小沢一郎の資金管理団体「陸山会」をめぐり、政治資金法違反罪に問われた衆議院議員・石川知裕被告ら元秘書3人に対し、東京地裁は、3人とも有罪とする判決を下した。まさに驚愕の判決である。昔から「疑わしきは罰せず」という言葉がある。これは冤罪を避けるため、疑わしくとも「物的証拠」がなければ「無罪」とする証拠主義の司法理念に基づくものだ。ところが今回の判決は、まさに物的証拠のない検察の推論をそのまま登石郁郎裁判長が「推認」し、有罪とした。客観的証拠もなく、今回のように推測や裁判官の価値観で事実認定する「推認」が許されるならば、これから冤罪は飛躍的に増加するだろう。登石裁判長は何らかの政治的意図が働いたのではないかと邪推してしまうほどだ。たとえば水谷建設が石川被告に渡したとされる裏金にしても、渡した側は「渡した」と言っているが、それを裏付ける物的証拠もなにもない。これでは何人かが「やった」と言えばそれだけで事実になってしまう。こんな物的証拠に基づかない判決が出るとは、司法が腐敗している証左である。
東京電力が電力料金を15%値上げするという。ふざけるな、と言いたい。原発を止めて火力の燃料費が上がるためとの理由らしいが、それは建前である。もともと電力料金は「総括原価方式」というものが認められていて、総コストに3%の利益を上乗せして決めるのである。ところがこの算出でいくと、コストが高ければ高いほど会社は儲かる算出になる。だから東電は、この総コストにあらゆるものをぶち込んでいるのである。到底純コストとは言えない代物である。このような方式が認められたのは地域独占の電力体制にある。第二に今回の原発事故による賠償額は想像を絶するほど計り知れない。結局、東電自身は、賞与半減、賃金5%程度の削減で茶を濁し、あとはすべて国や電力値上げで国民に義援金をねだろうという魂胆である。こんなことを許してはならない。日本航空のように、きっぱりと一度潰すべきである。そして株主、金を貸し付けている銀行にも責任を取らせるということが資本主義の論理である。そして会社更生法を出させ、再出発させることが第一である。また同時に、発送電の分離を認め、地域独占体制から電力の自由化を行う。そうしなければ、世界に比して高い電力料金は是正されないだろう。
人生は一度っきり。なら、「存在の彷徨」や今までの掌編小説を含む俺の作品をなんとか活字にしたいと思った。そして俺はそれらを活字にするため、「いのちにふれる」という新雑誌を立ち上げた。社名を30代にフリーになった時につけたキングコング社とした。社印も残っていたからだ。アパートの三畳一間を仕事場にし、創刊号は、俺の原稿だけでは印刷するだけ大赤字になるので、広告がもらえそうな大企業の経営者に軒並み取材のアポを取った。その一人に住友不動産の安藤太郎相談役がいた。安藤氏は住友銀行副頭取から頭取候補に敗れ、住友不動産の社長に転出、それまで住友グループの一財産管理会社だった同社を、高層ビルの建設を柱に、あれよあれよという間に三井不動産、三菱地所と肩を並べるほど急成長させた同社の中興の祖である。俺は彼に約二時間のインタビューを試み、創刊号に四ページモノの記事を載せたら、広報部長が「谷さん、非常によく纏まっていて、当社の社内報に転載させてもらってもいいですか」と言ってきた。勿論かまいませんよと応えたが、後日オフレコとしてどうしても聞きたいことがあったので、安藤相談役と再び会った時、問うてみた。野村秋介の一件である。土地が急騰したバブル時代、同社は住友商事と共同で東京近郊の町田を大規模に地上げしたことがある。そのやり方に「悪徳不動産・住友」と叩かれ、極左のような新右翼の野村秋介が同社に乗り込んで安藤太郎に詫び状を書けとせまったものだった。野村秋介とは後日、朝日新聞社本社で抗議の割腹自殺をしてご記憶の方もいるかもしれない。俺は安藤相談役に問うてみた。「で、どうされましたか。野村秋介は右翼といっても極左のような人物、金では決着つかんかったでしょう」。「いや、オフレコですが、こっちが6000万円、住友商事も6000万円、金をある人を介して渡しました」「野村秋介が金を受け取る、ちょっと信じられませんね」「確かに受け取りましたよ。後日本人から礼状がきましたから」。記者というのは信用してくれるとこんな秘話でも話してくれる。「まあ、いろんなことがありましたが、みんな墓場まで持っていきますよ」、安藤相談役は自嘲気味に笑いながら、そう語っていた。また日経連副会長でメルシャンの鈴木忠雄社長は、ガンを告知され、それを克服した話をしてくれ、やはり創刊号に四ページモノで掲載したが、広告をもらったことはいうまでもない。そうこうして印刷代はペイし、創刊号は書店にも並べてもらった。これで自分の遺書は活字になった。これで文字通り、文学とはおさらばである。長い間引きずってきた「文学」とおさらばと思うと、その裏で苦労してきた妻の美恵子に今まで苦労をかけ申し訳ない気持ちで一杯になった。これからは金儲けに徹し、カミさんをラクにしてやろう。俺にとって、それが次の目標となった。金儲けというのを目標にしたのは49歳にして初めてだった。俺はせっかく創刊した雑誌だし、これを見本誌として、これからは金儲けのために継続して雑誌を作ることにした。「いのちにふれる」のコンセプトを心の雑誌から、「明日の子供たちのために、いのちを大切にする視点から、人と企業の社会活動を考えるオピニオンリーダー誌」とコンセプトを大きく変更した。