まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「虚無」の国民性で日本の復興は可能か!

2011-03-22 | 政治
まるで悪夢のような未曾有の大震災。それに対して石原慎太郎は日本人は「我欲」「天罰」と言い放ち、批判にさらされ謝罪した。彼は今の日本人を「我欲」と言ったが、「我欲」ならまだ救われる。私は今の日本人を支配しているのは我欲ではなく「虚無」だと思っている。我欲はむしろ中国人だろう。日本人は、虚無である。虚無を一言で言えば「活きる目標がない絶望的な考え」ということになる。哲学的にはニヒリズム、虚無主義という言葉があるが、ニーチェなどは「神は死んだ」とむしろ現状の価値観を否定する積極的な意味でのニヒリズムだった。大震災の起こる2週間前までの日本人は、例えば子供たちは携帯電話やゲームに熱中して現実の「忘却」につとめ、大人たちも人間関係において「情」のあるつながりもなく、老若男女問わず孤独になって「生きる目標がない絶望的な考え」に陥っていた。ところが大震災になって、新聞の紙面に「挙国一致」「がんばるぞ日本」とやたらと戦時中のような活字が躍っていて、しらけている人も多いだろう。テレビでは放射能もいとわぬ東京消防庁職員の放水を、まるで戦禍の肉弾三勇姿のように讃え、一方では大学教授が連日出て、放射能を「大丈夫です」と解説している。そして被災者たちの生きる必死の姿とはうらはらに、そうでない人たちはただただ悪夢の傍観者であり続けている。財政危機をどうするか、年金を含めた福利厚生はどうなるのか、それに加えて、10兆円ともいわれる復興資金、計画停電・インフラダウンによる日本経済の低迷、山のように問題が山積している。しかし日本人を支配しているこの「虚無」の精神性は、それらの問題を遅々として前に進ませないだろう。虚無の精神性は、いつまでも傍観者であり続けることをやめないだろう。終戦直後の闇市の時代のほうが、よほど明日の見える精神性を国民が持っていたように思う。

京大入試投稿カンニングにみるマスコミ報道の偏向!

2011-03-03 | 政治
京大入試投稿カンニング事件は山形の浪人生に特定されたようだ。しかしなあ、「教育界に衝撃」と連日、新聞・テレビなどマスメディアがトップ記事扱いで騒いでいるのが、どうもいただけない。確かに携帯によって試験会場で打てるものなのか、写メールして外部の協力者が打ったのかとか、これは入試制度に対する挑戦状なのかとか、いろいろ興味はあるよ。けれどこれほどマスコミが大騒ぎする問題じゃないでしょう。つまるところ京大の当日の試験官が怠慢だっただけの話で、それを体制側があたかも浪人生ひとりに責任転嫁し、寄ってたかって八つ裂きにしている今の状態です。試験官がキッチリ五分ごとに巡回し、チェックしていれば、「君、何をしている、場外に出なさい」、これで済んだ話です。カンニングはいつの世にもヤル奴がいます。おいらだって高校の追試の時、二度もやった経験があります。その時、バレて二週間の停学になりましたが、たまたま春休みになって、停学の逆に毎日教員室に行くハメになりました。しかたなく教員室で油絵を描いていましたが、担当の教師が一言の罵倒文句もなく逆に「食ったことがないだろう」とわざわざ朝鮮料理をご馳走してくれました。その温かさで少しはまっとうに生きることができました。まあ、おいらの話はともかく、「カンニングはいかん、場外に出なさい」で済む話を、試験官の怠慢を何一つ問題にせず、あたかもその責任を転嫁するように、ひとりの浪人生を八つ裂きにするがごとく「大事件」に仕立て上げている今のマスコミ報道は異常としか言いようがない。大衆を煽っていくそのマスコミの体質はちっとも戦中と変わっていない。「近く、京都府警事情聴取へ」と今朝の新聞にあるが、特定できてるならすぐ聞けばいいのに何故間を置くんだろう。本人はこれほど世間を騒がすなどと夢にも思わなかっただろうし、自殺しなければいいがなあ。自殺しなくとも、これで彼の人生も終わりだなあ。マスコミに、この程度のカンニングで彼を死に追いやる権利がどこにあるのだろう。