新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

W杯最終予選の対オーストラリア戦観戦記

2021-10-13 09:41:55 | コラム
勝てたのは大いに良かった:

先ず言いたい事は「試合が始まって直ぐに、この程度の相手ならば負けることはないだろう」と何となく安心した辺りだった。マスコミはしきりに「勝ち点が9でグループの首位を行く」などと恐怖感を煽ってくれていたが、私は大いに疑問を感じていた。何故そう言うかを解説するために、オーストラリアのサッカーを論じて行こう。

オーストラリアのサッカー:
2013年だったか15年だったか記憶は定かではないが(検索すれば解るだろうことか)入院中に当時はあったと思う「東アジア選手権」だったかの決勝戦がオーストラリア対韓国の試合を見ていた。この両国のサッカーは簡単に言えば「肉弾相打つ猛烈な体当たり合戦」とでもなるだろう「闘志を乱暴にぶつかっていくことで表す」サッカーだった。乱暴狼藉だけならまだしも、韓国は反則に採られることをも怖れずに当たっていくのだから、それはそれは物凄い試合になっていた。換言すれば「技術は二の次で、勝つためには手段を選ばない試合」だった。

オーストラリアにはラグビーの世界的強豪国なのだが、ラグビーの他に「オーストラリアンフットボール」というラグビーよりも格闘技に近い球技がある。解り難く(?)言えば、アメリカ式のフットボールを一切防具を着けずに真っ向から当たり合うのだ。この球技を経験していれば、サッカーにおける当たり方などは可愛らしいものなので、ここからサッカーに転向してきたのだろうと思わせる猛者がかの国の代表には数多く入っているだろうと思って、私は見てきた。その連中と「当たられ弱い」我が国の代表が対戦するのだから、当然分が悪かった。

ところがである、その東アジア選手権の後辺りから、オーストラリアの代表テイームの監督が変わっていたのだった。結果として当然というか何と言うか、サッカーの質が変わって「肉弾相打つ」型から、スマートで穏やかなパス回し型サッカーに転換していたのだった。そんな転換が短時日に成し遂げられる訳がなく、オーストラリアの代表テイームは何とも言いようがない中途半端なサッカーをやるようになっていた。だが、身体能力に異常に優れた者たちが中心である事は変わっていなかった。

前置きが長くなったが、昨夜私が見たオーストラリアの代表テイームのサッカーは「未だ中途半端から脱却し切れていないし、有り難いことに乱暴狼藉癖はなりを潜めている」のだった。より悪く言えば「精密度が低いパス回ししか出来ないし、ストライカー(がいたのかな?)に球を集めて得点を狙う形も出来ていない」のだった。だが、身体能力に優れた者が多いので、あの後半のレフェリーの誤審だったPKがFKに変わった後の、あの物凄いフリーキックをゴールに蹴り込む力はあったのだ。私は同点にされても、残る10分で1点取って勝てると閃いていた。

複雑な気持ち:
実は、誠に申し訳ない言い方になるのだが「この試合を落とす訳にはいかないが、負けて自分が不信任決議案を出している森保監督が退任すれば」という、一寸不謹慎な考えもあって見ていたのだった。だが、既に述べたように「負ける相手ではない」とは解っていたし、森保監督が留任(断じて「続投」なんて間抜けな言葉は使わないよ)も見えていた。更に悪いことを言えば「この程度のオーストラリア代表が君臨できるとはアジア(FIFAに何度でも言うが「何で中近東がアジアなのか」と)のサッカーの水準の低さが残念だった。

森保監督を褒めておきたいことがある。昨日は交代枠を十分に使って見せたし、しかも浅野の起用が見事に当たって、左サイドでのあの突っ込みからシュートに持って行ったことが「オウンゴール」になったのだ。シュートにまで行ければ何かが起きることを実証できたのだった。なお、あの場面では「閃き」が当たったので一安心だった。それにしても、堂安と久保を欠いてもあそこまで出来たことは、監督にとっては朗報だっただろう。田中を使ったのもTBSでの中西の指摘(助言?)のように顔ぶれを変えたことの成果だっただろう。

我が代表の問題点:
兎にも角にも勝って良かったと言いたい。だが、この試合にも悲しいほど見せて決定力不足を何としても改善しないことには、残る試合を全部勝ち抜いてオーストラリアとサウジアラビアを追い落とせなくなると懸念する。その為には、私のサッカー眼には「半端ある」としか評価出来ない大迫を何とかすべきだ。彼はStrikerの役目を果たしていない。前半のペナルティーエリアの中から放った猫がひっかいたようなしょぼいシュートで枠を外していたのを見せられては「半端」にもなっていないと激怒させられていた。

矢張り他にも貶しておきたいことはあった。それは、私のサッカーの考え方では「下手」でしかない伊東純也を何故使うのという点だ。彼は確かに足は速い。だが、サッカーでは「足が速い」ことは売りではないのだ。私は「気が付けば足も速かった」選手の方を採るのだ。伊東は確かに抜いて出る速さはある。だが、試合開始直後に来た絶好のセンタリング(私の時代の用語に執着する)の機会に、あろうことか中で走り込んできた者にキチンと合わせられずに、まるでシュートような早いパスを送り込んでしまって、先取点の機会を潰してしまった。

後半にも2点目を狙って攻め上がり、ペナルティーエリアの中で伊東の前に左側からシュートを決めるべき絶好のパスが回ってきた。ところがである、伊東はそれを右足で蹴ってGKに献上してしまったのだった。右サイドのプレーヤーは左側から来たパスを左足で蹴るのが大原則なのだ。サッカー経験者でない方に通じない話かも知れないが、左から来たパスは先ず左足に近い方に来るので左足で蹴りやすいが、右足にすると遅れ気味に蹴らざるを得ないので不正確になるのだ。これは基本中の基本だ。伊東は右足に回して失敗したが、本人は解っていなかっただろう。

基本が出来ていない:
先日も指摘したが、私は古き良きWMフォーメーションの時代に育ったので、この種の基本技を固めてこなかった半端者が嫌いなのだ。だが、それを伊東の責任にしては気の毒で、彼を育てた中学か高校の指導者かクラブが恥じるべきことだと思う。なお、この種の基本技が出来ていないのは伊東だけではない。だが、その欠陥は普通に試合が進んでいるときには出てこないものなのだ。だが、「ここぞ」という時に出てくる性質なのが怖いのだ。アナウンサーは無邪気に「惜しい」などと叫ぶから、罪なき視聴者が騙されるのだ。

余談:
長くなるが、川平慈英が犯した詰まらない過ちを指摘しておきたい。彼は英語を解っているとの触れ込みでテレビに出てくる。だが、伊東純也の紹介で「スピードスター」と言ったのは情けなかった。“speedster”は如何なる辞書を見ても「スピード狂」か「猛烈な速度で車を走らせる人」と出ている。「スピード」の「スター」即ち、speed starではないのだ。こういう誤った言葉遣いが我が国の英語力の水準の向上を妨げているのではないか。テレ朝もこういう点にも気を配って欲しいと思う。