そして、自律神経の持病を抱え、ヨロヨロしながらも大企業経営者や雑誌の格を上げるために多くの著名人にも会った。経営は軌道に入り、いつしか、三畳一間から事務所を構えるようになり、自営業から資本金1000万円の株式会社にもした。そして中古だが一軒家を購入し、30年にわたるアパート暮らしからおさらばすることもできた。「これで大家に嫌味言われて家賃払わなくてすむわ。あたし、門扉のある家に住みたかったの」と、美恵子は嬉々として喜んだ。しかし体力はもう限界にきていた。足かけ七年を経たのち、ささやかながら蓄えも少しできたので、俺は、意を決して、会社を清算した。58歳で現役引退である。今から思うと、塩月によって、俺は病気になり、そして今もその病気を抱えているが、塩月に学んだからこそ、独立も出来たと思っている。塩月はいつも言っていた。「人生は闘いじゃあ、闘って、闘って、闘いまくれ。そして己に勝って、味方に勝って、敵に勝つんじゃあ」と。また実業公論の荒川社長や小野編集長にもいろいろ勉強させてもらった。出会ったいろんな人たちにも人生の勉強をさせてもらった。ロッキード事件で田中角栄を逮捕した堀田力は検事から福祉の世界に転身し、「思いを強く持ち、自分のいのちを捜すこと」と人生を説く彼は、未だにさわやか福祉財団の理事長として全国の福祉のNPOを応援している。陸軍士官学校出身の中條高徳はアサヒビールの営業担当の副社長としてキリンを抜きアサヒをトップの座まで導いた男だが、名誉顧問になった晩年に至るまで気迫に満ちた鋭い眼光は変わらなかった。その眼差しに学ぶものがあった。介護や居酒屋「ワタミ」の渡邊美樹会長は、「仕事とは人間性を磨くためにある」と言っていた。また俳優から参議院議員に転じた木枯し紋次郎こと中村敦夫は「谷さん、人生は所詮死ぬまでの暇つぶしですよ」と言っていた。世間でダーティーと言われた人たちにもよく会った。サラ金大手の武富士の創業者武井保雄会長は深谷出身でいつも産地のネギを送ってくれていたが、「人生は常に波動をキャッチし、そして無欲を欠くな」と言っていた彼は、京都のお寺の地上げがらみで暴力団とのイザコザがあり、それを嗅ぎ付けた記者宅に盗聴器を仕掛けるなど、晩年恐怖を感じ、異常な行動を示していた。読売新聞務台社長の懐刀といわれ、中部読売新聞社社長から地産グループを率いた竹井友康、彼はその後戦後最高といわれる53億円の脱税で三年半のムショ暮らし、波瀾万丈の人生に、晩年彼は名前を心泉と改め「今は、自分を拝みたいような自分になりたい」と言っていた。何千人とインタビューや対談をしてきたが、中小企業のおやじにしろ著名人にしろ、世に何かをなした人というのは、なにかしら学ぶところがあった。また、いろいろ恨みもし、感謝もし、人生とは複雑なものだが、とにもかくにも俺なりのジャーナリズム人生はこうして終わった。機械工として油まみれになって俺たちを育ててくれたおやじを見て、「資本家に安い賃金で働かされているだけじゃねえか。俺はおやじみたいに絶対なるもんか」、そう思ってヘンテコリンな人生を送ってしまった俺を見て、おやじはきっと墓場で笑っているに違いない。青春哲学の道は当初(1)のみで終わりだったが、なんだかダラダラと自分の一生を綴ってしまった。どもりだったまさおっちが、以来、文学とブラックジャーナリズムの狭間のなかで、それなりに社会に対してサシで勝負してきた人生に、ある意味納得はしている。が、今も病気の後遺症で何をやっても神経が二時間しか持たず、空疎な心にパチンコ台と「闘い」格闘し続けているしかないとはなさけないが、女とは勝手なもので、何不自由ない生活が手に入ると、パチンコ通いの俺に「あなたは夢のない情けない男」と罵倒された時があり、激怒した俺は区役所で離婚届をもらい、女房に突き出したこともあった。確かに「闘い」を忘れた男は情けないに違いない。それは自分が一番よく知っているところだった。しかし「闘う」ことを忘れた俺は、もう、人生の終末に近づいているのだろう。・・長い間、ご精読ありがとうございました。(完)
(写真は「経営コンサルタント」取締役時代)
失業保険で暮らしているさなか、なんとか自分の今までの文学性の総結集とも言える「存在の彷徨」という哲学小説が完成していた。俺にとっては文学への関わりあいの遺作とも言える作品だった。埴谷雄高の「死霊」とサルトルの「嘔吐」に影響を受けた、「存在する意識」をテーマにしたものだった。俺は五木寛之審査委員長のノンフィックションの「親鸞賞」に応募した。小説だが意識というテーマではノンフィックションだったからだ。しかしあまりにも実験的な文体だったので、公募には一次予選も通過せず、落選した。しかし、世間では愚作であっても、自分には文学に対する遺書のようなものだった。それなりに満足し、俺はこれで永久に文学から足を洗おうと思った。丁度この時期に親友二人と叔父が相次いでこの世を去った。親友二人はともに高校時代からの友人だった。そして二人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。俺もその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ(俺のあだ名)、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝カン香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、俺が立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、俺のいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖ナカシをやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、京都伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、俺は僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。人生は一度っきり。そういう思いが強く心の中で渦巻いていた。
