの記事を書いた。いすゞを憂う社員の声を取材し、迫力を欠く攻めの経営、競争原理のない購買政策などを指摘した。あるいすゞの重役が「谷さん、すごいね。岡本社長があなたの記事を重役会議にかけて、ここに書かれていることはすべて事実だ、あなたたちはどう思うと、谷さんの記事をテーマに重役会議が開かれたよ」と話してくれた。俺はまんざらでもなかった。雑誌は新聞のように今日あったニュースを書くものではなく、問題を掘り下げ、提起することにある、それが雑誌ジャーナリストだと思っていた。しかし、前述したように、いくらやっても、現実的には総会屋やトリ屋と窓口は同じなのである。そういうところで同じように広告を頂く。その自己矛盾を抱えたまま仕事をすると、時折、心が破れそうになった。昭和56年、俺が33歳になった時、俺はあるスクープを掴んだ。それはちょっとした新聞記事から繋がっていった。フランスベッドの山田副社長が退任と、それだけの人事異動記事だったが、山田博康副社長には、実業公論に入社したての頃、一度会って取材をしたことがある。俺は山田の自宅に電話を入れ、長らくフランスベッドの池田実社長と一緒にやってきたのに、どうして辞めたのか、会って聞くことになった。山田はすでにライバルのベッドメーカーである日本ローランドに転出していた。山田は池田実社長の怨念もあってか、池田社長の実態についていろいろ暴露した。韓非子という君主に権力を集中する中国戦国時代の書を座右の銘とした池田実は、販売代理店をあくどい手口で乗っ取ったり、営業部長が自殺したり、今ではいささか忘れてしまったが、反社会的な経営をしていた。俺は、販売代理店の社長や営業部長の母親にもウラをとった。これはどんなことがあっても許せない、俺はペンを走らせた。すると、どこから聞き及んだのか、池田社長の秘書から、実業公論の荒川社長に電話が入った。「谷君、池田社長が会いたいと言ってるよ」。会えばペンが鈍るかもしれない、俺は躊躇していた。荒川社長には取材内容について何も報告していなかった。「どういうことか知らないが、とりあえず、会うだけ会ってみなさいよ」。池田社長はホテル・ニューオータニのだだっ広い貴賓室で待っていた。「あなたが谷さんですか、何を書いておられるか解りませんが、私の両肩には社員とその家族一万人の生活がかかっています。なんとか鉾先を収めてもらえませんか」。俺は茶を濁すような返答しかしなかった。そうすると隣の部屋から、右翼の大物が現れてきた。「財界ふくしま」の主幹をしている竹内陽一である。竹内は日本の右翼のドン・児玉誉士夫の子分で、ジャパンポストの久保と同じく、児玉と一緒に大陸に渡った間柄である。「福島から今朝の便で飛んできましたよ。あなたが谷さんですか、随分お若いですね。どうですか、一緒に勉強しましようよ」。竹内は微笑んでそう語ったが、眼は鋭く笑っていなかった。竹内は福島の政商小針グループにも食い込み、雑誌には小針傘下の企業がズラリ広告を出している。また竹内は事件屋とも言われ、何か企業に事件があると食い込んで億単位の金にするといわれていた。俺は竹内の凄みに些かたじろいだ。このまま拒絶すれば竹内の顔を潰すことになり、俺は回答を保留した。「せっかくお会いできたんですから、ちょっと付きあって下さい」、池田は俺と竹内を高級車に乗せ、新宿のクラブに連れて行った。美人揃いのホステスが男たちの間に座った。池田はブランディーを飲みながら、「どうです?いい店でしょう。ここは、うちの組合の委員長がやっているんですよ」。酒に弱いこともあったが、俺は、ほとんど無口だった。しばらくして「じゃあ、これで失礼します」と俺は席を立った。車を回すというが、アパートの場所を知られるのもまずいと思い、「電車で帰りますから」と言って出て行った。外に出るとさすがに緊張感で、大きくため息をひとつ付いた。何度か後ろを振り向いたが雑踏の中で誰かにつけられているのかどうかさえ判らなかった。

(10)

「まだお若いじゃあないですか。一緒に勉強しましようよ」、その言葉を発した竹内の眼は明らかに「夜道は怖いよ」を物語っていた。フランスベッドの池田社長と竹内には、雑誌に書く、書かないは保留のまま、数日が過ぎた。しかし会社を出て、中央線に乗る時は、一度電車に乗って、ドアーが閉まる直前にホームに降りるという行為を何度かやった。万が一、つけられて、アパートにいる美恵子や子供に危害でも及ぶと大変である。ところが四日ほど経った月曜日、出勤してみると、ひっくり返されて足の踏み場もない事務所の中で、荒川社長が「谷君、事務所荒らしだよ」と血相を変えていた。俺の机も引き出しも荒らされていた。「谷君、例の一件じゃないか。君の原稿を探しに来たんじゃあないか。谷君、何を書いてるか知らないが、もう止めようよ」。会社に金目の物は無いし、こんな事務所荒らしに遭ったのは初めてだった荒川主幹は完全にビビっていた。確かに荒らし方からみて単なる物取りの犯行ではなく、竹内の配下の者の威圧的な犯行のようでもあった。乗っ取りはする、自殺者は出るといった反社会的な池田社長の行為を雑誌上で断罪することは、金に何度も寝てきた俺のジャーナリストとしての最後のプライドでもあった。しかし、まるで安っぽい小説のような現実の推移に、荒川社長は狼狽し、俺も身の危険を感じなくはなかった。俺は荒川社長に催促され、池田社長に電話をして、再びオークラの貴賓室で会うことになった。「池田さん、ペンを折ることにしましたよ。但し、広告も金もいりません。しかし、ぼくもジャーナリストの端くれです。念書を一枚頂きたい」。池田社長は初めは躊躇したが、俺の意志が固いのが解って「書きますが、絶対外部には出さないでください」と言い、池田は「もう二度と反社会的な行為はしない」という直筆の覚書き書を書いて俺に手渡した。俺は結果的にはペンを折った。経済雑誌はもういいと思った。念書を一枚懐にして、入社して11年、33歳で取締役編集長だった俺は実業公論を辞めた。
「ねえ、明日からどうするの?」、突然会社を辞めて、家でゴロゴロしている俺に、妻の美恵子は心配そうに言葉をかけた。周りで小学校三年の息子と一年の娘が訳もわからずはしゃいでいる。俺は金もないくせに生活の不安というものは全く感じていなかった。むしろ男としてこれからどう生きる、生き様ばかりを考えていた。世間的、外見的にはジャーナリストで、スーツを着こんで、財界人と数時間もサシで渡り合って、それなりにカッコいい生き方だった。しかし心の中は、金を稼ぐだけのペンだったし、俺にとってスーツは生き様を汚した作業服にしか過ぎなかった。「土工作業員募集」、新聞折込の中に、建設現場の仕事が眼に止まった。肉体労働がいいかも知れない。単純な俺は、工事現場で働くようになった。「オイッ、もっと早く掘れよ」、言われるままに、スコップで土を掘り、上げる。何日か続けていると、怠けていた身体の節々が痛かった。しかし、それが過ぎると、飯がうまかった。実に、うまかった。これは俺の天職だとさえ思った。

(11)

労働というのはこういうものを言うんだ、石を積み上げたり、スコップで土を掘る、俺は、ドロンコになっても、スーツを着こんでいた時にはない全く新しい爽やかさを心に感じていた。昼飯には仲間と一緒に弁当を食べた。俺は土方人生を送ろう、そんなことを考えていたある日、工事現場で、建設機械のユンボーのバケットが、操作のミスで、丁度屈んでいた俺の頭上をかすめ、隣の作業員の頭を直撃した。同僚の作業員はその場に倒れ、アワを吹き、痙攣をおこした。周りの作業員がみんな取り囲んだ。「救急車だあ」と俺は叫んだ。そうすると大男の古株が「救急車はだめだ、この現場で二回目の事故だから、バレると営業停止になる」「なに言ってるんだい、会社より人命が大事だ、誰か救急車を呼んでくれッ」、俺がそう叫ぶと、大男は俺の胸倉を掴み「おいッ、新入り、舐めた口を叩くと、腕をへし折るぞお」っと言うなり、一発顔面にコブシを浴びせられた。周りの人間は見ているだけだった。俺は走って、公衆電話から救急の電話をかけた。やがて救急車が来て、俺は、タンカで運ばれる作業員と一緒に救急車に乗り込み、医療センターに行った。アパートで俺は美恵子に言った。「情けねえよ。言ってみれば土方なんて末端の集まりじゃねえか、お互い助け合っていけると思ってたのに、そういう社会の底辺でさえ、人間より会社のほうを優先するなんて、実に情けねえ」「あなたねえ、そういうところほどヒドイものよ」「夢見てたのかなー」。俺には腕力がない。事務所に行けばあの大男に腕をへし折られるかも知れない。その怖さと夢が壊れた落胆で、俺はまた土方をやめて、家でゴロゴロしだした。二週間ほどして、アパートに突然、ケガをした作業員が全快したらしく訪ねてきた。お互い名前も知らないのに、俺の住所を事務所で聞いてきたんだろうか。「その節は、ありがと。俺、これから東北の現場に行くんで」。立ち話で、お礼をボクトツに言って、その作業員は立ち去っていった。

(12)

「汚れちまった悲しみに」、人間というものは汚れながら生きていくものかもしれない。俺は土方の仕事を辞め、次は何をしようか、タウン誌を作ろうと企画書まで作ったがうまくいかなかった。それなら編集プロダクションとしてフリーになろうと思った。就職雑誌のリクルートの門をたたき、リクルートが発行する「住宅情報」の仕事を請け負いで手掛けた。新築の住宅を取材し、徒歩何分でスーパーがあるとか4頁モノの記事を書いて誌面の割り付けまでして一本3万円だった。こんなコピーライターしてるんなら、まだ経済誌のほうがマシだなあとも思えた。しかしもう経済誌の仕事はしたくなかった。そんな折、実業公論を辞めてマーケッティングの仕事を共同経営していたミヤガワ君からお声がかかった。クライアントはいすゞ自動車のマリンエンジン部のようで、暇だったら仕事を手伝ってくれとのことだった。いすゞが千葉県の漁港にあるマリンエンジンの販売店の動向、店主の要望や規模の情報を収集して販路の拡大につなげたいらしい。俺は了解して、知人にもらったポンコツの車を飛ばして二週間泊まり込みで指定された千葉県の漁港の各販売店のオーナーを取材した。言われたようにクライアントの名前は伏せて、「協会の関係で来ました。業界発展のためにお話しを聞きたい。伺ったことは統計処理しますので一切個人的なことは表に出ませんのでご安心ください」、ミヤガワに言われた通り、こう言って店主を安心させ、個人情報を得るのである。二週間で終える一仕事が30万円にもなったので、俺は京都にも飛び、やはり同じスタイルで今度はヤマハの依頼でバイクの販売店を回ったりした。しかし、これは体のいい「産業スパイ」である。世にいう「マーケッティング」「市場調査」という多くは産業スパイみたいなものである。こんなバイタの身売りのような仕事じゃ心が痛んで、実業公論を辞めた意味はねえ、俺はそれ以降ミヤガワの仕事を断った。しばらくまた家でゴロゴロしてると、「あなた、もうお金ないわよ、明日から生活どうするのよう」、預金通帳片手に美恵子が俺に詰め寄った。

(13)

「こいつはヤバイ」、緊急避難的に仕事をしなければ食っていけなくなった。しかし俺は生活苦というのには程遠い人間である。武士は食わねど高楊枝、ではないが、金というものにまるで執着がない代わりに、生活苦というものに怯えもなければリアリティーというものがまったくないのである。その意味で妻である美恵子はずいぶん苦労したに違いない。ところで、チンケな仕事しかないなら活字世界はもういい、俺は新聞で探して「家庭科学」という電器量販店に面接に行った。店舗が8店舗ほどあり、従業員は50名ほどいた。社長面接の終わり頃、「34歳ですか、ギリギリの年齢ですが、採用決定としましょう。ただし特異な経歴なのでどういう仕事をしてもらうか、とりあえず商品センターに行ってもらいますか」、と社長は自分自身に言い聞かせているのか、俺に言っているのかよく判らない言い方をした。こうして俺は量販店の商品センター、つまり倉庫係となった。メーカーから届く冷蔵庫やテレビなどメーカー別に山積みになったものを、各店舗の店員が軽トラックに積んで持っていくのを型番ごとにチェックするのが主な仕事だった。勿論その出し入れも手伝うし、各店舗から大量に持ち込まれる空のダンボール箱を平坦に積み上げていく作業から、便所掃除まで俺の担当だった。汚れた便器を洗っていても苦にはならなかった。何メートルもダンボールを積み上げ整理していく作業も、なんだか清々しかった。三か月ほど過ぎると「少しは型番覚えただろう」と、吉祥寺店のラジカセの売り子に回された。客が来ると接客するのだが、客はどの機種がいいのかわからない。当時ラジカセがブームで100種も展示されていて、俺だってわからない。数日してこれじゃあ売れないとすぐ気がついて、一つアリスの曲をデモテープにして、全部大きくかけてみた。するとシャープの機種が最大にかけても音が割れず、東芝の機種は少し大きくしただけで割れた。そこで客が来ると「いらっしゃいませ」と声を掛け、迷ってそうな客には「そうですねー、この機種だと、ほれ、こんなに大きくかけても音が割れませんが、こっちだと、ほらこのように割れてしまいます」、とデモテープで聞かせると「これください」と即決になった。どんどん売れる情報は即座に伝票の打ち込みから社長の耳に届き、吉祥寺の音響部門が大きく数字を伸ばしていると話題になった。シャープの営業マンもやってきて「あなたが谷さんですか、沢山売って頂いてありがとうございます」とわざわざ礼にきた。しかし同僚から妬みの声も届いてきた。ラジカセだって、クラッシックやポップスなどジャンル別にいろいろ特長があるんだ、音量だけで一律に売るというのはいかがなものかというのである。それもそうだと思うけれど、そんな難しいこと言ったら即決できなくなる。第一客から苦情はこないし、むしろあのラジカセ買ってよかったわ、と再来店の客に言われたこともあった。量販店では月に一回、全社員がホールに一同に集まり、赤いハチマキを占めて、「売るぞおー」っと決起大会も行った。そんな電気屋に半年ほど勤めたある休日、通勤も兼ねて使わせて貰っていた店の軽自動車で近くの相模湖に魚釣りに出かけた。たまたま同僚がそれを見かけたらしく、翌日、上司に私用で使ってもいいのかと喰ってかかっていた。俺はすぐ「責任をとります」と辞表を出した。「今後注意すればいいことだし、こんなことぐらいで辞めなくてもいいじゃないか」、と社長にそう言われたが、俺にとって会社勤めというのは性に合わず、どうも限界だった。足の引っ張り合いという人間関係にも馴染めなかった。その頃もちびちび小説らしきものを書いていたが、納得のいくものは相変わらずまったく書けなかった。

...

