まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

まったく村山元首相の言う通りだ!

2014-02-28 | 発言
村山富市元首相は27日、都内の日本記者クラブで記者会見し、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」の検証を求める動きがあることに対し「詮索することは意味がない。収まった問題をあげつらい、『日本はけしからん国だ』といわれる状況を作って何になるのか」と批判した。

 村山氏は「(談話は)業者、軍、政府関係の資料を調べて総合的に判断して作られた。軽はずみに根拠なく作った作文とは思えない。事実がなかったとあげつらって何の意味があるのか」とも語った。

 また、今月中旬に韓国の国会内で講演した際、首相在任中の7年に表明した「村山談話」について「国際的な約束事、日本の国是みたいなものだ」と説明したことを明らかにした。

 日本固有の領土である尖閣諸島(沖縄県石垣市)について「中国、日本、台湾も含めて近辺の国が共有すればいい」と指摘。安倍晋三首相の靖国神社参拝に「外交関係が悪いのを承知の上で行ったのはよくない」と苦言を呈した。

まったくその通りだ。
齢90才を超えても頭は冴えている。

未来志向の外交というならば、過去は過去として清算し、「尖閣」も「竹島」も中国や韓国と共有の財産として外交を行うべきだ。

「おらが土地」という狭い国粋的な視点ではなく、世界平和という視点で外交を行うべきだ。

もうどうしょうもないなあ、NHK!

2014-02-27 | 発言
籾井勝人NHK会長の上記の写真は手が三本、別に奇形ではない。NHK職員が必死で答弁のメモを入れているのだ。前回、国会の一シーン。

籾井勝人NHK会長は26日の衆院予算委員会の分科会でも、理事に辞職届を書くよう求めたことについて「辞表を預かったことで萎縮するとは思わない。一般社会ではよくある」と述べ、問題はないとのバカな認識を示した。

もう、どうしょうもねえなあ。
事前に日付のない辞表を貰っておくなんて「俺の言うこと訊かなきゃ、いつでもクビにするぞ」と脅しをかけているのと同じではないか。それを「萎縮するとは思わない」とは、どういう神経か。
「一般社会ではよくあること」?、ねえよ、そんなの。大企業だって、会長や社長が取締役の辞表を事前に受け取っているなんて聞いたことねえよ。

籾井勝人は完全に独裁者きどりである。

こんな人間が会長に居座っていると、NHKはもう死んだも同然、公平公正どころではない、安部政権の官報、プロパガンダに成り下がってしまうだろう。

会長を任命したNHK経営委員も安部のお友達がズラリ。


監督官庁の新藤義孝総務相も「辞表を受け取ることによって一丸になろうということでしょう」と籾井を弁護する始末。

NHKは国民が受信料を払い、国民による国民のための放送局であり、政府のものではない。

何を勘違いしているのか、独裁者・籾井勝人NHK会長は、即刻辞任すべきである。

弾力性のない社会に自暴自棄か、無差別殺人未遂事件!

2014-02-24 | 発言
23日午後、JR名古屋駅近くの歩道に乗用車が突っ込み、歩いていた人を次々にはね、歩道にいた13人がけがをした。

運転していた30歳の男が「人をはねて殺すつもりだった」と供述したことなどから、警察は殺人未遂の疑いで逮捕して詳しく調べている。

逮捕されたのは、名古屋市西区の無職、大野木亮太容疑者(30)。
23日午後2時15分ごろ、名古屋市中村区名駅の「笹島交差点」の歩道に乗用車が突っ込み、信号待ちの人や歩いていた人を次々とはねて街路樹にぶつかって止まった。

これからの取り調べで動機は判るだろうが、父親は愛知県警の警察官だという。
「家庭のもつれ」が原因とも言われている。
大野木は30で無職、現職警官の父親に説教され、追い詰められ、父親に赤っ恥をかかせるために自暴自棄になって無差別の犯行に及んだのだろうか。

話は変わるが、ホームレスがどんどん締め出されている。東京は特にオリンピックの関係で、公園などから撤去が進んでいる。

なんだか、日本の社会全体に、弾力性がなくなっている。

こぼれる人間を、追い詰めることはしても、包み込むような社会ではなくなってきている。

秋葉原の事件を彷彿とさせる今回の無差別殺傷事件も、弾力性のない社会に、追い詰められ自暴自棄になったようだ。

社会全体が優しくならなければ、これからも奇異な事件が増えていくだろう。

安部「日本を戦争のできる国にする」!