失業保険で暮らしているさなか、なんとか自分の今までの文学性の総結集とも言える「存在の彷徨」という哲学小説が完成していた。俺にとっては文学への関わりあいの遺作とも言える作品だった。埴谷雄高の「死霊」とサルトルの「嘔吐」に影響を受けた、「存在する意識」をテーマにしたものだった。俺は五木寛之審査委員長のノンフィックションの「親鸞賞」に応募した。小説だが意識というテーマではノンフィックションだったからだ。しかしあまりにも実験的な文体だったので、公募には一次予選も通過せず、落選した。しかし、世間では愚作であっても、自分には文学に対する遺書のようなものだった。それなりに満足し、俺はこれで永久に文学から足を洗おうと思った。丁度この時期に親友二人と叔父が相次いでこの世を去った。親友二人はともに高校時代からの友人だった。そして二人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。俺もその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ(俺のあだ名)、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝カン香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、俺が立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、俺のいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖ナカシをやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、京都伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、俺は僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。人生は一度っきり。そういう思いが強く心の中で渦巻いていた。
話を戻して、その薬で、ようやく半分の力まで出せるようになったので、また、少しづつ仕事が出来るようになった。入社して五年もした頃、一宮がとうとう塩月に耐えられなくなって、会社を辞め、新たな出版社を立ち興した。俺はほっとした。一宮にも苛められ、塩月にも日夜怒鳴られていたが、まだ塩月のほうが、男としての社会に対する闘いの情熱というものには純なものがあり、怒鳴り散らして社員の使い方はまったくヘタだったが、男として尊敬できる一面もあった。それから数年して俺は取締役になった。ハデな新聞広告を出し、表面的には一流経営誌の様相を呈し、経営も順調だった。経済誌というのはペンを武器に広告を取る、いわゆるブラックジャーナリズムと言われるのが普通だが、三井信託銀行の広報部長などは「谷さんところはホワイトと評価しています」と言われたぐらいだ。ところが塩月社長は次第に持病の糖尿病が悪化し、入院が長引くようになった。俺が49歳、足掛け11年勤めたある日、塩月はこの世を去った。塩月の奥さんは、これを契機に会社を解散すると言った。ぼくは20数人の生活もあるし、この会社は閉じなくとも立派にやっていけると奥さんを説得し、奥さんを社長、俺が副社長、塩月の三女を専務に据える新体制を取った。俺は、番頭で十分だった。俺は塩月の三女を将来の社長に据えるため、以前から彼女に当初編集をやらせ、そののち営業をやらせ、出版社経営のイロハを教えてきた。しかし、まだ二十代で軽薄な一面もあって、会社の代表印を渡すわけにもいかず、奥さんに社長になってもらって重しになってもらう、そのうち彼女が成長したら、社長にさせるつもりだった。ところが、彼女がある著名な評論家とホテルで取材後一夜を共にしてしまい、あげくの果て、子宮外妊娠し、手術で卵巣まで摘出してしまった。その頃から情緒不安定になっていたことを俺だけが知っていた。塩月の葬儀が終わって、あいさつ回りに出かけていたある日、奥さんがいる前で「あなたはハラ黒い」と俺に突然食って掛かってきた。自分が社長になれなかったこともあり、急に俺への罵倒が始まり、誰からかへんな入れ知恵をされたのかとも思ったが、俺もハラが立って、「そこまで言うのなら、ぼくはこの会社を辞めます」と席を立った。その後、電話で俺は奥さんに「彼女は精神的に病んでいるので、休ませて上げてください。元気になったらまた戻ればいいのですから」と言った。しかし奥さんは「自分の娘を精神病扱いにした」とぼくの辞表を受理した。なんとも無念な話しだった。ぼくは失業保険で、1年、もんもんとした気持ちでパチンコを打ち続けた。一年後、奥さんにふっと電話をいれると、奥さんは「あなたには大変申し訳ないことをした。あなたの言うことは本当だった。あれからやっぱり娘は異常な行動を取って、お得意先に怪文書をバラまいて、大変なことになって、もうこれ以上続けるのは恥ずかしいので会社を解散し、今、残務処理をしているところです」。ぼくはまた無念な気持ちになった。
