まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

ついに、立てた!

2015-11-27 | 随筆
昨日はカミさん、いつになく元気そうだった。

階段から落ちて、寝たままでもう一か月近くになる。

「どうだ、一回、立ってみるか?」

「うん」

散らかした座卓の上を整理し、その上に座らせる。

抱えて、ゆっくりと立たせてみる。

まるで、幼鳥が、初めて立つような風情だ。

カミさんの脚がガクガク震えているのが判る。

「なんとか、立てたなあ、痛くはないか?」

「うん」

カミさん、ゆっくりと、右足立ち、左足立ち、を繰り返す。

軽く屈伸もする。

俺は、カミさんが急に倒れないように、向い合せになって、軽く抱きかかえている。

塀越しの道路から、犬の散歩の老人がじっと覗いている。

昼間から抱き合って、エッチなことをしているのか、なんて、思われたって、どうでもいい。

数分経って、疲れた、といい、カミさんはまた座卓に座った。

「一か月も寝てたんだから、筋肉が落ちている」

「うん」


「痛みはないか?」

「うん、ちょっとだけ」

「でも、やれそうだな」

「うん」

「これから毎日、筋力をつけて行こう」

ようやく、リハビリ段階に入ったようだ。

懐かしく、実存主義とは何か!

2015-11-21 | 随筆
テレビでサルトルの放映をしていた。

懐かしく、観た。

50年も前、私が大学に行く金が無くて、軽自動車でたこ焼きを売っていた一時期がある。

その頃に、「哲学」にかぶれて、ニーチェ、サルトルなど、実存主義の哲学を貪り読んだ。

サルトルの「嘔吐」などは、たこ焼きの油まみれになっていた。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、後を継いだサルトルは、「嘔吐」「存在と無」などを世に出し、「実存は本質に先立つ」と言い放った。

「実存は本質に先立つ」とは、平たく言えば、もし神様がいて人間を創ったならば、こんな中途半端な生き物は創らないから、まず、人間は神様が創ったものではないという。

そして、だからこそ、まず、「実存」する人間は何ものでもなく「自由」である。

しかしその「自由」には、崖の丸太橋を渡るような絶望的な「不安」が裏返しでくっついている。

それが、人間存在そのものであり、不安を抱えながら人間は、「投企」(成りたい自分)を目指すことによって、実存する、というものだ。

サルトルは斜視であり、私はどもりでもあった。

そういうコンプレックスが、世間の常識や既成概念を取っ払った「実存」に傾斜させたのかも知れない。


しかし、改めて50年経った今、「実存は本質に先立つ」とは思えない。

それは神様を信じているからではない。

自然科学の発達に寄与するところが多い。

簡単に言えば、人間は60兆の細胞から出来ている。

そのひとつの細胞は、ミトコンドリアと核というバクテリアから出来ている。

そのバクテリアは分子の集合体であり、その分子は原子から成り立っている。

その人間を形成する原子には「意志」があるのだ。

例えば、水を火にかける。

すると、水は蒸気となって水素と酸素に分かれる。

これは「化学反応」という言葉で解釈されるが、それは本当の「解釈」ではない。

本当は、火にかけられた水が、生き延びるために、原子に分化し、「水素」と「酸素」として環境の変化に対応して「生き延びた」のである。


サルトルは、人間は本質に先立つ、つまり、人間に与えられた「使命」はないと言い放った。

しかし、私は、前述した自然科学から考えると「人間には使命がある」と思う。

それは「存在するあらゆるものは、環境の変化に対応し、生き延びること」という使命である。

これこそが人間にも当てはまる「使命」なのである。

勿論、その使命を全うするための方法は、サルトルのいうように「自由」だ。

そして、どのようなバケモノになろうとも、生き延びて、生き延びて、その人間が何者であったかは「死」が完成する時である。

そして、また、その人間の死は、再び原子に還る、新たな旅立ちでもある。








カミさん、少しづつ、回復傾向です。

2015-11-18 | 随筆
昨日は遠いところを息子が会社を休んで見舞いに来てくれた。
カミさんは楽しかったのか、ずっと座りづめだった。

「あれだけ長時間座ったの、初めてだね、大丈夫だったか」
翌朝、訊ねてみると、
「ちょっと、オシリが痛かったけど、大丈夫」

ここ数日で、夜、寝返りを打つのに痛がったが、それもだいぶラクにできるようになったし、座る時も、座卓のフトンを引っ張りながら痛んでいたが、それも痛みは小さくなったようだ。