2014-02-23 | 発言
「集団的自衛権を閣議決定する」、そういうことが今問題になっている。
多くの国民は、私も含めて、何のこと?難しいことは解らない、という域である。
麻生太郎副総理は以前、「ナチスドイツのように国民に解らないように押し進めればいい」と発言して問題になったことがあるが、まさに今、その言葉通りに、安部政権は平和憲法を解釈の変更だけで押し進めようとしている。
憲法9条の戦争放棄を国民投票に掛ければ、いくらなんでもボツになることが安部首相には判っている。
だから閣議決定で、憲法解釈を変えようというわけだ。
それでも国民には、もうひとつ解らない。
端的に言えば「安部首相は日本を戦争のできる国にしたい」のである。
「積極的平和主義」などという訳の解ったようなわからぬような言葉を使って、国民を煙にまき、戦争のできる国にしたくってしかたないのである。

安部首相が街頭演説に立つと、いつも周りで国旗を振り回す若者が目立った。
ネトウヨを中心に、20代、30代の支持者も多い。
彼らは、徴兵制になった時、本当にお国の為に、身を差し出す覚悟があるのだろうか。
そこまでは考えず、ただ単に、サッカー応援の乗りで「がんばれ、日本」っと愛国を主張しているのではなかろうか。

戦争と言ったって、想定敵対国は中国である。
ところが中国は核弾頭を膨大に持っている。
本気で大戦争になれば、小さな日本は滅亡してしまうことは明らかだ。

そう考えると、今までのように戦争を放棄し、「平和国日本」を貫き、平和的外交を果たすことこそが、日本の唯一の生きる道である。

そうしたことがどうしてわからないのか。

そう、安部も麻生も「おぼっちゃま」だから、戦争ごっこをしたくてたまらないのである。

国民は、ええかげん、倒閣運動を起こすべきである。

犯人は誰か、「アンネの日記」破り!

2014-02-22 | 発言
都内の公立図書館で、第2次世界大戦下にユダヤ系ドイツ人少女アンネ・フランクによって書かれた「アンネの日記」や関連書が破られる被害が相次いでいる問題で、被害に遭った都内5区3市の図書館では、警察に被害届を出すなど対応に追われている。21日までに確認できた被害は8自治体で約300冊にもおよんでいる。
まったく、奇異な行動だと言わざるを得ない。
単純に犯人は、ナチストか、とも思うが、そうなれば、嫌韓を叫ぶ右翼の若者の仕業か。
しかし都内の図書館を渡り歩く、その執拗さは、ある種、精神を病んだ変質者を想わせる。
図書館の防犯カメラの映像を分析すれば、そう時間はかからないで犯人が特定されるだろうが、かなり孤独で、精神的な病理に蝕まれた奴だろう。
なんだか、怒りより、さみしくなる事件だ。

右傾化は「はだしのゲン」にまで波及!

2014-02-21 | 発言
原爆投下後の広島を描いた漫画「はだしのゲン」を教育現場から撤去するよう求める請願や陳情が昨年九月以降、東京都と都内の区市の教育委員会・議会に計十四件提出された。

 請願は「旧日本軍の残虐行為を捏造(ねつぞう)している」「天皇に対する侮辱や国歌の否定が含まれる」として、学校図書館などからの撤去を求めている。練馬区教委などに請願を出した「教育問題懇話会」の代表者は「史実をねじ曲げた思想宣伝の教材になっている。親や教員の指導がないまま、子どもに読ませるには毒が強すぎる」と話している。

たかが漫画本にまで、右翼が押し寄せる時代になった。

「はだしのゲン」は別に史実をまげて描かれたものではない。一人の少年が原爆投下後から、その戦争の悲惨さの中から、たくましく生きる姿を描いたものだ。

安部首相の「国家主義」の旗振りによって、教育現場まで、そのうち「愛国心」の強化が打ち出されていくだろう。

そのうち「治安維持法」によって、一般市民が引っ張られていく時代になる。

こういう忖度が社会風潮をつくる!