結局病名もわからないまま、二年間、処置方法のわからないまま、そのような状態が続いていた。今から思えば、病名をつけると過換気症候群や不安神経症でもあったろうし、うつ病、慢性疲労症候群でもあったろう。いずれにしても、ストレスでアタマがパンクし、脳内のセロトニンという神経への伝達ホルモンが激減したようだ。しかし、当時は病院に行っても、そんなことも判らず、フラフラと歩き、公園のベンチで寝る日々が続いていた。ある日、会社の近くに「万病に利く」という看板が目につき、その唐木心療内科クリニックで診て貰った。すると「あなたは自律神経失調症」と初めて病名が付いてほっとした。副医院長というその医者は「七度三分くらいの微熱が続くのも、そのせいで、八度くらい上がる人もいるぐらいです」という。「とにかくこの薬を続けてください」。一日三回、その調合された薬を飲むと、微熱はなくなり、元気か少し回復し、今まで十分の一だった体力が五割まで回復したようだった。ところがこの薬は保険が効かず、その後200万円以上、薬代を払うことになった。しかし元気には代えられず、数年が過ぎた。ある日、また薬を貰おうとクリニックを訪れると、突然、医者が代わっていた。「このクリニックは閉鎖になりました。ぼくはその整理をしています」。副医院長という医者は実は医者の免許を持っていなかったことが発覚したらしい。医院長は高齢で、その息子さんがやっている原宿心療内科にあなたの処置は引き継いでもらうとその医者は言った。そして、あなたが飲んでいた調合の薬は、漢方で味付けしたものに、向精神薬のホリゾンと精神安定剤のドグマチールを混ぜたもので、いずれも健康保険が利く薬ですと言われた。俺は騙されて高額な薬代を支払っていたわけだが、元気を少しでも取り戻してくれた恩人でもあり、複雑な気持ちになった。そして、以来、ホリゾンとドグマチールを今でも飲み続けている。そんなに長く精神薬を飲み続けて、副作用がないわけもなかろうが、半分でも元気が取り戻せているのでそれでいいと思っている。
(写真は実業公論編集長時代)
そしてある日のことだった。冷房の利いた応接室で三時間、新宿の大手不動産会社の広報担当常務と話をして外に出て、しばらく部下と二人で歩いていた時だった。突然めまいがし、息苦しくなって、動けなくなり、道端で倒れてしまった。真夏の炎天下だというのに身体が異常に寒い。呼んでくれた救急車の中で、遠のく意識を必死で手繰り寄せながら、「ああ、俺は死ぬんだなあ」と実感するほど、異様な苦しさだった。慶応病院の救急処置室に運ばれ、結果は、過呼吸症候だった。つまり、何らかの不安によって、浅い呼吸が速くなり、血中の酸素濃度が急に高まって、手足のしびれやめまいを生じさせるというもので、「しばらく休んでいれば治ります」と医者から言われた。後から知ったことだが、これで水前寺清子は新幹線を止めたり、高木美保はトレンディドラマの出演をやめたという。しかし、医者から言われたほどそんなに簡単な病気ではなかった。その日以来、身体がだるくってどうしょうもないのである。俺は二週間アパート近くの病院に入院したが、一向によくならず、三ヶ月、会社を休職した。すると塩月社長が一宮の運転で見舞いに訪れ「少しづつでいいから、出社しろ」と言ってくれた。家では身体がだるくて、ほとんど寝ていたが、やがて、生活のこともあるので、頑張って出社するようになった。しかし、とても以前のように仕事ができない。道を歩いてもフラフラするし、なにしろ身体がだるい。熱があるのかと体温計で計ると、やはり微熱がある。にっちもさっちも行かない状況である。とにかく、生活がある。辞めるわけにはいかない。俺は月給泥棒を決め込んだ。朝、とりあえず出社すると、中央線に乗り込んで、二時間近くをかけてアパートに帰り、寝て、また夕方出社して、デタラメな営業日報を社長に提出した。勿論それだけではクビになるので、月のうち10日くらいはフラフラしながら都心の会社を訪問し、ある程度の営業成績は上げておいた。その数字でも他の人にヒケはとらない営業成績だった。しかし、途中で何度も過呼吸の発作に襲われ、その度に、袋を口に当てたり、公園のベンチで横になった。本当に自分でどうなっちまったんだろうと、判らなかった。仕事中に、大学病院や総合病院を何箇所も訪れ、内科から神経科から検査を60種類もしてもらったが異常は見られなかった。石堂さんというノンフックションライターに駒込病院の精神科を紹介され、教授に診てもらうと「これは、あんた、治らないよ」とまで言われてしまった。