シップを各所に毎日張り替えている。
痛みが和らいできたのは、よくなってきている証拠だ

勿論まだ立てないが、少なくとも回復傾向にはある。

あと二週間もすれば、立てるだろう。

そうすれば、手を取って、廊下で歩くリハビリーから始めよう。

アタマ、脊髄などを打たなかったのが、なによりも不幸中の幸いだった。

昨日は身体を拭いたが、今日は洗髪をしよう。

まあ、この歳になって、いろんな勉強をさせてくれたよ。

介護は三週間目に入りました。

2015-11-16 | 随筆
カミさんが寝たっきりになって三週間目に入りました。こちらは下の世話、身体を拭いたりなどの介護、ゴミだし、家事、洗濯、食事等などおおわらわです。

夜になると、さすがにグッタリ、昨日も10時にはもう寝ていました。

すると、階下からカミさんの呼び電話!

何かあったら、電話するんだよ、っと言ってあるので、
びっくり飛び起き、カミさんのいる階下に駆け付けました。

「野球延長で、ドラマ下町ロケット、録画できないんじゃない? 」
「 ?????・・」

この夜は比較的元気だったカミさん、どうもテレビを観てたらしい。

こっちは、何かあったのかと心配して、飛び起きたのに、ドラマ録画だとおー、どうでもいいじゃねえか、そんなもん!

せっかく寝てたのに、それが起こすような問題か!

アタマに来たぜ!

テレビ観れるくらい元気になったことをヨシとしなければならないところを、しょうもないことで寝入りを起こされて怒り心頭が収まらない。

しかし、ケンカしたり、怒鳴ったりすると、カミさんの持病の血圧がすぐ上がるので、「顔で笑って、ココロで怒る」で、二階に上がった、けど、怒り心頭で、壁を思い切り二回ブン殴った。

あとで、こぶしが痛かった。


必見!「おかしの家」

2015-11-14 | 発言
『おかしの家』(おかしのいえ)は、2015年10月21日から毎週水曜日23:53 - 翌0:23に放送されている日本のテレビドラマだ。主演はオダギリジョー。

東京都の下町にある駄菓子屋「さくらや」を舞台に、祖母・明子が運営しながら経営状態が思わしくない状況の中で、息子の太郎がそれを守ろうと奮闘する姿、さらにその周辺に住む人々の人間模様を描いた物語。

概要を言えばそんなところだが、この作品は、傑作、絶品である。

深夜放送なので、いつも録画で観ているが、芸術性の高い、情感がいい。

自分の推測するところ、駄菓子屋「おかしの家」というのは、「子供こころ」の象徴である。

現代に失われつつある「子供こころ」を持った30代の大人たちが、「今」を子供の視点から悩むという物語だ。

実に切り口が新鮮で、実に「なるほど」と納得させられる「リアリティー」がある。

私が芸術祭賞の選考委員なら、テレビドラマ部門で「特選」にするくらい、いい作品だ。

観ておられない方は、ぜひ、視聴をおすすめします。

技術国日本は、派遣労働法で滅亡する!

2015-11-13 | 発言
東洋ゴムが耐震で偽装し、旭化成建材も杭打ちで偽装した。こういった、企業の「ごまかし」は、単なる一企業の問題ではなく、派遣制度による企業の体質から現れている一環である。

小泉元首相時代に製造業にも派遣労働者を許可してしまったことが今になって大きく響いている。

あの当時、財界人が「本当にいいんですか?」とびっくりしたぐらいだ。
それを安倍はさらに強化し、もう派遣社員は一生正社員になれなくなってしまった。

バカな政治家どもは、企業がてっきり儲けた分を賃金にハネ返して、デフレ脱却になるだろうと思ってしたが、結果はまるで逆である。企業は儲かった分はそっくり、340兆円という内部留保という隠し金にしてしまった。

現在、日本の労働人口の四割、なんと2000万人が年収200万円以下の派遣労働者になってしまった。明日、クビを切られるか判らない彼らに愛社精神など持てるはずがない。

先日、カルビーの会長が「働くものは全員正社員にすべきです。経営者というものは、働く社員の家族をもみる責任がある」と言っていたが、昔の創業者社長はみんなそうだった。