2014-02-19 | 発言
東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めていたことが分かった。作家は手直しに応じざるを得ず「表現の自由を侵す行為で、民主主義の危機だ」と強く反発している。

 撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70)の作品「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種」。竹を直径一・八メートル、高さ一・五メートルのドーム状に組み上げ、星条旗や日の丸をあしらった。特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙を貼り付けた。代表を務める「現代日本彫刻作家連盟」の定期展として十五日、都美術館地下のギャラリーに展示した。(上記の写真は、紙をはがした中垣氏)

 美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌十六日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。中垣さんが自筆の紙を取り外したため、会期が終わる二十一日までの会場使用は認めたが、観客からの苦情があれば撤去を求める方針という。

 美術館は東京都歴史文化財団が都の指定管理者として運営。小室副館長は「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話しているらしい。定期展は今回で七回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。

 中垣さんは音楽を題材にした彫刻で知られ、一九八六年に第一回ロダン大賞を受賞。出身の岐阜県飛騨市の市庭園美術館には彫刻二十体余りが常設展示されている。今回の都美術館からの撤去要請を「長年の創作活動で初めて。自分の作品を改変するのは、身を切るようにつらいことだ。あまりに暴力的な物言いで驚いている」と語っている。

ひどい話だなあ、と思う。
芸術は自由だから芸術なんだ。
なんの制約もなく、想像力をはばたかせる、それが芸術なんだ。
その芸術が何たるかを知らずして、副館長は、右傾化の時代に忖度して、芸術の表現の自由にまで足枷をかける。
こんな芸術の解らない人間は副館長を務める資格はない。
が、
自分の身を守ることだけに終始して忖度する、こういったヤカラが、今後増えてくるだろう。
そして「国家主義」が当然の社会風潮となる時代をつくっていく。
根性のない日本人たちよ、日本を表現の自由のない国にしていいのか。

小さなことだけど・・

2014-02-18 | 発言
甲府市で観測史上最多の積雪を記録するなど、大雪の影響を受けた山梨県では、各地の道路で車が立ち往生するなどの被害が発生した。

 そんな中、製パン大手・山崎製パンのトラックドライバーの「神対応」がネット上で話題になっている。談合坂パーキングエリアで、動けなくなった350台のドライバーに、積み荷のパンを「好きなだけ持っていって」と大盤振る舞いしたからだ。
運転手の独自の判断というから、山崎製パンの広報部も「コメントを差し控えたい」としている。
立ち往生したドライバーたちの救援物資として活躍したから、山崎パン「よくやった」と美談になっているが、「コメントを差し控えたい」とは、さてどうしたものかと本社でも悩んでいるのではなかろうか。
全国ネットで、テレビにも放映され、企業イメージアップに貢献したことは言うまでもない。
しかし、誰がこのパンの費用を持つか、ということである。
運転手独自の判断というから、厳しく言えば、積み荷を勝手に処分したことで、背任横領になってしまう。
だから運転手が自腹を切って、その分を弁済するのだろうか。
また、普通配送は下請け業者がやっているので、その運送会社が負担するのだろうか。
はたまた、いいPRになったので、山崎製パン本社が負担するのだろうか。
どうでもいいことではあるが、ちっと、気になりました。

ぼくの脱皮!