2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」
(14)

電気屋を辞め、また家でごろごろしだしたある日、広告代理店の知人から「広告を手がけている得意先のオカドという会社が傾きかけている。このままだと広告代が回収できなくなる。お前の力ならできる。立て直してくれ」という依頼があった。相模原でトラック100台を持ち引越しを手がける、岡戸総業という運送会社だった。俺も子供二人を抱え、失業中だったので、岡戸社長に会い、企画室長という肩書きで、仕事をするようになった。最も俺は雑誌生活が長くサラリーマン気質ではないことは前回の電気屋で経験しているので、勤めるというのではなく経営コンサルタントとして週5日常勤の請負仕事という形をとってもらった。中に入って調べてみると、常用といわれる物流の仕事より、引越しのほうが5倍も粗利が出ることがわかった。まず、方針としては引越し部門を伸ばし、収益を上げること。次に現状の引越し受注を見ると、チラシ配布、電話帳広告が主軸だった。受付でお客のアンケートを実施させ調べた結果、引越しの売り上げに占める広告料はそのどちらも25%を占めていた。広告料を減らして、売り上げを上げる方法はないか。今でこそスーパー、コンビニのサービスカウンターは多くのサービスを取り上げているが、今から25年前は、ほとんどサービスカウンターを設置しただけで、各流通業も模索状態だった。一方引越し顧客を調査すると、市から同じ市に引っ越すのが3割、隣の県なり市に引っ越すのが3割、他県に引っ越すのが3割という状況だった。そうするとほぼ6割は地域密着の流通業とサービスとして提携できる素地があった。俺は、プレゼンテーションの資料を作り、スーパー、コンビニ、ホームセンターなどの本社を回り、どんどん提携を進めていった。パンフレットを全店舗に置かしてもらい、各流通業の店のチラシにも「引越し承ります」と広告を入れてもらい、受ける電話はオカドに置いて、成約できれば10%の手数料を支払うというシステムだ。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、俺はそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など本社を回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、俺の構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、岡戸社長は、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。俺は、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。そんなこんなで、三年半引越センターの仕事をやっていたある日、岡戸社長の別れた奥さんと喧嘩になった。奥さんはまだ肩書きだけは常務として在籍しており、その弟が専務になっていた。詳しい事情は忘れたが、奥さんの時代と経営規模が随分変化しているのにも関わらず、たまたま社にやってきた常務が昔のやり方を持ち出したので「あなたには経営が判っていない。口出ししないで欲しい」とやり合った。「谷さん、もう少しガマンしてくれればよかったのに」と岡戸社長は言ったが、俺はまたまた身を引くことになった。俺はやはり組織や人間関係というものが苦手だったし、身を引く潮時でもあった。岡戸社長は向こう半年間、今までの功績を認めてくれて、毎月30万円退職金代わりに振り込んでくれるという。それなら半年間仕事をしなくても暮らしていける。俺はドラマのシナリオ塾に通うようになった。

(15)

俺はやっぱり「書く」という仕事しか定着できない性格かも知れない。しかし小説を書くには才能がない。とすれば、会話の綴りであるドラマシナリオなら行けるかもしれない。そう思って、読売文化センターのシナリオ塾に通った。先生はシナリオ作家協会の理事でもある須崎勝弥氏だった。映画「人間魚雷」「連合艦隊」などの戦争ものを始め、山口百恵と三浦友和の「潮騒」、テレビでは「青春とはなんだ」など数多く手掛けていたシナリオ作家である。彼はこういうことを言っていた。「ぼくがシナリオを書こうと思ったのは、ぼくは映画を観て感動することができる、これだけ感動できる心があるなら、必ず書くこともできるはずだと、そんな単純で悲壮な決意だったですよ」。なるほど、それなら俺もできるはずだ、俺はシナリオセンターに通い、シナリオの構築やいろんな作家の作法を勉強した。そして「土工漂流記」という一時間もののシナリオを初めて書いて須崎先生に読んでもらった。「うん、ヒットくらいは打てるかもしらんがホームランは無理だなあ」、と言われたが、とりあえずNHKの公募に出してみた。そして次に知人から双葉社のマンガ雑誌の担当者を紹介してもらって、マンガの原作シナリオを5.6本書いて見てもらった。担当の林さんは読み終えた後、「一度釣りバカ日誌のようなコンセプトで書いてもらえませんか」というので、サントリーの「なんでもやってみなはれ」という佐治社長と京都営業所から宣伝部に赴任した遊び人の主役を織りなしたマンガの原作シナリオを書いた。林さんはそれを読んで「谷さん、やりましたね」とエライ褒めようだった。よっしゃあ、これで食っていけると思ったら、後日、林さんから電話が入って「編集長に物語が前半後半二つに割れてると却下されました。すみません。お詫びに次号のクイズに応募してもらってハガキに赤い縁取りをしてもらえば、当選にして一万円送ります」。俺は連載を企画していたので宣伝部にひょんなことから配属される主人公の一回目を書いたのだが、才能の無さに落胆してしまった。年末になってNHKのドラマシナリオ公募の発表もあったが、これも落選、岡戸社長からの振り込みも期限切れになって、またカミさんから金の催促をされる始末になった。もはやディエンドである。

(16)

さて、どうするか、急きょ金を手に入れるには、ここはまたどっかに身売りするしかない。俺は年明けすぐに新聞の就職ランから二つを選び、二つの面接をどちらに行くか迷っていた。二つとは焼き鳥屋と経営誌である。前の出版社の実業公論編集長時代に一度ペンを折ったことがあったので、もう経済記事を書くのはイヤだった。で、焼き鳥屋に勤め、焼き鳥を焼いて、余った時間で小説を書こうか、あるいは、やっぱり経済誌のほうが経験はあるし収入は安定するだろうしと、焼き鳥屋と出版社とどちらにするか迷っていた。しかし、とりあえず四谷にある経営政策研究所という「経営コンサルタント」という経営誌を発行する出版社に面接に行った。塩月修一といういかつい社長の面接となった。面談後、「君は編集より、営業がいい。給料は25万円」と塩月社長から言われた。当時、俺はもう39歳になっていたし、長男が中学生、長女が小学高学年だったので、最低30万円ないとやっていけなかった。それで塩月社長に「営業でもいいです。しかし、三ヶ月雇ってみて、こいつは使えると思ったら30万円に上げて下さい。その代わり、使えないと思われたら、ちゃんと三ヶ月でハラを切って辞めますから」「面白いことをいう奴だな、よし、それで行こう」。面接はOKとなった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、その後10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。

(17)

そしてある日のことだった。冷房の利いた応接室で三時間、新宿の大手不動産会社の広報担当常務と話をして外に出て、しばらく部下と二人で歩いていた時だった。突然めまいがし、息苦しくなって、動けなくなり、道端で倒れてしまった。真夏の炎天下だというのに身体が異常に寒い。呼んでくれた救急車の中で、遠のく意識を必死で手繰り寄せながら、「ああ、俺は死ぬんだなあ」と実感するほど、異様な苦しさだった。慶応病院の救急処置室に運ばれ、結果は、過呼吸症候だった。つまり、何らかの不安によって、浅い呼吸が速くなり、血中の酸素濃度が急に高まって、手足のしびれやめまいを生じさせるというもので、「しばらく休んでいれば治ります」と医者から言われた。後から知ったことだが、これで水前寺清子は新幹線を止めたり、高木美保はトレンディドラマの出演をやめたという。しかし、医者から言われたほどそんなに簡単な病気ではなかった。その日以来、身体がだるくってどうしょうもないのである。俺は二週間アパート近くの病院に入院したが、一向によくならず、三ヶ月、会社を休職した。すると塩月社長が一宮の運転で見舞いに訪れ「少しづつでいいから、出社しろ」と言ってくれた。家では身体がだるくて、ほとんど寝ていたが、やがて、生活のこともあるので、頑張って出社するようになった。しかし、とても以前のように仕事ができない。道を歩いてもフラフラするし、なにしろ身体がだるい。熱があるのかと体温計で計ると、やはり微熱がある。にっちもさっちも行かない状況である。とにかく、生活がある。辞めるわけにはいかない。俺は月給泥棒を決め込んだ。朝、とりあえず出社すると、中央線に乗り込んで、二時間近くをかけてアパートに帰り、寝て、また夕方出社して、デタラメな営業日報を社長に提出した。勿論それだけではクビになるので、月のうち10日くらいはフラフラしながら都心の会社を訪問し、ある程度の営業成績は上げておいた。その数字でも他の人にヒケはとらない営業成績だった。しかし、途中で何度も過呼吸の発作に襲われ、その度に、袋を口に当てたり、公園のベンチで横になった。本当に自分でどうなっちまったんだろうと、判らなかった。仕事中に、大学病院や総合病院を何箇所も訪れ、内科から神経科から検査を60種類もしてもらったが異常は見られなかった。石堂さんというノンフックションライターに駒込病院の精神科を紹介され、教授に診てもらうと「これは、あんた、治らないよ」とまで言われてしまった。

(18)

結局病名もわからないまま、二年間、処置方法のわからないまま、そのような状態が続いていた。今から思えば、病名をつけると過換気症候群や不安神経症でもあったろうし、パニック障害、うつ病、慢性疲労症候群でもあったろう。いずれにしても、ストレスでアタマがパンクし、脳内のセロトニンという神経への伝達ホルモンが激減したようだ。しかし、当時は病院に行っても、そんなことも判らず、フラフラと歩き、公園のベンチで寝る日々が続いていた。ある日、会社の近くに「万病に利く」という看板が目につき、その唐木心療内科クリニックで診て貰った。すると「あなたは自律神経失調症」と初めて病名が付いてほっとした。副医院長というその医者は「七度三分くらいの微熱が続くのも、そのせいで、八度くらい上がる人もいるぐらいです」という。「とにかくこの薬を続けてください」。一日三回、その調合された薬を飲むと、微熱はなくなり、元気か少し回復し、今まで十分の一だった体力が五割くらいまで回復したようだった。ところがこの薬は保険が効かず、その後200万円以上、薬代を払うことになった。しかし元気には代えられず、数年が過ぎた。ある日、また薬を貰おうとクリニックを訪れると、突然、医者が代わっていた。「このクリニックは閉鎖になりました。ぼくはその整理をしています」。副医院長という医者は実は医者の免許を持っていなかったことが発覚したらしい。医院長は高齢で、その息子さんがやっている原宿心療内科にあなたの処置は引き継いでもらうとその医者は言った。そして、あなたが飲んでいた調合の薬は、漢方で味付けしたものに、向精神薬のホリゾンと精神安定剤のドグマチールを混ぜたもので、いずれも健康保険が利く薬ですと言われた。俺は騙されて高額な薬代を支払っていたわけだが、元気を少しでも取り戻してくれた恩人でもあり、複雑な気持ちになった。そして、以来、ホリゾンとドグマチールを今でも飲み続けている。そんなに長く精神薬を飲み続けて、副作用がないわけもなかろうが、半分でも元気が取り戻せているのでそれでいいと思っている。

(19)

話を戻して、その薬で、ようやく半分の力まで出せるようになったので、また、少しづつ仕事が出来るようになった。入社して五年もした頃、一宮がとうとう塩月に耐えられなくなって、会社を辞め、新たな出版社を立ち興した。俺はほっとした。一宮にも苛められ、塩月にも日夜怒鳴られていたが、まだ塩月のほうが、男としての社会に対する闘いの情熱というものには純なものがあり、怒鳴り散らして社員の使い方はまったくヘタだったが、男として尊敬できる一面もあった。それから数年して俺は取締役になった。ハデな新聞広告を出し、表面的には一流経営誌の様相を呈し、経営も順調だった。経済誌というのはペンを武器に広告を取る、いわゆるブラックジャーナリズムと言われるのが普通だが、三井信託銀行の広報部長などは「谷さんところはホワイトと評価しています」と言われたぐらいだ。ところが塩月社長は次第に持病の糖尿病が悪化し、入院が長引くようになった。俺が49歳、足掛け十一年勤めたある日、塩月はこの世を去った。塩月の奥さんは、これを契機に会社を解散すると言った。ぼくは20数人の生活もあるし、この会社は閉じなくとも立派にやっていけると奥さんを説得し、奥さんを社長、俺が副社長、塩月の三女を専務に据える新体制を取った。俺は、番頭で十分だった。俺は塩月の三女を将来の社長に据えるため、以前から彼女に当初編集をやらせ、そののち営業をやらせ、出版社経営のイロハを教えてきた。しかし、まだ二十代で軽薄な一面もあって、会社の代表印を渡すわけにもいかず、奥さんに社長になってもらって重しになってもらう、そのうち彼女が成長したら、社長にさせるつもりだった。ところが、彼女がある著名な評論家とホテルで取材後一夜を共にしてしまい、あげくの果て、子宮外妊娠し、手術で卵巣まで摘出してしまった。その頃から情緒不安定になっていたことを俺だけが知っていた。塩月の葬儀が終わって、あいさつ回りに出かけていたある日、奥さんがいる前で「あなたはハラ黒い」と俺に突然食って掛かってきた。自分が社長になれなかったこともあり、急に俺への罵倒が始まり、誰からかへんな入れ知恵をされたのかとも思ったが、俺もハラが立って、「そこまで言うのなら、ぼくはこの会社を辞めます」と席を立った。その後、電話で俺は奥さんに「彼女は精神的に病んでいるので、休ませて上げてください。元気になったらまた戻ればいいのですから」と言った。しかし奥さんは「自分の娘を精神病扱いにした」とぼくの辞表を受理した。なんとも無念な話しだった。ぼくは失業保険で、一年近く、もんもんとした気持ちでパチンコを打ち続けた。一年後、奥さんにふっと電話をいれると、奥さんは「あなたには大変申し訳ないことをした。あなたの言うことは本当だった。あれからやっぱり娘は異常な行動を取って、お得意先に怪文書をバラまいて、大変なことになって、もうこれ以上続けるのは恥ずかしいので会社を解散し、今、残務処理をしているところです」。ぼくはまた無念な気持ちになった。

(20)
失業保険で暮らしているさなか、なんとか自分の今までの文学性の総結集とも言える「存在の彷徨」という哲学小説が完成していた。俺にとっては文学への関わりあいの遺作とも言える作品だった。埴谷雄高の「死霊」とサルトルの「嘔吐」に影響を受けた、「存在する意識」をテーマにしたものだった。俺は五木寛之審査委員長のノンフィックションの「親鸞賞」に応募した。小説だが意識というテーマではノンフィックションだったからだ。しかしあまりにも実験的な文体だったので、公募には一次予選も通過せず、落選した。しかし、世間では愚作であっても、自分には文学に対する遺書のようなものだった。それなりに満足し、俺はこれで永久に文学から足を洗おうと思った。丁度この時期に親友二人と叔父が相次いでこの世を去った。親友二人はともに高校時代からの友人だった。そして二人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。俺もその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝翫香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、俺が立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、俺のいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖ナカシをやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、京都伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、俺は僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。人生は一度っきり。そういう思いが強く心の中で渦巻いていた。

(21-最終章)