ところが今の経営者は全員サラリーマン社長だから、「今期黒字」と目先の経営しか考えていない。

企業というものはひとつの「有機体」である。

その「有機体」は人間がコントロールしなければいけない。

ところが今では社長も含めて「有機体」に人間がコントロールされているのである。

今、企業の現場では、残業で苦しめられる「正社員」と、低い賃金で愛社精神どころではない「派遣社員」の二極化が進んでいる。

こんな現場では、会社に対する「誇り」も、「創造力」も持てるはずはない。

長きにわたった「技術国日本」の名は、この歪んだ現場から、消える日も近い。

小泉元首相は、間違ったことは変える必要があると、原発推進だった小泉自ら反原発へと転向した。その小泉よ、派遣労働法も失政だったと言うべきである。

安倍、小泉が、この日本の経済構造を壊した張本人である。

なかなかなあー。

2015-11-10 | 随筆

カミさんが転落して一週間以上経った。

カミさんは相変わらず寝たっきり、オシリに床ずれが出来て痛いようです。
こっちは下の世話・看護・家事で、ちっと、イライラが出て、ついカミさんにきついこと言ったり、こりゃあ、あかんなあー。
気持ちが一杯、一杯、もっと、余裕を持たなあかんと、理屈では分かっていても、いらつきまんなあー。
しゃあないなあー、人間ができてない。
昨日もパチンコ屋でしょうもないことでケンカしてしもた。
いらついてまんなあー。
 
 今日は反省。  

昼、パチンコ仲間にもワビを入れ、握手して帰ってきました。
カミさんにも、絶対当たらない、男は顔で笑って、腹で泣く、健さんで行くことに決めました。
カミさんはただでさえ、寝たっきりで「本当に治るやろか」と心細いのに、「大丈夫、必ず治るから、ゆっくり養生せい」と勇気づけと明るさ一本でいくことにしました。

医者は一か月はかかるという。一か月で治ればいいが・・

これも人生勉強です。


不慮の事故は突然やってくる。

2015-11-01 | 随筆
昔の俺の女の名前は何だったっけ?
昨夜10時頃、そんなことを考えながら床に入っていたら、突然階下からけたたましいカミさんの叫び声が聞こえてきた。
飛び起きて、階段を下がっていくと、玄関の踊り場で、カミさんがうつぶせに倒れている。
「どうしたんだ、大丈夫か?」
そう尋ねても返答がない。
しばらく経って、ようやく、一言、二言。どうも階段から足を踏み外して、落ちたらしい。
「しばらく、このままで・・動けない・・」
「救急車を呼ぼうかー」
「だいじょうぶ・・」
意識はあるらしい。
そのままの体勢で、ゆっくり聞いてみると、頭は打っていないらしい。
大腿部を直撃したらしく、動けないという。
とりあえず、階下に布団を敷いて、痛がるカミさんを抱きかかえ、なんとか布団の上に寝かした。
丁度土曜の夜で医者もやっていない。
どうしょうか、と思ったが、とりあえず、俺も隣に布団を敷いて様子を見ていた。
すると二時間ほどして、寒い、寒い、とガタガタ震えだした。
これはただ事ではない。
息子夫婦が大学の医療センターに勤めているので、深夜だが電話をした。
「救急外来で医療センターに行きたいんだけど・・」
娘婿にその旨伝えると、センターに連絡するからちょっと待ってくれとの事だった。
折り返しの電話を待つ間、カミさんの呼吸は荒く、寒い、寒いと震えが止まらなかった。
大腿部を打ったことと、寒さと関係があるのだろうか。俺はクビをかしげた。
とりあえず、熱を計ると平熱である。
自律神経の病を持っている俺にも経験があるので「過呼吸」ではないか、と思った。
過呼吸というのは不安なので息を荒くし過ぎると、血液中の酸素が急激に増加し、そのため、寒さや手のしびれ、意識障害などを伴ってくる。
「過呼吸かも知らんぞ。ゆっくり、おなかで、息をして」
とりあえず、大丈夫、大丈夫だから、と心を安心させ、ゆっくり息をさせるようにすると、次第に震えが収まってきた。
「やっぱり、過呼吸だなあ」

娘婿から電話があり、とりあえず、大学医療センターの救急外来で診てもらうことになった。
痛がるカミさんを抱えて、車に乗せ、病院についたころは深夜の1時を回っていた。
整形外科の担当医ではなく、消化器外科の先生が宿直だった。
レントゲンを大腿部中心に撮って、その間、俺はノドがカラカラになって、自動販売機で買ったウオーターを何度も飲んだ。

「検査の結果、骨には異常がないようです」

入院せずに、とんぷくの痛み止めとシップを貰って、帰宅し、寝かせたのはもう午前3時だった。

相当痛いらしく、翌日になっても、オシッコはトイレに抱えて連れて行った。

歩けるようになるまで、2.3週間、かかるかもしれない。

その間、俺は、慣れない炊事、洗濯、要介護と大変である。


事故ってヤツは突然やってくる。

「死とはドブにハマるようなものだ」と、誰か小説家が言ったことを記憶しているが、本当にそのようなものだ。

栄枯盛衰の「衰」の時代を生きている俺とカミさんには、生きながらえるだけで、展望のある未来があるわけではない。

生老病死、その言葉が身に染みる年代になった。