2014-02-17 | 随筆
村上春樹の最新作の短編「イエスタディ」を読んだ。田園調布に生まれ育ったくせに徹底的に関西弁を使う20才の浪人生と、芦屋生まれのくせに東京の大学に入ると一切関西弁を使わなくなった「ぼく」との心の交流を描いた作品だ。
その作品に「あれ?」っと思う一節があった。
主人公の「ぼく」が関西弁を使わなくなった理由だ。
彼は、18年間の人生を振り返ってみると、「僕の身に起こったことの大部分は、実に恥ずかしいことばかりだった。思い出したくもないようなみっともないことばかりだった。考えれば考えるほど、自分であることがつくづくいやになった」。そして、「とにかくすべてをちゃらにし、まっさらの人間として、東京で新しい生活を始めたかった。そして関西弁を捨てることは、そのための実際的な、象徴的な、手段だった」。
この一節が俺の青春時代を、ふっと、よみがえらせた。

生まれてこの方、小さな頃から、俺はどもりで苦労した。
皆から嘲笑されて生きてきた。
幼いころは、近所の子供たちから「わーい、ちかづくな、どもりがうつるー」と石を投げられた。
また、高校生の時、ガールフレンドの前で教科書の朗読を当てられ、一行も読めない恥辱もあった。
死のうと考えた時すらあった。
それこそ村上春樹の小説のように「思い出したくないようなみっともないことばかりだった」。

高校を卒業し、どうしても大学の哲学科に入りたかった。
生きるためには強くなるしかなかったからだ。
しかし、鉄工所勤めの父には俺を大学に行かす金はなかった。
で、俺は、新聞の三行広告をみて、入学金を稼ぐために、軽自動車でたこ焼き屋を始めた。
暴力団ともつながる「テキ屋」稼業だとも知らず、一生懸命働いた。
たこ焼き屋は20人位いたが、全国から流れきた人たちが多かったし、関東弁も飛び交っていたように思う。
この時から、いつしか俺も「ヘンな関東弁」を使うようになった。
兄貴には「コラッ、京都に生まれ育ったくせに、ヘンな関東弁使うな」とよく怒られたが、不思議と、関西弁を使うより、関東弁で喋ったほうが、どもらなかったのである。

俺はますます関西弁を喋らなくなり、京都にいながら関東弁を喋ることによって「自己の脱皮」を図っていったように思う。
自分の本性というものは変わりようがない。
しかし、役者のように、「関東弁」を流暢に喋る新たな自分を演じることで、次第にどもらなくなっていった。

京都に居場所がなくなり、やがて東京に出て、雑誌記者35年を送ったが、俺にとっても青春期のそんな「関東弁」は、それまでの自己否定と、新たな自己形成のための「脱皮」へのツールだったのかも知れない。


100年に一度の大雪!

2014-02-16 | 随筆
東京都のすみにある我が家。山を切り開いて造られた住宅団地にあって、先週は積雪量45センチ、一昨日の今回も1メートル近い。
まるで北海道や東北に住んでいるようだ。
ところで、うんこが黒いのは、大好きな濃縮ブドウジュースのせいみたいで、飲むのを止めたら黄土色に変わった。下血ではないようだ。それに微熱はやはり自律神経の狂いから来ているようで、少し横になったりすると下がる。まあ、大学病院で総合検査を受けるほどではないようだ。
で、そんな体調でも、ご近所みんなが雪かきをやっているので、やらざるを得ない。ふらつきながら昨日はスコップ持って頑張りました。
お隣のカーポートが雪の重さで歪んでしまい、旦那さんが一生懸命雪をとっていた。こちらも車庫から道路をカキカキ、あっという間に背丈以上の高さになってしまう。すげえ雪。
生まれてこの方、こんなに雪が降ったのは初めてだ。
これで、自動車も出られないし、バスも運休、雪が解ける四五日は陸の孤島である。
しばらく、スーパーにも行けず、家の中、あるものを食べている他はない。

小心者!

2014-02-11 | 随筆
A香港型のインフルエンザが抜けても、未だ微熱が続いている。
なんか別の病気じゃないだろうか。
それに、ここ一週間ほど、うんこが真っ黒け。
おやじが胃潰瘍になった時、うんこが真っ黒けって言ってた。
おいらも胃潰瘍か。
などなど、「病気=死」に対して、おどおどしている。

「勇者は一度死ぬだけだが、臆病者は何度でも死ぬ」
そう言ったのはシェクスピアだったっけ。

まさにそれだな、臆病者、小心者。

どこまでが表現の自由かの一線は!