人生は一度っきり。なら、「存在の彷徨」や今までの掌編小説を含む俺の作品をなんとか活字にしたいと思った。そして俺はそれらを活字にするため、「いのちにふれる」という新雑誌を立ち上げた。社名を30代にフリーになった時につけたキングコング社とした。社印も残っていたからだ。アパートの三畳一間を仕事場にし、創刊号は、俺の原稿だけでは印刷するだけ大赤字になるので、広告がもらえそうな大企業の経営者に軒並み取材のアポを取った。その一人に住友不動産の安藤太郎相談役がいた。安藤氏は住友銀行副頭取から頭取候補に敗れ、住友不動産の社長に転出、それまで住友グループの一財産管理会社だった同社を、高層ビルの建設を柱に、あれよあれよという間に三井不動産、三菱地所と肩を並べるほど急成長させた同社の中興の祖である。俺は彼に約二時間のインタビューを試み、創刊号に四ページモノの記事を載せたら、広報部長が「谷さん、非常によく纏まっていて、当社の社内報に転載させてもらってもいいですか」と言ってきた。勿論かまいませんよと応えたが、後日オフレコとしてどうしても聞きたいことがあったので、安藤相談役と再び会った時、問うてみた。野村秋介の一件である。土地が急騰したバブル時代、同社は住友商事と共同で東京近郊の町田を大規模に地上げしたことがある。そのやり方に「悪徳不動産・住友」と叩かれ、極左のような新右翼の野村秋介が同社に乗り込んで安藤太郎に詫び状を書けとせまったものだった。野村秋介とは後日、朝日新聞社本社で抗議の割腹自殺をしてご記憶の方もいるかもしれない。俺は安藤相談役に問うてみた。「で、どうされましたか。野村秋介は右翼といっても極左のような人物、金では決着つかんかったでしょう」。「いや、オフレコですが、こっちが6000万円、住友商事も6000万円、金をある人を介して渡しました」「野村秋介が金を受け取る、ちょっと信じられませんね」「確かに受け取りましたよ。後日、本人から礼状がきましたから」。記者というのは信用してくれるとこんな秘話でも話してくれる。「まあ、いろんなことがありましたが、みんな墓場まで持っていきますよ」、安藤相談役は自嘲気味に笑いながら、そう語っていた。また日経連副会長でメルシャンの鈴木忠雄社長は、ガンを告知され、それを克服した話をしてくれ、やはり創刊号に四ページモノで掲載したが、広告をもらったことはいうまでもない。そうこうして印刷代はペイし、創刊号は書店にも並べてもらった。これで自分の遺書は活字になった。これで文字通り、文学とはおさらばである。長い間引きずってきた「文学」とおさらばと思うと、その裏で苦労してきた妻の美恵子に今まで苦労をかけ申し訳ない気持ちで一杯になった。これからは金儲けに徹し、カミさんをラクにしてやろう。俺にとって、それが次の目標となった。金儲けというのを目標にしたのは49歳にして初めてだった。俺はせっかく創刊した雑誌だし、これを見本誌として、これからは金儲けのために継続して雑誌を作ることにした。「いのちにふれる」という自分の作品集の雑誌タイトル名はそのままにして、「明日の子供たちのために、いのちを大切にする視点から、人と企業の社会活動を考えるオピニオンリーダー誌」と、企業モノにコンセプトだけは大きく変更した。そして、自律神経の持病を抱え、ヨロヨロしながらも大企業経営者や雑誌の格を上げるために多くの著名人にも会った。経営は軌道に入り、いつしか、三畳一間から事務所を構えるようになり、自営業から資本金1000万円の株式会社にもした。そして中古だが一軒家を購入し、30年にわたるアパート暮らしからおさらばすることもできた。「これで大家に嫌味言われて家賃払わなくてすむわ。あたし、門扉のある家に住みたかったの」と、美恵子は嬉々として喜んだ。しかし体力はもう限界にきていた。足かけ七年を経たのち、ささやかながら蓄えも少しできたので、俺は、意を決して、会社を清算した。58歳で現役引退である。今から思うと、塩月によって、俺は病気になり、そして今もその病気を抱えているが、塩月に学んだからこそ、独立も出来たと思っている。塩月はいつも言っていた。「人生は闘いじゃあ、闘って、闘って、闘いまくれ。そして己に勝って、味方に勝って、敵に勝つんじゃあ」と。また実業公論の荒川社長や小野編集長にもいろいろ勉強させてもらった。出会ったいろんな人たちにも人生の勉強をさせてもらった。ロッキード事件で田中角栄を逮捕した堀田力は検事から福祉の世界に転身し、「思いを強く持ち、自分のいのちを捜すこと」と人生を説く彼は、未だにさわやか福祉財団の理事長として全国の福祉のNPOを応援している。陸軍士官学校出身の中條高徳はアサヒビールの営業担当の副社長としてキリンを抜きアサヒをトップの座まで導いた男だが、名誉顧問になった晩年に至るまで気迫に満ちた鋭い眼光は変わらなかった。その眼差しに学ぶものがあった。介護や居酒屋「ワタミ」の渡邊美樹会長は、「仕事とは人間性を磨くためにある」と言っていた。また俳優から参議院議員に転じた木枯し紋次郎こと中村敦夫は「谷さん、人生は所詮死ぬまでの暇つぶしですよ」と言っていた。世間でダーティーと言われた人たちにもよく会った。サラ金大手の武富士の創業者武井保雄会長は深谷出身でいつも産地のネギを送ってくれていたが、「人生は常に波動をキャッチし、そして無欲を欠くな」と言っていた彼は、京都のお寺の地上げがらみで暴力団とのイザコザがあり、それを嗅ぎ付けた記者宅に盗聴器を仕掛けるなど、晩年恐怖を感じ、異常な行動を示していた。読売新聞務台社長の懐刀といわれ、中部読売新聞社社長から地産グループを率いた竹井友康、彼はその後戦後最高といわれる53億円の脱税で三年半のムショ暮らし、波瀾万丈の人生に、晩年彼は名前を心泉と改め「今は、自分を拝みたいような自分になりたい」と言っていた。何千人とインタビューや対談をしてきたが、中小企業のおやじにしろ著名人にしろ、世に何かをなした人というのは、なにかしら学ぶところがあった。また、いろいろ恨みもし、感謝もし、人生とは複雑なものだが、とにもかくにも俺なりのジャーナリズム人生はこうして終わった。機械工として油まみれになって俺たちを育ててくれたおやじを見て、「資本家に搾取され安い賃金で働かされているだけじゃねえか。俺はおやじみたいに絶対なるもんか」、そう思ってヘンテコリンな人生を送ってしまった俺を見て、おやじはきっと墓場で笑っているに違いない。どもりだった俺が、以来、文学とブラックジャーナリズムの狭間のなかで、それなりに社会に対してサシで勝負してきた人生に、ある意味納得はしている。が、今も病気の後遺症で何をやっても神経が二時間しか持たず、空疎な心にパチンコ台と「闘い」格闘し続けているしかないとはなさけないが、女とは勝手なもので、何不自由ない生活が手に入ると、パチンコ通いの俺に「あなたは夢のない情けない男」と罵倒された時があり、激怒した俺は区役所で離婚届をもらい、女房に突き出したこともあった。確かに「闘い」を忘れた男は情けないに違いない。それは自分が一番よく知っているところだった。しかし「闘う」ことを忘れた俺は、もう、人生の終末に近づいているのだろう。  (完)

技術革新の現代に考えられないコロナの対応!

2020-04-15 | 政治
安倍首相は「コロナは第三次世界大戦だ」と明言した。ところが、戦争にマスク2枚を配布で「アベノマスク」と有頂天になっている。技術革新の現代に信じられない政府のコロナ対応だ。たかがマスク2枚では毎日一枚洗えばひとつしか使えないではないか。また医療現場では防護服がなく、雨ガッパを民間から公募している。それにまたコロナ検査も依頼してもなかなか応じてくれない。百人もの高熱者が検査のために列をなしている所もあるという。こんな対策の初歩的なところで足踏みをしている。医療現場は崩壊ぎりぎりの状態である。一体政府は何をしているのか。コロナ対策を真剣に考えるならば、まず蔓延しないように、初動の段階でストップをかけなければ蔓延してしまうだろう。
「戦争」というならば、市中にマスクがなければ、国として縫製企業に強行的に作らせばいいし、医療機関の防護服にしても同様だ。またPCR検査体制も微弱と言わざるを得ない。コロナ検査を望むものすべてに検査を行える体制を国として、強硬手段をとってでしても行わなければならない。
それに医療現場が崩壊の危機にあるというならば、戦時中は学徒動員したと同じように看護学校の生徒を特待生として各病院に派遣させればいいし、医学部の学生もインターンとして各病院に派遣させればいい。みずから「コロナ第三次世界大戦」といいながら、やっていることは幼稚極まりない。他国の例をみても、日本はまだまだこれからもっと蔓延するだろう。こんなことぐらいで足踏みしていたら、それこそワクチン開発はさらに遠い先のことになる。大変な時代がやってくる。首相みずから「コロナ第三次世界大戦」というならば、国家権力を使ってでも「戦争」に打ち勝つ実行をしなければならない。

哲学小説「存在の彷徨」

2020-04-10 | 哲学小説「存在の彷徨」
存在の彷徨
                 (四百字詰め換算 一一八枚)

‘                              谷口正雄










  1


 通勤電車、朝のラッシュ、なんと陳腐で明晰なことか。四ッ谷駅で俺は降りる。亡霊たちの洪水に溺れながら、ひたすら歩く。そして、小さなエレベーターに、なんとか、たどり着く。俺ひとりの空間、6、永遠に時空を昇れ。 しかし6を選択したのはこの俺だ。俺は6階を選択する臆病者だ。おはよう、おはよう、和の群れ。うすっぺらなうわべだけの和の群れ。赤ら顔の社長の檄。「いいかッ、毎日ボーズじゃ話にならんッ、取るんだアッ、熱意じゃアッ、わかったかッ」。藤原、弾けるようにエレベーターに駆け込む。「狭間もわかったな」。「はいッ」と俺。まるでゲームだぜ、生きていながらリアリティがねえのは一体なんなんだ。 
 逃げるようにビルを出る。俺は何から逃げているのか。獰猛な社長の怒りからか、何かに縛られた社会からか、情ない自分からか、まあいい、俺は歩く、今日の仕事は仕事だ。これで飯を食っている以上はこれが俺の人生であり生活だッ、か。虚勢の向日葵の群れ。俺は花屋で立ち止まる。カサブランカも黄色のガーベラもこいつらは一体なんなんだ。みんな均等に綺麗すぎるおまえらは本当のいのちか。根なし土なしの上半身だけの虚勢の群れ。生命はインスタントになった。 
 中央線に乗る。行くは丸ノ内。午前中で広告一頁はどこかで決めなくちゃならない。そう、それが俺の仕事で俺のノルマで俺のすべてで俺の人生だ。    やわい肌が触れる電車の中。おんなだ、後ろから押し付けられて俺は眼を閉じる。乳房があたる、柔らかな腹部が俺の尻に密着する、おお、その下はワギナだ。俺はおんなと溶ける、一方的に浸透していく。俺は少し生命を取り戻す。垣間、瞬間こそ永遠、か。

財閥系企業の歴史あるビル。その総務応接の一室に俺はいる。ドアのノックの音で試合は開始。担当者が入ってくる。  

俺  (笑顔をつくり、深々と礼をする) 「どうも、ご無沙汰しております。    時期がまいりましたんで広告のお願いにあがりました」
担当者(反り返るようにソファに腰を下ろす) 「時期って、別にいつもおたくの雑誌に広告を出すって決まっていませんよ」
俺  (作り笑いをさらに倍加する)「いや、いや、ま、そんなこと、おっしゃらずに。去年もこの時期でてるわけですから、ま、お願いしますよ」
担当者「だいたいおたくの雑誌に広告出しても、なんのメリットもないんですから、発行部数だって何千部でしょ、実質」
俺  「そんなことないですよ、五万部ちゃんと出ていますよ、ま、そんなことより、付き合いですから、頼みますよ」
担当者「付き合いって、なんですか」
俺  (溜め息をひとつつき、コビ型から次の手に、言葉をゆっくりと重々しく発する)「今日は随分シビアですね。ま、いいですけどね。ところで、お宅の副社長にこの間お会いしましたよ、偶然クラブでね。時期社長でしょ、あの人。総務所轄で、あなたの上でもある」
担当者「…………」
俺  「部下の女性とお盛んですねって言ったらびっくりしてましたよ。ま、英雄色を好みますわね、それはそれでいいでしょ、しかし、部下に手を出しちゃいけない。あの秘書課の娘、やめたんですってね」
担当者「狭間さん、知っておられたんですか」
俺  「いやいや、ああいう人が社長になってはいけない。社会正義に反します。あなたもそう思うから私に辛く当たるんでしょ。まかしておいてください。あなたの意をくんで次号で書かせてもらいますよ。いや、お忙しいところ失礼しました」(そう言って俺は席を立つ)
担当者(実に慌てて)「は、狭間さん、ま、待ってくださいよ。ま、座ってください」(俺を押し止めようとする)
俺  (よし、勝った。生意気な分、二頁は貰おう)

 生命に善も悪もない。在るものは「在る」。それだけだ。そして「在る」がごとく生き抜くこと。それが人生のすべてだ。

 アパートの闇の中、俺は畳の上で寝そべっている。一日の疲れを時計の音が刻んでいる、静寂に。俺は部屋の明りを付けて、コンビニ弁当をかき食らう。
 ある時コミュニストの姉が言った。「直人、あなたは財界におべっかを使うムシケラよ」。俺は言ってやった。「あんただって企業から給料貰って食っているじゃねえか。その大企業がどうだ、原料千円のものを五千円で売ってるじゃねえか。付加価値? 笑わせるんじゃねえよ。そりゃあ合法的詐欺ってもんだ。あんただって詐欺の片棒担いでおまんま食ってるんじゃねえか」 姉とは一〇年逢っていない。
 目の前の水槽、今日も稚魚が一匹死んでいる。それを唯一生き残っている一センチにも満たない最後の稚魚が食べている。
 水槽の金魚が初めて産卵し、親どもがそのすべてを食い尽くした。二回目の産卵の時、俺は別の水槽に約二百もの卵を移し替えた。そのうち約半数が無精卵で腐乱し、五日後百匹ちかくが新しい生命として動き始めた。その稚魚たちは無精卵を食べて大きくなり、死んだ仲間を食べて大きくなり、やがて先に大きくなったものが生きている仲間を食って大きくなった。勿論俺は生まれてきたすべてを大きくしょうと餌もやり水も替えた。 しかし残ったのは僅かこの一匹だ。それでさえ尾っぽが歪んでいる。いのちは、とにかく、与えられた環境の中で生き抜くこと。そこには善も悪もない。
 存在を纏めようったって無駄なことだ。
存在は、ただ、在る。それに人間は意味をつけようとする。それが間違いのもとだ。
存在はただ在る。ただ、在るがままをうけいれること。形も性質も本質も、在るがままうけいれる。
蜘蛛が一匹、「無限」と書いたボードの上を通り過ぎる。「エロス」の紙の上でジャンプする。蜘蛛はボードの境で暫く止まったが、裏側に消える。見えない裏側に蜘蛛は「在る」。しかし、一匹ではなく実はボードの裏側には何千匹の蜘蛛がびっしりとへばりついている。 それが否定できるか? 時間前後の常識で「推察」するほかはない。何千匹もいて一匹しか表に出ないわけがないと。しかし偶然見た一匹すらも偶然見なかったならば、蜘蛛はボードの裏にはいないことになる。人間の認識は解っているようで何も解っちゃいない。存在は解らないことも含めて 在るがまま受け入れるしかない。
 不思議は不思議のまま受け入れなさい。白か黒か明白である必要はないのです。
 しかし明白でありたいのです。私は何のためにここにいて、何のために生きているのか、明白でありたいのです。そうでなければこころが不安で力強く生きてる感じがしませんもの。
 いつになく風が強い。ベランダの洗濯モノのふかれる音、波板が発砲スチロールに擦れる音、空の遠くまで響き渡る音、その揺らぎは力強く生きている。生は「動き」なり、エネルギーなり、ひたすらエネルギーの発露なり。 エネルギーに善も悪もない。ひたすら「動き」なり。風に目標はあるか、風に生きがいはあるか。風はひたすら「動く」のみ。吹きつけるのみ。生きるとは動くこと、己が本質の有り体に「動く」のみ。まずは生きている。それだけでいい。次に、今、やりたいと思ったことが最良の道。
 風は単独で存在しない。環境の中で生まれる。その環境も環境(他存在)の中で生まれる。人間(俺)もまた環境(他存在)の中から生まれたもの。他存在が俺を生み、俺は与えられたエネルギーとしてあるがままに「動け」ばいい。「俺はあるがままに動けばいい」。風もまた吹き続ける。そして停止し、また、生まれる。エネルギーは輪廻転生。今(現在)の俺はこれでいい。 次の俺も次のそれでいい。E=mc2乗。

 俺はバックに女房の下着とパジャマを入れて、アパートを出る。

 電話をしておいた狭間です。仕事で遅くなるものですみません。一か所だけ照明の付いた病院の受付は、黒い空洞の中に浮かび、その女は、三途の川で待つ番人のようだ。
 俺は給料袋から約半分の札を番人に渡して今月の支払いを済ます。エレベーターで昇るといつもの病室、ノックなどする必要はない。俺はゆっくりとノブをまわす。そしていつもの啓子がそこにいる。身動きひとつせず、いつもの啓子がそこにいる。椅子に座って俺はおまえをみつめる。愛すべきものがそこに在る。啓子の目頭は濡れている、ひとすじと、ふたすじと、水滴は耳を伝って枕に落ちている。医者は言うだろう、筋肉の弛緩によっておこるもので泣いておられるわけではありません、奥様には意識がないのですから……。
 俺は啓子の涙を舌の先で拭う。何度も、何度も、拭ってみる。そして俺の濡れた目頭を啓子の唇に押しつける。と、温かな唇から啓子が俺の中に入ってくる。俺は嬉しくなって、啓子の掌をとって、高みに昇る。暗天、あるいはクリムソンレーキー色の空間を泳ぐ。泳いでいるうちに俺は空間に拡散され、やがて空間が俺になる。ところが、その中で啓子はただ物体として浮遊している。頑強に空間との融和を拒絶しながら、物体として浮遊し続けている。俺は風になって啓子に抱擁を試みる。しかし啓子は動かずそれを拒否する。俺は月夜の薄闇のなかを超スピードで疾風し、啓子の存在を忘れようと荒れ狂い、地上にある一本の電信柱を意識が捉えたところで止まる。鈍い銀色の鉱物に俺は絡み付き、なめるように抱擁し、一体化を図ろうとする。しかし、セメントの突起物もやはり毅然と進入あるいは融和を拒否する。融和を図ろうとする俺に、あらゆるものは拒絶する。  もう、それでいい。それらは他存在であり、俺ではない。明確な境界線を引かれたほうが「俺」が解るというものだ。いや、解ったわけではない。俺は少なくとも電信柱ではない、啓子ではない、そういうことが解っただけだ。俺は渦巻いて塊となって地面に潜る。砂、及び土の隙間に浸透して、 下に下にと走っていく。
 神はいるか、いるはずもない。また、暗黒のモヤが包む。