そしてある日のことだった。冷房の利いた応接室で三時間、新宿の大手不動産会社の広報担当常務と話をして外に出て、しばらく部下と二人で歩いていた時だった。突然めまいがし、息苦しくなって、動けなくなり、道端で倒れてしまった。真夏の炎天下だというのに身体が異常に寒い。呼んでくれた救急車の中で、遠のく意識を必死で手繰り寄せながら、「ああ、俺は死ぬんだなあ」と実感するほど、異様な苦しさだった。慶応病院の救急処置室に運ばれ、結果は、過呼吸症候だった。つまり、何らかの不安によって、浅い呼吸が速くなり、血中の酸素濃度が急に高まって、手足のしびれやめまいを生じさせるというもので、「しばらく休んでいれば治ります」と医者から言われた。後から知ったことだが、これで水前寺清子は新幹線を止めたり、高木美保はトレンディドラマの出演をやめたという。しかし、医者から言われたほどそんなに簡単な病気ではなかった。その日以来、身体がだるくってどうしょうもないのである。俺は二週間アパート近くの病院に入院したが、一向によくならず、三ヶ月、会社を休職した。すると塩月社長が一宮の運転で見舞いに訪れ「少しづつでいいから、出社しろ」と言ってくれた。家では身体がだるくて、ほとんど寝ていたが、やがて、生活のこともあるので、頑張って出社するようになった。しかし、とても以前のように仕事ができない。道を歩いてもフラフラするし、なにしろ身体がだるい。熱があるのかと体温計で計ると、やはり微熱がある。にっちもさっちも行かない状況である。とにかく、生活がある。辞めるわけにはいかない。俺は月給泥棒を決め込んだ。朝、とりあえず出社すると、中央線に乗り込んで、二時間近くをかけてアパートに帰り、寝て、また夕方出社して、デタラメな営業日報を社長に提出した。勿論それだけではクビになるので、月のうち10日くらいはフラフラしながら都心の会社を訪問し、ある程度の営業成績は上げておいた。その数字でも他の人にヒケはとらない営業成績だった。しかし、途中で何度も過呼吸の発作に襲われ、その度に、袋を口に当てたり、公園のベンチで横になった。本当に自分でどうなっちまったんだろうと、判らなかった。仕事中に、大学病院や総合病院を何箇所も訪れ、内科から神経科から検査を60種類もしてもらったが異常は見られなかった。石堂さんというノンフックションライターに駒込病院の精神科を紹介され、教授に診てもらうと「これは、あんた、治らないよ」とまで言われてしまった。
さて、どうするか、急きょ金を手に入れるには、ここはまたどっかに身売りするしかない。俺は年明けすぐに新聞の就職ランから二つを選び、二つの面接をどちらに行くか迷っていた。二つとは焼き鳥屋と経営誌である。前の出版社の実業公論編集長時代に一度ペンを折ったことがあったので、もう経済記事を書くのはイヤだった。で、焼き鳥屋に勤め、焼き鳥を焼いて、余った時間で小説を書こうか、あるいは、やっぱり経済誌のほうが経験はあるし収入は安定するだろうしと、焼き鳥屋と出版社とどちらにするか迷っていた。しかし、とりあえず四谷にある経営政策研究所という「経営コンサルタント」という経営誌を発行する出版社に面接に行った。塩月修一といういかつい社長の面接となった。面談後、「君は編集より、営業がいい。給料は25万円」と塩月社長から言われた。当時、俺はもう39歳になっていたし、長男が中学生、長女が小学高学年だったので、最低30万円ないとやっていけなかった。それで塩月社長に「営業でもいいです。しかし、三ヶ月雇ってみて、こいつは使えると思ったら30万円に上げて下さい。その代わり、使えないと思われたら、ちゃんと三ヶ月でハラを切って辞めますから」「面白いことをいう奴だな、よし、それで行こう」。面接はOKとなった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。
俺はやっぱり「書く」という仕事しか定着できない性格かも知れない。しかし小説を書くには才能がない。とすれば、会話の綴りであるドラマシナリオなら行けるかもしれない。そう思って、読売文化センターのシナリオ塾に通った。先生はシナリオ作家協会の理事でもある須崎勝弥氏だった。映画「人間魚雷」「連合艦隊」などの戦争ものを始め、山口百恵と三浦友和の「潮騒」、テレビでは「青春とはなんだ」など数多く手掛けていたシナリオ作家である。彼はこういうことを言っていた。「ぼくがシナリオを書こうと思ったのは、ぼくは映画を観て感動することができる、これだけ感動できる心があるなら、必ず書くこともできるはずだと、そんな単純で悲壮な決意だったですよ」。なるほど、それなら俺もできるはずだ、俺はシナリオセンターに通い、シナリオの構築やいろんな作家の作法を勉強した。そして「土工漂流記」という一時間もののシナリオを初めて書いて須崎先生に読んでもらった。「うん、ヒットくらいは打てるかもしらんがホームランは無理だなあ」、と言われたが、とりあえずNHKの公募に出してみた。そして次に知人から双葉社のマンガ雑誌の担当者を紹介してもらって、マンガの原作シナリオを5.6本書いて見てもらった。担当の林さんは読み終えた後、「一度釣りバカ日記のようなコンセプトで書いてもらえませんか」というので、サントリーの「なんでもやってみなはれ」という佐治社長と京都営業所から宣伝部に赴任した遊び人の主役を織りなしたマンガの原作シナリオを書いた。林さんはそれを読んで「谷さん、やりましたね」とエライ褒めようだった。よっしゃあ、これで食っていけると思ったら、後日、林さんから電話が入って「編集長が物語が前半後半二つに割れてると却下されました。すみません。お詫びに次号のクイズに応募してもらってハガキに赤い縁取りをしてもらえば、当選にして一万円送ります」。俺は連載を企画していたので宣伝部にひょんなことから配属される主人公の一回目を書いたのだが、才能の無さに落胆してしまった。年末になってNHKのドラマシナリオ公募の発表もあったが、これも落選、岡戸社長からの振り込みも期限切れになって、またカミさんから金の催促をされる始末になった。もはやディエンドである。