2014-02-08 | 発言
月刊誌「文芸春秋」が昨年12月号に掲載した作家村上春樹氏の短編小説「ドライブ・マイ・カー」の記述をめぐり、宗谷管内中頓別町の町議有志が「屈辱的だ」などと批判したことが話題になっている。
小説では、同町出身の女性が車の窓からたばこを投げ捨てる場面で、主人公の感想として「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と記述。これに同町の町議6人が反発したものだ。
村上春樹ファンのぼくも、この小説を読んでいたが、本編のテーマとはまったく関係なく、ほんのちょっとした記述である。
村上作品は、リアリティを持たせるために、小説の中に、ホンダアコードとかトヨタランドクルーザーなど固有名詞や実在のブランド名を次々と載せるケースが多い。また北海道の舞台が多く、その一環で書いたのだろう。
しかしなあ、小説の中で主人公が思ったことにクレームを付けるなんて、ちょっとなあ、表現の自由を損なわないかなあ。こんなことにいちいちクレームつけたら、何も書けなくなるよ。
と、はじめはそう思っていた。
待て待て、仮に自分の身になって考えてみて、おいらの知人が小説家で小説の下りに、俺の実名を挙げて「○○○○は本当に卑劣でバカな男だ」と書かれたとしたら、こりゃあ、やっぱり、いくらフィクションだと言われても怒るわなあ。
なんて考えていたら、村上氏は7日、文芸春秋を通じ「心苦しく残念。単行本では町名を変える」との見解を発表した。
 村上氏は、これまで北海道を何度も訪れ、今回の小説も親近感を持って書いたと説明。「名前の響きが好き」なため「中頓別町」を使用したが、「単行本にするときには別の名前に変えたい」とした。

まあ、どこまでが表現の自由か、難しい問題だなあ。

 

一世一代の終末がくる。

2014-02-07 | 随筆
夫婦で香港A型のインフルエンザに罹った。
数日8度5分の熱にうなされ、処方されたウイルスに効くリレンザを吸い込み、
ようやく微熱までになった。
その直前、重度の脳梗塞で倒れた京都にいる母が、亡くなった。
持病もちで、東京にいる俺は葬儀にすら参列しなかった。
親の葬式に出ないなど、どう考えても常道ではなく、極道息子である。
京都にいる72才になる兄貴が、すべて取り計らってくれた。
兄貴のお蔭で、母は晩年幸福で、93才で昇天した。
棺桶にまで携帯を持ち込み、スカイプで俺の声を亡き母に聞かせてくれた。
兄貴には頭の下がる思いだ。
「この極道息子が」と、母が戒めにインフルエンザを持ち込んだのかも知れない。

人間は、一世一代、どんな人間にもひとつの人生があり、やがて終末がくる。

公私の使い分けは言葉のペテン!

2014-02-06 | 発言
NHK経営委員で安部カラーのお友達がまたやらかした。上記写真の長谷川三千子氏である。
朝日新聞社で自決した新右翼の野村秋介氏の行為を「神にその死を捧げた」と追悼文で絶賛しているのである。
この間百田尚樹NHK経営委員が「戦争に敗け、連合国軍総司令部が、徹底した自虐思想を植え付けた」「南京虐殺はなかった」と発言し、物議を醸しだしたばかりである。
NHK籾井勝人新会長の「慰安婦問題はどこにでもあった」という就任発言もそうだが、問題になると、三人とも「これはあくまで個人的な発言です」と煙に巻く。
しかし、それらの発言は公であるNHK職員や海外に対する影響は計り知れない。
安部首相の靖国参拝も「私的な参拝です」という。
しかし、「これは公」「これは個人的なこと」という言い訳は日本独特の言い回しで、海外にはまったく通用しない。公人の発言として受け取られるのは当然である。
そもそも公人は公人である。
トップの主義主張がその組織なり、国なりを治めていくものである。
「個人的な発言」と姑息に逃げる公人たちは、こうして、自らのカラーに組織や国を染めていく。
NHKはもはや中立・不偏不党の公共放送ではない。
受信料不払い運動が起こってもいいぐらいだが、
日本人はやはり「長いものには巻かれろ」である。