 啓子は植物人間でありながら、拒絶を意志し、
 俺は「自己欺瞞」を確認して、ひとりのまま、生きるしかない。

存在、存在する。花を咲かす。毒か薬か、毒でも薬でも、個性が存在、輝きが存在。存在に善も悪もない。あるのは輝きの強と弱。新しさ。特出。  固体変異。広がり。次のもの。その次。止まらない。止められない。落ち着く時、それは死か。動き、新しさ、広がりを求めて、動きづめに動く時、生命は輝く。そこには善悪はない。存在の輝きは倫理道徳を越える。刺激は反応の動きを求める。
存在に善も悪もない。在るのは、存在の輝きが強いか弱いかだけ。光は念いの強さ、新しさと広がりへの。それが存在の意味。世界の意味。それが表層世界の、明るい世界の意味。そして、その裏には、沈黙、闇、無、空の世界が一体として、在る。
存在の輝きと死。

 おまえらッ、何故取れんのだッ。ここは失業者の集まりかッ、俺は慈善事業しとるんじゃないぞッ。いいかッ、今週が勝負だッ。血を吐いてでも取って来い。おまえら狭間を見習え、狭間くんはしっかり取って来てるじゃないかッ。
 朝礼で皆の冷ややかな視線が俺に集まる。俺には誇るなにものもない、  誰も読まない誰も喜ばない、自分が食らうがためだけの経済誌に広告の成績を上げることはむしろ加害者だ。一度足を洗ったはずの俺は食らうがために、再び戻って、ここに、いる。
 木村ッ、おまえは仕事しているのかッ。住菱はどうしたッ、狭間に行かしたら、ちゃんと取ってきたじゃないかッ。大先輩が何をしとるんじゃッ。木村さんの眼鏡の奥が虚ろになる。突然木村さんは発する。しゃ、社長、私だって一生懸命やってますよ、狭間さんみたいに脅したりしないだけですよ。住菱の担当者が泣いていましたよッ、脅されたって。再び社長の檄が飛ぶ。馬鹿もんッ、狭間くんが脅すわけがない。それは木村ッ、負け犬の遠声だ、醜いぞッ。たとえ脅したっていいんだッ、それぐらいの元気を出せッ。
 俺は 無表情で社長の訓示を聞いている真似を続けるほかはない。砂漠に幾万ともつかぬ野牛の群れ。身を守る凶器もないそれらは、自然大地の塵埃にまみれ、小さなオアシスで水を飲むために場所を奪い合う。それでも彼等は群れを離れない。生きるために理不尽な習性に身を任せ、群れは必ず群れとして行動する。
馬鹿な形而下に、意識は自由か。自由であるはずもない。

こうして、また一日が始まり、終わる。

 目の前には、啓子が買った造花のハナが見え、二年前に死んだ洋一の、学校の工作でつくった鬼のお面が埃を被ってぶら下がり、正面の鏡に俺らしきものが写っている。俺は、そこ、ここ、にあるモノとどう違うのか。
 肩の痛み、こわばりだけの意識、それがモノと違う俺か。その上で、時計らしきものが、秒速で動く。それだけが、今、の変化か。溜め息をついて瞼を塞ぐ。電車の音。空間。風の音。耳鳴り。そして時計の音。全く、別々の響き、波動。 因果的な関連のない個の存在。存在間のコミュニケートに期待するのは弱さであり、奢りである。存在群は不連続でばらばらなもの。
個は独りである。カップヌードルを食らい、焼きいもをほおばる。宇宙法則に於ける生物の目的は、環境の変化に対応し、生き抜くことのみ。カラスが鳴いている。電車の音。茫々とした空間。深い溜め息をついて、ここに 俺はいる。

みんなバラバラだなんて、馬鹿なこと言っちゃいけないよ。人類はみな兄弟です。人類だけじゃなく、あらゆる動物も植物も……

鏡に向かって、俺は言う。

いいですか、人間なんてエラそうなこと言っちゃいけないよ。言ってみれば人間なんてバクテリアの化身なんですよ。いいですか、あなたも私も、人間、約六〇兆の細胞から成り立っております。その一つの細胞を見たら 核と数千匹のミトコンドリアがいる。
いいですか、核もミトコンドリアも三五億年も前に地球上で生まれたバクテリアなんですよ。最も生命のタネは宇宙から降ってきた雑菌という説もありますがね。ま、そいつらが環境の変化に単体では対応できなくて生き延びるために複合体となって共存したんですよ。核は司令塔の役目を果たしミトコンドリアはエネルギーの生産を司る。植物だってそうですよ。植物はミトコンドリアの代わりに葉緑体、こいつもバクテリアです。こいつと核が共存して、植物という複合体で環境の変化に生き抜いてきた。「環境の変化に対応し生き抜くこと」。生物の目的はそれだけですよ あとに何もありゃあしません。バクテリアどもは生き延びるために「固体変異」という宇宙の法則に則って多様化を図った。宇宙には同じものがふたつとしてない、あれですよ。種類が多ければ多いほど、急激な環境の変化が地球上であったとしても生き延びる可能性がでてくるわけだ。そんなこんなで三五億年経った今、地球上の生物は三千万種を数えるに至ったわけですよ。しかしみんな同じバクテリアの化身ですよ、兄弟ですよ。たまたまそれが狸だったり人間だったりするわけですよ。それだけの違いで人間なんて なあんも エラくともなんともないですよ。

鏡の俺は、ニイッと笑う。

いいですか、コンピューターの時代だとか言って、たかだか五〇年ですよ。  ちょんまげ切ったところから入れても一五〇年でしかないんですよ。今を席巻している自由主義経済の観念だって、たかだか二〇〇年ですよ。立派でも絶対でも何でもないですよ。自由と言ったって競争とセットで、もう、人間の心も地球もぼろぼろじゃあないですか。もう新しい観念をつくらにゃいけませんよ、傲慢じゃなく謙虚にね。世の中、コンピューターできたって、こりゃあ、進歩でも発展でもなんでもないですよ。何故って、仮に進歩や発展ということがあるとすれば、それは幸福に感じるひとが前よりも増えたということでしょう。しかし紀元前の時代の人類と較べてみて、幸福に感じる人間の比率が今のほうが増えたとはどうしても思えない。つまり世の中に進歩や発展なんてもともとないんですよ。あるとすればそれは「環境の変化」でしかない。だからその変化に生き抜く新たな観念の創出が必要な時期に来ているということでしょう。人類が生まれて三〇〇万年の歴史のうち、たかだか二〇〇年がエラそうにしちゃあいけませんよ、 もっと謙虚であらなくちゃあねェ。そして生命が生まれて三五億年ですよ。 宇宙の塵やガスから地球が生まれて四六億年、ビッグバンから宇宙が生まれて一五〇億年ですよ。人間は宇宙にひれ伏さなくっちゃいけません。 なめたらあかんぜよ、ですよ。

鏡の俺は、ニイッ、ニイッ、と笑う。

いいですか、我々は太陽系に位置していますよ。ところが我々の属している銀河系には、そんな太陽が一〇〇〇億個もあるんですよ。その銀河系も宇宙にはこれまた一〇〇〇億個もある。ええっと 仮に地球みたいなものが太陽一個にひとつとしたら、一〇〇〇億個×一〇〇〇億個、つまり……一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇個の地球があることになりますわね。
いいですか、月まで光の速さで一・三秒ですよ。太陽まで八分ですよ。冥王星まで五時間三〇分ですよ。ところが我々の銀河系のお隣りのアンドロメダ銀河まで二二〇万光年、最近発見された最も遠い銀河まで一四二億光年ですよ。光の速さで行ってですよ。
 月に上陸したとか、木星に探査機が行った程度で、宇宙を制覇したような気持ちになって、笑わしちゃあいけませんぜ。人間の傲慢さにはヘドが出ちまいまさあ。

鏡の俺は、ニイッ、ニイッ、ニイッ、と笑う。

いいですか、この地球だって一〇億年たちゃあ無くなっちゃいますよ。火星に住むようになっても太陽は五〇億年で死んで爆発を起こしちゃいますよ。人間が死んで墓つくったって永遠には残らんのですよ。世の中で、いいことしたって、わるいことしたって、何も残らんのですよ。歴史に刻む偉大な一頁? 冗談じゃないですよ、歴史だって残りゃあしない。エジプトのピラミッドだって、ヒットラーだって、赤軍派だって、東日本大震災だって、AKB48だって 安倍晋三だって、狭間直人だって、谷口正雄だって、なんにも残りゃあしませんよ。飯だって、鏡だって、月だって、女房だって、クーラーだって、文字だって、兄弟だって、コップだって、鉛筆だって、造花だって、 指だって、夜だって、水だって、バイクだって、残らない。 垂れ目だって、光だって、草だって、土だって、茶碗洗いだって、親だって、電話だって、頭痛だって、写真だって、停電だって、服だって、 ………

世の中に、「絶対」、はない。

鏡の俺は、とっくに、消えている。

 東阪ガスの社長の弱みを握っている俺に、そこの社長は頭が上がらない。  それを利用して、そこの資材部長から取引先に紹介の電話を入れさせる。  事務用品を納入している垣崎社長を前にして、俺は東阪ガスとの親しい関係を捲し立てる。  
 ま、そういうことで広告のほう、ひとつ頼みますよ、俺は言う。渋面する垣崎は不況で経費削減しているのでと言いながらも、秘書を呼び、持ってこさせた現金の入った封筒を俺に差し出す。こんな中小企業ですから広告の掲載は結構ですよ、ま、コンサルタント料とでもしておいてください。 領収書も結構ですから、狭間さん個人で受け取られても結構ですよ、垣崎は言う。いやいや会社にバレてこの金が退職金代わりになるとツマランですからね、あとで雑誌購読料名目の領収書を送りますよ。
 俺は会社を後にして、地下鉄の六本木駅に向かってゆっくりと歩く。背広を脱ぐ。一件落着だ。これであの企業は半年に一回定番になる。定番? これが俺の人生の定番か。実になさけない定番。よろよろ上り坂を歩いて「定番」を考える。「おいしいとこだけ、一番搾り」の看板。「カラオケXで楽しもう」の旗。横の国道を自動車が何台も猛スピードで過ぎていく。  砂埃が歩道にまで舞い上がる。白髪で長身の男がひとり歩道で左手でパンフレットを通行人に差し出したまま右手で顔を隠すように本を読んでいる。 「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」 その小誌を俺は無言で受け取る。彼も無言で渡す。
 歩く。ただ歩く。ただ歩くと、妙な音が次第に大きく響いてくる。ドンドン、ドドント、ドンドンドン。リズムカルで実に力強い音。大きく国道の高架の下に響き渡っている。こいつだ。もう少し行くと手ぬぐいを頭に巻いた精悍な顔付きの老人が金属の大きなゴミ箱を力一杯叩いている。ドンドン ドドント、ドンドンドン。出稼ぎの老人が故郷の村祭りの太鼓でも思い出しているのか、しかし老人に衒いはない。躍動しろ、躍動しろ、人間よ、躍動しろ、とゴミ箱は響く。神はここにも降りてきているではないか、俺はそう思う。
十億年後、すべては無くなる。それを待たなくったって、あと四〇年もすれば平均寿命で死んじまう。どう生きるか、何をもって生きるか、何も解らない。
俺は「絶対」を求めている。「神」を求めている。

 新規を三軒回って門前払いを食わされた後、神田駅前の立ち食い蕎麦屋に入る。ざるそばにてんぷらのっけてェ。あいよ。てんぷらはタレつけないでそのままね。てんぷらはタレつけないでそのままと、あいよ、おまちどう。
俺はかき喰らう、旨いとかまずいとか感性のない味をかき喰らう。少なくともかき揚げはこうしてバリッと折って食べる瞬間にそばつゆにつけるのがいい。食っている最中に金を払ったかどうか判らなくなる、五〇〇円玉を握ってたところまでは覚えていたのだが……。ご主人、お金払いましたよね。「あいよ、三〇円お釣渡しましたよ、私の手はお金貰わないと動かないようになっているんでねェ」大柄な男が言う。ご主人面白いこと言うねェ、以前何やってたの? 「いろいろ、なんでもね、そば食っててんぷら食ったらビール欲しくなるでしょ」 仕事中ですから、ご主人酒強いんでしょ。  「いや、嗜む程度です。ま、あとは競輪かな。でも何万とやらないよ。三〇〇円とか五〇〇円買って、おーあいつ勝ったなって楽しむんですよ。光輪閣知ってるでしょ」 ええ名前だけは。「あそこで上からど~んと墜っこちるの見ましたよ。警察が来てそいつのポケット調べたら二〇円しかない。 イチかバチかやけくそになって勝負に出る奴多いんですよ。同じ場所で二度見ましたよ。あれって人呼ぶんだね。この中央線だってよく飛び込むよね。たいへんな人、一杯いるよ。そば食って笑ってられるの、いいほうよ」

ごちそうさん、ご主人そば旨かったよ。俺は外に出る。

 三越の屋上からエレベーターに乗る。傍らの広告に原島実画伯個展とある。俺は七階で降りて会場に向かう。展示場は特売場に面した一角にあり主婦達が流れて観に来ている。どの油絵も二0号位の風景画で高校の美術部で一緒だった頃の原島のねばっこい半具象のタッチではなく、まるで別人のように夕日に染まったエーゲ海やミコノス島を詩情的なタッチで描いている。その絵の殆どに売却済の赤紙が貼られている。会場を一回りして出ようとした時、一五年ぶりの原島に出会う。
 俺達は店内の喫茶店に入る。
俺 「大したもんだな、殆ど完売じゃねえか」
原島「そりゃあ、皮肉か? 俺はな、あの頃と違って、所詮絵は白壁に掲げる窓だと解ったんだよ。例えば美人を描くとするだろう、誰も買いやせん  旦那が美人画を買って家に持って帰ったら奥さんに何言われるかわからんからだ。窓だよ、窓。窓に一番適しているのは外国の風景だよ。売るにはこいつが一番だ。それにしてもお前、雑誌屋だって? もったいねえな、俺より遥かに旨かったのに。今でも覚えてるよ。お前が突然『絵は平面だ』とか言って美術部を辞めた日の事を。あれから全然描いてないのかい」
俺 「若気の至りだな、本当は絵は平面じゃないんだろうけど、身体でもっと感じたかったんだろうな、社会や存在を」
原島「そういやお前『絵は存在の探求だ』って執拗に言ってたな」
俺 「今でもそう思ってるけどね。しかしたまに公募展なんか見に行くけど、俺の感受性が薄れたのか描き手がいいかげんになったのか判らんけど、昔のようにひとつの絵に何時間も張り付けになるような絵には全く出くわさなくなった。先が見えないというか、次が見えていない。しかも独我的な視野で閉鎖的で、こんなもんで絵だと作者自身が自分に妥協している幼稚なものばかりだ。逆説的に言うと、存在を捉えられない「今」をよく表現していると言えるけれどね」
原島「相変わらずこ難しい事言ってるな。俺はそんなもん止めたよ。売れてナンボだよ絵は」
俺 「しかし芸術家は時代の斥候隊であって欲しいよ、なるほど次の世界はこんなだというドキっとするようなものが欲しいね。芸術は唯一、人間の中に託された神からの啓示だよ。それを売るのを目的にやった時点で、形而下に埋没してしまう。芸術家は存在を探求し、形而下から形而上へ昇華していって、少しでも神に近付いて、その世界を見せて欲しい」
原島「描かねえ奴がよく言うよ。てめえは、どうなんだ、立体的な社会体験やらを積んで、言語で次の世界とやらを提示しているのかよ」
俺 「いや、なにも。ま、絶望的になっている」
原島「当たり前だよ、そんなもん誰にも解りゃあしねえよ。いいか、てめえが理屈で描いた妖怪と喧嘩したって勝てるわけはねえんだよ」             