電気屋を辞め、また家でごろごろしだしたある日、広告代理店の知人から「広告を手がけている得意先のオカドという会社が傾きかけている。このままだと広告代が回収できなくなる。お前の力ならできる。立て直してくれ」という依頼があった。相模原でトラック100台を持ち引越しを手がける、岡戸総業という運送会社だった。俺も子供二人を抱え、失業中だったので、岡戸社長に会い、企画室長という肩書きで、仕事をするようになった。最も俺は雑誌生活が長くサラリーマン気質ではないことは前回の電気屋で経験しているので、勤めるというのではなく経営コンサルタントとして週5日常勤の請負仕事という形をとってもらった。中に入って調べてみると、まず、常用といわれる物流の仕事より、引越しのほうが5倍も粗利が出ることがわかった。まず、方針としては引越し部門を伸ばし、収益を上げること。次に現状の引越し受注を見ると、チラシ配布、電話帳広告が主軸だった。受付でお客のアンケートを実施させ調べた結果、引越しの売り上げに占める広告料はそのどちらも25%を占めていた。広告料を減らして、売り上げを上げる方法はないか。今でこそスーパー、コンビニのサービスカウンターは多くのサービスを取り上げているが、今から25年前は、ほとんどサービスカウンターを設置しただけで、各流通業も模索状態だった。一方引越し顧客を調査すると、市から同じ市に引っ越すのが3割、隣の県なり市に引っ越すのが3割、他県に引っ越すのが3割という状況だった。そうするとほぼ6割は地域密着の流通業とサービスとして提携できる素地があった。俺は、プレゼンテーションの資料を作り、スーパー、コンビニ、ホームセンターなどを回り、どんどん提携を進めていった。パンフレットを店に置かしてもらい、各流通業の店のチラシにも「引越し承ります」と広告を入れてもらい、受ける電話はオカドに置いて、成約できれば10%の手数料を支払うというシステムだ。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、俺はそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など本社を回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、俺の構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、岡戸社長は、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。俺は、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。そんなこんなで、三年半引越センターの仕事をやっていたある日、岡戸社長の別れた奥さんと喧嘩になった。奥さんはまだ肩書きだけは常務として在籍しており、その弟が専務になっていた。詳しい事情は忘れたが、奥さんの時代と経営規模が随分変化しているのにも関わらず、たまたま社にやってきた常務が昔のやり方を持ち出したので「あなたには経営が判っていない。口出ししないで欲しい」とやり合った。「谷さん、もう少しガマンしてくれればよかったのに」と岡戸社長は言ったが、俺はまたまた身を引くことになった。俺はやはり組織や人間関係というものが苦手だったし、身を引く潮時でもあった。岡戸社長は向こう半年間、今までの功績を認めてくれて、毎月30万円退職金代わりに振り込んでくれるという。それなら半年間仕事をしなくても暮らしていける。俺はドラマのシナリオ塾に通うようになった。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、俺はそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など本社を回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、俺の構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、岡戸社長は、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。俺は、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。そんなこんなで、三年半引越センターの仕事をやっていたある日、岡戸社長の別れた奥さんと喧嘩になった。奥さんはまだ肩書きだけは常務として在籍しており、その弟が専務になっていた。詳しい事情は忘れたが、奥さんの時代と経営規模が随分変化しているのにも関わらず、たまたま社にやってきた常務が昔のやり方を持ち出したので「あなたには経営が判っていない。口出ししないで欲しい」とやり合った。「谷さん、もう少しガマンしてくれればよかったのに」と岡戸社長は言ったが、俺はまたまた身を引くことになった。俺はやはり組織や人間関係というものが苦手だったし、身を引く潮時でもあった。岡戸社長は向こう半年間、今までの功績を認めてくれて、毎月30万円退職金代わりに振り込んでくれるという。それなら半年間仕事をしなくても暮らしていける。俺はドラマのシナリオ塾に通うようになった。
