せっちゃんの毎日

せっちゃんの日々の記録

戦後70年

2015-08-04 18:49:25 | 思う事
今日も今年2度目の35度超えの気温です。
兎に角 暑い!ですねぇ~

もう少しでお盆ですね…
義母の命日も近いです。

新聞の記事を見ていて、「戦後70年」と云う
戦争体験の記事が毎日載っています。

勿論私は戦争は知りませんが、
北海道の田舎を離れる時に亡父に戦争体験を聞きました。
亡父は2度、戦争に行ったそうです。
最初の時は、国内に居たそうですが
「2度目の時は南方に行った…」と重い口を開きました。
私が色々質問するものですから、
最初は『忘れた』と語ってはくれませんでした。

私が「父さんが死んでいたら私は生まれてなかったんだね…」と云うと
父が『南方に行った部隊は殆ど帰れなかった…』と
『俺は、機械物に詳しかったので通信機器を直したりしていた』
そんな事が上官に認められ重宝に可愛がられたようです。
私も子供の記憶に父の書斎に幾つかの勲章や
上官の名前の入った銀のタバコ盆セットなどが有ったのを覚えています。

話も夕飯時の事ですし
私が「戦地では何を食べていたの?」と聞きますと
父が『バナナを色々にして食べた。
漬物だけは食べれたものじゃなかったな』と云っていました

兎に角 当時の話はしたがらないので聞き出すのも大変でした

私が「戦地に行って銃撃戦は有ったの?」と聞きますと
父がポツリと『俺の隣に居た戦友が弾に当たって死んだ』
と項垂れていました。
私が「父さんによく当たらなかったね?」と云うと
『俺のシンチュウの水筒をカスッタ弾が戦友の腹に当たった』と
肩を落して話していました。
私は何も言えずに食べていた箸を置きました。
その時は、それ以上話を聞く気になれず
心の中で戦没者の方々の冥福を祈ったものでした。

私が子供の頃 父は、
自慢話が好きで晩酌の時などは
『尋常小学校中退の俺が勲章を幾つも貰った』と
得意げに話していましたが
話したくない当時の思い出も沢山有った事でしょう。

今では私も知る由も有りませんがどんな悲惨な状況だったか
語られずも理解できるような気がします。

戦後70年になっても忘れてはならない、
戦没者の犠牲の下に生かされていた事を…
改めてご冥福を祈ります。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
戦後70年 (ukyou)
2015-08-05 22:18:15
お父さん 九死に一生を得られたんですね。
思い出したくもない話ですがナマの体験談
なかなか聞けない話 よく話してくれましたね。

我々は戦争体験がないし本当の怖さを知らないのに
安保法案が軽々と通っていくのが心配です。
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Unknown (相棒ちゃん)
2015-08-05 23:35:04
こんばんは~!

お父さんの話、何だか色々考えさせられます~。
うちの父は昭和9年生まれで、戦争そのものには
行っていないようですが、田舎の方へ租界したみたいです。

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終戦を知った時 (せっちゃん)
2015-08-06 09:00:25
ukyouさんへ

『生死が紙一重』の時代だったようで、
状況は違いますが災害の惨事のようだったのでしょう(?)
思い出したくない気持ちも分かります。

終戦の「ご放送」を聞いた時、
父は、放心状態だったそうです。
忘れたかったのでしょうねぇ~

二度と起こしたくない過ちですね。
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同じ気持ちです (tabinidete)
2015-08-06 10:04:40
せっちゃんと同年代の私。
私の父は職業軍人でした。
戦時中はスマトラ島にいたそうです。
スマトラ島に行くツアーなんて、当時も今も?なかったのですが、父をスマトラ島に連れて行ってあげたかったと思いました。
今なら、いろいろ調べて連れて行ってあげられたのにと思います。
父は、スマトラ島での、仲間や現地住民との楽しかったことしか話しませんでした。
話したくなかったことがそれだけ多かったんだなぁと、今頃になって気づいています。

私たちは、今何をなすべきでしょうか。
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戦後の食糧難も… (せっちゃん)
2015-08-06 17:07:55
相棒ちゃんへ

両親は戦後、北海道に居たらしいのですが
食べる事が大変で、農家の仕事(電気屋)をしては
野菜や米を貰ってきたそうです。

私の兄弟も上の二人は、母の栄養が悪くて育ちませんでした。
そんな話を亡母にも聞いた事が有りました。
つくづく、私の育った時代が良い時代だったと思いますが
それが先人達の犠牲の下に築きあげられた事を
忘れてはならないのですね。
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お父様も行かれたのですか (せっちゃん)
2015-08-06 20:17:53
tabinideteさんへ

やはり、同じ年代ですのでお父様も戦争に行かれたのですね。
スマトラ島でしたか
私の父にも行った所を聞いたのですがはっきりと覚えていません。

現地の人たちとの交流や戦友の話は
楽しい思い出話もしていましたが、
行きたいとは云っていなかったように覚えています。

最近、戦争体験者の話を報道番組で見て、
どれ程の辛い思いをされた事か…
辛い話を語って行かねばならないのも
二度と悲惨な事にならないようにとの教訓でしょう。

本当に何をなすべきか考えなければならないですね。
次世代の平和な社会を祈るばかりです。

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