「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」 三越の屋上のベンチで昼の休憩をとる。カンコーヒーを飲みながら、先程のパンフを捲ってみる。
 ……この二〇世紀だけでも何百万人というユダヤ人の大量虐殺があり、現在でも、毎年幾千万人の人が飢えや病気で死ぬ一方、少数のひとが膨大な富を所有しております。人間は地球を汚染し、略奪しています。これらはサタンがアダムとエバに神の自由意志を誤用させ、二人が欠陥のある罪人になって子孫に罪を伝え、罪を通して病気も死も伝わっていった結果です……
「馬鹿な 神に背いたから死という原罪というならば、昆虫も植物もみんな神に背いたというわけか、アホなこと言うなッ」
……エデンで反逆が起きた時、神は、この地球を人々の楽園の住家にするひとつの政府をつくるという目的を明らかにされました。後にイエスは神の主要な代弁者として、病人や手足や目や耳の不自由な人、口のきけない人をいやされました。さらに死者をよみがえらせることさえ行われていたのです……
「インチキ野郎がッ。神の考えたものではないことは、この文章読めば判るではないか、なぜ神たるものが人間本位にモノを考えるのか。その他の動植物のことを神は考えないとでも言うのかッ。イエスは当時確かに薬も使わず病人を治しもしたんだろう、釈迦だってそうだ。それは外気功でも先天的に出せる能力があったんだろうよ。それを後世の人間がびっくりして神だと信じてつくった教義がひとり歩きした、それだけの話しよ。宗教なんてものはすべて人間がつくったインチキだッ」
……神は何千年も悪の存在を許してこられました。そして神の支配から独立した人間は、苦しみを取り除くのではなく、かえって増してきたのです。しかし、聖書予言が示すところによると、キリストの治める神の国は一九一四年に設立され、今やサタンの体制全体を打ち砕く態勢を整えています。そしてやがて大患難であるハルマゲドンとの戦いがやってきます。その時、神を信じるものだけが助かり、戦いの後、神の王国の指導のもとで、利他的な仕事に自分の精力をささげます。地球は人類のための美しく平和で満足のゆく住まいへと変わります。そして、病気も老いも死もない大きな幸福がもたらされることでしょう……
「なんと教義を作った人間に都合のいいように書いた文章であることか、 いいかげんにせい、本当に「神」が怒るぞ。それに病気も老いも死もない大きな幸福って何だ。今以上に人口爆発が起こって、食い物は一体どうするんだ」

……あなたは神の存在を疑いますか? 神がおられるかどうかを確かめる一つの方法は造られたものには必ず造り手がいるという確証された原則を適用することです……
 
造り手は、存在するのか。確かに宇宙の始まりであるビックバン以降は解ったとしても、爆発前の凝縮された一センチ立方の物体はなぜそこに「在った」のか。またブラックホールが実在世界の死で虚の世界の入り口であり、ホワイトホールが虚の出口で実世界の誕生はそこからだとしても、 なぜ、輪廻転生するそのものが「存在」するのか。やはり造り手は存在するのか。そして「宇」である空間も「宙」である時間もなぜ「存在」するのか。  やはり造り手は存在するのか。ならば、何のために造り手は存在するのか。
 仮に神が存在するとして、神と俺との関係を考えた場合、たとえば俺は俺の体内の一匹のミトコンドリアだとして、俺全体が神だとすると、俺は俺全体が解るか。どんなに動き回っても一細胞からは永遠に出られず六〇兆からなる俺の全体を捉えることは不可能だ。俺は一細胞の中で時折送られてくる電気信号によってその時々の行動を決定する。その電気信号は細胞核が発信しているのだろうか。エネルギーをつくれ、ちょっと子孫が多すぎる、子づくりを控えろ。一匹のミトコンドリアの俺は核から送られてくる電気信号と隣のミトコンドリアの行動を意識しながら自分の行動を決定する。一匹のミトコンドリアの俺は核に尋ねる。あなたの信号はあなたが考えて発信しているのかと。核は答える。私もまた付近から送られてくる電気信号と隣の核の発信を参考にして君達に信号を送っていると。俺は尋ねる。隣はどうなっているんだ、その隣はどうなんだ、われわれの全体は何なんだ。核がいう。解らない、解らない、何がなんだか解らない。ただ全体というものが仮にあったとして、それが仮に解ったとしてどうなるっていうんだ。君はそれが解ったからといっても、やっぱり私から送られてくる信号と近くの仲間たちの行動を参考にしながら動くしか手がないし、それが君に与えられた最良の人生なんだよ。
 設定 神はいたとする。いまはまだ解らないがそのうち人類は神の存在を認知する時がくるとする。そうした場合、俺の人生はそれから変わるか。俺が自分の一細胞の中の一ミトコンドリアだとして、しかも全体像のたとえば手の指先の一細胞の一ミトコンドリアだと自分の使命を知った場合、まずなにより命令に忠実にならざるを得ないではないか。まったく遊びの許されない人生。それはそれで悩まなくて済む。そして考える必要もないから意識の退化も進むだろう。それはそれで幸福だろうが、やはり、俺には不明確なほうがいい。神の存在と自分の使命が不明確だからこそ自由でいいかげんな暮らしができる、考えもする。
 しかし そのことに疲れているではないか。まったくわけがわからなくなっているではないか。
 俺の意識は漂う。止まりたいが、信念したいが、観念したいが、漂う。
暗空の閉ざされた虚。
そして、
俺はワイシャツに零したコーヒーのシミを、
どうして取ろうか、考えている。


哲学小説「存在の彷徨」

2020-04-10 | 哲学小説「存在の彷徨」


 

 2

 俺は布団を敷き、湿った掛け布団を首にあたりにまでもってくると、やがて薄い眠りに入る。ところが突然、意識が空中に飛ぶような感覚に襲われる。全身の気怠さは自分の身体でありながら、まったく自分ではない異質なものに感じられる。俺は俺でなくなってしまいそうになる。やがて俺の意識を包んでいた乳白色のヴェールが消えていくと、俺は完全に空中に浮かんだままだ。手も脚も肉体的な意識は殆ど薄れ、力を入れようとしてもまったく俺のものではなくなっている。俺を日常に止めている些細な事柄、その俺との繋がりが、暗闇の中で、ぷつんと切れてしまっている。    俺は怯える。今までに入り込んだことのない無の意識に、死の世界に、途方もない恐怖を感じる。俺は今このまま眠れば完全に死ぬ。俺は怯える。  俺は今何かに繋ぎ止めなければ完全に死ぬ。
 俺は怯えの中で必死で繋ぎ止める何かを捜す。何でもいい。俺は何かを捜す。ところが浮いたままの俺の意識は次第に狭まり、小さくなっていく。  俺は焦る。闇のなかで、最期の声を絞り、ケ イ コーッ と絶叫する。
 どうしたの? すまん、なんでもいい、そこにある本を読んでくれ。新聞しかないわ。なんでもいい頼む。
  ……都心の本社から離れたオフィスを設けるサテライトオフィスブームに最近陰りが見えている。情緒を重んじる日本的人事管理に慣れ親しんだ層にとって上司と部下が顔を合わせない勤務スタイルには、戸惑いや反対が多い。とはいえ情報通信機器の発達は………
 俺の意識は、少しづつ、日常に、繋がっていく。俺は眼を開ける。俺は助かったと思う。
 妻は、勿論、いない。次第に、そのことにも、気付いていく。

次の日。
オーストラリアに於ける御社の不良投資で経営は大丈夫か? 海外に勤務している知人から現地情報を得た俺は、カメラマンを引き連れて、いかにも記事にするぞ、と、中堅の不動産会社の社長に二時間のインタビューを試みる。蒼褪めた社長は広報担当の常務をよび、六頁の広告出稿を約束する。その時突然、強烈な眩暈に襲われ、それでも相手に悟られまいぞ、 倒れまいぞ、と、応接室の肘掛けを両手で握り締める。周りが薄い透明に色褪せ、すべての存在が稀薄になる。再びいい知れぬ不安  ……じゃあ、 今日はこれで、常務、後日電話します。なんとかそう言う。俺は気力を出して立ち上がる。俺を彼等がどういう表情で見ているのかさえ判らない。  常務らしき者が案内する出口に向かって、俺は歩く。これは一体なんなのか、俺に何が起こったのか。意識が途切れ、途切れに、消えていく。俺はようやく道路に出たように思う。狭間さん、スゴイですね、やりましたね。 歩きながら田熊がそう言ったように思う。  ……俺は道路に蹲る。強烈な陽射しにも拘らず、寒い。手足が冷たくなり痺れている。なにが、起こったのだ。もう、動けない。狭間さん大丈夫ですか……  意識が消えていく……

 やけに空が綺麗だ。俺は田熊の呼んでくれた救急車のベッドに横たわり、 窓から見える青い空を実に美しいと思う。そして、俺は死ぬんだなあ、と 思う。過去もない、未来もない、現在、ただ在るだけの、やすらかな感覚。  狭間さん、大丈夫ですか?  田熊の言葉が耳に入る。路上で倒れた時の恐怖と形容のしょうのない悪い気分は今はない。逆に今まで感じたことのない澄んだ意識と空の美しさが同居し、同次元で結ばれている。これが死の玄関口の感覚だと、味わう。救急処置室に運ばれるタンカーの上でも その意識は変わらない。異常に覚醒された感覚の中で、物の存在と死が同化し、同次元で結ばれている。血圧ッ 脈拍ッ 心電図ッ 医師たちが俺の周りを慌ただしく動いている。俺の身体は硬直している。また、いいようのない気分の悪さに襲われていく……
 ……意識が揺れている……  おぼろげに見える医者のひとりが、心電図のデーターを携えながら、俺に言う。大丈夫です、一時間も寝ていればよくなるでしょう。俺は思う。馬鹿な、こんな異常な感覚は死への味わいだ。医者は言う。過換気症侯です。カカンキショウコウ?  緊張のあまり 異常に呼吸をし過ぎて体内に酸素の量が多くなりすぎたんです。朝礼なんかで女子学生が倒れるでしょ、あれです、大丈夫です。
 やわな女子学生がおこす発作と同じとは、かなしい話だ。それでも立てない俺は屈辱を感じる。二時間ほど病院で休んで、這うように乗った電車の座席で、俺は肩を落とし、先程の異常さはないにしても、間歇的に襲ってくる悪寒に耐え、消え入りそうな意識を必死で手繰り寄せる。

 何日も何日も微熱が続く。しかし会社を休むことも辞めることもできない。殆ど蓄えのない俺はそんなことをすれば啓子の病院代が払えなくなるし食えなくなるのは目に見えている。俺は毎日なんとか出社し、営業日報にでたらめを書いて、大学病院の検査を受ける。脳神経科、内科、いろんな科を盥回しにされ三〇種類以上に亘る検査を受けても原因らしいものは判らない。しかし依然として眩暈がひどく歩道すらまっすぐ歩いているつもりでも気がつくと車道にでてしまう。広告営業で担当者と二〇分も話していると何かが弾くように突然気分が悪くなる。
そして言いようもない脱力感、疲労感が続く。しかし相変わらず照り返すビルの間を徘徊する他はない。倒れそうになると公園のベンチを見つけて、俺は、横になる。
 いったい俺はどうなっちまったんだろう。
昼間から石のベンチの上で横になり瞼を閉じる。鳥の声、木立ちの風に揺れる音……
 旦那、仕事あるよ。その声で目が覚めるとチャリンコに乗った男が俺の隣のベンチに寝ている浮浪者に声を掛けている。
「日当一万円どうだい?」「日払い?」「週払い、この景気に日払いはねえよ」「日払いでなきゃあやんねえよ」男はまた眠る。チャリンコの男は俺にもチラっと視線を向けるが、別のベンチに去っていく。世間の状況はなにも変わらない。変わったのはこの俺だ。
 狭間ッ、この頃成績が上がらんじゃないか、怠けておるのか。「いえッ、頑張っております」 気合いを入れろッ、気合いが足らんのだッ、減俸するぞッ。 「はいッ、頑張りますッ」 相変わらずの社長の脅しを聞いて、俺は外に出る。あの野郎は社員を奴隷にしか考えていない。そんな暴君に俺は食らうがために傅いている。情け無い俺がすべての原因か。

エゴグラム  以下の質問にお答えください。理想を持ってその実現に努力しますか? 他人に対して思いやりの気持ちが強い方ですか? 自分の損得を考えて行動する方ですか? 何事も事実に基づいて判断しますか? 情緒的というよりむしろ理論的な方ですか? 先のことを冷静に予測して行動しますか? 人から気に入られたいと思いますか? 他人の顔色や言うことが気になりますか? 他人の期待にそうよう過剰な努力をしますか? 劣等感が強い方ですか? 現在「自分らしい自分」「本当の自分」から離れているように思えますか………
 慢性病でお困りの方、当クリニックへ。そんな看板が目に止まり、俺はビルの一室にある小さな「唐木神経内科」で診てもらうようになる。唐木院長はいつも不在で、髭を蓄えた山根という副医院長が診察に当たる。彼は俺の病気を自律神経失調症といい不安神経症にもなっているという。
山根「狭間さんの場合は、いわゆるストレスで自律神経を司る間脳がパンクしたわけです。前にも言ったように心と身体はひとつのものです。ですから身体の病気を治すには、あなたの心を治さなければなりません」
俺 「私の心が病んでいると……」
山根「そうです。あなたの書いてくださった資料やエゴグラムから性格分析しますと、こう言ってはなんだが、あなたは精神の根底から病んでいます」
俺 「精神の根底から? 凄いことをおっしゃる。私の精神のどこが病んでいるというのですか」
山根「まあ、まあ、落ち着いてください。それを二人でこれから一緒になって考えて行こうというのです。この作業は相互の信頼がなければ成り立ちません。あなたは本当に病気を治したいのなら、まず、私を信頼してください。それがダメなら他の病院に行ってください」
俺 「大学病院を何か所回っても、微熱さえとれませんでした。それが、ここの薬を飲んだら、実によく効きました。当然、信頼はしていますよ」
山根「そうでしょう、じゃあ、これから一緒に考えていきましょう」
俺 「その前に先生、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
山根「どうぞ」
俺 「この薬は一体何ですか?」
山根「……今のところ、成分はちょっと言えません。漢方主体とだけ言っておきます」
俺 「言えないって、薬事法かなんかで患者は貰った薬のことを聞く権利があるんじゃないですか」
山根「あなたは治したいのか、そうでないのか、どちらなんですか。治したいのなら私を信頼なさい」
俺 「………」
 いつも企業を脅している俺が医者に脅される始末だ。微熱が取れただけでも有り難いことだが 俺は保険の利かない高額な粉薬を飲み続ける。そして啓子の病院代にも手をつけ始めている。