「こいつはヤバイ」、緊急避難的に仕事をしなければ食っていけなくなった。しかし俺は生活苦というのには程遠い人間である。武士は食わねど高楊枝、ではないが、金というものにまるで執着がない代わりに、生活苦というものに怯えもなければリアリティーというものがまったくないのである。その意味で妻である美恵子はずいぶん苦労したに違いない。ところで、チンケな仕事しかないなら活字世界はもういい、俺は新聞で探して「家庭科学」という電器量販店に面接に行った。店舗が8店舗ほどあり、従業員は50名ほどいた。社長面接の終わり頃、「34歳ですか、ギリギリの年齢ですが、採用決定としましょう。ただし特異な経歴なのでどういう仕事をしてもらうか、とりあえず商品センターに行ってもらいますか」、と社長は自分自身に言い聞かせているのか、俺に言っているのかよく判らない言い方をした。こうして俺は量販店の商品センター、つまり倉庫係となった。メーカーから届く冷蔵庫やテレビなどメーカー別に山積みになったものを、各店舗の店員が軽トラックに積んで持っていくのを型番ごとにチェックするのが主な仕事だった。勿論その出し入れも手伝うし、各店舗から大量に持ち込まれる空のダンボール箱を平坦に積み上げていく作業から、便所掃除まで俺の担当だった。汚れた便器を洗っていても苦にはならなかった。何メートルもダンボールを積み上げ整理していく作業も、なんだか清々しかった。三か月ほど過ぎると「少しは型番覚えただろう」と、吉祥寺店のラジカセの売り子に回された。客が来ると接客するのだが、客はどの機種がいいのかわからない。当時ラジカセがブームで100種も展示されていて、俺だってわからない。数日してこれじゃあ売れないとすぐ気がついて、一つアリスの曲をデモテープにして、全部大きくかけてみた。するとシャープの機種が最大にかけても音が割れず、東芝の機種は少し大きくしただけで割れた。そこで客が来ると「いらっしゃいませ」と声を掛け、迷ってそうな客には「そうですねー、この機種だと、ほれ、こんなに大きくかけても音が割れませんが、こっちだと、ほらこのように割れてしまいます」、とデモテープで聞かせると「これください」と即決になった。どんどん売れる情報は即座に伝票の打ち込みから社長の耳に届き、吉祥寺の音響部門が大きく数字を伸ばしていると話題になった。シャープの営業マンもやってきて「あなたが谷さんですか、沢山売って頂いてありがとうございます」とわざわざ礼にきた。しかし同僚から妬みの声も届いてきた。ラジカセだって、クラッシックやポップスなどジャンル別にいろいろ特長があるんだ、音量だけで一律に売るというのはいかがなものかというのである。それもそうだと思うけれど、そんな難しいこと言ったら即決できなくなる。第一客から苦情はこないし、むしろあのラジカセ買ってよかったわ、と再来店の客に言われたこともあった。量販店では月に一回、全社員がホールに一同に集まり、赤いハチマキを占めて、「売るぞおー」っと決起大会も行った。そんな電気屋に半年ほど勤めたある休日、通勤も兼ねて使わせて貰っていた店の軽自動車で近くの相模湖に魚釣りに出かけた。たまたま同僚がそれを見かけたらしく、翌日、上司に使用で使ってもいいのかと喰ってかかっていた。俺はすぐ「責任をとります」と辞表を出した。「今後注意すればいいことだし、こんなことぐらいで辞めなくてもいいじゃないか」、と上司にそう言われたが、俺にとって会社勤めというのは性に合わず、どうも限界だった。足の引っ張り合いという人間関係にも馴染めなかった。その頃もちびちび小説らしきものを書いていたが、納得のいくものは相変わらずまったく書けなかった。俺の兄貴は詩を続けていたら詩の芥川賞といわれるH賞に手が届いていただろうし、小説に転向してからも何度も新人賞候補になったほど文才がある。ストーリーを構築するのが上手く、マンガも得意だった。ところが俺のほうはストーリー性にはまったく才能がなく、むしろ物事を哲学的に考てしまう。絵もデッサン力はなく、色彩だけがは得意だった。若い頃、兄貴は染織図案の道に進んだが「俺には色彩感覚がない」と辞めてしまったことがある。兄貴と俺はお互い足して二で割れば丁度よかったのかも知れない。
(前編をお読みでない方は左下のカテゴリーの「小説」をクリックすれば、収録されています)
「汚れちまった悲しみに」、人間というものは汚れながら生きていくものかもしれない。俺は土方の仕事を辞め、次は何をしようか、タウン誌を作ろうと企画書まで作ったがうまくいかなかった。それなら編集プロダクションとしてフリーになろうと思った。就職雑誌のリクルートの門をたたき、リクルートが発行する「住宅情報」の仕事を請け負いで手掛けた。新築の住宅を取材し、徒歩何分でスーパーがあるとか4頁モノの記事を書いて誌面の割り付けまでして一本3万円だった。こんなコピーライターしてるんなら、まだ経済誌のほうがマシだなあとも思えた。しかしもう経済誌の仕事はしたくなかった。そんな折、実業公論を辞めてマーケッティングの仕事を共同経営していたミヤガワ君からお声がかかった。クライアントはいすゞ自動車のマリンエンジン部のようで、暇だったら仕事を手伝ってくれとのことだった。いすゞが千葉県の漁港にあるマリンエンジンの販売店の動向、店主の要望や規模の情報を収集して販路の拡大につなげたいらしい。俺は了解して、知人にもらったポンコツの車を飛ばして二週間泊まり込みで指定された千葉県の漁港の各販売店のオーナーを取材した。言われたようにクライアントの名前は伏せて、「協会の関係で来ました。業界発展のためにお話しを聞きたい。伺ったことは統計処理しますので一切個人的なことは表に出ませんのでご安心ください」、ミヤガワに言われた通り、こう言って店主を安心させ、個人情報を得るのである。二週間で終える一仕事が30万円にもなったので、俺は京都にも飛び、やはり同じスタイルで今度はヤマハの依頼でバイクの販売店を回ったりした。しかし、これは体のいい「産業スパイ」である。世にいう「マーケッティング」「市場調査」という多くは産業スパイみたいなものである。こんなバイタの身売りのような仕事じゃ心が痛んで、実業公論を辞めた意味はねえ、俺はそれ以降ミヤガワの仕事を断った。しばらくまた家でゴロゴロしてると、「あなた、もうお金ないわよ、明日から生活どうするのよう」、預金通帳片手に美恵子が俺に詰め寄った。
