新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

グローバリズムの考察

2022-12-14 08:58:05 | コラム
12月13日のPrime Newsに触発されて:

昨夜は立憲民主党の福山哲郎と日本大学危機管理学部の先崎彰容教授の対談とあって、大いに興味を以て聞いていた。実際には司会の反町理取締役が絡んだので、鼎談のような感じになっていた。非常に内容がある一時だったが、私がここにその内容をなぞる必要もないと思うので、この鼎談から出た私なりの発想というか考え方を纏めてみようと思う。

第一に取り上げたくなったのが「グローバリズム」である。福山は大学院(京都大学であるが、彼は同志社大学出身)の入試問題に「グローバリズムとは」が出たと回想していた。彼も先崎教授も「グローバリズム」に対しては懐疑的だったが、私も同感ではあるが、私事ながらA型で長い間アメリカ人たちの二進法的思考体系の中で過ごしてきたせいか、否定的なのである。

表現が難しいが、私は我が国が黒船と明治維新以降、懸命になって西洋(と敢えて言うが「ヨーロッパ・アメリカと言っても良いかも知れない」)の文化・文明の導入と消化とそれに同化しようと努めてきたと思っている。特に戦後は止むを得なかった事情があったにもせよ「アメリカナイズ」の方向にもあったと思う。いや、それどころか、西洋に対する憧憬を未だに抱き続けている人たちも多いともう、特にマスコミに?!

昨夜の議論を聞いていても「我が国はグローバル化の波でドンドンと世界に同化されつつあるのではないか、それが歓迎すべき事か」との疑問も提示されていると思って聞いていた。私は、グローバル化されたと言うよりも「西洋化された」と思っている。それは我が国の戦後70年を経た現在で服装も、生活(住宅)様式も、食生活も西洋化されてしまったのだと思っている。言い方を変えれば「日本じゃなくなりつつあるのでは」とすら感じる時すらある。

自慢にも何にもならないが、我が家には羽織袴は言うに及ばす、浴衣すらないし、家内だって和服を着るのは(着たのは)我が家と彼女の生家の葬式の時くらいのものだった。食事だって戦時中から可能な限り朝はパン食から離れていなかったし、和食を摂りに外食に出掛けることは先ずない。そもそも私が悪筆だったこともあって、筆も硯も墨もなくなっている。この家だって畳がないバリヤーフリーとやらのオール電化のアパートである。

他人様に確かめた訳ではないが、このような西洋化(なのだろう)された生活をしておられる方は多いと思う。意思の疎通だって、情報の伝達方式にしたところで、パーソナルコンピュータでありスマートフォン依存が支配的だと思う。それその事自体が既にGAFAMの影響下にあるのではないか。

私はリタイア後に間もなく30年ともなれば、新たに着るものを買うことなどは非耐久消費財的な下着を除いては先ずない。現職時代からの衣類を後生大事に今でも着用に及んでいる。だが、その殆どがアメリカで為替差益を利用して買ったアメリカブランド品が主力だ。アメリカ物は頑丈に出来ていて長持ちするのだと言えるかも知れないが、明らかに海外を有り難がっている気もする。

私はこれまでに何度か批判したことで、我が国のマスコミは日本人の誰かが海外に出て成功するか、大いに名を高めると、我が事のように感動して、「どうだ、あの人は偉い人で外国人を抜いた。皆で褒め称えよう、仰ぎ見よう」というような姿勢で報道する。私は情けない傾向で、彼らは未だに「黒船来航」や「文明開化の音がする」の感覚から抜け切れていないのだろうかと疑う。「もっと、自国を信頼して誇りに思え」と言ってやりたくなる。

私のように単身で(怖さも恐ろしさも、異文化と異文明も知らずに)アメリカの会社に転進して、彼らに同化して彼らの文化と文明を吸収して、彼らの為に働き、彼らの実態を内側から20年以上も見てくれば、「白人何するものぞ」がその気でなれば、見えてくるものだと解ったのだった。彼我の文化と思考体系の相違点も把握出来たのだった。後難を恐れずに言うと、私がこの境地に達したのは「彼らの一員だったから」であり、駐在や留学では見えてこなかった次元のことであると信じている。

だが、悲しいかな、私のような経験をした方は絶対的に少数派なので、私の文化比較論や「アメリカ人全般を見れば、彼等アメリカ人は恐れるに足らず」と主張しても説得力が乏しくなってしまうようだ。アメリカ人全体の5%にも満たないと思う支配階層の人たちのような、図抜けて優秀な者は例外的だと思っていて良いだろう。何処かの街を歩いていればビル・ゲーツやスティブ・ジャブズばかりが歩いている訳ではない。

泣き言はこれくらいにしよう。私は我が国にはごく一部の西洋人にはない高い能力があると思っている。その極めて希な存在である連中の存在が際立っているだけで、100人いれば99人は何処にでもいるような普通の人たちだ。その人たちが今日の西洋文化と文明を築き上げたのだと思えば良いだろう。我が国の人たちが彼らに劣っている訳では断じてない。

その点は唐津一氏が指摘された「我が国の人には想像力が無いと自虐的なことを言うのは誤り。我が国では西欧で研究開発された技術と製品を導入した後で、それらの製品を基にして原産地国では到達し得なかった次元の製品に仕立てるという特殊な能力がある」という事を理解すれば解るだろう。

例えば、「自動車は確かに我が国が独自に開発したものではないが、それを導入した後でデトロイトでは真似もできなかった次元に達して自動車を製造して、遂にはアメリカのビッグスリーを崩壊させたではないか」という実例がある。エンジンの排気量然り、ハイブリッド車然りであった、遺憾ながらEVでは後手に回っているかのようだ。

我田引水のようだが、我がウエアーハウザーが日本市場における最高の市場占有率を誇った牛乳パック用紙を語って見よう。この牛乳パックはアメリカで開発された製品で、当初はアメリカが我が国にライセンスを下ろして国産化されたのだった。

アメリカでは美麗な多色印刷は不可能だし、紙容器である以上、ジュースやアルコール飲料(ワインや日本酒等)には不向きと言われていたが、我が国の印刷加工技術は木材繊維を原料とする紙が持つ全ての悪条件を克服して、絶対にアルコールでも漏れない容器を開発仕上げたのだった。そして、その技術をアメリカ市場に逆輸出するに至った。

何が言いたかったのかと言えば、グローバル化の波が押し寄せて、我が国は多くの西洋の文化と文明が導入され、それらを基にして我が国が奇跡的な成長・発展・発達を遂げて、世界最大級の経済大国に成り遂げたのだった。即ち、西欧伝来の技術(文化・文明)を我が国のものとして消化し、それに基づいて新技術を開発し、質の高い労働力を駆使して今日あるを築き上げたのだった。

即ち、グローバル化というのかグローバリゼーションを巧みに応用する能力が我が国にあったのであり、その能力を遺憾なく活用した国であるとの視点に立てば、「グローバリゼーションが必ずしも日本国を日本国らしくならせた負の面だけではなく、有効活用出来たのだ」と考えられるのではないだろうか。

因みに、広辞苑には「グローバリゼーション」とは「国を超えて地球規模で通商が拡大すること。世界全体にわたるようになること」とあった。



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