再び、ある日。

山根「お具合の方はどうですか」
俺 「だいぶ仕事のほうもこなせるようになったんですが、日によってまだ突然いいようのない悪い気分に襲われる時があります」
山根「ところで、奥さんは入院中で、お子さんを亡くしておられる……」
俺 「………」
山根「前にも言いましたように、あなたの病気はストレスです。みんな生きている以上は何らかのストレスの中で暮らしているわけですが、あなたの場合ストレスが大きすぎるのか、自我が弱いのか、問題はストレスに耐えられるかどうかです。薬は所詮対症療法で、こころを治さなけりゃあ、いつまでも薬から抜け出すことは出来ません。できれば、何でも喋ってください」
俺 「……二年前、女房は相模湖のダム下の吊り橋から、子供と一緒に落ちました。洋一は死んで、女房は意識が戻らないままです……」
山根「ほほう、それはお気の毒でした。失礼ですが、事故か何かで……」
俺 「雨降りの翌日で、板も滑りやすく、腐ったロープが切れていたので、警察では事故だと……しかし、自殺かも判らない……」
山根「どういうことですか?」
俺 「……あなたッ、女房や子供と言ったって、本当の気持ちの中まで立ち入れないですよッ。判らんですよ、事故か自殺か」
山根「………」
俺 「前日にちょっと女房と言い合いをしました。……なんにも解らんですよ」
山根「………」
俺 「……私、昔は天下国家考えていたんですよ。なんか世直ししたかったんですよ。それには言論だと思って、たまたま入ったのが経済誌でした。売れませんでねェ、経済誌ってのは。結局、企業の提灯記事書いて広告貰うか、企業の恥部を脅しのネタに使うかです。まあ、世直しとはほど遠い所です。そこで女房と知り合って、子供ができた。何度も転職しょうと考えましたが、結局どこ行ったって一緒でしょ。どの企業だって世直しとは関係ないでしょ、利益優先で。裏じゃあ汚いこと沢山やってる。まあ、経済誌はそれがダイレクトなだけです。……だらだらと続けたある日、本当にイヤになりました。ある大企業が乗っ取りはする、タコ配はする、営業部長は自殺するというスクープを掴みましてね、ま、話が長くなるんで経由ははしょりますが、これだけは金に代えたくない、絶対書くと、初めてジャーナリスト魂を燃やして、結果的には挫折してしまって、もう二度とこの業界に入るまいと辞めました。辞めてから何をするのもイヤになって、毎日ごろごろしてました。当然、生活は窮して、スーパーの仕事から帰ってきた女房が『あなた、これからどうするの?』って言いました。家賃だって二か月も溜まってるのに、その時に私はね『馬鹿野郎、俺は今、人生を考えてるんだッ、生活ッ、生活ってなんだッ、生きる意味が解って初めて生活があるんだッ』なんて馬鹿なことを言いましてね、襟首を挽きづり回しました。それが事故の前日です。
  その夜、洋一が明日皆で動物園に行きたいと言いまして、子供ながら両親の和解の場を作ろうとしたんでしょう。しかし、当日、私は書き置きをして朝早く相模湖のいつもの釣り場にひとりで出掛けました。釣りをしながら女房子供一人にさえ夢を与えられない俺は最低の人間だと思いました。もうやめよう、人生、どうしていいのか解らないなら、せめて女房子供だけは大事にして生きよう、他のことはもういい、アパートに戻って皆で動物園にいこう、俺は生まれ変わろう。お笑いですね、そう思って釣り道具を片付けてた時、聞いた救急車に女房子供が乗っていたんですよ。私は偽善者ですよ」
山根「………そうですか、お気の毒なことです。……しかし、狭間さん、それはやはり事故ですよ、自殺じゃない。お子さんはたぶん『お父さんのところに行こう』と奥さんを誘って、奥さんも行かれたのですから……。死ぬような気持ちなら行かないでしょう」
俺 「……何も、解りません。途中で発作的に飛び込んだのかも知れない。……解らんですよ、何も。……私は、本当に女房を愛していたのか、子供を愛していたのか、それさえ解りませんよ。私は肉親でさえ、自分と他者との関係が解らんのですよ」
山根「狭間さん、自分を責めないことです。アイアムOK、アイアムOK、何でもいいから、小さいことでもいいから、ご自分を少しでも誉める努力をしてください。この病気には、まずその事が大事です」 
              
 アパートの台所で、水道水を飲む。一日の疲れなのか、生きていることの疲れなのか、俺はつっ立ったままだ。自分と他者との関係など解るわけがない。瞼を閉じるとその奥に俺の過去が映る。
 「おしくらまんじゅ、おされて泣くな、おしくらまんじゅ、おされて泣くな」 一〇人程の子供達が、公園の地面の白線の円の中で、夕焼けを背に「おしくらまんじゅう」をしている。
仲間に入れて貰えない一〇才の俺が ひとり、ぽつんと立って、それを見ている。
「おしくらまんじゅ、おされて泣くな、おしくらまんじゅう、おされて泣くな」。子供達はお互い尻を押し付けて楽しそうに揉み合っている。
仲間に入りたい俺。
子供達「おしくらまんじゅ、おされて泣くな」
俺「(我慢し切れず)……なッ、なッ、なッ……(吃って、声が出ない。必死で喋ろうとする)……なッ、なッ、……」
子供達「おしくらまんじゅ、おされて泣くな」
俺は無視されている。「……なッ、なッ、なあ~、なか、……なかまに入れてくれェ~ッ(俺は絶叫する)」
子供達は敢えて俺を無視するように奇声をあげる。
俺は、悲しそうな、泣き出しそうな顔で、また喋ろうとする。「……い、い、……、い、い、い」
奇声をあげていた子供のひとりが冷やかすように言う。「いい、いいって、直人、なにがええんや、仲之町の花子とちちくりあったんが、そんなにええんか」。どっと笑う子供達。
俺「……、い、い、……い、い、いれッ、いれてくれ」。
「入れてくれ、花子にそう言われたんか」。奇声をあげて喜ぶ子供達。誰からともなくおしくらまんじゅうの歌が代わる。「入れてくれ、入れてくれ、入れてくれェ~」
悲しそうな俺の顔。
俺を見る楽しそうな子供達の眼。
俺は意を決して、泣き顔から作り笑顔をつくる。そして皆と調子を合わせて「い、い、い~、入れてくれ、入れてくれ」、さらに大きな声で「入れてくれェ」、そういうなり仲間の中に入る。
子供達と一緒におしくらまんじゅうをする俺。
子供達と俺「入れてくれ~、入れてくれ~、入れてくれ~、入れてくれェ~」、俺は涙を拭いて本当の笑顔に変わる。
仲間に入れて貰えて本当に嬉しそうな俺。
その瞬間、仲間がさっと円から出る。「わあい、どもりがうつる、どもりがうつる」。
去っていく仲間達。
 だだっぴろい公園に、ぽつんと残された俺は、どうしていいか判らない。

 「今」の存在のあり方に、「過去」など何の役にも立ちはしない。「今」の存在のあり方に、「過去」など何の役にも立ちはしない。
 俺は医者から処方された粉薬を一服飲む。 

田町駅を降りて、大手ゼネコンの総務担当部長だった小室と会う。前の雑誌社からの永い付き合いだ。今は子会社の建築部長をしている。その小室も今年で定年だという。
 小さな応接室で、小室と向き合う。
小室「狭間さんにはいろいろ世話になったよね。あれ程嫌がっていた経済誌に戻って、もう二年になる?」
俺 「取り柄がないもんで、食うにはこれしかないんですよ。小室さんはいいですよね、これから年金生活で悠々自適ですか」
小室「……いやあ、永いサラリーマン生活で、人間の一生って何だったんだろうかって思うよ、私も結構つまらん仕事してきましたからねェ。口では言えん上層部の文字通り汚い尻拭いを二〇年もやりましたからねェ。そんなこと言うとミもフタもないけれどね。……そう、そう、こんど、ドナー登録しようと思うんですよ」
俺 「ドナー登録?」
小室「いわゆる私が死んだら臓器提供するってやつですよ。眼も、肝臓も、心臓も、腎臓も、使えるかどうか判りませんが、全部やろうと思うんです。私が死んでも誰かの眼として生きられる、誰かの肝臓として生きられる、誰かの心臓として生きられる。死んだ後も、何人もの人生を生きられると思ったら痛快じゃないですか。……人生それほど楽しくはないけれど、ひょっとして若い奴に移植されて、今までとは全く違った楽しみに出会うかも知れないしねェ」
 俺は何も言えない。小室さんの年齢じゃあせいぜい病院に献体して、全身解剖され、ばらばらにされて医学の発展に寄与するという位じゃあないですか。そう思うが俺は口ごもる。俺は何も言えないまま、急に襲ってきた眩暈に息を整え、問題は「今」でしょう小室さんという言葉を飲み込んで、別れを告げる。
 問題は「今」でしょう小室さん。「過去」も「今」の意識にあり、「未来」も「今」の意識にある。そして「空間」も「今」の意識にあり、「時間」も「今」の意識にある。「存在」も「死」も「今」の意識の中にある。
 俺は、歩く。揺れ動きながら、歩く。アスファルトから立ち上る熱気に「今」無目的な俺の存在そのものが気怠い。俺は病気ではなくて自分の存在そのものを持て余しているのかも知れない。
 突然足元でドーンと衝撃音。通行人の視線が俺を取り巻く。これ、鳥じゃねえか、何の鳥だろう。俺の目の前にモズのような鳥が嘴から血を出し 腹から内臓を出して横たわっている。すごい音だもんなあ、そうとう高いところから落ちてきたんだぜ。通行人が喋っている。飛んでる時に心臓麻痺にでもなったのかなあ。頭の上に落てたら俺たちも死んでたぜ。あんた運がよかったね。
 偶然の死。突然の死。その屍からうっすら薄煙りのような何かが立ち昇ったような気がする。ほんの一瞬の出来事で、それが何なのか判らない。         砂埃が舞ったのか、直射日光での陽炎だったのか、或いは疲れ眼による錯覚だったのかも知れない。しかしその一瞬の「何か」は、俺に鳥の屍が単なる即物的な「死」ではないという疑問を沸かせる。「死」は存在の終りではないのかも知れない。ばかな、死は存在の終りだ。
 駅前近くまで来た時 突然動悸が激しくなる また来たぞッと俺は思う。  思うとさらに動悸が波を打ち、呼吸が浅く速くなり、落ち着こう落ち着こうと思っても、ますます苦しい異常な意識になり、その意識でさえ次第に消えかかっていく。俺は歩道のガードレールの側に蹲り、朦朧とした意識の中で鞄を探り、中からビニール袋を取り出し、慌てて口元に持っていく。そして自分の吐いた息を吸う。それは過喚気になった時の医者の指示だ。苦しいが続ける。歩道を歩く他者達の脚波だけがぼんやり見える。 それらが時折立ち止まる。スーツを着たいい男が何故昼間から道端でシンナーなんか吸うのか、そんな怪訝そうな顔がぼんやり映る。誰が何と思おうと俺は必死だ。そして死の恐怖に怯えながら俺は道端で震え続ける。  やがて長い時間をかけて、ゆっくりと、意識が正常になってくる。
 「にいさん、大丈夫かい?」 何とか治まりかけた頃、近くからか細い声が聞こえてくる。声のほうを振り向くと、発砲スチロールの箱に座った浮浪者の老婆が俺の顔を覗き込んでいる。日除けに歪んだ黒い蝙蝠傘を差し、側には水の入った一升瓶が二本と紙袋がある。「ああ、だいぶラクになった、ちょっと眩暈がして」 「暑いからね」
 喉が乾いてかさかさだ。過喚気になるといつもこうなる。俺は近くの売店に行って冷たいカンコーヒーを二本買う。振り向くと、子供達が老婆をこわごわ覗いては二三歩下がり、また、近付く。そのうち俯いている老婆の頭を叩き、奇声を挙げて逃げて行く。  
俺は、蹲った場所に再び戻る。よかったら飲むかい? 老婆にその一本を差し出す。老婆は座ったままで深々と会釈すると、妙に可愛く澄んだ眼を細めて、コーヒーを受け取る。
老婆「ありがとう。にいさんだけだよ、こんなにしてくれるのは……ああ、つめたくて美味しい」
俺 「……何か、欲しいものはないか?」
老婆「……何も、ありゃしません、……あ、よかったら煙草を一本……」
俺 「ああ、いいよ何本でも」
老婆「こんなにいりゃしません、……じゃ、にいさん、二本だけ、ありがと。……煙草でこの脚が治るとですよ、食い込んだガラスが煙草で溶けると聞きよりました  ……この脚さえ、動きゃあねェ」
俺 「……脚、どうしたの?」
老婆「真夜中に横浜の公園で、夜討ちにあったとですよ。みんなやられました」
俺 「……悪い奴、いるからねェ……毎日食い物なんかどうしてるの?」
老婆「時々、どっかの会の人が持ってきてくれるとですよ、水は、あの便所で汲んで飲んどります。近くのひとはあまりかまってくれんとです。あの魚屋も、もうこの箱くれんとです。もう、すり切れてしもうて……両手ですって動くもんですから……」
俺 「福祉のほうかどっかの施設に入ったほうが、いいんじゃないか? 言ってやろうか。このままだと死んじまうぞ」
老婆「にいさん、あれは、人殺しですけん。私は車に寝かされて、毒の注射ば、打たれそうになりました。殺されるなら、まだここのほうがいいとですよ。………夜になると、月やいっぱいの星に出会えるとです。それ見てると、なんか、おだやかで、平和で、……懐かしくて、そこに、戻りたいと思いますけに……今の私は仮の姿ですけに……本当の私は木だったと思いますけに」

俺は向いの魚屋で発砲スチロールの箱を二つ仕入れると 老婆の前に置き 駅に向う

 見えぬもの、解らぬもの。たとえば、砂浜の、砂の存在。歩けば、ギッシ、 ザックの音が、砂か。口に含めば、塩っぱさとざらつきが、砂か。寝転んで 身体を押し止めるが、砂か。それらは、やっぱり、まったく、答えになっていない。砂は闇、闇は砂。非存在と存在の一体にして、分離の表相。思うがゆえに、解らず、聞くがゆえに聞こえない。存在は、考えるがゆえに闇に隠れ、闇の中に気配だけが残る、幽霊のように。存在は気配の認識か。

