また14歳の中学生がホームレスを鉄パイプで殴り重症を負わせ、逮捕された。少年はホームレスに何度もコンクリート片を投げ、「追いかけてくるのが面白かった。ホームレスは生きている価値がないと思った」と語り、常習のようだった。ほんとうにこうした虚しい事件が後を絶たない。ぼくがまだ現役だった頃、田町のNEC本社から商談の帰りの路上で、脚が悪そうで発泡スチロールの箱に乗って蹲っている老婆を見かけたことがある。暑い最中、破れた傘を日よけにしていた。「これ、飲むかい?」、ぼくは可哀想になって近くの自販機で冷たい缶コーヒーを買って、彼女に手渡した。「にいさん、ありがと」「脚、どうしたの?」「夜討ちにあったとですよ、横浜の公園で。ガラスが刺さっとります」「何か、欲しいものはないかい?」「にいさん、タバコを一本、タバコでガラスが溶けると聞きよりましたで」。ぼくは彼女にタバコを渡して、火をつけた。「ありがと、すまんこってす。にいさんだけです、やさしくしてもろうて。この脚さえ動けばねー、もうこの箱擦り切れてしもうて、あの魚屋でもくれんとですよ」。ぼくは魚屋に行って交渉し、ばあ様が座れそうな新しい発砲スチロールの箱を貰いうけ、彼女に渡した。炎天下に路上で蹲る老婆に見かねて、ぼくは田町警察署に「なんとかならんか」と交渉した。「あの婆さんねー、横浜から流れてきたらしいんだけど、こっちも困ってんだわ。施設に入れようと救急車を回したら、殺されるーって大声あげるしねえ、ちょっとアタマおかしいんだわ」。このぼくの出合った老婆のように、ホームレスになる人たちにはいろんな事情の人たちがいる。それを鉄パイプで殴りつけた少年がいうように彼ら彼女には「生きている価値がない」かも知れない。それは他人様に言われるより本人が一番身に染みて知っていることだ。日本には自殺者が三万人、すべて「生きている価値がない」と思うから自殺する。ぼくのように死ねないから、生きている価値がないけど生きている人たちというのはそれこそ数え切れないだろう。社会に弾力性があった時代には、不遇な人たちや弱者に温かい手を差し延べる人たちも多かった。しかし今の世の中は殺伐としていて、他人を思いやる気持ちなどさらさら無くなった。ホールレス狩りを楽しむ少年の心はその象徴だろう。時代は、ますます殺伐としたものになっていく。