「汚れちまった悲しみに」、人間というものは汚れながら生きていくものかもしれない。俺は土方の仕事を辞め、次は何をしようか、タウン誌を作ろうと企画書まで作ったがうまくいかなかった。それなら編集プロダクションとしてフリーになろうと思った。就職雑誌のリクルートの門をたたき、リクルートが発行する「住宅情報」の仕事を請け負いで手掛けた。新築の住宅を取材し、徒歩何分でスーパーがあるとか4頁モノの記事を書いて誌面の割り付けまでして一本3万円だった。こんなコピーライターしてるんなら、まだ経済誌のほうがマシだなあとも思えた。しかしもう経済誌の仕事はしたくなかった。そんな折、実業公論を辞めてマーケッティングの仕事を共同経営していたミヤガワ君からお声がかかった。クライアントはいすゞ自動車のマリンエンジン部のようで、暇だったら仕事を手伝ってくれとのことだった。いすゞが千葉県の漁港にあるマリンエンジンの販売店の動向、店主の要望や規模の情報を収集して販路の拡大につなげたいらしい。俺は了解して、知人にもらったポンコツの車を飛ばして二週間泊まり込みで指定された千葉県の漁港の各販売店のオーナーを取材した。言われたようにクライアントの名前は伏せて、「協会の関係で来ました。業界発展のためにお話しを聞きたい。伺ったことは統計処理しますので一切個人的なことは表に出ませんのでご安心ください」、ミヤガワに言われた通り、こう言って店主を安心させ、個人情報を得るのである。二週間で終える一仕事が30万円にもなったので、俺は京都にも飛び、やはり同じスタイルで今度はヤマハの依頼でバイクの販売店を回ったりした。しかし、これは体のいい「産業スパイ」である。世にいう「マーケッティング」「市場調査」という多くは産業スパイみたいなものである。こんなバイタの身売りのような仕事じゃ心が痛んで、実業公論を辞めた意味はねえ、俺はそれ以降ミヤガワの仕事を断った。しばらくまた家でゴロゴロしてると、「あなた、もうお金ないわよ、明日から生活どうするのよう」、預金通帳片手に美恵子が俺に詰め寄った。
長女に女の子が生まれた。名前は「絆夏(はんな)」という。おいらの時代と違って、いまどきの親はみんな難しい名前をつけるのが流行っているらしい。上記の写真がその取りたて3時間後の赤ちゃんである。何もないところから、こうしてこの世にぽっこり命が誕生する。じっと見ているとなんだか不思議でもあり、神聖な気持ちになってくる。そのあどけない姿を窓越しに見ていると、ふっと、梁塵秘抄の中に収められている歌を思い出した。江戸時代、遊郭の娼婦が身動きがとれないわが身を詠んだ歌である。「 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声きけば わが身さえこそ揺るがるれ 」。そうだよなあ、本来、遊ぶためにこの世に生まれ出たんだよなあ、戯れするために生まれて来たんだよなあ、でも長い人生のなかで苦境に立つことは何度もあるし、「苦を楽しむ」っていう心の余裕があれば最高だけどなあ。このはんなちゃんもこれからどんな人生を歩むのかな、人生を、この世を楽しく遊べるかなあ、思わず両手を合わせてお祈りしちゃいました。
輿石氏を幹事長に据えるなど、党内融和を図ったバランス人事の野田新内閣。仙谷氏の政調会長代行就任だけはいただけないが、まずは内紛「ノーサイド」の言葉通りの閣僚人事と言ってもいい。閣僚人事はどれも小粒だが、野田総理は菅の傲慢さに比して謙虚だし、政治を前に進めてくれる期待感はある。今日の世論調査では野田総理の支持率が50-70%、これはまあ就任早々のご祝儀相場としても、民主党支持率が、13%から31%に跳ね上がったのにはびっくりした。民主党にあきれ果て、自民30%民主17%という数字が、状況は何も変わっていないのに新総理になっただけて大逆転である。国民というのは所詮、その時々の雰囲気に流されるだけの衆愚なのかもしれない。野田氏はアメリカ従属、TPP参加、消費税10%増税路線である。一方の小沢一郎の政治路線はアメリカの資本主義はもう限界とみている。だから日本は独自の修正資本主義でいかなければいけないという。ここらが底辺層に厚い当初の民主党のマニフェストとして反映されたわけだが、菅によってすべて反故にされてしまった。野田総理は底辺層を底上げして中間層の幅を広げると言っている。そこらが実践できれば自民党にはない民主党らしさが出てくるだろう。そして最終的に増税不可欠としても、公務員給与の引き下げ、特殊法人の解体、天下りの禁止などして役人天国を徹底的にスリム化して無駄を無くすることが先決である。そういう納得のいく政権運営を「泥臭く」やってもらいたいところだ。