山根「そうですか、また過喚気になられましたか」
俺 「……いつも前触れなく突然なんで自分でもちょっとびっくりします」
山根「どうですか、あなたの場合、今から言うような状況の時に過喚気になるケースが多いんじゃありませんか? 例えば、本当はやりたくないのに嫌々する時とか、何かに自分が拘束された感じになる時とか、緊張するような場面とか、突発的な刺激に動揺する時とか、いかがです?」
俺 「……言われてみればそうかも知れません。電車でも各駅だといいんですが、しばらく降りられない電車とか、そんな時は車中で過喚気気味になったことがあります。ま、今日は仕事したくないと思っても、やらなくちゃいかん時とか、確かにそうです。家にいる時は全く大丈夫ですが……」
山根「狭間さん、実はこういうことです。あなたの場合、確かに自律神経が少々狂った時に不整脈が起こったり眩暈がしたりすることは事実でしょう。人間生きているのですから少々調子が悪い時があって当たり前なんですよ。ところがあなたの場合完全主義者、つまりヒポコンドリー性格のため、少しの狂いも気になってしまい、どんどん自分を追い込んで過喚気になる。つまり「完全によく生きる」という生の執着が非常に強いわけです。それは逆に言うと「今」は「よく生きていない」と思っておられるからです。だから「このまま死ねるか」という意識が強くって死が怖くなる。そして「存在の不安」というものが身体的症状となって顕在化するわけです。         この間伺ったところによると今の仕事に罪悪感をお持ちのようです。いかがですか、いっそうのこと転職なさっては……」
俺 「先生、何をやっても同じですよ、今の日本では。すべては利害得失の世の中で、異常なほどの利益至上主義が当たり前になっている。今の仕事はそれがちょっとダイレクトなだけです。ま、先生のような本当に人の役に立つような仕事があればいいですけど……」
山根「狭間さん、ひとの畑は良く見えるだけですよ。私だって、ま、いろいろ、あります。……ただ、狭間さん、この世は所詮観念の世界ですよ。同じ状況でも本人の「気づき」のレベルをちょっと変えるだけで、不幸に感じたり、幸福に思えたりするものです。また、本人が何を毎日「自己暗示」しているかによって決まるものです。いかがです、意識を少し変えてみませんか」
俺 「………」
山根「勿論いますぐ『仕事は楽しい』と思いなさいと言っても、これは無理な話です。しかし、自律神経訓練法というやり方があります。例えば、眼を閉じて両手が重いと自己暗示を掛けて、両手に意識を集中させていくと、やがて催眠状態になります。その時に潜在脳が開きますから『私は今の仕事が楽しい』と暗示を掛けていくんです。二週間も続けていると、必ず気持ちがラクになってきます」
俺 「しかし、それは真実から眼を逸らすことになるのではありませんか?」
山根「富士山を登る道はいくつもあって、そのどれもが真実なんですよ。あなたのように物事を暗く考える事も真実ならば、明るくポジティブに考える事も真実です。要は『気づき』のレベルの問題です」
俺 「利益至上主義の日本は素晴らしいと暗示をかけることが真実ですか」
山根「あなたは病気を治すためにここに通っておられるのでしょ。そのためにはまずあなたの心の中の『葛藤』を取り除くことなんです。あなたは今の仕事が自分の本心良心に恥じていると思いながらも続けざるを得ない。そこに問題があるんです。良し、とすることで葛藤を取り除くことです。第一、こう言っちゃなんですが、あなたが日本の将来を憂いても、あ  なたに何ができますか?」
俺 「勿論、何も出来やしません。無力感で一杯です。しかし、自分だけが意識を変えて幸福になりゃあいいという問題でもないでしょ。もしあったとすれば、自分の良心というものは一体何なのか、そして環境にどう対応することが出来るのか、もう少し考えていきたいと思っています」
山根「あなたも頑固な方ですな。そういうのをヒポコンドリーというのですよ。それを変えないかぎり、ますます悪化しますよと言ってるのですよ。         ……仕方がないですな。じゃあ、視点を変えましょう。……あなたの今の実感は何ですか」
俺 「実感……漂っている、というのが正直な実感です。何らかの欠落の意識が行動にかりたてるとしても、生きていることに歓喜するようなことも、生きている価値も解らない。だから、漂っているというのが唯一の実感です」
山根「その、あなたの漂いという実感はどこからきていると思いますか」
俺 「歓びがないということでしょうか」
山根「生まれてからずっと歓びがなかったわけではないでしょう。実感として今まで歓びを感じた時はどんな時ですか」
俺 「遠い話で、すぐには思い出せません」
山根「どんな事でもいいですよ。例えば……」
俺 「例えば、………解らない」
山根「あなたの場合、エゴグラムで見ると、チャイルドの部分、つまり、子供のようにのびのびと自由な精神の部分をかなり抑圧しています。精神のバランスからいくと、この部分を伸ばす、あるいは解放する必要があります。……長い人生ですから楽しいこともあったはずです。しかし、それすらも今のあなたは思い出せないほど抑圧されているのです。先程この  世は観念の世界だと言いましたが、今のあなたは想像力が欠如するほど何かに抑圧されているのです。過去の歓びを今一度想像してみてください。そして、自分にとって『幸福な一日』とはどんな一日なのか、一度想像してみてください。勿論実現しなくてもいいのです。子供のように無邪気に想像してみてください」

 帰りのプラットホーム。ドアにへばりつく歪んだ顔。自分が今、なぜ、ここに立っているのか、解らなくなる。何台も満員の乗客を乗せて電車が過ぎて行く。
 ここでない、そこ。俺でない、俺。   
 そして、いつか俺もその電車に乗っている。押し詰められた人の群れ。精気のない肉畜の群れ。右に揺れ左に揺れる肉畜達の群れ。息苦しく上を仰ぐと、広告どもが責めたてる。 パンフレットでわかったアルルの旅はそこが違うのね・ジャルパック なにも足さないなにも引かない・サントリーピュアモルトウイスキー うしろのセレナ君は小回りが得意だ・イチロニッサン  お葬儀をどこでなさいますか・式場案内セレモピアン 話し方生き方教室・あなたは話し下手で損をしてませんか………
 消費、消費、消費、消費って一体なんだッ。消費に疲れているではないか。 昔アイヌは遡る一〇匹の鮭に対して三匹は神様のために見逃し、三匹は鮭の子孫のために見逃し、後の四匹を自分達が生きるために感謝をしながら捕ったというではないか。いまは一〇匹全部とっつかまえるではないか。何億年と眠っていた石油をがぼがぼ消費し、森林を消費し、肉をたらふく食い、それが幸福か。そして天敵のない人間は今や人間を食っている。  企て、商品を消費させ、言葉を消費させ、お仕着せのゲームを与え、ここで感動するのよっと感動までマニュアル化するかッ。消費は惰性を生む。厭く。新製品はすでに新製品ではない。消費のための生産はそれが本当の仕事かッ。それが消費社会だとッ? したり顔でわかったようなことを言うなッ。なあ、殺したぶんは育てろよ。殺したぶんは育てろよ。頼むから、殺したぶんは育てろよ……

 日野のあたりを過ぎるとようやく乗客が減ってくる。下を向いて両手をだらりと下げ蹲るように眼を閉じている男。ビジネス鞄を膝の上に立てその上に両手を乗っけて考え込む男。惰性でスマホをいじる男。眼をつむりながらイヤホーンをつけている男。肘をついて眼を閉じている女。座席に座っている顔は、どれもが精気なく死んでいる。おい、幸福な一日を考えてみろよ、実現できなくっても想像でいいんだぜ、さあ、お前ら、やってみろよ。  
禿げで眼鏡を掛けた向かいの男は雑誌を読んでいる。黒の背広がよれている。つまらなさそうにページを捲る。何か面白いことはないか、ちょっと眼を止めて読むが、次のページを捲って、溜め息をつく。彼も疲れている。 雑誌を膝の上に置き、斜め上を見て、とろんと放心する。
 その横の小太りな男が向かいの若者になにやら言っている。すいませんッ、 大きな声に変わる。若者はウォークマンのイヤホーンを外して男を見る。  小太りが言う、「すみません、咳払いをする時は口をこう押さえてください」。若者は何も言わず再びイヤホーンを耳に入れる。
 『幸福な一日』、俺の『幸福な一日』とは何か。例えば……朝、起きる。家族がいて全員で太陽に向かってまず拝む。食事も感謝の気持ちを持って、 私たちは生かされているという気持ちを持って戴く……それから……それから……そんなことが幸福な一日なのか、馬鹿な、何にも浮かんではきやしない。  
 高尾駅に降りる。夜空を見上げる。しかし俺には、月も星も、座り続ける老婆のように平和で懐かしくは見えず、閉ざされた暗天幕の針穴にしか見えない。

 いつもの朝、また社長の檄が飛ぶ。二週間前に入った新人の富田に檄が飛ぶ。なんじゃ、富田ッ、面接の時はホラばっかり吹いて、まだ一件も取れてないじゃないかッ。交通費ばっかり使いおって、何やってるんだッ。おどおどしながら富田くんは答える。毎日一生懸命回ってるんですけど、おたくの雑誌は広告宣伝に繋がらないって言われます。そう言われるとそうですし……
 社長の顔がみるみる紅く硬直する。馬鹿モンッ。いいかッ、そこを取るのが営業マンだッ。営業マンはどんな時でも金がすべてだッ。根性が足らんぞ。  いいか、お前らよく聞けッ、もっと金儲けに情熱を持てッ。金儲けの何が悪いッ、金というものはお客が必要だから払うんだ。広告をお前らに出さんというのは雑誌じゃなく、お前らに価値がないからだ。金というものは生きていて必要な価値のある人間にだけ動くもんだ。金が流れてこないのはお前らに生きてる価値がないからだッ。いいかッ、お前らッ、どんなことをしても相手に自分の必要を感じさせろッ、たとえ嫌われるような手段を取っても相手が無視できないと思えば、それがお前らの存在価値だ。そうすると自然と広告が取れる。金とはそういうものだッ、解ったかッ。
 それから狭間ッ、価値のない奴に金は払えん。今月より五万の減俸ッ、  以上ッ。
 それがお前の幸福か、ひとを金で認め、金で支配するのがお前の幸福か……

 サラ金で金を借り、啓子の病院代の払いを済ませ、夜の新宿を歩く。  立ち止まって煙草を一服吸う。俺の前で茶パツの若者が軽いリズムに乗って、通り行く女達に声を掛けている。ねッねッお茶しない? ねッ彼女だめェ? 衒いもなく、無視されても、断られても、次々と行く。どうしょうかな、やっぱダメ。笑いながら応える女子高風の女に脈があると見たのか、執拗に食い下がり二人は往来の人波の中に消えていく。

 「狭間さん、しばらく」、俺の前に見覚えのある女が笑顔で立っている。  小沢昌代。前の雑誌社で知り合い、二三度寝たこともある女だ。もう四年は会っていない。
 「私、もう三〇でしょ、来月結婚するの。彼、病理の医師なのよ。彼ったらね、死体解剖する時、Y字型にメスを入れるらしいんだけど、その時、何とも言えない快感があるって言うの、いやねェ」
 歌舞伎町のラブホテルの一室で昌代は手慣れた仕種で下着を脱ぎながら、そう言う。
「確かに死んでるっていっても人間を切り刻むなんて、ちょっとしてみたい気もするけど普通の人じゃできないものねェ」、ベッドの上でそう言いながら俺の股間をまさぐってくる。「……久し振りね、以前のように激しくして。独身最後の思い出にしたいわ」。女の肌に触れるのは俺も久し振りだ。 ふくよかな乳房を撫で、舌を絡ませ、ワギナのぬめりを確認する。執拗な愛撫を繰り返し昌代は何度も艶声を発する。しかし俺は、眼前の物体とそれに触れる俺の掌・舌・腹などの物体を異常に意識し、淫乱の中に溶け込めないでいる。
昌代は長い前戯に悶え「入れて、入れて」を連発する。しかし俺の局部は何故か小さくなったままだ。昌代は「欲しい、欲しい」と狂ったようにフェラチオを繰り返すが、俺の局部は少しの快感も感じない。
 「馬鹿な思い出をつくってしまったわ」
昌代は終電車にまだ間に合うと言って部屋を出ていく。天井の鏡に映る全裸の俺は、多分、本能でさえも忘れてしまったのだろう。

 3

 体調は日によっても一日の時間によっても違う。少し元気な時もあると思えば、死の恐怖は何かに弾かれたように突然やってくる。例えば信号待ちの時、赤色を見た瞬間、突然気分が悪くなり、呼吸が早くなり、動悸が高鳴りして蹲ってしまう。蹲りながら死の恐怖と格闘する。一時間もすればなんとか立ち上がれるようにはなるが、心身ともに磨耗して虚脱状態になる。そういう発作が度々繰り返し、俺は次第に小さな音にさえびくつくようになる。そして、いつ発作が起こるか判らないとなると、自分のちょっとした体調の変化や外部の些細な刺激にさえ異常に神経が張り巡らされる。
 情ない自分に愕然とする。俺の存在はエネルギーそのものと言ったのではなかったか。
 エネルギーの赴くままに生きればいいと言ったのではなかったか。その俺が死の恐怖に怯え、びくびく、おどおどし、これが俺の本質かと……。              
 カサカサの皮膚、痩せこけた頬、鏡に写る亡霊のような俺の顔。俺は何にこれほど衰弱しているのか。外に出るのさえ怖くなってしまった俺は、 始めの一報だけで、一週間も会社を休み、アパートの一室に閉じ籠る。  虚脱状態の中で、鏡の亡霊が俺に言う。
 お前は袋小路に入ったんだよ。お前は、死ねばどんな者でも完成する、 死ねばすべては終わる、だから何だって出来る、そう思っていたはずだ。  ところがこの死の恐怖は一体なんだとびっくりしている。怖じ気づいた今の自分をあまりにも情ないと思っている。所詮人生は観念の世界だ。しかし今のお前は情ない自分から抜け出せないでいる。いいか、観念の世界ならば、このままびくついて暮らしても一生、嘘でもいいから勇気凛々堂々と暮らしても一生だ。
 いいか、教えてやろうか。
 死の恐怖は、生の答えが解らないまま無理やり決着をつかされるところからくるんだ。
 しかし解らなくてもいい。その絶望の域を掘れ。その手を休めるな。なんの手立てもないまま、今を掘れ。入り口は出口だ。お前は言うだろう。  どこから入ったかも解らないまま状況Aは在ると。しかし歌うな、漂うな。 自分の内なる壁や社会に対して、それらを押し広げる努力こそが生きるということだ。
 畳みの上で胡座をかき、丸くなった背中。俺は大きな溜め息とともに煙草の煙りを吐き出す。
鏡の俺は言う。自分にとって「よく生きる」ということはどういうことか? 
 俺は考える。毎日心が澄んでいて安らぎがあること。常に変化する環境のなかでその時々に心底やりたいと思うことをやること。
 鏡の俺は言う。その通りだ。自分の生き方を宇宙存在の法則に合わせればいい。宇宙存在の目的は環境の変化に適応して生き延びることにある、植物も動物も、人間も。だから、まず自分が生き延びること。ついで自分の子孫を増やすことにある。窓の外に見えるあの大きな樫の木を見ろ。樫の木は他の植物に気を使って遠慮しているか。木の下には植物が育っていないではないか。ようやく遠まきに雑草が生えている。あの雑草にしても遠慮しながら生えているわけではない。生きるための必死の攻めぎあいの結果、共生しているのだ。だから自分を滅ぼしてまで存在は他存在になんら気をつかうことはない。いいか、鏡に写る自分は『他人が見ている自分』だ。人間だけが『他者がみる自己』を見るのだ。鏡の発明者ほど人間を不幸に陥れたものはいない。それは自己確認ではなく『他者から見る自己』で本当の自己ではないからだ。動物も植物も本来自我意識などない。いいか、自我意識を持つことが不幸なのだ。自己存在に眼を向けること自体 自然の法則に反している。だから不安が波打って押し寄せてくるのだ。意識は自己存在に向けるのではなく、他存在に徹底して注ぐものだ。いいか、 道を歩いていて黄金虫がいたとする。黄金虫はお前の大きな足を見て「私はこのままでは踏まれる」と意識して逃げるのではない。黄金虫には私という自我はない。無我に於いて本能のままに逃げるのだ。いいか、コギト、 我思う故に我在りより、我他存在思う故に無我なり。それが本来の自然の法則に乗っ取ったものだ。意識は外に向けるものだ。意識を乗っけて強い視線で他存在を見るのだ。そうすれば心が澄んでくる。他存在を能動的に見詰め、そして心の奥深いところから発する思いのまま動けばいいのだ。存在はなんら他存在に対して反省することも遠慮することもいらない。存在はなんら存在に気をつかうことはないのだ。他存在に気を使わず、心底やりたいと思うことをすることが最良の道だ。
 ところがお前にはそのやりたいことが解っていない。いいか、お前を形成している六〇兆の細胞はすべて明確な目的意識を持って生きている。たとえば眼の水晶体の細胞はレンズとしての目的をもち、網膜の細胞は写った映像を電気信号にして脳に送る目的で動いている。胃も腸も、そしてその一細胞の中のミトコンドリアに至るまですべて明確な目的を持って生きているのだ。にもかかわらず、その総体であるお前に生きる目的がないのはなぜだ。
 いや、おそらく解っていたかも知れない。が、お前は大きくなるにしたがって、他存在に気を使うあまり、環境に抑圧され続けてそれらを封じ込めてしまったのだろう。みろ、食欲もない、睡眠もとれない、性欲もない、本能ですらも封じ込めてしまったのだ。
 ……本能。俺は傍らの事典をまさぐる
 「本能」、同じ種に属する生活体が生まれつきもっており、生後経験によって学習する必要のない要求行動。マクドウガルの学説。逃走本能(恐れ)、 拒否本能(嫌悪)、好奇本能(驚異)、闘争本能(怒り)、屈従本能(屈従感)、 ……
 ほうら 読んでいてお前は何かを感じないか。怒り、怒り、怒り、怒り、 怒り。そうだ、「怒り」という字を見るだけでも、なぜか気持ちが落ち着いてくるだろう。それはお前が長々と心の奥底に封じ込めてきたものだからだ。いいか、動物は敵に対して逃げるか戦うかの二つの行動しかない。ところがお前には何が敵なのか解らない。しかし目に見えない何か敵がいることをいつも感じている。それに耐えられなくなってお前は病気をつくって そこに逃げだしたんだ。お前みたいな奴は今の日本にごろごろしている。 何が自分の敵なのか解らなくなっている。学校のいじめもそうだし、企業内もそうだし、政治までもがそうだ。見えない何か大きな有機体に蠢かれて、見えないだけに個人的には打つ手立てがない。次第に無力感に陥り、 戦う気力、すなわち怒りを胸のうちに封じ込めてしまったのだ。そして後は逃げるだけだ。しかし、これだけ大きくなった人間の社会からは逃げだそうとしても逃げられない。逃げてもそこに残るのは不安だけだ。いいか、逃げからは不安しか生まれない。結果、その不安に押し潰されて自爆行為に走るのが関の山だ。
人間の六〇兆の細胞はすべて、目的すなわち意志を持って動くが、その総体であるお前にそれらを統一する意志力がなれけば混乱を来して当然だ。    
 いいか、もう逃げるな。逃避がお前を抑圧してきたんだ。怒って戦え、 意志力を発露しろ、この世の創造主に怒れ、死という不条理に怒れ、人間社会の欺瞞に怒れ、己に怒れ……
    
 通勤電車、朝のラッシュ。なんと陳腐で明晰なことか。四ッ谷駅で俺は降りる。亡霊たちの洪水。小さなエレベーター、6、選択したのはこの俺だ。  一週間ぶりの出社。どのツラさげて、また来たんだッ。今までの給料だ、お前はクビだッ。俺は懐に薄いそれを入れ、こんなことは何の解決にもならないが、そう言って、社長の赤茶けた頬に俺の拳を食い込ます。
 「唐木神経内科」の看板が業者の手でロープを伝って降ろされている。  俺はビルの一室を開ける。化粧の濃い受付けの女性が強張った顔で「潰れた」という。山根先生医師免許持っていなかったんですって。唐木院長は八五才の高齢でしょ、名義だけで実際は山根先生がすべてしておられたのよ。 これは噂話なんだけど、山根先生どっからかそのことで脅されてクリニックのお金を横領してたらしいわ。山根先生どっかに消えてしまったの、びっくりだわ。私達も全く知らなくて、再就職先も決まっていないんですもの、 イヤになっちゃう。残務処理の別の先生に今聞いてきました。狭間さんの薬は抗精神薬スルピリド、精神安定剤ジアゼパム、筋肉弛緩剤テルネリン、 それに漢方の安中散をこの調合比率で混ぜたものらしいです。唐木院長が昔から使ってた薬らしいです。それにすみません、他に行けば健康保険が利く薬剤だそうです。

俺は女房の下着を持って病室に入る。
 洋一を殺したのも、お前をこうしたのも、この俺かも知れないし、お前かも知れない。しかし、俺はもう自己と他者の関係の思考を停止する。    洗面器のお湯に浸して温かくしたタオルで啓子の動かない身体を、何の思考もないまま、ゆっくりと、拭っていく。背中から臀部あたりが何か所も床ずれで赤黒くなっている。全裸で死体のように横たわったままの啓子。 相変わらず目尻に涙がつたわっている。耳朶の黒子、首筋のしみ、かわいい乳房、臍の辺りの産毛、陰部の繁み、艶のある太腿、爪のちいさな指を持つ足……俺はその存在をあるがまま見詰めていく。
 俺は全裸になって啓子に寄り添う。唇に触れ舌を裏側の粘膜に這わせる。 乳首を口に含み、また、柔らかな乳房に優しく何度も何度も舌を這わせる。あるがまま、思いのまま、陰部の繁みを撫で、指を入れる。神の啓示にも似た啓子の体臭が漂ってくる。俺はごく自然に二〇代のように完全に勃起したペニスをゆっくりと挿入する。快感が走り、ペニスは波打って射精する。



茫漠とした宇宙、空間、時間、そして、人間。
 炎天下の太陽がじりじり焼き尽くす。もう九月だというのに今日の暑さは何だ、三五度以上軽く越えているのではないか。細い路地の三叉路で俺はもう何時間も突っ立っている。警備会社から派遣された今日の仕事は水道工事で迂回を促す交通整理だ。しかし車は殆どやってこない。おめえはいいな、立ってるだけで銭が貰えるんだから。近くの自動販売機に飲み物を買いにきた作業員が汗と泥に塗れた顔を手ぬぐいで拭いながら冷ややかにそう言って現場に戻っていく。
 俺だってヘルメットの下も背中も立っているだけで汗びっしょりだ。しかし立つことだけが俺の仕事だ。存在は何等他存在に気を使う必要はない。
 環境は変わっていく。少しづつだが変わっていく。そして俺の意識もそれに呼応して、少しづつだが変わっていく。少なくとも逃げることだけはやめよう、俺の本心がそう語る。しかし、今日の太陽は異常に熱い。お前によって俺は生かされているが、そのお前とも俺は戦わなくてはいけない。 それが生きるということだ。生きる。よく生きる。
「何故人間はよく生きなればならないのか」
 完璧な生、よく生きる、ほんとうはそんなもん、ありゃあしないのに  神はどうして向上と進化を求めるのだ。なぜ、向上せねばならんのだ。 それは環境の変化に生き抜く適応力。なぜ生き抜かなければならんのか。 こいつはゲームだ、神のサバイバルゲームだ。俺はいつも思う、世の中は進化ではなく変化だと。しかし宇宙は膨脹している。膨脹は存在の密度が薄められることでもある。その密度を別の何かで絶えず埋め合わせなければ存在のバランスが保てないのではないか、それが進化なのか。人間は神の奴隷か。
                  
太陽が強い陽射しとともに俺に語る。

その通りだ。
『宇宙は膨脹と密度の稀薄さの渦中にあり、その両極端なものの絶妙なバランスのうえに存在しており、その恒常性の動きこそが宇宙のすべてのものを存在たらしめている。それが宇宙存在の法則であり、絶対の真理だ』。  膨脹と密度、星同士の引力、エネルギーのプラス・マイナス、この世は両極端な二つの力が影響し合って、そのバランスの中で、ある種の運動として成り立っている。宇宙に存在するものはすべてがそうだ。そして人間もまた 自我意識と他存在、善と悪、明と暗、喜びと悲しみ、永遠と瞬間、交換神経と副交換神経、理想と現実、清と濁……すべてが両極端なもののバランスの上に成り立っている。つまり存在は磁石のように相反する二つの力の引合いの中央で微妙な運動の中に固定化せず絶えず流動(運動)しながらこそ存在する。
 そして存在は一方の力に極端に傾いた時、バランスが崩れた時、存在の死となる。つまり運動とはバランスが崩れない範囲での遊びの部分であり、たえずホメオスタシス(恒常性)が働ける範囲である。この遊びの部分、 いいかげんな部分、精神の自由があるからこそ、新たな掛け合わせ・統合ができるのだ。そしてその運動こそが存在を存在たらしめているものである。この真理は絶対である。
俺は言う。
 しかし、これが現世の絶対ならば、「不動」という絶対もあることになる。 動きの反対は動かない。          
太陽が言う。                               
たぶんその通りだろう。しかし、我々宇宙の存在から不動の世界は絶対解らない。
 我々現世の宇宙が動の世界であれば、非宇宙は不動の世界である。  非宇宙は絶対解らない。その世界は非存在であるから存在からは絶対解らない。
 さらに、存在世界は相反する力の及ぶ所の運動が見えるものとなって現れる世界とすれば、非存在は何の力も及ばない世界ということになる。
俺は言う。
 エネルギーと非エネルギーの世界。何の力も及ばない非エネルギーの世界とは……
太陽が言う。
 おそらく非宇宙、非存在、非エネルギーの世界も存在するだろう。  しかし、それは、我々には全く関係のないことだ。
俺は言う.。
 死は非エネルギーの世界か。
太陽は言う。
 死は非エネルギーあるいは非存在ではない。何故なら死はこの宇宙エネルギー世界での出来事であり、力の及ぶ世界の出来事である。その世界でバランスを保てなくなっただけの事であり、また新たなエネルギーの集合体として再生する過程、あるいは変化でしか過ぎない。
俺は言う。
 人間もまた動きこそ存在なのか。
太陽は言う。
その通りだ。たとえば自我意識と他存在との関係で「矛盾」を感じるとする。すると、その矛盾を解決しょうと動き始める。存在は動きなのだ。  宇宙のひとつでもある人間もまた変化する環境に対応し生き抜くことを命じられており、「膨脹と密度の稀薄」という瞬時の固定もない無常なる環境の変化の中で調和・統一を図り適応するため、進化と向上を強いられている。だからよく生きることを本能的に掻き立てられる。  ゆえに、存在するならばよく生きなければならないのだ。

宇宙は完全なる統一にはなっていない。
しかし、宇宙の全存在が『完全な統一』を意志し、行動を続けている。 

俺は言う。
 すべての存在が 生き抜かなければならないのは神の意志か。
太陽は答える。
 それは解らない。しかし、例えば水を火にかけると、蒸発して水素と酸素になるだろう。それは水の原子が火という環境の変化に対応して生き抜くための意志による行動なのだ。つまり、「生き抜く」という意志は宇宙の我々を構成する原子に宿命づけられているのだ。厳密に言えば意識は意志にまで密度が高まったからこそ原子になったのである。つまり「存在」とは「意識」が「意志」にまで高められ、それが見えるものとして顕在化したものである。だから化学者がよく口にする「化学反応」とは、環境の変化に対応する原子の「意志」の行動である。その意志は、環境の変化に自己の適合不可能な「欠落」を感じた時『異質なもの同志の掛け合わせ・統合によって対応する』。つまり原子意志は「分子構成」をする。さらに掛け合わせ・役割分担・統合が繰り返され、さらに大きな『存在』となって顕在化するようになる。だから有機物に意志があるのは勿論だが無機物にも意志がある。存在するもの全てに意志がある。「原子は意志を持っている」。 
 ゆえに宇宙に存在する我々はすべて兄弟だ。
 ここに至っては神の存在はどうでもいいことだが、あえて神というならば、神は私の中にもいるし、お前の中にもいる。神は私で、お前が神なのだ。すべての存在が神なのだ。そして神の使命は生き抜くことにある。

 突然、クラクションの音。
 「どうしたの? 通れないの? ちゃんと指示してよ」
 乗用車が目の前にあり、中から険しい女性の顔が見える。
 「すみません、水道工事中なもので、戻るか左の道を行ってください」
 チェっと舌を打ちながら自動車は左の道を去っていく。

俺は再び太陽に問う。
「どうすれば、よく生きれるのか」  

太陽は答える。

 まず生き方を宇宙存在の法則に合わせることだ。 それが真善美の真 宇宙の心に合わせるということになる。真善美についてはカントが「純粋理性批判」で語り、古くはプラトンもイデア論で語っている。しかし私の言う真善美の意味合いは少し異なる。
お前が何の後ろめたさもなく心の奥底から楽しいと思った行動が実は宇宙の法則に合致した行動なのだ。そしてその楽しさは必ず美しいと感じるものだ。奥深い楽しさは美の入り口でもあり、美こそが宇宙創造主からの人間がよく生きるための啓示なのだ。
例えばおまえにひとつ質問をしよう。啓子とのファックは楽しいか?
楽しい。それは、地球上のすべての生物が環境の変化を乗り切る適応力として、異質なものの掛け合わせにあるからだ。その「異質なものの掛け合わせ」こそが愛であり善であり美でもあるのだ。
しかし今の日本の風潮は異質なものを認めない傾向にある。これは、由々しき問題だ。たとえばお前らが着る服一つとってみてもダークスーツばかりだ。多様な個性が表現できない社会になっている。異質を恐れ、 異質を認めない社会は掛け合わせが出来ず、いずれ退化し硬直化し、環境の変化に対応出来ず、衰退していくだろう。
宇宙は休むことなく動き続けている。よって「完全な完成された調和・統一」は常に無い。しかし宇宙は「完全な完成された調和・統一」を常に求めている。それが人間には求め目指すものとして、美の啓示となって現れているのだ。
宇宙存在の法則とは何か。
それは、
『異なる者を認め役割分担を行い共生し、そして異なる者同志が合体し新たな者を生み、環境の変化に対応することだ』
 いいか、美なるものには今まで言った宇宙に存在するのに必要な条件がすべて啓示されているのだ。美しいと感じるものはすべて調和統一したものだし、生き抜くためには異質なものの掛け合わせが必要であり、だからこそ異質なものにも美を感じるようになっている。難しいことはいらない。 美しいと思った行動こそがよく生きるに合致した人間として最良の道なのだ。
 そして真(宇宙の心)、善(異質なものへの愛)、美(調和)、は人間という種族が生き延びるためのツールとして本心良心として心の奥深いところに刻み込まれている。
 人間の悩みはすべて真善美が達成できていないところからくるのであり 悩みは環境変化への不適応の証左でもある。 
 ならば悩みが出た場合、真善美に照らし合わせて間違っている環境に立ち向かって是正していくしかない。しかし「醜」とのバランスを図りながら進めないと存在のバランスを崩してしまう。それは存在の死を意味する。 存在するにはバランスを保つ意志力の強さが必要なのだ。                 人間社会は巨大化し、真善美に適応できていない環境といえども、そこからは逃げることはできない。だからこそ人間の使命は、歪んだ人工社会に怒り、闘い、是正するしかないのである。いくら個人の力が無力といえども、それが創造主の兄弟である我々の使命なのだ。

 顎の先から汗が滴って、足元のアスファルトが濡れている。一匹の蟻が近付き、匂いを嗅ぐような仕種を見せて、去っていく。
 存在はバランスを保ち生き抜くための動き、逃げずに、遠慮せず、闘っていけばそれでいい。

俺は、宇宙存在のすべてが解ったような気がした。俺は大きな安息を得る。

 この季節はずれの異常な暑さで再び蝉が鳴き出している。向かいの民家の垣根越しに種をたわわに実らせた枯れた向日葵が頑強に立っている。         放置されたゴミ袋をつついて中のものを引き出す烏は何かをくわえて飛び去っていく。民家から出てきた老婆は焼けたアスファルトにバケツの水をうつ。
 やがて、濡れたアスファルトから蒸気が立ち込め、その向こうで工事をする作業員たちが陽炎のようになびいて見える。仕事が終わったら啓子のところに寄ろう、俺はそう思う。見るでもなく見ないでもなく、ぼうっとしている俺の眼に、男達の背中がなんだか霞んで見える。俺は眼の辺りをタオルで拭う。しかし霞みは取れるどころか、男達からなんだか白い靄のようなものが立ち昇っているようにも見える。暑さでやられたかな、おれは軒の日陰に移動する。また三叉路のミラーに俺が映っている。ところがその俺からもなにやら白いものが立ちこめている。ばかな、暑さで視神経がいかれたか。足元を見るとなんだか作業靴の輪郭もはっきり見えない。 俺は眼を擦って鮮明に見るよう努力する。しかし黒いがっちりした靴のはずなのに、その輪郭が鮮明でなく、さらによく見ていると、溶け出してだんだんと小さくなっていくようにも見える。そして陽炎のようなゆらめくなにかが立ち昇っている。それはやがて脚からも立ち昇り、ズボンも俺の脚までも輪郭が溶けて縮んでいっている。手も胸もすべてがそうだ。  「俺は溶けている」
 「ギャアー」突然作業員から悲鳴が起こる。俺は道路の中央にいく。
「おいッ、何が起こったんだ、どうしたっていうんだ、なんだッー」 男達の絶叫が繰り返される。男達も溶け出している。これは眼の錯覚なんかじゃない。民家のけたたましい戸の音がしたとおもうと、子供のように小さくなった老婆が恐怖の声を挙げて飛び出してくる。
 よく見ると人間だけではない。杉の木も垣根からも陽炎が立ち昇っていく。傍らを通る猫、蟻、存在のあらゆるものから霊気のようなものが立ち昇っていく……。

 俺はほとんど霧散してゆく意識のなかで、
地球のバランスのなにかが大きく変わったことを直感する。     
                                       (完)